【第2部】 社会人となって

【第6章】 壮年期(前編)

1970(昭和45)年4月 丸紅飯田に入社、当時は大手町ビルに東京本社があり、後楽園駅から大手町へ 地下鉄丸の内線での通勤が始まりました。配属は【民生電子機器課】という課で、白黒テレビ、カセットテープレコーダ、カーラジオなどの輸出でした。この年3月から「大阪万国博覧会」が開幕しており日本は「いざなぎ景気」に酔っていた時代でした。

1972(昭和47)年1月 丸紅飯田から【丸紅】に社名変更すると同時に現在の東京本社の地、竹橋に建てた自前ビ

ルに移転したのです。翌1973年10月 第4次中東戦争が勃発、第一次オイルショックで あの有名なスーパーでのシーン【家庭主婦のトイレットペーパー買いあさりの姿】が思い出されます。

丁度このころ 都民の足 "都電ネットワーク"が自動車優先政策の為に崩されて行く最中なのでした。昭和42年にまず銀座界隈から都電が消され、それから急速に撤廃が進み、私の通勤ルートは初音町から一ツ橋まで 巣鴨から来る都バスを利用していた記憶があります。しかし昭和48年11月 高島平ー三田間に地下鉄【都営三田線】が開通となり(昭和51年5月

西高島平まで延長)、通勤は春日駅から神保町駅まで2っ目の駅で下車ですから通勤時間はドア・ツー・ドアでタッタの15分と最高の環境であったのです。会社が竹橋に移動すると、都が地下鉄を走らせてくれたのですから通勤地獄の時代、会社と都庁に感謝せねばならないのでしょう。
当時の日本の好景気を狙って 私は世界から高級音響スピーカーの輸入商売構築に挑戦していました。米国よりボザーク、フィッシャー、ハートレイ、そして欧州からは 英国/グッドマン、フランス/シャルランなどの超高級スピーカー、そしてヘッドホンのスイス/ユックリンなどなど。秋葉原そして大阪の日本橋を自分の足で1軒1軒歩いての販売店を作る仕事は 本当に国内商売の難しさを勉強させられ、この体験が今でも私の貴重な体験財産だと思っています。

昭和51年に結婚、翌年10月に長男「健一」の誕生。その翌年1978(昭和53)年6月には「シカゴ赴任」となりその11月家族がシカゴにやってきます。1979年に入ると原油供給の削減からオイル価格高騰が続き世界不況に見舞われ 第二次オイルショックに突入します。この5月には英国では保守党のサッチャー政権が誕生。米国でもガソリン価格が上がり 米国政府は全国の道路の最高速度制限を、もっとも経済的スピードの時速55マイルに規制、また西海岸地域では ガソリン消費を抑えるべく車のナンバーの最後の数字が奇数か偶数かによって曜日別に給油できる制度を公布し、そして単独運転でのダウンタウンへの乗り入れを禁止していたのです。

そんなご時世だった米国駐在期間は 私はエレクトロニクス製品の日本からの輸入商売には手を出さず、もっぱら日本製のディーゼル・エンジンを冷凍トラック搭載用冷却機メーカーや、レジャーボート用冷蔵機メーカーに納める商売に専念していました。 当時はガソリン・エンジンと比較して燃費効率が高いとして人気を上げており ディゼル・エンジン商売も面白いように拡大を続け多いに儲けさしてもらった記憶があります。

5年弱のシカゴ駐在から1982年の末に帰国します。1984(昭和59)年4月 長男健一が私と同じ真砂小学校に入学。秋の運動会の時、私の時代のマンマの校舎の中を歩き、「あ! ここが職員室、ここが音楽室だ」とあまりの懐かしさに感無量であったことを今も思い出します。

その真砂小学校も1999年に弓町小学校と統合され、本郷小学校となりその2年後に近代的な校舎に建て変わってしまっています。

帰国後は【電子機器部】に配属、当時はしりのH製作所製ファクシミリの欧州・中近東・アフリカ・東南アジアへの輸出を手掛けるのです。これらの地域の各国に販売代理店を設定してゆく過程がとても楽しかったのです。当時FAX機は100万円もしていたのですが、ドイツに売り込みに行った際に事務機メーカーとして老舗の R.R社の社長さんとのやり取りが思い出されます。

