『第7回 文京を歩くかい』を終えて

もう7回目を迎えます。今年は初めて年2回の開催になりました。参加者の中から年1回では少なすぎるので、是非 年2回にとの強い要請を受けて7月に続き今年10月23日に実施させて頂きました。そして回を重ねるごとに参加人数が増えて今回は18名の参加になりました。その都度皆さんから「文京区を歩いてはいないではないか」と問い掛けられますが、私は次のように返事しています。

「もう、文京区の中で歩く所が無くなりました。従ってこれからは“文京”を『ぶんきょう』と読まず、『ふみのみやこ』と読んでください」と。

今回のテーマは『旧東海道を歩いて歴史に触れよう!』でした。行程は、大森海岸から旧東海道に沿って北上、品川宿を通過して三田までのおよそ15kmです。そして今回はNPO江戸連理事のNI氏による完全ガイド付きで「運動」+「勉強」という大変に贅沢なイベントでございました。それではどのような一日であったかを回想してみましょう。

今年は記録的な猛暑でしたが、10月に入っても秋晴れの天気は殆ど無くグズグズした陽気が続いておりました。しかし10月23日(土)は信じられないほどの秋晴れの朝を迎えたのです。予報では翌日曜は昼頃から雨模様と言うのですから何とラッキーなことでしょう。集合場所は京浜急行「大森海岸」駅前に10時30分でしたが、20分頃には全員が集まり早速200mほど離れた「しながわ区民公園」に向けて出発。公園の入口で、皆さんで挨拶、資料の配布などを行い、私より「〜と、言うわけで今回は16人でスタートでございます。各自の自己紹介はしませんので、是非歩きながらオシャベリをして交流を図ってください」というと、YO氏より「宮原さん、さっき数えたけど、ここには15人しかいませんよ。」「えっ!」と驚いた私。リストをチェックすると何と初参加のYA氏を置いてきてしまった。きっと彼は10時29分着の普通電車で来たのかも知れない。皆さんには公園入口のベンチで待っていてもらって、私は大森海岸に急いで戻りました。走っている最中に時計を見ると10時40分を過ぎています。初っ端から何と言うチョンボ。こんなことではイベントのリーダー役として失格だ、と自分を叱りながら駅に着くも姿は見当たりません。「やっぱり、ダメだったか!」

<しながわ区民公園にて>
ハアハア言いながら再び公園の入口に戻り、この状況を立会川からガイドをお願いしているNI氏に連絡を取ると、何とYA氏は品川宿交流館からジョインする事が判明して、まずは一安心。以前にそのようにメールで連絡を頂いていながら私の勘違いであったのだから、公園入口から大森海岸駅までの往復運動はその“バチ”なのでしょう。兎に角私に取っては朝一番からの冷汗ものだったのです。気分を切り替えて公園に入って早速全員での記念写真。それから今回のひとつの目玉、木々の生い茂った林の中を一列になって歩き森林浴をバッチリと楽しみました。都会の一角にこんな場所がある事が不思議であり、嬉しくなってきます。私はくねくねと木々の間を一列になって歩いている皆の姿を手持ちの小型デジカメに収めました。
<森林浴を楽しんだ小道>
15分ほど木々の中を歩いて行くと公園の北口門にたどり着きます。ここから旧東海道に出てすぐに立会川を跨ぐ「浜川橋」を渡ります。橋の袂にこの橋に関する解説板が立っていてそれによれば、この橋は別名「なみだ橋」と呼ぶそうです。その昔「鈴が森刑場」に連れられて行く罪人を見送ろうと付いてきた縁者がここで涙を流しながら別れた橋というのがその謂れだそうです。
この解説板の脇から立会川に沿って海側にチョイト下りますと、「浜川砲台跡」にぶち当たります。坂本竜馬がこの砲台で“黒船来襲”の警備に当たっていたと言います。今では埋立地が広がり高速道路が横切っており、砲台の在った地からは海は全く望めません。目の前には「勝島運河」が川のように広がっていて、その土手に沿ってしばらく北上します。この土手一帯を「しながわ花街道」と呼び、地元の企業や町会が花々を植えてくれているようで、この時期はキバナコスモスが真黄色に土手を覆っておりました。花々に囲まれて最初の休憩を取りました。
<浜川砲台跡>
OO氏の奥様がお持ち頂いたお菓子が皆様に配給され、爽やかな潮風に触れながらのんびりとしたひと時でした。
<勝島運河の土手(しながわ花街道)にて休憩>
さて12時が近づき、京浜急行「立会川」駅に向かいます。ここが本日のもうひとつの目玉、旧東海道に就いてのガイドさんとの待合せ場所なのです。駅前にある坂本竜馬の像が立つ「新浜川公園」にてガイドのNIさんから本日の資料が皆さんに配布されました。この内容の濃い分厚い資料に皆さんビックリ!何と、何と、中に綴じられている資料に、今日これから歩くコースが、現在の地図と江戸時代の地図とを比較出来るように編集されていて、A4サイズの紙を4枚繋げたような縦長の地図で、それもフルカラーの印刷でした。この地図資料から、江戸時代の東海道に加え、「古代の東海道」そして「中世の東海道」のルートを知ることが出来たのです。NIさんには本当に感謝せねばなりません。
<立会川駅前の公園にてガイドさんから詳細な資料を頂く>
NIさんのご案内で「来福寺」そして「大井公園」の脇にあった「山内容堂の墓」次に「海安寺」に寄りそこから第一京浜(国道15号線)を横切って「青物横丁」駅前を通過します。そして再び旧東海道に出て少し戻るように右折して「品川寺(ほんせんじ)」に寄りました。この寺は「江戸六地蔵」の一番寺だそうで、門を入ると左手にある鐘は“洋行帰りの梵鐘”として有名だそうです。

