第17回 【文京を歩くかい】  <本郷台の歴史と文化を訪ねて>

夏のど真ん中でのウォーキング。正気の沙汰かと疑われそうなタイミングなれど、4〜5名のキャンセルが出たものの、なんと14名の参加を頂きました。

ジリジリと太陽光線が強くなる午後1時20分、地下鉄丸の内線「本郷三丁目」駅前に集合。今回のテーマは<本郷台の歴史と文化を訪ねて>という事で、文京区域でも最も江戸時代の歴史や文豪の関係した所が集中している「本郷台」を歩きました。そして名所旧跡のガイドを「文の京 観光ガイド」にお願いし、参加者を2組に分けてそれぞれにガイド役の方およびサポートの方を付けて頂き、安心して団体行動が出来、大変に勉強になるウォーキングとなりました。

◆左図の番号案内

@桜木神社
A本郷薬師堂
B法真寺
C東大・赤門
D三四郎池
E安田講堂
F東大・正門
G徳田秋声旧居
H蓋平館跡
I菊富士ホテル跡
J男女平等センターK大楠の木
L喜之床跡
Mかねやす
N麟祥院

        <桜木神社>

それではいよいよ「本郷三丁目」駅前より出発です。すぐに春日通に出て信号を渡ると目の前が「桜木神社」。本当に小さな神社でウッカリ通り過ごしてしまいそうな佇まいだが、御祭神が「菅原道真」というから由緒ありそうだ。そもそもは15世紀に太田道灌が江戸城を造る際に京都北野天満宮より勧誘して城内に創建したのが始まりという。その後徳川2代将軍「秀忠」の時に湯島台(現在の東京医科歯科大学の敷地)に有った「旧桜馬場」に遷座、そして5代将軍「綱吉」の時に湯島聖堂を中心とする「昌平坂学問所」の設立にあたり、現在の本郷三丁目に遷座したという。

神社の裏側から本郷三丁目交差点に出る途中に「本郷薬師堂」の祠を通過する。江戸時代はこの地一帯は「眞光寺」の敷地で、マラリアが大流行した時に眞光寺の坊さんの夢枕に薬師如来が立ち「ドブをさらい、草をむしり、水はけを良くし、清水を使うように」とお告げを実行したらマラリア流行を鎮静化したことより、住民たちがお礼の気持ちで「薬師堂」を造ったという。ここでの縁日は「王子権現」の
縁日と人気を二分するとも言われ大いに賑わっていたそうで、現在の「本郷薬師堂」の前の道幅がやけに広いので、江戸時代も露天商が沢山出て相当に混雑していたイメージが湧いてくる。

そこから本郷三丁目に出て本郷通りを左に暫く行くと左側に「法真寺」が現れる。(右写真は春の法真寺)

この法真寺本堂に行く手前左側に樋口一葉が幼少期(3〜8歳)に住んでいた「桜木の宿」という家があり、庭に桜が有った事から一葉は自分の作品の中でこの家を「桜木の宿」と呼んで懐かしんでいた。毎年ここ法真寺では「一葉忌」(11月23日)が開かれ多くの一葉ファンが集まって来る。

さて法真寺から本郷通りに戻って来ると、通りの反対側に東京大学の「赤門」が歴史の重さを背負って物静かに建っている。(左写真)

建立が1827年で江戸徳川11代将軍「家斉」の時代、家斉の娘「溶姫」が前田家13代「斉泰」に嫁入りした際に「御守殿門」として朱塗りで造られたことより「赤門」と称された。大事な門として加賀藩の消防隊「加賀鳶」によって門は大火から守られ、関東大震災も乗り切り、太平洋戦争の際にも米国

から「東大は焼くな」の指令により大空襲からも守られ190年間ジ〜〜ットここで歴史を眺めている事になる。東大の敷地は「加賀前田家上屋敷」の有った所で、その中に「回遊式築山泉水園」が造られ、その真ん中に「心字池」が有るが、夏目漱石の小説「三四郎」の中で小山三四郎と里見美禰子との出会いの場としてこの池が登場し、それが有名となりいつの間にか「三四郎池」と呼ばれるようになった。三四郎池を半周ほど回って「安田講堂」の下に有る「学生食堂」の所で最初のトイレ休憩を取った。
東大・安田講堂前にて集合写真

参加者(敬称略)

後列左より
中村Y、小津、吉本、山崎、宮川、
         岩井T、中村G

前列左より

八木橋、松本、辻内、中西、岩井W
         宮原、中村W

休憩の後、東大「正門」を抜けて再び本郷通りを渡って森川町の路地に入る。その角に東大生にカレーやハヤシライスで人気の「万定(まんさだ)フルーツパーラー」が有る。大正3年の創業でそのままの姿で現在も営業しておりレトロな雰囲気を醸し出している。この付近は本郷通り(中山道/日光御成道)に沿って「御先手組」が配備されていて街道の警備に当たっていた。その御先手組を指揮っていたのが「森川金右衛門」で今の東京大学・農学部の所に大きな屋敷を構えており、現在の町名「森川町」はここから来ていると言う。

