『第10回文京を歩くかい』報告

11月25日(日)第10回目の「文京を歩くかい」が実施されました。今回は10回目という節目でもあり、7年前に行われた「第1回目」のコースを歩いてみようと次のような行程が組まれました。

@【午前中コース】午前10時:JR「巣鴨」駅「正面口」出た所で集合→真性寺→巣鴨地蔵→六義園 →富士神社(10分休憩)→吉祥寺(二宮金次郎墓)→駒込やっちゃ場→高林寺(緒方洪庵墓)→蓮光寺(最上徳内墓)→光源寺・大観音→新築『森鴎外記念館』見学(30分)→滝のある『須藤公園』にて昼食(40分)→

A【午後前半コース】午後12時40分:地下鉄・千代田線「千駄木」駅「道灌山方面」出口を地上に出た所で集合→須藤公園を出発(12:50)→藪下通り→根津権現→サトーハチロー住居跡→『弥生式土器 最初の発掘地』→東大・安田講堂(10分休憩)→三四郎池→赤門→法真寺(樋口一葉ゆかりの「桜木の宿」)→本郷薬師→桜木神社→

B【午後後半コース】午後2時20分:地下鉄・丸の内線「本郷三丁目」駅改札口を出た所で集合→桜木神社をスタート(14:30)→『文京ふるさと歴史館』(宮原解説員?によるご案内30分)→樋口一葉住居地→伊勢屋質店→源覚寺(こんにゃく閻魔)→伝通院(新設「山門」休憩10分)→牛天神(北野神社)→後楽園・ラクーア(16:40)→

C【打ち上げ懇親会】(後楽園:【いごごちDINING たかの家】)(17:00〜)

従来は17kmほど歩いていましたが、自分の体力に合わせた参加が出来るようにして欲しいという依頼もあったので、今回は上記のように全行程凡そ15kmにして、Aから参加とか、@とAのみ参加とか自由に各自選べるように企画しました。これが功を奏したのか参加人数はこれまでの記録で26名の参加となり、なんと最後の打上には24名という予測を大きく上回る参加で大いに盛り上がりました。

今回の報告はコースに沿ってのレポートは止めにして、当日配布したコース別資料を中心に紹介します。

【1】午前中コース

@ 真性寺 : 
境内の左手に、高さ2m68cm、蓮花台を含めると3m45cmの大きなお地蔵様。これ【江戸六地蔵尊】といい、江戸御府内に6箇所造立されている地蔵尊の一つです。

 眞性寺の地蔵尊は江戸深川に住んでいられた地蔵坊正元という方が願主となって、宝永3年(1706年)造立の願を発してから14年間の間に、大凡同型の地蔵尊菩薩像6体を造立された中の一体で、4番目に作られた唐銅製の座像です。眞性寺の地蔵尊が完成したのは正徳4年9月(1714年)です。その他の六地蔵は、東海道の尊像として品川寺(第一番)、奥州街道沿いの東禅寺(第二番)、甲州街道沿いの江戸三大閻魔の寺として有名な太宗寺(第三番)、水戸街道沿いの霊巌寺(第五番)にあります。第六寺は廃寺となり消滅した千葉街道沿いの永代寺にありました。

A 「巣鴨」ってどんなところ?
「おばあちゃんの原宿」だから駅前マクドナルドの店ではポテトを“おいも”、チキンを“とりにく”と呼んでいる。店内には“シルバーシート”がある。東京で有数のピンクサロン街である。つい数年前までは国会議員などは「ここは穴場」として数少なく残っている料亭を使っていたらしい。

戦後久しく、無線関係を扱うものにとってはメッカ的存在で、巣鴨駅周辺には数多くの無線機器や電子パーツの専門店があった。ここから沢山のショップが秋葉原に進出した。「日本アマチュア無線連盟」の本部は今も巣鴨にあります。

     <巣鴨地蔵通りの賑わい>      巣鴨出身の有名人: 大原麗子、愛川欣也、
高木ブー、宮城けんじ(漫才)

B 高岩寺「巣鴨地蔵」はなぜ「とげぬき地蔵」なの?