その社長さん曰く; 「このFAX機は漢字文化の日本だからこそ生まれたのだ。この技術はそもそも欧州生まれなのだが 我 々にはテレックス・マシーンという機器ですでに全世界でネットワークが構築されているからFAXは不要だね」 とあっさり断られました。

そこで「ハイ! そうですか」とは引き下がらなかったのです。

そこで私から; 「テレックスの場合は 秘書が帰ってしまったら社長さんの場合は相手への連絡が翌日になってしまうでしょう。 FAXなら 社長さんが手書きのメッセージを そのまま電話回線で送信できるのですから 秘書がいなくとも いつでも相手と即通信できるので 相手様からも喜ばれ、すばらしい機器ではありませんか」 と反論しました。

その結果、その社長さんから初の2台のサンプル・オーダーの取得に成功しました。

平成に入ると(1989年)平成景気は土地神話に走らせ 地価はどんどんと上がり【相続税の巨額化】が話題になり始めました。我が家も50坪程度の土地ではありますが、当時話題の高騰地価で相続税を試算すると とてもではないがサラリーマンの私には相続出来そうも無い数字でした。そこで父と相談し、父の名義で銀行借入をして家を新築し、相続の際にはその借金で相殺する方式で相続税を軽減させる作戦を練り上げましたが、不幸にしてこの作戦は失敗に終わってしまうのです。

1990年4月 長男健一が私と同じ文京区立第二中学校に入学、その6月に私の中学校時代の同期生のS建築設計事務所と「新築設計契約」、11月に「工事請負契約」の締結と プロジェクトは着々と実施に移されました。

住み慣れた家から仮住まいのアパートに引っ越す日、引越し荷物がすっかり運び出されガラーーンとした居間で家族が朝食を取っていたときに、TVでは、ベルリンの壁が崩壊されドイツ市民が一つになった喜びの興奮を伝えていました。家の解体ー整地ー基礎工事ー鉄骨くい打ちー棟上と工事は順調に進行して行き 父も毎日毎日その進捗状況を見るのが、そしてその変化をカメラに納めるのが楽しみな様子で、「地鎮祭」でも元気に世話をしてくれていたのですがーーー。

1991年(平成3年)正月が過ぎたある日、私が両親の仮住まいに立ち寄った時、父が床に臥しているではありませんか。母が言うには、父が昔の仕事仲間、つまり浅草橋界隈、子供婦人帽子卸業の仲間との新年会に参加したその帰り道、道路で滑って顔に怪我して帰って来たのだと。

そうして2月に入るや妻・順子のお母上の様態が急変、3月に他界されます。そしてそれを追いかけるように義父が5月に他界。一方父は3月に入って引いた風邪が長く続き5月連休に企画されていた母と二人での長野墓参を中止して、なんと急遽入院騒ぎとなってしまうのです。咳と微熱が続き 家族は「最近流行の老人結核ではないか」位に考えていたのですが、実はそんな単純な病では無かったようです。

父の様態は入院後 日に日に悪化して行き入院の数日後主治医から 「お父さんの病気が肺水腫か それとも肺癌なのか分からない。これまで例の無い奇病だ。お父さんの苦しみを和らげるには抗癌剤を打つしかないが、どうされるか?」と言われたのです。突然の宣告に ただただオロオロするのみ。母と相談の上、「よろしくお願いします」 と回答する他に道は有りませんでした。

しかし父は回復の目処もなく、7月7日、七夕の日に静かに天国に召されました。七夕と言えば「おりひめ(織姫)」が年に1回この日に天の川を渡って「ひこぼし(牽牛)」とテードする日と言われていますが、家族が年に一回父と会う日(命日)をこの日に選んだのは父らしく洒落ています。この1991年は我が家にとっては 3/5/7月と1ヶ月おきに”法事”が連発し、そして夏の8月に新居完成の運びとなるのですが、父の49日法要が皮肉にもこの新居で行われ、本当に父には申し訳なかったと、残念に思っています。