森川町から南西に歩を進め「徳田秋声旧宅」の前に出た。 彼は昭和18年11月までの38年間をここに住み自然主義文学作品「荒所帯」、「黴」、「あらくれ」など名作を生み、生まれは石川県・金沢で、同世代の金沢出身の「室生犀星」、「泉鏡花」と3人合わせて「金沢の三文豪」と言う。
この後いくつかの細い路地を折れながら「石川啄木」ゆかりの地「蓋平館跡」そして「赤心館跡」を訪ねた。啄木が明治41年北海道から創作生活に入る為に上京し、まずは赤心館に下宿するも、4か月で下宿代が滞り「金田一京助」の助けを借りて新築の「蓋平館」別荘に移った。三階の三畳半の部屋から「富士が見える、富士が見える」と大いに喜んだと言う。そんな啄木の生活路であった路地を歩きながら思いに耽っていると赤心館跡から路地一つ折れた所に次の目的地「菊富士ホテル跡」があった。そこの説明板によれば、『明治40年に岐阜県・大垣出身の羽根田幸之助・菊江夫妻がこの地に下宿屋「菊富士楼」を開業、大正3年になって「東京大正大博覧会」
(上野公園)開催による外国人客を見込んで「東京ホテル」、「帝国ホテル」に次ぐ「菊富士ホテル」を増築した。(上の写真は大正10年ころのホテル全景) 地上3階地下1階、屋上にはイルミネーションが輝き夜の菊坂名物となった。昭和20年の東京大空襲で炎上。この間止宿者として、宇野浩二、尾崎四郎、宇野千代、石川淳、竹久夢二、大杉栄、月形竜之介など多彩な人物が止宿していた。』

この地は現在「オルガノ(株)」の敷地となっているが、菊富士ホテル跡地から一旦「菊坂通り」に出てそのまま真っ直ぐ「本妙寺坂」を上がる。この坂の途中右側に「文京区男女平等センター」のビルが建っているが、ここでトイレ休憩を取る。ビル内は冷房がしっかりと効いていて猛暑の中を歩いてきた皆さんがホットして休息を取っていた。それにしても文京区は“男女不平等”が酷いので、こんな仰々しいビルをおっ建てているのだろうか?

ところが昭和59年このビルを建てる際にこの地の発掘調査が行われ大変なものを発見してしまうのだ。それはおよそ1万8千年前の「黒曜石の矢じり」であり、これは縄文時代の前の旧石器時代にすでにこの地に集落が有った事を物語っている事になる。そしてこの時代の黒曜石と言えば長野県の諏訪湖から佐久に抜ける「中山道」沿いの「和田峠」産であろう。しかし驚かされたのは、旧石器時代に和田峠と本郷台地とを結ぶ道がすでに存在してことだ。

文京区男女平等センターにて10分ほどの休憩の後、本郷小学校(旧真砂小学校で私の通った学校)の前を右に折れ、「文京ふるさと歴史館」に突き当たって左へ曲がった。ここを右に行き「炭団(たどん)坂」を下ればそこが菊坂下道でその一角に「樋口一葉」の旧居があるが、我々は左に曲がって「春日通り」を突っ切り直進するとその左に「弓町本郷教会」が現れる。その先には道路に追いかぶさるような大木「大楠の木」(左写真)が見えている。ここを訪れた司馬遼太郎は『街道をゆく』で次のように書いている。「その甲斐庄喜右衛門の屋敷跡に、今も一樹で森をおもわせるほどのクスノキがそびえている。」このクスノキは樹齢600年と言われているが、今から600年前とは南北朝の内乱時代で「楠木正成」たちが鎌倉幕府に反発する動きを強めていた時代である。「甲斐庄」とは室町時代、楠木正成の弟「楠木正季」の子孫が河内の甲斐庄を領有したので甲斐庄と名乗ったが明治維新後に楠木と改姓したという。大正時代に入って屋敷は売却され、その後大正3年に豪壮な西洋館が立ち、1階がレストラン「楠亭」となりステーキ料理が有名で今もレストランは存在する。

