『ふざける菜 忍耐編』(日本復活私論  Part IV)

(1)Catastropheへの前奏曲

ここで言うCatastropheとは【日本復活私論】のPart Iにて定義しているもので、地球上の万物は「誕生・・成長・・成熟・・衰退・・死/終焉」のサイクルを繰り返しているが、我々の社会でもこのサイクルの「死/終焉」から再び「誕生」を迎える間には大きな災い(大災)が起きて、その後に全く新しい社会が誕生すると考えており、この私論ではこの大災をCatastropheと表現しました。この大災について【ふざける菜漬け】(2008年著)の最後の項『追加報告』の所で具体的に述べていますので、その一部分に加筆して分かり易く説明しましょう。

『社会も人間(いや万物)もこのサイクルを繰り返しているとすれば、人間社会に於いて成熟期を終えて衰退期に入っている現在、これを通過し「死/終焉」の状態を迎えるが、それは世界恐慌や飢饉とか世界戦争、あるいはウイルスや放射能による奇病蔓延などの“人災”に加え、火山爆発や地震、津波、山火事などの“天災”が重なり、人類が直面する地獄絵のような過酷な状態を乗り切って、その後に全く新しい流れが生まれるというプロセアスを辿る』というのがCatastrophe(大災)なのです。

2018年の今、世の中を見回すと、我が人類は着々とCatastropheに向かって歩を進めているように感じるのは私だけでしょうか。

(2)トランプ大統領と安倍首相

Catastropheに向かっていると言う現実を米国と日本での卑近な例で説明しましょう。

それではまず米国が「死/終焉」に向かっている姿から見て行きますが、私は【ふざける菜漬け】の中の6章『変わり行く世界の勢力図』のところで米国について次の様に予測していました。

『資本主義の最も優等生国として世界に君臨していた米国だったが、ドルへの不信は世界の国々の米国離れを加速化させ、遂には普通の国への坂を下り始めている』と書きました。その普通の国に向かって坂を下っている現象の一つが米国民によるトランプ大統領の選択なのです。彼は「アメリカ ファースト」を宣言して完全なる「保護主義」をとり、TPPからの離脱、メキシコとの国境沿いに壁の建設、不法移民に対する規制強化、医療保険制度改革の撤廃、輸出入のバランスを取る為の関税の制定などなど、世界の動きとわざと逆行する行動で世界経済を停滞させ、その結果として世界からの“孤立化”を強めています。本来米国には「人種差別問題」という根深い国内の問題を抱えているにも拘らず、それを解く政策を最優先にせぬまま、外からの力を抑え込む為に『ハードパワー』だけによって権力を維持しようとする政策は、結局は内部崩壊というプロセスを辿り、最終的には普通の一国になって行くのでしょう。

さて日本はどうでしょう。多くを語る必要は無さそうです。上述の米国について説明したその国を100%フォローしている安倍首相ですからこのままでは日本の行く先は米国と同じでしょう。本当に日本政府はいつまでも米国の植民地の状態でよいと考えているのでしょうか。

しかしここでは「日本が復活する」というお話ですので、米国も日本もそして世界中がこのまま「死/終焉」に向かっているが、その後に新しい流れの「誕生」を迎えるのだ、と話を納めてしまっては意味がありません。そこで次に私が今も何故に悲憤慷慨を感じ「ふざける菜!」と叫び鬱憤を晴らし続けているのかのお話から進めて参りたいと思います。


(3)セリフ「ふざける菜!」で耐え忍ぶ

私はエッセイ第2弾『ふざける菜漬け』の『はじめに』の項で、その頃「ふざける菜!」と叫ぶのが少なくなった理由は、『TVを観ながら私の鬱憤をしょっちゅう聞かされているワイフが居間から逃げ出すのを見て、このような鬱憤晴らしは人に迷惑を掛けているのだと自己反省をしていたからかも知れない』と書いています。しかし何と最近はワイフがTV報道を見て、「ふざける菜!」を連発しているでは有りませんか。と言うことは夫婦して互にこのセリフで鬱憤を晴らしている事になるのですから日本の社会情勢も相当に酷いのでしょうか。

