『塩の道』 初のバスガイド体験談

           平成25年5月25日〜26日

今年に入って暫くして、友人が仲間を集めた1泊2日の凄い「企画」を練り上げた。「オランダ友好協会」の会員でもありピアニストとして活躍中の近藤紗織さんのダイナミックなクラシックピアノを白馬のラホーレ倶楽部「ホテル白馬八方」の音楽堂で実現しようと言うのだ。その企画の名前は『近藤紗織ピアノリサイタルin白馬』。 そしてコンサートに加え、音楽堂の隣の「白馬美術館」(下の写真)でシャガールを見る企画。それだけではない。東京駅前から白馬までの観光バス移動の中で、私に「塩の道」に関してスピーチしてはどうかと提案を頂く。ピアノを生で聴き、シャガールの絵画を楽しみ、そして塩の道に触れるとは、何と文化度の高い旅行であろうか。私は即座に「是非とも その企画に参加させてください。そして塩の道スピーチをお引き受けします」と返事をしていた。

東京から白馬まではバスでも片道7時間は掛るであろう。そのバス乗車時間の中で、予定されたスケジュール以外で空いた時間は「塩の道」解説で自由に使ってOKとの贅沢な条件も頂いた。折角の機会を頂いておきながらバス車中を退屈にさせてはいけないと思い、また私の解説が皆さんに楽しんで貰えれば「塩の道」ファンを増やせるかもしれないとの期待感から、皆さんへの「塩の道」に就いての資料作りには一段と力が入った。

私に取ってはこのようなバスガイド的経験も珍しいので、是非今回の出来事を記録に残しておこうと思い、2日間の旅の車中での小生のバスガイド振りの部分を茲に書き残してみたい。

【1日目】

5月25日、午前9:00東京駅前集合で参加者は44名。天候は晴、北アルプス山麓に向かうには理想的な天候である。まずは執行幹事役から注意事項、行程説明、そして参加者一人ひとりからの自己紹介が終ったのが、11時過ぎ、東京駅前を出発してから途中八王子あたりまで渋滞が有ったのですでに2時間は経過していた。早速小生にマイクが渡されたが、各自の自己紹介を長時間に亘って聞いていた皆さんは、すでに聞き疲れ気味だろうと推察して、まずは「塩の道・一人行脚」のDVD(45分もの)をご覧頂く事にした。これは私が2005年から3年掛けて、静岡県・相良町から新潟県・糸魚川市までの350kmを一人行脚した記録であるが、行脚中に撮った写真を繋いで編集したものにBGMとして我息子が作曲した音楽を使用したものであり、どちらかと言えば癒し系に出来上がっている。聞き疲れの方はこれでも見ながらユックリ眠って頂ければいいという考えでDVDを流した。このDVDが丁度終ったとこで、バスは諏訪湖SAに到着、ここで一旦下車し昼食休憩を取った。

さてさて昼食を摂った後、バスは中央高速を松本に向けて走り出した。いよいよ私のスピーチの始まりである。まずは「塩」に就いての話から始めた。こんな具合に。

『意外ですが、「塩」の研究は昭和に入ってからだそうで、初めて研究したのは「渋沢敬三」だそうです。渋沢敬三とは、40歳で日銀総裁となり、「財閥解体」や「新円切り替え」などで活躍し、民俗学者としても有名だそうで、この渋沢敬三を師匠として民俗学を学んだのが「宮本常一」だそうです。今お手元にある塩に関する資料は、宮本常一著『塩の道』(講談社学術文庫)を参考に作成させて頂きました。』

ここでちょっと横道に反れて、

『ところで「渋沢敬三」と申しましたが、 皆さん、「渋沢」といえば「渋沢栄一」の方がよくご存知だと思います。ところでここでお二人の「三」と「一」の違いだけでなく、二人の類似点と正反対のものをお話しましょう。

栄一【1840(天保11)年〜1931(昭和6)年】、敬三【1896(明治39)年〜1963(昭和38)年】ですからお二人はともに19世紀から20世紀への変わり目に居られました。渋沢栄一は日本銀行創設をされ、実業家として王子製紙、日本鉄道、日本郵船など「渋沢財閥」をつくりあげました。お二人の共通点はともに「日本銀行」に関係していること、そして正反対なところは、栄一は「財閥を作り」、敬三は「それを解体した」という事でしょうか。

さて話を「塩」にもどしましょう。』

◆それでは何故「塩」は長い間研究されて来なかったのでしょうか?