江戸時代(1713年)、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。妻は深く地蔵尊を信仰しており、又四郎はその地蔵尊にすがりつくほかないと、毎日一心に病気平癒の祈願を続けた。ある日のこと、又四郎の夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙1万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影(みえい)」の始まりであるとされる。

その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩

薩の御影を飲み込んだ、針を吐き出すことができ、        <洗い観音への行列>
吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する。そ
こから他の病気の治癒改善にも利益(りやく)があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えない。

しかしこの高岩寺のご本尊のお地蔵様(延命地蔵)は秘仏につき非公開なのである。
ところが一方、本堂の脇に「洗い観音」が鎮座ましているが、これは見るどころか、タッチまで出来るのだ。石造の「聖観音像」で「洗い観音」と通称され、自身の治癒したい部分で観音様の同じ部分を洗うと、または濡れタオルで拭くとご利益があるという。昔はタオルではなくタワシで擦っていた為に磨耗が激しく、1992年に現在の像が製作され現在はタワシの使用は禁止である。毎日高齢者の行列が出来て賑わっている。

C 六義園 : 
5代将軍・徳川綱吉に仕えた川越藩主・柳沢吉保が元禄15(1702)年に築園した大名庭園。明治に入って三菱の創業者・岩崎弥太郎の別邸となり、昭和13年に東京市(都)に寄付。
11/22〜12/9まで紅葉がライトアップされる。

D 富士神社 
建立年は不明。拝殿は富士山に見立てた富士塚の上にある。江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。現在に至るまで「お富士さん」の通称で親しまれている。江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人(えどはっぴゃくやこう、こうちゅうはちまんにん)」といわれるほど流行した富士講のなかでも、ここは最も古い組織の一つがあり町火消の間で深く信仰された。火消頭の組長などから奉納された町火消のシンボルマークを彫った石碑が数多く飾られている。 初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と当時の縁起物として川柳に詠まれた。鷹匠屋敷跡は現在、駒込病院が建っている。

E 吉祥寺 : 
曹洞宗  諏訪山  吉祥寺 。太田道灌が江戸城築城の際、井戸を掘ったところ、「吉祥増上」の刻印が出てきたため、現在の和田倉門のあたりに「吉祥庵」を建てたのが始まりといわれる。徳川家康時代に水道橋際(現在の都立工芸高校一帯)へ移った。
明暦3年(1657)明暦の大火で焼失し現在地に移転。
関東における曹洞宗の宗門随一の栴檀林(せんだんりん)がおかれ多くの学僧が学んだ。
第二次大戦でそのほとんどが焼失し、現在は山門と経蔵だけが往時をしのばせる。


F 緒方洪庵(1810〜63):
江戸後期の蘭学者。岡山生まれ。江戸で蘭学を、長崎でオランダ医学を学び、後に大阪に出て蘭学塾(適適斎塾)を開き福沢諭吉、橋本左内ら多数の塾生を排出。江戸幕府の西洋医学所頭取となり尽力。著書に「病学通論」。

G 最上徳内(1754〜1836):
江戸時代後期の探検家。出羽の農家に生まれ、江戸に出て本多利明に入門、天文、測量、航海術を学び、幕府の蝦夷地調査に参加。シーボルトとの交流を持ち見聞を語った。著書に「蝦夷草紙」、「赤人問答」など。

【2】午後前半コース

@ なんで「須藤公園」と呼ぶのか?

須藤公園は、江戸時代の加賀藩の支藩の大聖寺藩(十万石)の屋敷跡。その後、長州出身の政治家品川弥二郎の邸宅となり、明治22年(1889年)に実業家須藤吉左衛門が買い取りました。昭和8年(1933年)に須藤家が公園用地として東京市に寄付、昭和25年(1950年)に文京区に移管されました。須藤家から東京市に寄付された庭園を生かした公園で、高低差のある台地と低地を巧みに生かした公園斜面地には、

クスノキなどの大木が豊かな緑をつくりだしています。またその緑を背景として、滝からの水が流れ込む池には藤棚が設けられています。斜面地はササを主体とした植栽となっていますが、野草も生育し、春には可憐な花を咲かせます。

A藪下通り  【観潮楼歌会】

森鴎外が明治25年に団子坂上から右に入る藪下通りに2階建ての居を構えました。この2階からは品川沖の海面が見えたことより「観潮楼」と命名されました。

与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の「根岸」派歌壇の対立があり、それを見かねた鴎外は両派の融和策として、それぞれの代表歌人を「観潮楼」と名づけた自宅に招いて歌会を催しました。
歌会は明治40年(1907)3月から毎月一回、第一土曜日の夕方から夜にかけて定期的に行われ同43年6月頃までに及んだという。当初 は両派の領袖、与謝野鉄幹・伊藤左千夫などの少数であったが、次第に 「新詩社」系 の北原白秋・吉井勇・石川啄木・木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉・古泉千樫 らの新進歌人が加 わ り、主人の鴎外を中心に熱心な論議を交わされました。

特筆すべきは、北海道での新聞記者生活に見切りをつけて上京したばかりの啄木が、鉄幹に連れられ出席したのは明治41年5月のこと。啄木の人生は短く、その後4年満26歳の生涯でした。