家を建てると起こるといわれるジンクスがあります。一つは「家族に不幸な出来事がおきがち」そしてもう一つが「その新築に住めないことがおきがち」という何とも不吉な話です。この2つのジンクス、なんとなく納得出来るのです。新築の時、引越し作業、人生一大プロジェクト進行からの疲労蓄積、そして仮住まいでの生活サイクルの変化などなどが体調を狂わせ 不幸な結果が起きがちなのは理解できます。

「易本」にも必ず”家造りの吉凶”が書かれている事からも、方位や年月日だけで

なく家族で取り組む人生最大のプロジェクトだけに環境の変化に充分対抗できるそれぞれ家族皆の体力が求められるのでしょう。 もう一つ”新築には住めない”ジンクスは よく商社でも話題に上ります。「やっとマンションを購入したと思ったらニューヨーク駐在だってさ」 といった類の話がザラにあります。

これもありがちな理由が分かるような気がします。社会人となって企業に勤め経験を重ねて課長職レベルに到達したころ、もっとも会社生活が充実し給料もそれなりの額になると、社宅やアパート住まいから 「よしイッチョ 自分の家でも持つか」というプロジェクトに取り組みやすいタイミングと言えるのです。しかし一方で会社にて責任ある立場に立っている為、会社としても次のお役目をオーダーしてくるのでしょう。結果として国内転勤や海外駐在というケースとタイミングが重なってしまうのでしょう。

私はこの2つのジンクスをバッチリ体験してしまった事になるのです。 なんと新築の翌年、1992(平成4)年4月会社よりシンガポール駐在の辞令が下るのです。


【7】 壮年期 (後期)

1990年ころから日本の経済にも陰りが見え始めます。日本企業は まだバブル景気の余韻を捨てきれず、景気回復策としてリストラや人件費の安い東南アジアへの工場進出によって立ち直りを図ろうとしていた時代です。 この安易な戦略が2000年代に入って多くの企業を廃業に追い込むような危機に落とし込む原因になるのですが。

そんな日本の戦略によって 生産市場として見られたインドネシア、マレーシア そしてベトナムやインドなど、更にはそれらの国との中継地としてのシンガポールは 好景気に

沸いていました。当時のそんな東南アジア地域は総合商社にとっても注目すべき美味しい市場に見えたのです。そんな時代、新規市場開発のための現地派遣駐在員として私に白羽の矢が当たったのでした。 

1992(平成4)年5月24日 シンガポールに赴任、我が家族は翌年3月に来星します。息子健一が中学を卒業し、渋谷幕張高校シンガポール校に無事合格してのシンガポール入りとなったのです。南国の地での家族生活が始まりました。新規商材の開拓が業務指令と言いますが、それは決して簡単ではありませんでした。日本のメーカーは人件費などコスト削減目標で東南アジアにダイレクトに進出している時代で 商社の介入は不要で、全く新しい商売の仕掛け作りが非常に難しい時代だったように思い出されます。 

どんな仕事に挑戦したか回想してみます。

@ NTTインターナショナルとのインテリジェント・ビルディングの売り込み(インドネシア財閥との取り組み)

A 京都S製作所の中古医療機器(CT,MRI)をインドネシアの大学病院、緊急病院に設置し場所代を払って運営するプロジェクト

B 諏訪SNK精機とインドネシア最大たばこメーカーGudung Gram社との小型モータ生産工場設立 合弁事業


C FX社製コピー機のベトナムでの販売網の構築(ベトナムにおけるリース販売の確立)

D 日本家電メーカーP社の単3電池 インド生産工場設立プロジェクト(インド財閥との取り組み)

E シンガポール政府のロード・プライシング・システム入札に参加 (シンガポール財閥との取り組み)