塩は生きてゆくためには必要なものです。従って太古の時代から無意識のうちに体が求めて来たものでしょう。原始時代には、人間は他の動物や植物そして海水などから塩分を吸収していたのだそうです。しかし縄文時代になると海水を煮詰めて塩を採っていたことが分かっています。縄文土器の中に海水を入れておいたら、水分が蒸発して「塩」が残っていた。これが人間として塩を発見した瞬間なのでしょう。

それから今度は海水を入れた土器を回りから火で焚くと早く塩が出来上がることを知ったのでしょう。次に瀬戸内海付近で発達したのが「入浜塩田」ですが、これは入浜に海水が入ってきて引き潮と共にそこに「干潟」が出てきて、そこが太陽に照らされて水分が蒸発し濃い塩分が残り、これをかき集めて塩をつくる方法でした。そしてこのやり方が量産体制を作り出し江戸時代になって、塩は船で運ばれるようになり、海岸線から街道を通って山間部に運ばれて行きます。

つまり塩は海岸にあり、自然のままで作りだせたので、あえて研究など必要とも思わなかったし、身近なものとして扱われて来たのでしょうね。

◆それにしても、何故に「塩」に対する認識が薄かったのでしょうか?

宮本常一はその理由を、『塩そのものがエネルギーにならないから」と説明しています。エネルギーになるものはその中に「霊」が宿っているとして米、麦、粟などには、それぞれの「穀霊」というものがあるのだが、塩には「霊」がないので、塩自体を神として祭った例は無いとしています。』

バスは松本を過ぎて「豊科IC」から一般道に出て安曇野台地を北に走っている。この辺で本来の「塩の道」に就いての解説に入った。 ところで「塩の道」に関して私はこれまでにHP上の<エッセイ欄>や<スピーチ欄>で解説して来ているのでここでの詳細は割愛して、今回バス内で配布した資料に沿って以下に説明することにしたい。

塩の道・鰍沢ルート(左図)

『この富士川・鰍沢(かじかさわ)ルートを辿って行きますと、地蔵峠の所での塩の流れは、私の歩いた塩の道(秋葉街道ルート)とは全く正反対になっています。つまり塩は鰍沢→韮崎を出て甲州街道を上って杖突峠から南下して分杭峠から大鹿村を通過して南に下ってきており、私の歩いた塩の道の南から北へとは正反対です。どうしてこんな事が起きたのでしょう。それは富士川の「水運」の発達によるのでしょう。このルートの方が、青崩峠を越えてくる塩よりコストが安ければ、鰍沢ルートの方が経済原理からして生き残って行ったのでしょう。このように古代に生まれた塩の道も、時代と共にそのルートを変えて行ったのです。

塩の道の変遷 と 塩の運び役「中馬」、「陸船」、「ボッカ」

上の右図でも静岡県・御前崎/相良町から掛川に出て秋葉街道を北進する「塩の道」は表現されていません。つまり江戸時代の中期には秋葉街道では塩がもう運ばれていなくなっていて瀬戸内海から船で来た塩が富士川を上り鰍沢(かじかさわ)から甲州街道を北進したのです。

雪の深い北国での運び役は牛で陸船(おかぶね)と呼ばれ、最も雪深い真冬は「ボッカ」と呼ばれた人によって運ばれ、内陸部は「馬」が主流で、愛媛の「足助(あすけ)」には「中馬」という運輸組合のような組織が作られ明治時代まで活躍していました。

ボッカの姿

下の絵も宮本常一著「塩の道」の中から利用させて貰いました。塩を運んでいた人々を南塩道(相良町〜塩尻)では浜背負(ハマショイ)と呼び、北塩道(糸魚川〜塩尻)ではボッカと呼んでいたようですが、その装束の男女別、そして冬型とそれ以外型、そして肩に担ぐ道具の男女別の違いなどを見比べると大変に興味深いものがあります。

(右の@、Aが女性、B、Cが男性の姿)

糸魚川・静岡構造線と

 中央構造線(左図)

中央構造線と糸魚川・静岡構造線、そしてフォッサマグナの関係が表現されている図です。古い街道(秋葉街道、伊那街道、千国街道)がこの構造線(断層)に沿って走っていたことが分かります。そしてそれが東経138度線上に有る事も不思議です。』

【2日目】

二日目もすばらしい天気の朝を迎えることが出来た。白い雪を残した白馬三山がクッキリと見えている。(下の写真)