江戸の末期、何故か忽然とこの名鐘が姿を消してしまいましたが、慶応3年(1867)パリでの万博の時、そして明治4年

(1871)オーストリア/ウィーンでの万博でもこの梵鐘が陳列されていたそうで、調べて行くとスイス/ジュネーブ市の美術館に保管されている事が判明し、ジュネーブ市民のご好意で昭和4年(1929)に品川寺に戻って来たそうです。
<品川寺(ほんせんじ)にて梵鐘の説明を聞く>
さて暫く旧東海道を北に上って参りますと目黒川に出まして、そこを左にチョット折れて赤い欄干の「鎮守橋」を渡りますと、こんもりと木々に覆われた「荏原神社」の敷地に入ります。この寺は「東海七福神」の1社で恵比寿さまを祀っており、私たちが訪れた時は本殿では丁度結婚式が行われておりました。ここから歩いて3〜4分の所に今回の昼食休憩場所である「品川宿交流館」があります。昼食は近所から取り寄せた特製弁当に舌鼓を打ちます。しかし午後参加組みが14:00新馬場駅前から合流ですので、わずか30分ほどと慌しい昼食で早速出発となりました。
さて午後のコースは新馬場駅前の第一京浜道路沿いにある「品川神社」から始まりました。この神社は山のてっ辺に鎮座ましているようで、大鳥居を潜って本殿に行くまでの階段の斜度がこれまた凄い。この神社は源頼朝が海上交通安全と祈願成就の守護神として“品川大明神”を造ったのが始まりだそうで、確かにこのように山のてっ辺なら海を望む灯台のように最適な場所であったのでしょう。この神社の裏側にひっそりと「板垣退助のお墓」がありました。ここで午後からの参加組みを交えて全員での記念写真をパチリ。
<板垣退助の墓の前で集合写真>
さて品川神社の急階段を下りて再び第一京浜に出て暫く品川駅方面に向って歩きますと、すぐに左に入る路地があります。これが次の御殿山に抜ける近道なのですが、ガイドさんによりますとこれが「緒明横町」と称する昔から有名な小道だそうです。この道は緩やかな上りとなり「権現山公園」に突き当たります。この公園の反対側は国鉄の線路で丁度JR東海道線・京浜東北線と山手線・新幹線とがそれぞれ二方向に分かれるところになっています。この公園から線路にそって少し下りますとJRの線路を跨ぐ「御殿山橋」に出ます。ここは東海道新幹線、東海道本線、京浜東北線、山手線、横須賀線が走っていて数分間隔で電車が通過するので“鉄道マニア”にはたまらない橋なのです。私達も新幹線が通過してゆく迫力を橋の上から感じ取ることが出来ました。

