第8回 文京を歩くかい “司馬遼太郎の【本郷界隈】を歩く” 平成23年9月10日(土)
2011年9月10日(土)天候 快晴 気温32度、突然都合が悪くなっての欠席者3人おられたが、今回は初参加の女性3、男性1が加わり、総勢9人で飯田橋駅前を出発した。今回の参加人の平均年齢をとると、例年より若返っている。年齢層が若返るとは、8回目を迎えるこの会も何とも先が楽しみな傾向と言えようか。
今回は司馬遼太郎の【街道をゆく 三十七:本郷界隈】に登場する名所旧跡を歩こうという目的で行程が組まれたが、途中の「本郷館」は築106年目の今年8月に入って解体が始まり、根津にある「森鴎外記念館」が現在新築中なので今回はスキップする事にして、次のような行程で歩いた。 |
全行程はおよそ15kmであったが、坂を上っては下りての歩行は相当に堪えたようである。いかに坂が多かったかを示すために、行程上に上り下りした坂名をも記入し、通過時間も示した。
<行程>10:00:飯田橋→後楽園・庭園→(牛坂)→牛天神→(安藤坂)→萩の舎跡→伝通院→(善光寺坂)→10:30:澤蔵司稲荷(上の記念写真)→樋口一葉終焉の地→大円寺→やっちゃ場跡→蓮光寺→高林寺→11:30:夏目漱石旧居→(根津裏門坂)→根津権現→(弥生坂)→12:00:弥生式土器遺跡→朱舜水終焉の地→本郷追分→12:30:東大・安田講堂(食堂にて昼)→13:45:三四郎池→(見返り坂・見送り坂)→14:00:かねやす(本郷三丁目・午後から1名参加)→赤心館跡→菊富士ホテル跡→徳田秋声旧居→蓋平館→(新坂)→(菊坂)→伊勢屋質店→樋口一葉旧居→(鐙坂)→常盤会跡→(炭団坂)→出世稲荷→(壱岐坂)→麟祥院(春日局墓)→(切通坂)→不忍池→15:30:科学博物館 |
さて、上の行程はどのように組まれたのであろうか。
左の本、司馬遼太郎著「街道をゆく」の三十七番目は【本郷界隈】である。この本を読んだのは今から10数年以上も前になろうが、我住まいの近辺がビッシリと書かれているのである。そして、いつかこの本に登場する名所旧跡のすべてを行程に組んで自分で歩いてみようと考えていた。 【本郷界隈】はエッセイ「鴨がヒナを連れて」から始まり、最後は「三四郎池」の26のエッセイで構成されている。勿論司馬氏はそれぞれ自分で歩いた上でエッセイに書き上げているのだが、この本のエッセイの1番目から最後の26番目までは歩く行程に都合よい順番になっているかと言えば、全く関係なく、そこが今回の行程作りに一番時間を掛けたところなのである。その作業は、まず「本郷界隈」を再読して、各エッセイに出てくる本郷の名所旧跡をすべて書き出す。次にその書き出した場所を文京区の地図上でスポット・マークを付けてゆく。そしてそのマークを歩きやすいように線引きして道順を作り上げた。この行程図を【資料1】として添付したのでクリックするとご覧頂ける。 →【資料1−クリック】 今回歩く「本郷台」は太古の時代はリアス式海岸で海岸線はギザギザに張り出ていて、つまり台地と谷地が密集している坂の多い地域なのである。そこで次の作業は文京区教育委員会が発刊している【ぶんきょうの坂道】の本を引っ張り出して、行程表の中に通過する「坂道名」を追加したのである。そして完成した「資料」が下記のものである。是非、行程に沿って一緒に歩いている感覚で、司馬遼太郎の世界も同時に堪能頂ければ幸いである。 |
行程 ・関係人物 司馬遼太郎・街道をゆく 三十七【本郷界隈】からの一節 (坂道名) (原文から一部編集や省略した部分が有り得ます。) 飯田橋駅前集合 →●【水戸家】より(p.260) 萩の舎跡 ・中島歌子 →●【給費生】より(p.201) 大円寺→ ・高島秋帆 →●【秋帆と洪庵】より(p.311) |
<補足解説@>
● 「大円寺」内、『ほうろく地蔵』と江戸の大火 放火の罪で火あぶりの刑にされた八百屋お七の罪業を救う為に、熱した焙烙(ほうろく)を頭に被り自ら焦熱の苦しみを受けた地蔵尊といわれている。享保4年(1719)に渡辺九兵衛がお七供養のために寄進。「お七火事」は天和3年、自家に火をつけたがボヤ。しかし放火の大罪で捕らえられ、その翌年彼女は千住刑場で処刑され、その時 彼女16歳。「お七火事」の遠因となったのが、その1年前(天和2年)に起きた 「天和の大火」(火元は大円寺)でお七の八百屋も消失してしまい菩提寺である「円乗寺」に家族で非難。その非難生活の間に円乗寺の寺小姓・佐兵衛と恋に落ちてしまう。しかしまもなく家が再建されるとお七は円乗寺を去らねばならず心苦しむ。そして火事さえ起こせばまた愛人・佐兵衛に逢えると自家に火をつけたと言われている。
