第8回 文京を歩くかい “司馬遼太郎の【本郷界隈】を歩く”   平成23年9月10日(土)

2011年9月10日(土)天候 快晴 気温32度、突然都合が悪くなっての欠席者3人おられたが、今回は初参加の女性3、男性1が加わり、総勢9人で飯田橋駅前を出発した。今回の参加人の平均年齢をとると、例年より若返っている。年齢層が若返るとは、8回目を迎えるこの会も何とも先が楽しみな傾向と言えようか。

今回は司馬遼太郎の【街道をゆく 三十七:本郷界隈】に登場する名所旧跡を歩こうという目的で行程が組まれたが、途中の「本郷館」は築106年目の今年8月に入って解体が始まり、根津にある「森鴎外記念館」が現在新築中なので今回はスキップする事にして、次のような行程で歩いた。

全行程はおよそ15kmであったが、坂を上っては下りての歩行は相当に堪えたようである。いかに坂が多かったかを示すために、行程上に上り下りした坂名をも記入し、通過時間も示した。

<行程>10:00:飯田橋→後楽園・庭園→(牛坂)→牛天神→(安藤坂)→萩の舎跡伝通院→(善光寺坂)→10:30:澤蔵司稲荷(上の記念写真)→樋口一葉終焉の地大円寺やっちゃ場跡蓮光寺高林寺→11:30:夏目漱石旧居→(根津裏門坂)→根津権現→(弥生坂)→12:00:弥生式土器遺跡朱舜水終焉の地本郷追分→12:30:東大・安田講堂(食堂にて昼)→13:45:三四郎池→(見返り坂・見送り坂)→14:00:かねやす(本郷三丁目・午後から1名参加)→赤心館跡菊富士ホテル跡徳田秋声旧居蓋平館→(新坂)→(菊坂)→伊勢屋質店樋口一葉旧居→(鐙坂)→常盤会跡→(炭団坂)→出世稲荷→(壱岐坂)→麟祥院(春日局墓)→(切通坂)→不忍池→15:30:科学博物館

さて、上の行程はどのように組まれたのであろうか。

左の本、司馬遼太郎著「街道をゆく」の三十七番目は【本郷界隈】である。この本を読んだのは今から10数年以上も前になろうが、我住まいの近辺がビッシリと書かれているのである。そして、いつかこの本に登場する名所旧跡のすべてを行程に組んで自分で歩いてみようと考えていた。

【本郷界隈】はエッセイ「鴨がヒナを連れて」から始まり、最後は「三四郎池」の26のエッセイで構成されている。勿論司馬氏はそれぞれ自分で歩いた上でエッセイに書き上げているのだが、この本のエッセイの1番目から最後の26番目までは歩く行程に都合よい順番になっているかと言えば、全く関係なく、そこが今回の行程作りに一番時間を掛けたところなのである。その作業は、まず「本郷界隈」を再読して、各エッセイに出てくる本郷の名所旧跡をすべて書き出す。次にその書き出した場所を文京区の地図上でスポット・マークを付けてゆく。そしてそのマークを歩きやすいように線引きして道順を作り上げた。この行程図を【資料1】として添付したのでクリックするとご覧頂ける。 →【資料1−クリック

今回歩く「本郷台」は太古の時代はリアス式海岸で海岸線はギザギザに張り出ていて、つまり台地と谷地が密集している坂の多い地域なのである。そこで次の作業は文京区教育委員会が発刊している【ぶんきょうの坂道】の本を引っ張り出して、行程表の中に通過する「坂道名」を追加したのである。そして完成した「資料」が下記のものである。是非、行程に沿って一緒に歩いている感覚で、司馬遼太郎の世界も同時に堪能頂ければ幸いである。

行程    ・関係人物           司馬遼太郎・街道をゆく 三十七【本郷界隈】からの一節

 (坂道名)                     (原文から一部編集や省略した部分が有り得ます。)