この橋を渡り切りますとすぐ右に「御殿山庭園」が広がります。しかしこの御殿山には巨大なビルが建っておりまして、中は一流企業の高機能オフィスや高級賃貸住宅となっているそうですが、この森コンツェルンの高機能複合都市開発は今ひとつ私にはシックリこないのです。つまりどんなに自然を取り入れていると言ってもどうしてもすぐに飽きが来てしまう人工的空間に感じてしまうのです。しかし御殿山庭園が一般に自由に開放されているところは、勝ち組集団の御殿として立ちはだかるだけでは無く、負け組みに少しは対処している点がこころの救いでありましょうか。
<御殿山庭園内でガイドの説明を真剣に聞く>
庭園を抜けますと、今度は古代・中世の東海道と言われる高輪の高台を旧東海道と平行に走っている道を歩きます。「原美術館」の前を通過し「八つ山の坂」に出てそれを突っ切ります。次にアメリカン・クラブの前を通り、暫く行きますと“グランドプリンスホテル新高輪”のホテルに突き当たります。この突き当りを右に坂を下りて行きますと品川駅に出ますが、我々はそこを左折、暫く行くと道は大きく右に曲がりますが、その左手に「カトリック高輪教会」があります。


高輪三丁目のT字路に出ますと、その右側は広大な敷地が荒地になっており、その隅っこに衆議院高輪議員宿舎があるらしいのですが、草ボウボウの荒地を見ていると何か現在の政治の無力さを感じてしまうのです。
味の素高輪研修センターと書かれた風変わりな建物の脇を右に入り、光福寺の前を通過して高輪プリンスホテルの前に出て、その斜め前方にある左に入る細い階段を下りますと「高輪公園」にたどり着きます。この公園は側に保育園があるせいか、大勢の子供達が砂場やブランコに乗って遊んでいますが、外人の子供達が多いのが特徴でしょうか。やはりこれが場所柄なのでしょう。

この公園でトイレ休みを取った後、チョイト小道を下りますと直に「東禅寺」に突き当たります。この寺は安政5年(1858)にイギリスの公使館として使用されたそうですが、江戸幕府がペリー来航で遂に開国を宣言したころ、尊王攘夷派である水戸天狗党が、この東禅寺を襲撃した(1861)ことでも知られた、その当時では物騒な寺であったようです。確かにデ〜ンと構えた横長な建物はイギリスの公使館として利用される風格が十分にあるように感じられました。

<江戸末期、イギリスの公使館であった東禅寺の前で>
さて東禅寺の次は赤穂浪士の墓のある「泉岳寺」に行きますが、この付近は寺町で細い道がクネクネと入り組んで行き辛いのですが、何とか最短の道で行こうと挑戦しました。そうすると思いも掛けないものに出っ喰わすものです。まずは東禅寺の門を出てすぐ左に入ると道幅が2mとない狭い坂があります。ここを「洞坂(ほらさか)」と言うそうです。坂名由来は昔この地域を「洞村」といい、その昔この辺が窪地のため洞と言ったとか、あるいはこの辺でほら貝が採れたからとも様々な説があるようです。この洞坂は上り切る手前で直角に右に折れ、「桂坂」の中腹に出ます。何とも魅力有る坂道でした。

桂坂に出て50mほど上り最初の信号を渡って真っ直ぐ路地を入りますと高輪幼稚園があり、そこからまた狭く急激なS字に曲がった下り坂があります。ここを一挙に下りますと泉岳寺前児童遊園に出ますが、その先に「泉岳寺」の中門が見えてきます。ここを潜りますと右側にお土産や並んでおりまして直に「山門」があり、その脇に大石内蔵助銅像がデ〜ンと建っておりました。ここで20分の休憩・自由時間を取りましたが、皆さん四十七士のお墓を訪ねていたようです。

この四十七士墓所の入口に古い門がありますが、これは鉄砲洲にあった浅野家の上屋敷の裏門だったそうで、明治時代にここに移築したそうです。この風流な門を潜りますと小さな小屋が建っていてそこで七輪で火を起こし線香一束を100円で売っています。この線香一束は四十七士の墓前にそれぞれ数本ずつ置いてお参りをするためです。実はここの墓数は48有るそうです。その一つは「萱野三平」のもので、三平が鉄砲洲の浅野家上屋敷で働いていた時に“松の廊下の刀傷事件”が起き、その日の内にその知らせを持って早籠で赤穂に向った人物で、その後自分も四十七士の仲間入りを切望するのですが、父親の大反対を受けます。萱野家は遠く紀州家と縁戚があり将軍家派に当たり、吉良家も将軍家である事より、吉良上野介討ち入りに三平が参加すれば必ずしや萱野家に災いを及ぼすと言うのが父親の反対理由。三平はその狭間で悩み、遂には「忠ならんと欲すれば孝ならず。孝ならんとすれば忠ならず」と苦しい胸のうちを訴え割腹して果てたそうで、これが48墓ある背景だそうです。