F 北九州S社製の移動体位置確認装置を香港セキュリティ社の現金輸送監視システムへの採用商談

など物件をあげれば切りが無いのですが、それにしてもシンガポールは人口300万ほどで淡路島サイズの島国であり、商売市場としては小さすぎて、ここを拠点にして近隣の国々を攻めたのです。当時はなんと言っても人口2億人のインドネシアがポテンシャリティ高く私の活動もそこに集中していました。シンガポール駐在32ヶ月の間で 海外出張は インドネシア/29回、マレーシア/9回、ベトナム/6回、日本/4回、インド/3回、香港・中国/2回、そしてタイ、欧州がそれぞれ1回の全部で55回、とすれば1ヶ月にほぼ2回近くはシンガポールから外に飛び出ていた事になります。

1994年末、3年目に入ってもこれと言った新規商売が構築出来ぬまま、東京本社との波長が合わず気持ちだけが焦り始め軽い「鬱」のような精神状態に陥ってしまっていました。この年の年末・正月休みを利用して思い切って家族で「オーストラリア・シドニー&ゴールドコースト9日間の旅」を敢行。この旅は生まれて初めてホテルにて新年を迎えれる体験をしたことになります。 我々家族はツアーパックで組まれたスケジュールから外れて4日目の午後ブリスベーン Indooroopilly Golf Course, そして6日目の大晦日の日 ゴールドコーストへの途中にある Hope Island Golf Course を組み込んでいました。
このパック・グループには他に日本人参加者はおらず、中国系シンガポール人そして米国人で15人ほどのグループだったのですが、この9日間の行程で我々は3回も団体行動から抜け出たのです。 予定していた2回のゴルフでの別行動にもう一回別行動のチャンスを与えてくれたのは息子でした。その事件はなんと大晦日に起きたのです。

大晦日の出来事を日記帳から拾ってみます。

『きょうは今年最後の日。ブリスベーンからゴールドコーストに観光バスにて 移動する日だが、我々はゴルフを入れていたので別行動。目的地はHope IslandResortの中にあるゴルフ・コース(The Links)。アメリカを思わせるような大変に雄大でフラットなコースに大満足。
プレー後家族3人はタクシーを呼んでもらってゴールドコーストのホテル Chevron Paradiseへ(タクシー代A$110)そして団体と合流。ホテルチェックインを済ますと、息子が「ぼく サイフなくしたみたい」と小声で言い出した。3人で どこでなくしたかの推理をはじめたが、どうやら2日前のゴルフをした時にサイフを貸しゴルフバックに入れたままではとの推論に至った。』
早速 Indoorooplliy G.C.に電話して調べてもらうと 「見つかりました」との返事。このパック旅行は1月3日にブリスベーン飛行場からシンガポールに戻るスケジュールであったので、それでは我々は別行動で2日にゴルフをして夜、団体に合流しようと決めた。 皆での夕食後ホテル内レストランでの年越しパーティー(参加費@A$70)に参加してみることにした。賑やかに飾られたパーティ会場にはシャンパンの音、クラッカーの音 そうして午前0時に海岸から大きな花火が打ち上げられ、人々の歓喜が一斉に沸き起こった。
この家族大旅行から戻ってすぐに丸紅の孫会社に当たるロジテック社のTH社長から電話がありました。電話の趣旨は 「我が社も順調に規模を伸ばして来ており ここに来て台湾からの輸入が激増。貿易実務の経験がある君に手伝ってもらいたい」 というお誘いの話だったのです。東南アジアでの新規商売開拓の任務半ばして放棄するのは、とも考えましたが 自分としても一つの壁にぶつかって不安定な精神状態にあることから、よしここは自分から環境を変えてみようと決断しました。

1995(平成7)年3月23日家族が一足先に帰国、私は4月21日に帰国の途につきました。しかしこの年はとんでもない出来事が多発した年であったのです。1月17日 あの阪神淡路大震災に始まり(6433人の犠牲者)、3月地下鉄サリン事件、4月に入って青島都知事、横山ノック大阪府知事のアベック当選、4月19日には東京外国為替市場で1ドル=79.75円と二度と起きないだろう高値、5月 オウム真理教の麻原彰晃が逮捕(しかし2005年現在も生きている不思議!)、そして2年連続の猛暑続きの平成7年7月7日 我が父の命日は なんと大正7年生まれが77歳になった日で7が6つも並ぶ特異な日だという。