飯田橋駅前集合     →●【水戸家】より(p.260)
                   小石川の上屋敷は九万九千坪という広大なものであった。このとほう
後楽園→ ・水戸頼房       もない広大な空間をお長屋がかこみ、そこに多数の家臣団が住んだ。
 (牛坂)  ・水戸光圀       その邸内には、初代頼房と第二代光圀がながい歳月をかけて築造し
牛天神   *源頼朝        た名園【後楽園】があって、江戸時代における典型的な大名の回遊
 (安藤坂 )             式庭園として残っている。江戸期も、ときに市民に開放した。

萩の舎跡 ・中島歌子   →●【給費生】より(p.201)
       ・樋口一葉       松山十五万石の久松家にふれておく。戦国時代には尾張の阿久比
伝通院→ *於大の方        の豪族で、徳川家康の生母於大が再婚して嫁した家が、久松家で
 (善光寺坂) *千姫        ある。於大は家康にとっての異父弟を三人生んだ。久松家はのち
澤蔵司稲荷             松平姓を称し、徳川家の親藩になった。家康は於大の菩提のため
       ・幸田露伴(宅跡)   に小石川に伝通院を建立した。
樋口一葉終焉の地→   →●【福山坂】より(p.232・237)
       ・外山正一(宅跡) 備後福山藩(阿部正弘)の中屋敷のことに話を戻す。藩邸のころは町名
      (とやままさかず)   が無かった。維新で藩邸が消滅したあと、“丸山福山町”という町名が
                  ついた。丸山というのは、江戸時代、漠然とこのあたりがそう呼ばれてい
       ・阿部正弘     たらしい。さらには備後福山藩があったことから、維新後、丸山と福山が
       ・樋口一葉     という山二つを重ねた町名が出来たのである。明治二十年代には、様子
                  が一変している。樋口一葉が、本郷菊坂台の下に住み、ついで吉原に
                  近い下谷竜泉寺三百六十八番地に引越し、さらに本郷にもどって住んだ
                  のが丸山福山町四番地なのである。ここに住んだのは明治二十七年、
                  二十三歳のときである。そのころの丸山福山町はまったくの新開地で
                  銘酒屋と通称される娼家が沢山あったという。
 (福山坂)→
 (新坂)             夏目漱石も、明治三十九年十二月、本郷千駄木五十七から本郷西片
       ・夏目漱石      一丁目に転居し小一年住んだ。当時西片町は“学者町”などと言われ
                  た。阿部藩邸の後、西片町は空閑地であったことから東京大学に勤
                  める学者をあてこんで建てられていったものらしい。西片町(旧藩邸)
                  の大地が低い白山通りへ下っている。坂は造成された早々、「新坂」
                  と呼ばれた。また阿部氏の備後福山にちなんで福山坂とも呼ばれた。

大円寺→ ・高島秋帆   →●【秋帆と洪庵】より(p.311)
                   鎖国の江戸時代、長崎港だけが開かれていた。このことが、長崎から
やっちゃ場跡(江戸青果市場跡) 特異な人物を生むことにもなった。高島秋帆もその一人である。本
                   郷大円寺の墓地に眠っている。寛永六年、ぺりー・ショックで天下が
                   騒然としていたとき、幕府に開国を献策したのは、秋帆が最初である。

<補足解説@>

● 「大円寺」内、『ほうろく地蔵』江戸の大火

放火の罪で火あぶりの刑にされた八百屋お七の罪業を救う為に、熱した焙烙(ほうろく)を頭に被り自ら焦熱の苦しみを受けた地蔵尊といわれている。享保4年(1719)に渡辺九兵衛がお七供養のために寄進。「お七火事」は天和3年、自家に火をつけたがボヤ。しかし放火の大罪で捕らえられ、その翌年彼女は千住刑場で処刑され、その時 彼女16歳。「お七火事」の遠因となったのが、その1年前(天和2年)に起きた 「天和の大火」(火元は大円寺)でお七の八百屋も消失してしまい菩提寺である「円乗寺」に家族で非難。その非難生活の間に円乗寺の寺小姓・佐兵衛と恋に落ちてしまう。しかしまもなく家が再建されるとお七は円乗寺を去らねばならず心苦しむ。そして火事さえ起こせばまた愛人・佐兵衛に逢えると自家に火をつけたと言われている。