主催者、鴎外の夢みた両陣営の融合は成功しませんでした。しかし、鴎外の短歌に寄せる情熱は時代的にも、そこに溢れた西欧の象徴的抒情性は白秋・茂吉・杢太郎ら若い人々に多大な刺激を与え、彼らの交流を深める動機となったといえます。また鴎外 の真摯な詩精神が、その主義の違いを越えて多くの歌人に影響 したことを思えば、この歌会の意義は大きいといわれています。

B 根津権現 :

日本武尊が1900年近く前に創祀したと伝える古社で、東京十社の一社に数えられている。境内はツツジの名所として知られ、森鴎外や夏目漱石といった日本を代表する文豪が近辺に住居を構えていたこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されている。

社殿は宝永3年(1706年)の創建で、宝永2年(1705年)江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子に家宣(第6代将軍)が入ったために元の屋敷地は献納されて天下普請されたもので、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされている。社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。 また、例大祭は天下祭(江戸の代表的な祭礼)の1つに数えられている。

C弥生土器の発掘場所

左の図のごとく発見場所には@からCまで諸説ありますが、本当の発見場所は謎となっていました。

明治17年東大の学生であった「坪井正五郎」(のち人類学教授)、「白井光太郎」(のち植物学教授)、「有坂昭蔵」(のち造船学教授)の3人が根津谷で赤焼の壷を発見しました。この土器が明治29年になって、縄文土器とは異なるものと認められ弥生土器と命名され、考古学上では「向ヶ丘遺跡」と言われます。

しかしこの時点ではその発見場所が明確にされないまま、上図のように@〜Bの三ヶ所が推定されていました。
ところが、昭和49年春、根津小学校の6年生児童三人が上図Cのところで、土器片や貝殻を発見、調査をした結果、これが弥生土器と判定され、現在ではこのCが最初の明治17年の発掘場所に近いのではと考えられています。

その理由として;
(1)向ヶ丘からは「不忍池」が見えたと言われているが、@〜Bの場所からは不忍池は見えない。
(2)上図にあるように明治時代はCの場所は陸軍の射的場であり「立入り禁止地域」であった為に、発見者の3人は当時自由に入れた精神病院建設予定地であった@、B付近と言っていたのではとの推測もある。

D 樋口一葉(1872〜96):

● 5000円紙幣をジ〜〜ット見ても確かに美人の相だ。彼女が小説を書き始めるきっかけは「半井(なからい)桃水」という小説家で、これまたビックッリする美男子!和歌は後楽園そばの安藤坂にあった中島歌子の「萩の舎」に入門。

● 彼女はすごい近眼のため細かな仕事が不得意で、小説で当たれば大きな金が入ると小説家を決意し20歳で「枯れ尾花一もと」を執筆。しかし何と明治29年11月23日、24歳8ヶ月の若さで死去。(残念!)

● 一葉にもいくつかの縁談話があったようだが、その一つ、夏目漱石の長兄・大助を結婚させようとの話が持ち上がったが、一葉の父が漱石の父(直克)にチョクチョク借金を申し込んでくるので、直克が「上司と部下というだけで、これだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚関係になったら何を要求されるかわかったものじゃない」と言って破談にしたという。

●【一葉の一生】
一葉の生涯はタッタの24年8ヶ月と短いのだが、4つの時代に分けられるという。

(1)東京・内幸町で生まれる。家庭は引越しが多く生涯で12回引越している。4歳〜9歳までは本郷・法真寺の脇に住む。幼少の頃から学校の成績はトップクラスであったが母多喜の反対で進学を断念し、父の手づるで中嶋歌子の歌塾「萩の舎」に通ったもっとも安定していた時代。

(2)そして長兄と父則義の死後、17歳から女戸主として家計を背負い、お金を稼ぐには小説家がいいと「半井(なからい)桃水」の指導を受けていた時代で本郷菊坂在住(一葉の井戸を見学)。菊坂にある伊勢屋質店を利用していた生活の苦しい時代。

(3) しかし桃水との仲が噂され桃水の隠れ屋に通えなくなり、浅草の龍泉寺町に移って荒物駄菓子店を始めて「たけくらべ」を書いた“塵の中での闘い”の時代。

(4)しかし龍泉寺町の店は経営不振で廃業に追い込まれ、やはり小説のみで生計を立てようと本郷丸山福山町(現在の西片)に転居して“一葉文学”として花開いた時代。この地にてわずか24歳にして、肺結核で他界。その直前の夏書いた雑記の中で、幼少期を過した本郷・法真寺の脇の家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんでいたと言う。