大糸線の「はくば」駅の近くの十字路から実際に「塩の道」を松川橋までのおよそ1kmを歩いた。途中に「平川神社」があり、また道脇には「塩の道」の解説板があり私の説明など不要。

松川橋に出ると北アルプスの山々と広大な白馬八方尾根スキー場の大パノラマが目の前にデ〜〜ンと展開し、皆さんため息をつく。

さて再び松川橋の袂からバスに乗り、次の目的地の信濃大町にある「塩の道博物館」に行くまでの間、「塩の道」に関連した話を始めた。

・塩の道 「白馬八方口」から白馬三山    ・「松川橋」から八方尾根スキー場越しに白馬三山
善光寺道名所図会 (上図)

『1849(嘉永2)年豊田庸園(ようえん)によって名古屋で刊行された絵図で、図版は小田切春江による全5巻で構成されています。この絵の場所は白馬村の「佐野」だそうですが、図の左に塩を担いだ「ボッカ」の姿、道の右はずれに塩を牛(陸船)が背負って運んでいる姿が描かれていますね。左側にある石碑は「ニ僧塚」といい西行法師がこの地を訪れたときに二人の僧の死に会って野辺送りをした所と書かれた碑だそうですが、現在は大町市文化財センターにて保存されています。兎に角 ボッカの姿が描かれた浮世絵は大変に珍しいと思います。

安曇野と安曇族

安曇族とは北九州の博多湾にある「志賀島(しかのしま)」を拠点にしていた海神族(豪族)であったと言われています。紀元前6〜7世紀、中国大陸の春秋時代、「呉」は「越」と30年ほど戦っていたが滅ぼされて、すぐれた航海術を持っていた呉の人々が日本に亡命してきたという説があります。当時の日本は「倭(わ)国」と言われ百余国に分かれていて、そのうち一つに北九州の「奴(な)国」があったそうです。高校歴史教科書に次のように書かれています。「57年に倭の奴国の王が後漢の光武帝へ貢物を贈り、代わりに臣下と認める印綬を与えられた。奴国は福岡県の博多湾にあった小国の一つで、志賀島からは『漢委奴国王(かんのなのわのこくおう)』の金印が発見されている。」

という事は、奴国の「国王」とは安曇族の首領であったと言えます。安曇族が持っていた船技術をベースに海運業を司り大陸との、

交渉を持っていたことで水田稲作、養蚕などの技術も持っていた民俗であり、更に殖産興業に長けていたことより、本州湾岸沿いに北へ北へと勢力を広めて行き、翡翠の産地に近い糸魚川に辿り着いたと言う事でしょう。

翡翠を求めて「姫川」をさらに上流へと辿るうちに遂に桃源郷のような台地、四方をアルプスの山々に囲まれた「松本平」に到達したのでしょう。これが安曇族が住処とした台地「安曇野」なのです。

安曇族の不思議に迫る小説『失われた弥勒の手』(松本猛・菊池恩恵共著講談社)では、福岡では「おきゅうと」といわれる郷土料理と同じ料理を安曇野では「エゴ」といって食しているとか、奈良時代に坂上田麻呂率いる軍隊に安曇族が討ち果たされたという「八面大王伝説」について書かれていますが、本当に安曇族は「どこから来て、どこに消えたのか」と謎は興味を引きますね。』

11時過ぎにバスは大町の「塩の道博物館」駐車場に滑り込んだ。ここで1時間の博物館見学である。塩の道350kmの行程の中にもいくつかの「塩の道博物館」があるが、ここ大町の博物館が最大規模で内容も最も充実していると思う。そもそもこの建屋が江戸時代に庄屋であった「平林家」の母屋そのものを展示場にしているので、母屋は110坪の建坪の2階建てであり、その母屋に二つの倉が繋がっていて、そのスケールの大きさに驚く。一つの倉は「文庫倉」「漬物倉」そして「塩倉」と仕切られていて、一番奥の塩倉には「ニガリダメ」が再現されていて昔の人の知恵を見せ付けられた。もう一つの倉は「流鏑馬(やぶさめ)会館」になっていて、中に入るとその豪華絢爛さに驚かされる。流鏑馬とは近くの
「若一(にゃくいち)王子神社」の夏祭りの際に行われる行事で、それに関する資料が一堂に展示されていた。この流鏑馬は八百年の歴史を持ち、京都・加茂神社、鎌倉・鶴岡八幡宮と共に日本3大流鏑馬の一つだそうで、ここ信濃大町の流鏑馬は馬上の射手を少年に限るという珍しい様式を守り続けているのが特徴と言う。