(補足)「火事と喧嘩は江戸の華」といわれ江戸時代で火災1978件、江戸三大大火は;

『明暦の大火』=明暦3年(1657)江戸の2/3を焼く。火元は本郷丸山・本妙寺

『明和の大火』=明和9年(1772)目黒・行人坂・大円寺から出火。

『文化の大火』=文化3年(1806)芝・車町から出火。大名屋敷・寺社へ延焼。

「やっちゃ場跡」(駒込土物店 こまごめ つちものだな)

近郊の農民が野菜を運ぶ途中、天栄寺付近にあった大木(サイカチの木)の下で、毎朝休むのが例であった。それで近くの人たちが、新鮮な野菜を買い求めるようになり、そこから野菜市がおこったと言われている。「御府内備考」によれば今から380年ほど前、高林寺門前と天栄寺門前との間に毎朝青物市が立っていた。この青物市場は「駒込の土物店」と呼ばれ、大根、ごぼう、いもなど土の付いた物が多かったからである。セリの声、「やっちゃ、やっちゃ!」と声張り上げていたから「駒込辻のやっちゃ場」とも言われた。昭和12年に豊島区巣鴨に移転し、江戸から東京の市民の台所を賄った【駒込土物店】は、300余年の輝かしい歴史の幕を閉じた。

高林寺→ ・緒方洪庵   →●【秋帆と洪庵】より(p.318)
                  高林寺という寺を見つけた。その墓地で緒方洪庵の墓に詣でた。堂々
                  たる墓碑である。町医で終始した。かたわら自宅で蘭学を教えた。塾の
                  名を適塾と称した。二十余年そのように過ごしてきたが、晩年の文久
                  二年(1862)、江戸からの使いが来て、将軍の侍医になれというの
                  である。

蓮光寺→ ・最上徳内   →●【最上徳内】より(p.323〜333)
       ・シーボルト      シーボルトは最上徳内に会うことを望み、文政九年(1826)三月、江
                   戸で対面した。ときに徳内は七十をいくつか越えており、シーボルトはま
                   だ三十一歳の若さながら、双方、深い友情をわかちあった。徳内はごく
                   小柄なひとだった。とくに徳内が製作した蝦夷地や樺太の地図を見て、
                   順尺技術の高さや、かつ日本において天文学や陸地測量術が意外に
                   進んでいることを知った。徳内は長寿を得て、数えて八十三で死んだ。
                   墓は旧称駒込蓬莱町(現・向丘二丁目)の浄土宗蓮光寺にある。

夏目漱石旧居→      →●【郁文館】より(p.119)
       ・夏目漱石     明治三十六年(1903)というと漱石は満三十六歳であった。一月に英国
        ・森鴎外      留学から帰国し、三月にこの千駄木の借家に入った。明治二十三年、
 (根津裏門坂 )        偶然森鴎外も一年あまりここを借りて住んだことがあった。漱石はこの家
                  で最初の小説作品「我輩は猫である」を書いた。

根津権現→ ・徳川綱吉   →●【根津権現】より(p.105〜106)
       ・徳川家宣     本郷台を団子坂から南に折れて、崖上の道(藪下の道)をたどると、根津
                  裏門坂に出る。この境内はもとは六代将軍家宣の甲府中納言時代の旧
                  邸があったところである。家宣が叔父綱吉の養嗣子になった後、綱吉の
                  命で、邸跡に神社が営まれ、社領五百石が寄進された。門前には遊郭
                  があって繁華をささえた。「根津門前」と呼ばれる遊里である。江戸時代
                  は幕府官許の遊里は吉原だけで、他は岡場所と言われた。いわば
                  黙認された場所だった。