つい先日の夕方TVニュースを観ている時に国会・衆議院予算委員会討議に於いて森友問題に関連して野党から「昭恵夫人の証人喚問」の要請に対して、安倍首相の回答を聞いた瞬間にワイフから「そんなこと言って、ふざける菜!」と発したのです。そんなセリフが出てしまったのは、首相が国民に対して「これからは丁寧に説明して参ります」と約束しておきながら、何故に夫人を証人に立たせることを拒み続けるのか、と言う事に一国民として腹がたったのでしょう。しかし日本の総理大臣がどうして国民の前で「説明責任」を果たそうとしないのでしょうか。

実は私も夕食を摂りながら「米軍ヘリの不時着」事件(1月23日)の報道ニュースを観ていた時、小野寺防衛相の説明を聞いて「ふざける菜!」と叫んでしまったのです。それは記者のインタビューに対して彼が真面目な顔で「在日米軍の全航空機の点検と再発防止の徹底を申し入れました」と説明していた時でした。今年1月に入って沖縄での米軍ヘリの不時着事件が3回も続いているにも拘らず、その都度日本側から「遺憾に思う。注意してほしい」と抗議していましたが、米国に取っては「反省している。今後再発しないようにする」と返答するだけで実際は何ら具体的な対応策は取らないでしょう。今回も日本政府から「米軍の“全”航空機の点検をせよ」と注文付けたのですから、「全航空機の点検」をしたかの後フォローすべきですが、私は政府がそのような事をしないと確信しているので、つい「ふざける菜!」と叫んでしまったのです。

日本国は何故沖縄市民の立場を深く考え、自国民を守るために真剣に相手国と交渉をしないで、その場しのぎで終わってしまうのでしょうか。

日本国には他にもまだまだ「北朝鮮問題」や「憲法改正案件」などなど難題を抱えている実情からして、残念なことですが、我が家では鬱憤を晴らすセリフ「ふざける菜!」が飛び交い続きそうで、それを耐え忍んで行かねばならぬようです。

(4)どうした「大和魂」!

何故日本はアメリカに100%頼っているのでしょうか。それはやはり太平洋戦争に負けて、戦後アメリカが日本に植え付けた「自虐思想」が未だ我々の体から抜けきらないからでしょうか。そもそも今の資本主義社会の始まりは18世紀のイギリス「産業革命」からで、資本力と軍事力によって国力を拡大してゆく社会形態ですが、絶えず資本を投下する「フロンテァ」が必要となります。最初のフロンティアは「土地」に向けられたのですが、イギリスを筆頭に列強国は世界各地で植民地争奪戦を繰り広げます。そしてイギリスの植民地であったアメリカは1783年にイギリスから独立しますが、これはあくまでヨーロッパ系移住民社会の独立で、先住民はこれまでどおり圧迫され奥地に追い込まれプランテーションが盛んな南部では「黒人奴隷制度」は存続し続けたのです。つまりアメリカは『アングロサクソン系資本主義』であり、「過剰な技術信仰」や「自然は人間が管理するもの」と言った思想がベースにあって、それがどうしても私たち日本人には馴染めない様に思うのですが。

林秀彦著【日本を捨てて、日本を知った】の第1章『日本人はアングロサクソンを知らない』の中にある一文を次に書き出してみます。この著者、林秀彦氏は1980年代にテレビの売れっ子脚本家として『ただ今11人』、『7人の刑事』や『鳴子の海』などで活躍されたが、日本に絶望し1988年オーストラリアの山奥に逃げ込み、10年目に外から観た日本を書いたのがこの本です。

『アングロサクソンとは、強盗団である。血も涙もない、好戦的な野蛮人である。押しなべて「白人をみたら泥棒と思え」の認識は正しいのだが、中でもアングロサクソンをみたら人殺しと思ってよい。(略)それは彼らの生存する自然環境が、日本人が想像を絶するほどに苛酷だったからである。(略)南海の孤島の住民ならいざ知らず、ある程度の文化文明を創造しえた民族で「窮地」を知らずに歴史を歩んだ民族は日本人以外にはない。そんな民族がポーカー民族(アメリカ人)に勝てるわけもなく、世界戦略として外交的剽悍(ひょうかん)と狡猾(こうかつ)に勝てないのである。』
*「剽悍」=(性格が)素早くて荒々しいこと。「狡猾」=悪賢いこと。