この後は途中のスイス村にて昼食を摂り、次は穂高にある「大王わさび農場」へ。このわさび田のある地域は、上高地・大正池から延々と流れてくる「梓川」と龍神湖の大町ダムから流れ来る「高瀬川」そして穂高のシンボル「有明山」山麓から流れてくる「穂高川」、更には湧水の豊富なこの台地では扇状地の先端部に至って川になって現れる「万水(よろずい)川」が一気に集まって「犀(さい)川」となる大変に水の豊富なところである。

この「山葵園」で「わさびソフトクリ−ム」、「わさびカレーライス」などを楽しみ、お土産の「生わさび」を買って次は近くの「穂高神社」へバス移動。ここが今回の最終訪問地となる。

穂高神社と御船祭り

『私が350kmの「塩の道・一人行脚」で「穂高神社」に立ち寄った際に敷地内にある「御船会館」で「道祖神展開催中」という看板に引き付けられて中を見学したのですが、それにしても何で山の中に来て「お船」なのかと不思議に思ったのです。しかしその疑問は穂高神社のパンフレットに書かれていた「神社の由来」から不思議が解けたのです。

私が350kmの「塩の道・一人行脚」を終えた後で発刊した駄本ではその事を次のように書いていますのでチョットその部分を読んでみます。

「穂高神社の御祭神は穂高見神(ほたかみ)で、この神は海神族が親神であり、その後裔である安曇族は元々北九州で栄え、主として海運業を司り、早くから大陸方面と交渉を持っていた高い

文化を誇る民族であった。殖産興業に長けていた安曇族が本州を北に徐々に勢力を伸ばし、出雲から信濃に進出して来て山の上に大社を築いたとある。“なるほど”と納得である。当時、神に限りなく近い場所、それは山の上で、そこに大社を置いたのである。そういえば塩の道で訪ねた秋葉大社も秋葉山の山頂に鎮座ましていたことが思い出される。少しでも、一歩でも高いところにというコンセプトから、穂高神社の“奥宮”は北アルプス穂高岳の麓の上高地に祀られており、“嶺宮”は奥穂高岳(3190m)の頂上に祀られているという。余談だが、上高地の地名は“神降地(かみこうち)”が語源であると言う説があるというが本当だろうか。」

道祖神

この安曇野で「神様」についてもう一つ注目すべきは「道祖神」です。日本の古来の信仰と結びつき、「旅」や「道」を守る「道祖」の文字が当てられたと言われますが、「古事記」「日本書紀」の神話では、天孫ニニギの命をアメノヤチマタに迎え道案内をした「猿田彦命(サルタヒコノミコト)」が道祖神になったという説もあります。中国では「旅の安全」を守る神道の守護神として信仰されていたものが、仏教と共に日本に伝わり「無病息災」、「縁結び」、「五穀豊穣」、「子孫繁栄」、「夫婦和合」などの願い信仰として流行って行きました。特に江戸時代中期から明治初期に集中しており、この100年間で大流行したようです。江戸中期は文化が華と咲き天下泰平をうたわれた時代でしたが、歴史を裏から覗くと実はやりきれない暗い時代でもあったようです。飢きん、百姓一揆や悪病などが相次ぎ、子供はバタバタと死んで行ったそうです。泣き叫んでも神様も仏様も何もしてくれない。そんな時、現れたのが「道祖神」だったのです。民衆が誰の指図も受けずに、このような愛の形を生んだのです。だから社殿もいらない。お経もいらない。ただ道端に立って人々の心を捉え、笑いを取り戻してくれたのが、それが「道祖神信仰」でした。

信州には3000体ほどの道祖神があるそうですが、そのうち安曇野/穂高町には127体があるそうです。道祖神の姿から上図のように大きく4種に別けられるそうです。』

いよいよ東京に向けてバスが「穂高神社」を出る頃には日も翳り始めていた。バスが動き始めるとすぐにバスガイドさんが、「中央高速の上りは大渋滞になっているそうで新宿到着が遅れそうです」との嫌なニュースを伝えてきた。これではきっと到着は午後8時を過ぎてしまうだろう。皆さんは開き直って「慌てる事は無い! よしカラオケで鬱憤を晴らそう!」と賑やかなパーティが始まったのです。

<完>

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