藪下通り→ ・森鴎外     →●【藪下の道】より(p.90)
 (団子坂、潮見坂)→     いま鴎外旧居跡は、文京区の所有になっていて、区立鴎外記念本郷図
                  書館になり、団子坂に面して門をひらいている。本郷台が谷中の方向
鴎外記念館→          に向って溺れこんでゆくような思いがする。別名“潮見坂”ともいう。
 (観潮楼跡) ・幸田露伴   鴎外は、団子坂のほうを気にっていたのか、明治四十二年「団子坂」
       ・斉藤緑雨     という題の小品を書いた。登場人物は二人きりである。名は無く、男学生
                  と女学生とのみである。

藍染川→           →●【からたち寺】より(p.159)
                  鴎外の「雁」にも出てくる。この作品の時代は明治十三年という設定で、
                  東大鉄門の門前の下宿屋に住む医学生の岡田が、時と経路を決めて
                  毎日散歩する。その道筋に「からたち寺」がある。
                  『寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍
                  の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋
 (弥生坂 )           のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這
                  入って、陰気なからたち寺の角を曲がって帰る。』

弥生式土器遺跡→     →●【縄文から弥生へ】より(p.30)
                  弥生遺跡も多いが、武蔵野台地でのそれらの発見が、発見史としての
                  さきがけになったのは、いうまでもなく本郷台に大学が置かれ、研究者
                  がそこに集まっていたからである。弥生式土器の発見は明治十七年
                  (1884)三月、三人の学生によるものだった。

朱舜水終焉の地→     →●【朱舜水】より(p.283・293)
       ・朱舜水       朱舜水をひとことで言えば、志士というほかない。が志だけが苛烈で、
       ・水戸光圀     なしとげたことは、ひとつもない。水戸光圀は本郷加賀屋敷の横の藩
                  中屋敷に舜水のための邸宅を営んで住まわせた。日本に来て死ぬまで
                  二十三年というのに日本語を解せず、学ぼうとはしなかった。日本人の
                  側が、彼から吸収した。

本郷追分→         →●【追分】より(p.243・246)
       ・森川金右衛門   本郷にも追分という地名がある。街道の分岐点の事を言う。江戸時代
       ・徳川家康      この追分に旗本二千二百石の森川金右衛門という者の屋敷があって、
                   「森川追分」などとも呼ばれた。
                    森川氏の家祖は尾張の出ながら永禄七年(1564)三河の徳川家康に
                   仕えた。この時代の合戦は、先手組(先鋒隊)が強くなければ、勝てな
                   かった。家康は二十個の先手組をつくった。組頭はよりぬきの勇者だっ
                   たが、森川金右衛門はそのうちの一人に選ばれた。
                   江戸時代、追分を過ぎて北に向かう時、旅人達にとって木立や林などに
                   いたるまで、このあたりから武蔵野の匂いがしたに違いない。また逆に
                   西から中山道をへて帰ってきたひとは、本郷追分まで入ってようやく江
                   戸の華やぎを感じたのではないか。ついでながら、道灌のころは岩槻
       ・太田道灌      街道が枝分かれして中山道が出ているということはなく、道は岩槻まで
                   の軍用道路が一筋だけだった。江戸開府とともに、中山道へ出る道が
                   できた。従って追分の地名もそのときに成立し、森川金右衛門が、そ
                   の戦闘隊形のまま住んだ、ということになる。

本郷館(森川町)

東大・安田講堂       →●【三四郎池】より(p.363〜)
                   加賀前田家は、この庭園を育徳園と名づけた。池の名を心字池と呼ん
三四郎池→            だ。心という字の形で池を掘るのは、それ以前からも行われてきた。
                   池畔の景観に変化ができるのである。
 (見返り坂 )           池畔で三四郎は美禰子に会う。厳密には、三四郎のほうが一方的に彼
 (見送り坂 )           女を見た。看護婦に付き添われて、医学大学の方向の岡の上から散
                   歩してきて、三四郎の前を通る時、白い花を落として行った。