私もこの考えに同意するものであり、何かアメリカのやることに馴染めないのです。従って100%アメリカをフォローする日本の現政権には納得が行かないのです。そもそも私たちは日本民族固有の精神「大和魂」の持ち主のはずなのですが。しかし「大和魂」と聞くとどうも第二次世界大戦の時、状況を打破する為の突撃精神を鼓舞する意味で使われ、特に敗戦が濃厚となった時に「神風特攻隊」が編成され、爆弾を積んだ飛行機(ゼロ戦)でアメリカ軍艦に飛び込むその清い勇気を「大和魂」と美化してきたので私たちは「大和魂」という言葉を避けてきたのかも知れません。しかし本来の「大和魂」とは平安時代から言われてきた日本人固有の精神で中国などから流入してきた知識や学問をそのまま日本へ移植するのではなく、あくまで基礎的教養として採り入れ、それを日本の実情に合わせて応用的に政治や生活の場面で発揮することだと言われます。

日本文化とは日本固有のもので、外からのものに日本に合ったように手を加えて自分のものにするのです。例えば3世紀ころ中国から「漢字」が入ってきてそれを基に「ひらがな」や「カタカナ」を生み出し、8世紀には「源氏物語」、「枕草子」そして「古今和歌集」などの物語、日記、詩歌において世界に先駆けて数々の名著を残しているのです。6世紀に遣隋使や遣唐使によって持ち込まれた「仏教」も9世紀になって「平安仏教」として日本独特のものに仕上げているのです。17世紀頃、ヨーロッパ諸国の「植民地政策」によってインド、中国、東南ジア諸国がそうなめに植民地化されている時に日本は門戸を絞って「鎖国」という手段で植民地化を逃れた外交政策など、日本は外のものをそのまま取り入れるのでは無く日本に合うように創意工夫をするのが日本文化「大和魂」なのです。いつから私たちは「大和魂」を忘れ去ってしまったのでしょうか。やはりあの太平洋戦争でアメリカに負けて連合軍最高司令官総司令部(GHQ)による統治が始まってから“日本人のこころ”から「大和魂」を抜き去られてしまったのでしょうか。例えば「原子力発電」のケースでも、何故に米国GEやウエスチングハウス(WH)の技術を地震国であり火山国でもある日本がそのままの型で設置してしまったのでしょうか。日立はGEと提携し、そして東芝は何とWHを買収してしまいますが、東芝はそれが仇となり遂に自分の首を絞めてしまったのです。

私としても日本国民の一人として「ふざける菜!」を叫んで終わるのではなく、こんなご時世でも「大和魂」(やまとごころ)を奮起しながら「日本人としてあるべき姿」を追求し続けて行きたいと思います。

(5)それでも日本は復活する?

地球上の『万物のサイクル』で人間社は現在「衰退期」の中にあり、いずれ「死/終焉」を迎えた後に新しい「誕生」に向かう事になりますが、そのサイクルの新しい「誕生」に先頭を切って突っ走って行くのが日本である、と言うのが【日本復活私論】の論旨なのです。

それでは何故「新しい誕生は日本から」なのでしょうか。「死・終焉」の一つは何かと申しますと、「アングロサクソン型資本主義」が終わると言う事です。

これからの社会は、“過剰なる技術信仰”は人類に幸せを齎せないという事に気づき、“自然にやさしく他の生き物と共生してゆく社会”に向かって行く新しい社会が「誕生」するのです。つまり「人間中心主義」の終焉です。その後を引き継ぐのは「縄文」の血をひく我ら日本人なのです。

まずは「過剰なる技術信仰」に対する警告を卑近な2〜3の例で述べたいと思います。

○AIはこのままで良いのか?