【3】午後後半コース

@ 酒屋『高崎屋』

中山道と日光御成道との分岐点(本郷追分)付近に酒屋「高崎屋」があり、「現金安売」商法で財を成し周辺の武家屋敷や町人の得意を広め、さらには北部の農村地帯や板橋、川口などの宿場町に販路を広げ大成功を収めた結果、巨大な敷地に大邸宅を完成している。左の絵図は「文京ふるさと歴史館」に展示されているその大邸宅の姿です(文京区指定文化財)。しかし「天保の改革」で倹約令が発せられると、高崎屋長右衛門(二世牛長)は屋敷の縮小を決断し、後世にこの広大な屋敷を伝え残そうと長谷川雪旦に描かせたもの。

絵図の右下に書かれている文字は、二世牛長(ぎゅうちょう)が「高崎屋」がどうしてここまで成功してきたか、そして何故この屋敷を縮小するかの理由を書き綴っているのである。

さてこの絵図に就いて話題となるのは、この広大なる敷地は今のどこにあたるかに就いてである。右上の太陽は朝日であるなら、正面が東、するとこの敷地は現在の東大敷地の一部分ということになろうか。現在でも「高崎屋」酒屋店は本郷追分の角地にあるが、それはこの絵図の左下隅に蔵のように描かれている家屋がそれに当たるのかも知れない。そう考えると左下に描かれている街道は日光御成道になり本郷追分が真ん中辺の文字で隠れている部分にあたるのだが。

A「源覚寺」がなぜ「こんにゃく閻魔」と言われるの?

宝暦年代(1751〜64年)ころ、眼病を患った老婆が閻魔大王に21日間の祈祷を行ったところ、夢の中に大王が現れ「願掛けの満願成就の暁には、私の両目の内、一つを貴方に差し上げよう」と言われたそうです。満願の日に老婆の目は治りました。以来大王の右目は盲目となりました。老婆は感謝のしるしとして好物の「こんにゃく」を断ち、それを供え続けたということです。この頃から源覚寺の閻魔さまは「こんにゃく閻魔」と呼ばれるようになり、

眼病治癒の閻魔さまとして人々の信仰を集めています。

B江戸の三霊山「伝通院」と永井荷風

徳川家康の生母「於代の方」が京都・伏見城で死去し、家康は母の遺骨を遺言通りに江戸へ運び大塚の「智光寺」で火葬し、位牌は安楽寺(愛知県蒲郡市)に置かれ、遺骨をこの地に移し母の法名から「伝通院」とした。その後徳川家ゆかりの女性や子供が多く埋葬され、将軍家の帰依が厚かった。芝の増上寺・上野の寛永寺と並んで「江戸の三霊山」と称された。文豪「永井荷風」は、明治12年(1879年)に伝通院の近くで生まれ、明治26年(1893年)までここで育

った。その思い出は、随筆『伝通院』(明治42年頃)を生み出し、パリにノートルダムがあるように、小石川にも伝通院があると賞賛した。また、荷風は明治41年(1908年)に外遊先より帰国して数年ぶりに伝通院を訪れたが、その晩に本堂が焼失した(3度目の大火)ため、同随筆の中で「なんという不思議な縁であろう。本堂は其の日の夜、追憶の散歩から帰ってつかれて眠った夢の中に、すっかり灰になってしまった」と記している。昭和20年のアメリカ軍の空襲で山門、本堂などすべてを焼失。昭和24年に本堂は再建されるも「山門」は何と今年(平成24年)3月に完成したのです。
C 北野神社(牛天神):

縁起によると、源頼朝が1184年東征の際にここの入り江の松に船をつなぎ波風が静まるのを待つ間、夢に菅神(道真)が牛に乗って現れ二つの吉事があると告げた。

武運満足の後は社を営むべしとあり、夢から覚めると牛の形をした石があった。その後、頼家が生まれ、平氏を西に追うことができ、ここに社殿を造営した。また、境内の太田神社は、かつて貧乏神といわれる黒闇天女を祀っていた。小石川にある旗本が住んでいて、不幸はなくとも貧乏であったが、ある晩夢の中に貧乏神が現れ、「長い間居心地がいいのでこの家にいたが、このたびよそへ移ることにした。赤飯と油揚げを供えて祀れば礼として福徳を授ける。」とあり、その通りにすると万事よいことづくめで豊かになった。旗本は神像を彫り牛天神に納めたと伝わる。

【4】最後の打上:懇親会

最終地の後楽園・ラクーアの公園広場に到着したのは午後5時、ここで「懇親会」に参加の人数を確認する。何と何とお一人がご都合で帰った以外残りの24名が全員参加。ラクーアから白山通りを挟んで反対側の「いごごちDINING たかの家」に参上、その後は写真の通りビール、ワイン、日本酒、芋焼酎でガブガブ!メンバーの中の穂波君とジェミーが目出度く結婚予定とのグッドニュースに皆さん"カンパ〜〜イ!"と歓声をあげた。それから有志で近くの「カラオケ」へ。帰路に向ったのは23時でした。とっても長い長い一日でした。ご苦労さまでした。

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