<補足説明A>

見送り坂、見返り坂

太田道灌(室町時代)の領地の境目のあたり、罪を犯して江戸を追放される者が、この別れの橋で放たれ、三丁目よりの坂で親戚縁者の見送りの人が、涙で送ったのが「見送りの坂」。追われる者が名残を惜しみながら見返り上ったので「見返り坂」と言われた。

赤門→            →●【湯島天神】より(p.182)
       ・徳川家斉     徳川第十五代家斉は滑稽なほど多産で、幕閣の仕事の多くは、将軍
                   の娘たちの嫁入り先を見つけることであり、加賀前田家にも白羽の矢
                   が当たった。溶姫(やすひめ)といい兎園会(とえんかい)が開かれる
                   前々年の文政六年に縁組が決まったため、前田家では御守殿を普請
                   した。将軍家から降嫁した奥方の場合、奥には住まず、御守殿とよばれ
                   る独立した一郭に住むのである。門も建造される。現在東京大学に残
                   っている「赤門」である。

かねやす→ ・兼康友悦   →●【見返り坂】より(p.75・79・81)
 (菊坂)              江戸市域のことを「ご府内」と言った。江戸の場合、本郷の大部分がご
菊富士ホテル跡         府内ではない。だから本郷の町方で殺人事件がおきたところで、江戸
徳田秋声旧居          町奉行から与力や同心などが出没することは無かったに違いない。
                   江戸の市域はどこまでか、ということで、江戸後期、幕府の手で地図に
蓋平館(現在の太栄館)     朱引きが行われた。ご府内のことを「朱引内」とよんだ。本郷は一部を
 (新坂 ) ・石川啄木      除いては「朱引外」であった。
                   享保年間(1716〜36)口中医師の兼康友悦という人が、本郷三丁目
                   の角に店を開いて「乳香散」という粉の歯磨きを売った。大いに繁盛し
                   て江戸じゅうに知られるようになった。
                   “本郷もかねやすまでは江戸の内”

<補足説明B>

菊富士ホテル跡 

明治30年岐阜県大垣出身の羽根田幸之助、菊江夫妻がこの地に下宿「菊富士楼」を開業。大正3年に五層楼を新築、「菊富士ホテル」と改名し営業を続けたが、昭和20年第二次大戦の戦災を受け50年の歴史を閉じた。ここに止宿した逸材は、石川淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、高田保、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、真山青果、武久夢二、三木清、大杉栄、など。

● 徳田秋声旧居 [明治4(1872)年〜明治18(1943)年]

石川県生まれ、尾崎紅葉に師事し、泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉らとともに「葉門の四天王」と言われた小説家。代表作に「黴(かび)」、「あらくれ」「縮図」など。

伊勢屋質店

樋口一葉旧居→      →●【一葉】より(p.216)
 (鐙(あぶみ)坂 )       樋口一葉は明治五年の生まれで、子規より五つ若い。東京に生まれた。
                 住まいを転々として明治二十三年(1890)九月、この菊坂台の下の露
       ・樋口一葉     地奥に移って来た。当時、母たき、妹くにとの三人暮らしで、一葉は一家
                 の責任者として和服の洗い張りや針仕事で暮らしを立てていた。小説を
                 書こうとするのはこの翌年である。また翌々年の明治二十五年、雑誌
       ・正岡子規     「武蔵野」に小説「闇桜」を発表した。この間、子規が崖の上の寄宿舎
       ・夏目漱石    (春のや)にいたことになる。子規の友人の夏目漱石も一度ならずこの
                崖の上の寄宿舎に同窓の子規を訪ねてきているのだが、崖下に一葉と
                  いう天才が陋居(ろうきょ)しているなど、知る由も無かった。