<泉岳寺・四十七士の墓所への入口にある門>
泉岳寺を出たのは午後4時過ぎで、もうこの時期になりますと、うっすらと暗くなっておりました。この時一つの出来事が起きました。私はデジカメで動画を撮っていたものですから思ったより早く電池切れを起こしました。そこでMA氏とHA氏に、済まないがこれからの写真、および打ち上げの時の写真を撮ってもらえないかとお願いしました。

泉岳寺の脇を抜ける細道を歩いていると、突然私の携帯電話が鳴ります。「もしもし、MAですが、カメラの電池を買いに行っていたので、私一人置いてゆかれ迷子になっています。今どこを歩いていますか?」という内容でした。そこで私は今来た道を急いで戻りました。

MA氏と一緒になってから今度は皆さんに追い付こうと急ぐのですが、遂に今度は二人が一団と離れてしまい迷子状態になってしまいました。お互い携帯で位置確認をするのですが、どうしても会えません。結果として元に戻る形で合流することが出来ました。

この後 古代・中世東海道に出て暫く行くと左「魚藍坂」右「伊皿子坂」の交差点に出てそこを突っ切り三田に向って北上します。この辺一帯には沢山のお寺が密集していて寺町を形成していますが、OO氏の菩提寺が側にあるとの事で、OOご夫婦は先ほどの泉岳寺手前で一行と別れ菩提寺を訪ね伊皿子坂交差点で合流することになっておりました。この交差点から暫く歩くと右手に「亀塚公園」が現れます。

この公園敷地は「更級日記」に登場する「竹芝寺」の伝説地とも言われ、この亀岡からは土師器や須恵器の破片が見つかり古墳ではないかと言われているそうです。もう周りは暗く夕闇が迫ってきています。ここでビックリ体験をしました。

ガイドさんが「ここからエレベータで地階に降りてキリシタンの刑場を見に行きましょう」と言います。この説明がどうしても私には理解できません。「地階に降りる」とはどうゆう意味か?「地獄にでも下りて行こう」と言うことか? 

緩やかな「聖坂」を下りながら途中で右に入る細い路地を入りますと、その先は絶壁となっておりました。もう周りは暗くなって来て薄気味悪いです。その先に塔が建っていてそこに行く道が空中に浮いています。確かにそれは下に降りてゆくエレベータの塔のように見えました。その宙に浮いた通路から下を覗きますと真っ黒な木々の森が真下に見えます。その浮いた通路の高さはビルの6〜7階の位置でしょう。エレベータは精々5人ほどしか乗れませんので何回かに分けて下に降りたのですが、下から上がってきたエレベータのドアが開いてまたビックリ、自転車と人が出てくるではありませんか。つまりこのエレベータは"生活道"の一部だったのです。住友不動産がこの地にツインビルを建てる際に聖坂方面とエレベータで繋ぐように設計したのでしょう。

<あれがエレベータ塔>
その住友不動産ツインビルの敷地の隅に「元和キリシタン遺跡」が有りました。

これは徳川三代将軍・家光が江戸に集まっている諸大名への示しとしてキリシタンの火刑を命じ(1623)、東海道の目立つ場所が選ばれ、ここで50名が処刑されたそうです。ガイドさんから解説を聞いている内にもう空は真っ暗になっておりました。

ここから打ち上げの会場、三田駅前の北京飯店はすぐ側、午後6時には皆さんで「乾杯!」と叫声を張り上げ今日一日のイベントを祝いました。お店は貸切のようなもので、皆さん飲めや、飲めやで、お開きになったのは案の定9時を過ぎておりました。本当にご苦労様でした。

<了>

     ●このウォーキング行程を動画編集(2部構成)して、HP上の「マイビデオ」

      (YouTube)に掲載してありますので、そちらもご覧下さい。

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