人工知能(AI)が本当に人間に取って大事な技術なのでしょうか?例えば将棋や囲碁の世界で人間がAIに負けて何が楽しいのでしょうか。これからは棋士がAIに勝つ為に修行を重ねて行かねばならないのでしょうか。将来に棋士がAIと協力し合って戦う時代が来たとしても、これは人類がAIに負けたと言う事に変わりは無いでしょう。またいずれAIロボットによって我々の職場を占領されてしまうのでしょうか。馬鹿らしい。AIの背後には「ビッグデータ」がありますが、このデータ量がいずれ人間の記 憶容量を超えその処理スピードも人間より勝ってしまう時代が到来するでしょう。AI学者は、AIには「ひらめき能力」が無いから、そして人間には「発想力」と「創造力」が有るのでAIには負けないと主張していますが、しかし人間一人ひとりは「膨大なビッグデータ処理」によって齎される情報やサービスを前にしてころりと負けてしまうのです。私の例ですが、インターネット上でAmazonから本を買った際に、即座に「あなたはこんな本がお好きです」なんて勝手に本の紹介をして来るのですが、私はその紹介本に興味を持って買ってしまうケースがあるのです。もうこの行為は私がAIに負けている兆候ではないでしょうか。恐ろしい。

○リニア新幹線は本当に必要なの?

何故に私たちは東京/大阪間の移動時間を更に短縮する必要が有るのでしょうか。そして乗車している間は殆どがトンネルの中と言います。どうしてこのようなプロジェクトに大事な“国民のお金”を当てるのでしょうか。この種の技術は広大な土地を持ち、都市間の移動時間短縮を本気で求めている様な国に対してリニア新幹線の売り込みを図ってはどうでしょう。もうすでにプロジェクトは進行中で止める事は出来ないでしょうが、私たちに取って大事なのは、すでに出来上がっているものを新技術によって再構築するとかリノベーションをする事に国民の大事なお金を使ってゆくべきではないでしょうか。例えば橋梁、高速道路、トンネル、堤防、都会の建物耐震強化や廃炉などなど国民の安心・安全の為にお金を投入せねばならない所はまだまだ沢山有るように思うのですが如何でしょうか。


○宇宙開発、月面着陸はなぜ?

何故に私たち人類にとって宇宙開発が必要なのでしょうか。神様が人類にわずか100年ほどの命しか与えてくれていないのに、宇宙の奥を知って一体何に役立つのでしょうか。地球誕生46億年の詳細が分かるからとか、太陽系の惑星のそれぞれの星の詳細を知れるから、と言われますがそれが何の役に立つのでしょう。

今年(2018年)に入って宇宙航空研究開発機構(JAXA)が日本初の月面着陸機「SLIM」を年内に打ち上げると発表しましたが、その目的は、正確に月面に着陸できるかのテスト、および火星探査の為の中継地にする為と発表していますが、これは私たちにどんな役に立つのでしょうか。

日本が先陣を切ってこのような無駄遣いを止めて、もっと地形学的に見ても日本に取って役立つ研究、例えば「海底探査」とか「海底鉱山や都市鉱山の開発」などに、つまり宇宙空間ではなく地球の表面に注目して日本人の知恵を集中することで、世界における日本の立ち位置が変わって来るでしょう。中世のべニスの商人“マルコポーロ”が【東方見聞録】の中で日本を「黄金の国」と紹介していましたが、日本がこれから大事な資金の投入方向について“独自性”を持って考え出して行けば、もしかすると日本が21世紀の“ジパング”つまり『黄金の国』として「誕生」しているかも知れませんね。

それでは、「なぜ日本が先頭を切って突っ走る」のでしょうか?