常盤会跡→         →●【真砂町】より(p.194)
 (炭団坂)→ ・坪内逍遥   掛川銀行の頭取永富謙八が坪内逍遥に会ってほれ込み、受験生で下
       ・永富謙八     宿が狭くなっている状況を見て、「先生、是非一軒の家をお持ちくださ
文京ふるさと歴史館      い」と真砂町十八番地に寄宿学校のような家を建てて、逍遥に無償進呈
 (真砂坂 )           した。明治十七年(1884)逍遥二十五歳のことである。かれはこの家に
 (鳶坂)             「春のや(春廼舎)」というのどかな名をつけた。このあたりは今の本郷
出世稲荷            四丁目十である。炭団坂という急勾配の石段の上にきわどく建っていて
 (壱岐坂 )           いわば崖の上の家であった。
 (忠弥坂 )           実は逍遥はここに永くは居ず、明治十七年から二十年までの三年間住
      ・正岡子規      み、のち建物のそばの借家に移り住んだのである。そのあと、旧松山藩
元町公園            主久松家の育英組織である常磐会が買い取り、旧藩出身の書生のた
                  めの寄宿舎とした。明治十七年(1884)そこへ正岡子規が入室した。

<補足説明C>

伊勢屋質店

万延元年(1860)この地で創業、昭和57年に廃業。樋口一葉と大変に縁の深い質屋であった。一葉が明治23年に近くの旧菊坂町の貸家に移り住んでから、度々この伊勢屋に通い苦しい家計をやりくりした。

出世稲荷

春日局は本名「ふく」、父は明智光秀の重臣斉藤利三である。戦いに敗れ、逆賊の家族として苦しい生活をした。後 徳川三代将軍「家光」の乳母となり、江戸城大奥にて大きな力を持つに至った。このあたりの片側を将軍から拝領し町屋を作った。享保2年焼失したので京都稲荷山の千年杉で「ご神木」を作り祭った。春日町の名の起源となったゆかりの地である。

本郷給水場広苑→     →●【水道とクスノキ】より(p.61・62)
 (油坂)→             人の暮らしは、水でなりたっている。江戸の水道について詳説しない
       ・徳川家康       が、神田の低地から本郷台にのぼってゆくについて、江戸時代の遺
                   構が見たかった。「神田上水石樋」と呼ばれる遺構である。徳川家康が
                   江戸に入ったのは天正十八年(1590)であることを「神田界隈」で繰り
                   返しふれてきた。その草創の最大の事業の一つが、上水道を設
       ・大久保藤五郎    けたことであることも幾度かふれた。その設計と施行を家臣大久保
                   藤五郎に命じた。藤五郎がそれを成功させたので、家康は褒美とし
 (傘谷坂)             て「主水(もんど)」という名を与えた。JR御茶ノ水駅から水道橋方面に
                   歩くと、途中順天堂大学がある。背後に本郷台を背負っている。大学の
                   建物は道(油坂)によって左右にわかたれており、その油坂を北にのぼ
                   ると、本郷台のはしの「本郷給水場公苑」にゆきつく。

麟祥院(春日局の墓)→  →●【からたち寺】より(p.161)
       ・春日局        湯島天神の台地を断ち割って造られた切通坂を西に上ってくる道が
       (かすがのつぼね)  春日通りで、麟祥院に墓のある春日局にちなんだ名らしい。今はこの
                   あたりは文京区だが、かつて本郷区とよばれていた頃(明治十一年〜
                   昭和二十二年)、ここに区役所ができた。区役所は、麟祥院境内の
 (切通坂)→           一部を買い上げて建てられたそうで、このため寺を特徴づけていた
                   枳殻(からたち)垣が目立たなくなったかのようである。

湯島天神→         →●【湯島天神】より(p.171・172)
 (天神石坂)            湯島台は本郷台の南東端にあって、不忍池低地に落ち込んでいる。
 (天神女坂)            台上に湯島天神がある。いうまでもなく湯島の社は菅原道真を祀る
       ・菅原道真       天神の社である。文和四年(1355)郷民によって建立されたという。
       ・太田道灌       文和四年といえば室町幕府初代の足利尊氏のころで、南北朝の争乱
       ・足利尊氏       のさなかだった。その後太田道灌が再興した。道灌が江戸城を築いた
       ・足利義政       のは、八代将軍足利義政の長禄元年(1457)で、湯島天神を再興
                    したのは察するに江戸城の鬼門の鎮めだったのではないか。