8月村山首相がアジア諸国に向かって植民地支配を謝罪している。私はこの年の末、家族から「お父さん、粗大ごみにはならないでね!」の言葉にハットして油絵教室に通い始めたのです。

私がロジテックに参画して 早速取り組んだのが親会社から脱皮して一人立ちできる体制にすべく、新規商売の構築でした。しかしPC周辺機器の市場が大盛況で 年々自然増幅的に売上高をアップさせ、この傾向が従前どおりのビジネスモデルから脱皮して親離れを図ることを脇におき去ってしまったのです。この結果はいよいよ21世紀に突入して、PC市場の膨張が止まり始めると売上下降線のパターンに転換してしまったのです。しかし2004(平成16)年に入ると心強い新しいパートナーが現れ、新進のロジテックとして再挑戦するチャンスが到来しました。丁度この年は私の還暦、人生の一つの区切りのタイミングであり、12月24日 クリスマスイブの日に定年退職の日を迎えたのです。

私の人生は一体何だったのだろうか?半生を振り返ってみて一体何が自慢できるのだ?実は自慢できるものがあるのです。それは私の家族です。商社マン、海外生活、単身赴任などなど波乱万丈な家庭生活に文句を言わず付いて来てくれた体の丈夫なワイフと一人息子が私の自慢であり、かけがいの無い私の財産なのです。

また自分の人生で一体何が得意だったのかを考えると、確かに小さい頃から【もの創り】は好きなようでした。従って社会人になってからも、どちらかと言えば、ルーティンの仕事より、新規に創る仕事が多かったように思います。そのように考えると自慢のもう一つが見つかったような気がします。

それはこれまで私はたくさのブランド/ニックネームを作ってきたのです。丸紅の時代ではFAXを台湾で作り【MAC Fax】としたのが第1発目です(昭和62年頃)。

ところが暫くたって丸紅の管理部門から 「MACはまずい。なぜならパナソニックがビデオレコーダをマック・ロードと称して宣伝しているし、米国ではマッキントッシュ製PCをMACと呼んでいるので侵害にあたる」との忠告を受けたのです。

しかしすでにカタログ、サンプル機は作り終わり、すでに少量ながらイタリア、南アフリカに本体を輸出していたので、 「それは当社のFaxが世界で大量に売れた場合に問題になるのでしょう?」と反論したのですが、万が一を考え丸紅が商標登録しているブランドをくっつけて【Benny Fax】に切り替え販売を継続しました。
その後扱い機種をPCにひろげって【BennyPC】、更には米国にて日本NK製デイジタル電話機のディストリビューションを開始しましたが、それには【Optima】というブランドが付いていました。

ロジテック社でもPCにCADソフトをインストールしたスターターキットに【BL CADキット】なんて命名してディストリビューションを展開。また独自に設計・開発したインターネット・サーバーには【LogiPRO】と命名、瞬間風速的でしたが市場シェア3位の位置を取ったのです(平成13年)。

私の半生の中で仕事とは別の世界でも、私は創り上げる喜びを見つけ出していました。それは50歳になってヒョットした切っ掛けで取り組んだ「油絵の世界」、そして2001(平成13)年 ロジテック伊那工場(長野県伊那市)への単身赴任となって、伊那谷で過ごす週末の【一人の時間と空間】が私にエッセイを書く機会を与えてくれたのです。

これはサラリーマンとしての達成感とは違った 後々に形として残るものを創り上げたという喜びを与えてくれるのです。また2000年に仕事の関係でホームページを自作してみるチャンスに恵まれ、「油絵仲間を捜しています」のタイトルでこのHPを開設し、そして翌2001年にエッセイの掲載も始め、現在油絵作品 25点、エッセイ 9作品になっております。2005(平成17)年はフリーターとしての年の始まりです。これまでの人生での体験を社会の人々のために貢献できればと思っています。そして許せる限り人生の旅を続け、油絵を描きそしてエッセイを書き続けて行きたいと思っております。

【第2部】 完

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