『明暦の大火』=明暦3年(1657)江戸の2/3を焼く。火元は本郷丸山・本妙寺 『明和の大火』=明和9年(1772)目黒・行人坂・大円寺から出火。 『文化の大火』=文化3年(1806)芝・車町から出火。大名屋敷・寺社へ延焼。 ● 「やっちゃ場跡」(駒込土物店 こまごめ つちものだな) 近郊の農民が野菜を運ぶ途中、天栄寺付近にあった大木(サイカチの木)の下で、毎朝休むのが例であった。それで近くの人たちが、新鮮な野菜を買い求めるようになり、そこから野菜市がおこったと言われている。「御府内備考」によれば今から380年ほど前、高林寺門前と天栄寺門前との間に毎朝青物市が立っていた。この青物市場は「駒込の土物店」と呼ばれ、大根、ごぼう、いもなど土の付いた物が多かったからである。セリの声、「やっちゃ、やっちゃ!」と声張り上げていたから「駒込辻のやっちゃ場」とも言われた。昭和12年に豊島区巣鴨に移転し、江戸から東京の市民の台所を賄った【駒込土物店】は、300余年の輝かしい歴史の幕を閉じた。 |
高林寺→ ・緒方洪庵 →●【秋帆と洪庵】より(p.318) 蓮光寺→ ・最上徳内 →●【最上徳内】より(p.323〜333) 夏目漱石旧居→ →●【郁文館】より(p.119) 根津権現→ ・徳川綱吉 →●【根津権現】より(p.105〜106) 藪下通り→ ・森鴎外 →●【藪下の道】より(p.90) 藍染川→ →●【からたち寺】より(p.159) 弥生式土器遺跡→ →●【縄文から弥生へ】より(p.30) 朱舜水終焉の地→ →●【朱舜水】より(p.283・293) 本郷追分→ →●【追分】より(p.243・246) 本郷館(森川町) 東大・安田講堂 →●【三四郎池】より(p.363〜) |
<補足説明A>
● 見送り坂、見返り坂 太田道灌(室町時代)の領地の境目のあたり、罪を犯して江戸を追放される者が、この別れの橋で放たれ、三丁目よりの坂で親戚縁者の見送りの人が、涙で送ったのが「見送りの坂」。追われる者が名残を惜しみながら見返り上ったので「見返り坂」と言われた。 |
赤門→ →●【湯島天神】より(p.182) かねやす→ ・兼康友悦 →●【見返り坂】より(p.75・79・81) |
<補足説明B>
● 菊富士ホテル跡 明治30年岐阜県大垣出身の羽根田幸之助、菊江夫妻がこの地に下宿「菊富士楼」を開業。大正3年に五層楼を新築、「菊富士ホテル」と改名し営業を続けたが、昭和20年第二次大戦の戦災を受け50年の歴史を閉じた。ここに止宿した逸材は、石川淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士郎、坂口安吾、高田保、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、真山青果、武久夢二、三木清、大杉栄、など。 ● 徳田秋声旧居 [明治4(1872)年〜明治18(1943)年] 石川県生まれ、尾崎紅葉に師事し、泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉らとともに「葉門の四天王」と言われた小説家。代表作に「黴(かび)」、「あらくれ」「縮図」など。 |
伊勢屋質店 樋口一葉旧居→ →●【一葉】より(p.216) 常盤会跡→ →●【真砂町】より(p.194) |
<補足説明C>
● 伊勢屋質店 万延元年(1860)この地で創業、昭和57年に廃業。樋口一葉と大変に縁の深い質屋であった。一葉が明治23年に近くの旧菊坂町の貸家に移り住んでから、度々この伊勢屋に通い苦しい家計をやりくりした。 ● 出世稲荷 春日局は本名「ふく」、父は明智光秀の重臣斉藤利三である。戦いに敗れ、逆賊の家族として苦しい生活をした。後 徳川三代将軍「家光」の乳母となり、江戸城大奥にて大きな力を持つに至った。このあたりの片側を将軍から拝領し町屋を作った。享保2年焼失したので京都稲荷山の千年杉で「ご神木」を作り祭った。春日町の名の起源となったゆかりの地である。 |
本郷給水場広苑→ →●【水道とクスノキ】より(p.61・62) 麟祥院(春日局の墓)→ →●【からたち寺】より(p.161) 湯島天神→ →●【湯島天神】より(p.171・172) 岩崎邸→ →●【岩崎邸】より(p.146) (無縁坂)→ →●【無縁坂】より(p.138) 不忍池→ →●【縄文から弥生へ】より(p.21) 上野の山→ →●【鴨がヒナを連れて】より(p.14) |
今回の「歩くかい」には【第2章】がアレンジされており、15:30からは、「国立科学博物館」にて西森龍雄氏による【菌類、変形菌】に関する講義を頂いた。この「菌類」に関する資料の一部を添付したので、ご興味の有る方はご覧頂きたい。 →【資料2ークリック】
「菌類」に就いて勉強の後、6時よりこの会では必須の【第3章:懇親と打上の会】が用意されており、、上野・広小路の居酒屋【わん(椀)】に移動して、西森講師にも参加頂き、【打上】に駆けつけてくれたお二人を加えて、いつものように大いに賑わい、時間が経つのも忘れてガンガンと冷たいビール・ワイン・焼酎に酔い痺れたたのであります。 解散は9:00PMでした。皆さん本当にご苦労さまでした。 <了> |