岩崎邸→           →●【岩崎邸】より(p.146)
       ・岩崎弥太郎     岩崎邸は本郷台の東縁にある。いうまでもなく岩崎家とは三菱会社を
       ・岩崎久弥      創設した岩崎弥太郎の家である。ただし、漱石が『猫』を書いた頃は、
       ・夏目漱石      この土佐出身の傲遇な実業家はすでになく、屋敷の主は嫡男の久弥
                   という。控えめで物静かな四十前後の人物であった。
                    「岩崎のような顔ってどんな顔なの?」
                   苦沙弥先生の小さな女の子が聞くと、雪江さんもこまった。
                   「只おおきな顔をするでしょう」
                   漱石は、生涯書生の気分で過ごした人だから、滑稽なほどに、あるい
                   は癇性(かんしょう)なくらいに大金持ちぎらいだった。といって現実の
                   大金持ちを見た事が無い点で、雪江さんとかわらない。

 (無縁坂)→         →●【無縁坂】より(p.138)
       ・森鴎外        無縁坂を有名にしたのは、『雁』で医学生岡田が日課のように時を決
                    めてこの坂を下り散歩するのである。作品のなかで“僕”というのが語
                    り手になっており、“僕”は鴎外の履歴と符合する。“僕”や岡田が下宿
                    しているのは、大学の鉄門の向かいの「上条」という下宿屋であった。
                    つまり“僕”や岡田は予科のときに神田和泉町の旧藤堂藩邸ですごし
                    在学中のある時期、大学が本郷台に移転したのに伴い、二人は鉄門
                    前の「上条」に下宿したことになる。ところで現実の鴎外は卒業前、こ
                    の「上条」が焼けるという不運に遭い、ノート類を失った。

不忍池→           →●【縄文から弥生へ】より(p.21)
                    上野の不忍池は海の切れっぱしだったろう。すくなくとも縄文海進
       ・徳川家康       (6500年から5500年前)頃は、遠浅の入江だった。
                    徳川家康の江戸入りのころ(1590)でも、下町の大部分が低湿地だ
                    った。家康から三代ばかり掛かった江戸市街地の造成の基本は、低
                    湿地を埋め立てることだった。土は台地から持ってきたり、堀割りを掘
                    って残土を積み、地面を高くした。そんな作業が進むうちに、かねて砂
                    洲によって塞がれて出来ていた池のひとつが残された。それが不忍池
                    だったのである。

上野の山→          →●【鴨がヒナを連れて】より(p.14)
       ・石黒忠直      当の上野の山に石黒忠直が案内し、司馬凌海が通訳しつつ山を上下
       ・司馬凌海      するうち、ボートインは景観の幽邃(ゆうすい)さに感心してしまった。
        ・ボードイン      こんなみごとな都市森林をもっていながら、それを大学東校の建設の
                   ために潰すというのはなにごとであるか、西洋では、市中に森がなけれ
                   ばわざわざ造林するほどなのだ、と言った。「公園というものをご存知
                   か」そんなものは、石黒は知らない。当時日本には公園という言葉も
国立科学博物館         概念も無かった。

今回の「歩くかい」には【第2章】がアレンジされており、15:30からは、「国立科学博物館」にて西森龍雄氏による【菌類、変形菌】に関する講義を頂いた。この「菌類」に関する資料の一部を添付したので、ご興味の有る方はご覧頂きたい。 →【資料2ークリック

「菌類」に就いて勉強の後、6時よりこの会では必須の【第3章:懇親と打上の会】が用意されており、、上野・広小路の居酒屋【わん(椀)】に移動して、西森講師にも参加頂き、【打上】に駆けつけてくれたお二人を加えて、いつものように大いに賑わい、時間が経つのも忘れてガンガンと冷たいビール・ワイン・焼酎に酔い痺れたたのであります。

解散は9:00PMでした。皆さん本当にご苦労さまでした。  <了>

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