この後石川啄木ゆかりの地「喜之床(きのとこ)跡」を訪ねる。啄木が北海道から上京したのが

明治41年5月、そして先ほど訪ねた「赤心館」に下宿し次に「蓋平館別館」に移った後、明治42年6月には朝日新聞社の校正係としての定職を得て、「喜之床」という新築間もない理髪屋の二階二間を借りて、久しぶりに家族揃っての生活が始まったという。何と北海道から上京してからまだたったの1年しか経っていない。 下の「喜之床」家屋の写真は昭和55年に犬山市の「明治村」に移築保存されているもの。      
目の前の「春日通り」を今回の出発点であった本郷三丁目に向かう。本郷三丁目の交差点の角にある「かねやす」が本日の「文の京 観光ガイド」の最終地である。江戸時代(享保年間)に「兼康祐悦」という歯科医が「乳香散」という歯磨き粉を売り大繁盛、いつも客が長い行列を作っていたと伝えられている。

ここで観光ガイトの方とお別れし、我々は春日通りを上野広小路方向に歩を進め、本富士警察署前を通過するとすぐ左手に「春日の局」が眠る「麟祥院」が現れる。春日の局といえば徳川三代将軍家光の乳母であり当時の大奥をぎゅうじっていた。春日の局の墓は卵塔の形をしており四方に穴が貫通し、この穴は死後も政道が間違わないように見張っているのだと言われている。

この後最後の立ち寄り地「湯島天満宮」に向かって春日通りを進む。真正面に大きな鳥居が見えて来るが、そこが湯島天満宮で春日通りは緩やかな下りになるが、その坂道を「切通(きりとおし)坂」と呼ぶ。石川啄木は朝日新聞社からの夜勤の後の帰り道、真夜中にこの切通坂を上って家族の待つ喜之床の家に帰っていたという。その時、次の歌を詠んでいる。

       <麟祥院にての集合写真> 一番後ろから(敬称略)

岩井W
岩井
小津
中村Y
辻内
中村G
中村W
八木橋
山崎
松本
吉本

<二晩おきに 夜の1時頃に切通し坂を上りしも 勤めなればかな>
この歌は明治43年の作であるが、その2年後に胸の病で他界している。享年26歳という短い人生であった。湯島天満宮はそもそも南北朝の時代に湯島の郷民が老松の元に祀ったと言われているが、「太田道灌」が社殿を興し、徳川家康が江戸入りの際に神領5石を寄進し、神田明神に次ぐ草分け神として江戸庶民から信仰された。ここの御祭神も「菅原道真」であり「学問の神」として受験シーズンには多くの学生が合格祈願に訪れる地として全国スケールで有名である。

何と今回のウォーッキングは菅原道真に始まり、菅原道真で締めたことになる。そして僅か26年で生涯を閉じた石川啄木のゆかりの地を歩きじっくり啄木の生活の一面を味わったように感じるなど、本郷台の素晴らしい面を沢山知ることが出来て充実した一日だった。

この猛暑の中、ウォーキングを楽しませてくれた「足」に対して感謝する意味で太田久紀(きゅうき)作『足を洗う』を以下に掲載させて頂いてこのウォーク記の「むすび」としたい。


             『足を洗う』     太田久紀 作

辞書を引くと、「足を洗う」とは「良くない仕事をやめて正業につく意、また単に今までの職業をやめる意」とでている。

しかし、ここでいうのは、そのことではない。

風呂で身体を洗うときには、まず足から洗うものだということである。

学生時代、銭湯で先輩の背中を流しながら教わったことである。

先輩は、師匠から教わったことである。

なぜ足から洗うのか。

それは足のふだんの労苦を忘れぬためである。

足は、私の全体重を支え、生活のすべてを支えていてくれる。いろいろ無理をさせることもある。足は不器用である。黙々として働く。控え目である。手のように派手に立ち回らない。うっかりすると忘れられてしまう。黙って苦労しているのだ。

だから風呂に入るときくらいは、忘れないでまず最初に洗うのだと古人は教えたのである。

順序からいえば、上から下へというのが効率的な洗い方かもしれないが、しかし古人はその合理性を取らなかった。

それを取らないで、足への、あたたかな思いを尊重した。

眼前にあって相(すがた)あるもののみに心をとらわれないで、その背後にある眼に見えぬものを見抜き、それを大切にする。そういう眼を忘れるな、古人はそう教えるのである。

仏教では、そういう心眼ともいうべき心の態度を「観」という語で表す。「観」とは貫窄(かんさく)・観達の義という。目に見えるものの背後を見抜き、観察力をそこまで到達させる。

相に眼を奪われぬことである。古人は、それを足を洗うという日常の経験を通して教えたのであろう。足をさすりながら、さあ、足から洗おうと思う。

「観」を忘れるなよ、と自分に言い聞かすのである。           

<付録>

恒例の打ち上げパーティーです。

上野広小路の九州料理「博多道場」にてガンガン楽しみました。ここで次回秋の「文京を歩くかい」の開催内容と日程が決まりました。

10月10日(火)

文京区の西を歩き打ち上げは神楽坂のライブハウス「The
Glee」でジャズを聴こう!という企画。

乞うご期待!!

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