日本は温暖地域の島国であるので、民主主義、資本主義、そして人間中心主義の“実験場”として最適な位置とサイズだったのす。従って挑戦してきたあらゆる施策の結果が最初に出るのはアメリカでも欧州でもなく島国である『日本』なのです。卑近な例で言いますと、「ゼロ金利政策」も資本主義社会では本来有り得ない施策なのですが、資本主義の最終章の姿として世界で真っ先に日本が「低金利時代」に飛び込んでしまいましたが、このままですとマネー資本主義が終焉を迎えるまで日本は「低金利時代」からの脱出は無理でしょう。つまり時代の流れに沿っていずれ現在の「金融システム」が変わって行き、それと共に日本の長い低金利時代が終わりを告げ、全く“新しい通貨”の流れが「誕生」しているのだと思います。

それでは最後にこの小国「日本」がどうやって「復活」して行くのかについて説明したいと思います。

これまでに私は何度も言い続けて来ていますが、世界はこれまでの「ものの時代」から、21世紀は「こころの時代」に切り替わって行くと考えます。つまり「ものの競争」の時代から「こころの共生」の時代になるのです。これまでの「人間中心主義」から「万物共存主義」に変わって行くとも言えます。この新しい流れの根底には、『この美しいたった一つしかない地球を守らなければいけない』という単純なそして大事な思想が流れているのです。

地球上にこの思想を持っていた民族が過去に居たのでしょうか。

それが居たのです。それも日本列島に集中的に住んでいたのです。それは今からおよそ1万5000年前から約2千年前までの1万数千年間を「狩猟採集民族」として生活していた「縄文人」なのです。そして「縄文人」は我ら日本人の祖先なのです。この事を「分子人類学」の面から明らかにしたのが『Y染色体ハプログル−プ』の研究成果だったのです。この辺の詳細に関しては『日本復活私論』のPart I およびPart IIに書きましたが、もし更に確かめるのであれば、ウィキペディアで「縄文人」と検索して「縄文人のルーツ」を読んでみてください。

さて、それでは何故“縄文人的思想”が地球を救うのでしょうか。

縄文人は「親族関係」で集落を作っていましたので、集落のサイズはそんなに大きくは無く精々30〜40人規模だったのです。その集落がいくつか集まって「ムラ」を形成したケースもありましたが、それぞれが姻戚関係で繋がっていますのでお互いが助け合い、“戦い”などは生まれませんでした。縄文人は「狩猟採集民族」ですので、内陸ではシカやイノシシを捕まえ、海岸では貝や魚を獲り、さらにはドングリ、クルミ、ギンナンなどの木の実やヒエ、アワやコメなどの穀類、更には野生の豆類などすべて「野生食」で賄い、必要以上の収穫はしないので、地球環境には優しい生き方をしていたのです。また当時は歴史上「新石器時代」と言われていますが、縄文人だけはすでに一足先に「土器」を使っていたのです。更には自分たちの周りのもの全てを神聖化して、山も川も樹木も何もかもすべてに神が宿っていると考え「神事」を大事に司ってきたのです。そんな「縄文時代」が何と1万数千年もの間続いたのです。私は「縄文人」こそ「こころ」を大事に生きてきた民族であり人類で最も長い時代を生きながら得ることが出来たのだと考えているのです。日本人はその「縄文人」のDNAを持っている唯一の民族なのです。

ところで、【日本復活私論】は「みなさん、縄文時代の生活に戻りましょう」と主張しているのでは有りません。所謂今の文明が終焉を迎え新たな「誕生」を迎えた時は「万物共存主義」の社会となっているのですから、「縄文人的思想」がベースになっていると言うことです。その辺のところを【日本復活私論】PartIII (3)「寄り合い型社会の到来」の所で次の様に書いています。

『これからの社会形態が日本人に向いた型になるということです。これまでの近代国家は制度を作りリーダーを中心に統制された「中央集権型社会」が主であったのですが、インターネット時代では権限が分散化され目的ごとに簡単にグループが組めるネット社会が構築されて行くのですが、この形態を「権限分散型社会」といい、私は「寄り合い型社会」と名付けました。そもそも日本人の先祖は「縄文人」だったと考えると、狩猟採集社会でありあまり大きな国家集団にはなれず、かつ日本列島が自然環境で多様性に富んでいたことから、民族間での征服や虐殺もなく、上手に「寄り合い型社会」を形成していたのでしょう』

以上ながながと「何故に日本が復活するのか?」に就いて書いて参りましたが、このまますんなりと「死/終焉」から新たな「誕生」を迎える訳にはゆきません。

辛いことですが、過酷なCatastropheを通過せねばなりません。その地獄絵の様な局面がどんな形で私たちを襲ってくるのかは分かりませんが、少なくともその後の世界は「縄文文化風」になるのですから、今からでも日本人一人ひとりが本来あるべき「日本人気質(つまり『森の民』であり『大和魂』)」を引き出して、現在の地球を破壊する文明にブレーキを掛けて行こう、と主張しているのです。その結果として「日本の復活」に結びついて行くのですから。


=おわりに=

これまで4回に亘って「日本復活私論」を書いて来て感じることは、私が言いたいのは、『21世紀は間違いなく「こころの時代」になって行くので、その道先案内人は「日本人」なのだ』と言う所なのですが、Part IIIから悲憤慷慨エッセイ「ふざける菜シリーズ」に取りこんでしまったので、読者の方々は、単に世界中を見わたせば世の動きが「日本復活私論」で言っている方向とはかけ離れているので、ただ「ふざける菜!」と叫んで鬱憤を晴らしているだけと思われるのでは、という不安でした。

しかし世の中の動きを細部に亘って見ますと小さな出来事ですが、私論と方向がかけ離れているのでは無く、一歩一歩「こころの時代」に向けての“地ならし”が「縄文人」の血を持った日本人から起こり始まっているのです。丁度この「日本復活私論 Part IV」を書いている期間で起きていた小さな出来事の例を茲に記載して「おわりに」したいと思います。

日本は世界で先頭を切って「高齢化・少子化」問題に直面し生産年齢人口が急速な勢いで減少し、一方で若者層は仕事を求めて都市をめざし、その結果として「限界集落」が激増しています。残念ながら人口構成を急には変えられませんし、高齢者が増え、若者が減って行く現象を止める事も出来ません。つまり日本の人口があと100年で半分以下に減ってしまう事は避けて通れません。ところが、国が長期展望に立って人の都市集中化を止める方策を打てないのであればと若者が独自に動き始めているのです。これら若者を【風の人】と呼ぶそうです。「風の人」とは地域に新たなる視点を齎し、都会と地方をまたいで活動し、風を運び、風を起こし、去って行く人です。一方その地域に住み続けている人を「土の人」といい、「風の人」と「土の人」が上手に連携して新しいものを作り出して「地域創成」を図って行こうとする動きがあちこちで起き始めているのです。
(参考:『地域ではたらく「風の人」という新しい選択』田中輝美・藤代裕之共著 ハーベスト出版)

一方学術の面では、地球環境問題、人口減少、政府債務の膨張など世代を超えた持続性に関する課題を解決し将来世代にどのように引き継いで行くべきかに就いての「フューチャー・デザイン研究」が急拡大し始めました。現代が抱えている問題として、ひとり生活者や子供の居ない家族が増えており、これらの人たちは「現世代の利益」を重視する傾向が強く「未来の利益」に対しては関心が薄いという実験結果が出ており、このままでは「持続可能な社会」が存続できないという大問題に直面している訳です。そこで「フューチャー・デザイン研究」では、経済学、心理学、倫理学、神経科学などの研究者を巻き込み学際的なレベルで未来の利益を代表する「仮想将来世代」をどのように作るか、そして例えば中央官庁に「未来省」、自治体に「未来課」のような組織をどのように創設し、そこに「仮想将来世代」をどのように配置すれば機能するかに就いて研究を進めています。こうする事で現在陥っている、現在の制約や課題の延長線上でビジョンを描いてしまう傾向を回避して、地域の長所を伸ばすためにあえて困難な解決を目指すような未来の利益を代表する組織体を作り上げ、そこを通しての施策が打たれて行けば「持続可能な社会」を次世代に引き継いで行く事が出来る様になるでしょう。この研究も島国であり、先陣を切って資本主義に行き詰まった日本国が他国より先に「持続可能な社会」作りに挑戦し、それを見た他国が黙って日本を見習う時代が到来し、結果として地球に優しい「万物共存主義」の基での世界が生まれていると私は信じているのです。
(参考:日本経済新聞 2月13日記事 経済教室「未来の利益 いまどう代弁?」)

(完)

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