ひとりサイクリング【酒街道】

皆さん、こんばんは。

2018年6月19日から4泊5日で「酒街道」をひとりでサイクリングして参りました。スタートは宮城県・気仙沼で、そこから北緯39度線を西に、日本海の山形県・酒田市までの275kmの間には20の酒蔵があり、そこを訪ねました。これから、この旅に至る経緯と旅の内容をお話させて頂きます。お話の後で、今回訪ねた酒蔵で、これぞという日本酒を持って来ましたので、今晩は皆さんで”試飲”して頂きながら、楽しい懇親の場にしたいと思います。

それでは、よろしくお願い致します。

私は「ひとり行脚」が大好きです。これまでに静岡県・相良町から新潟県・糸魚川市まで全長350kmの『塩の道』を2005年5月から2007年8月の3年間に4回に分けて行脚し、そして2010年5月には、3泊4日で福井県・小浜市から京都・出町柳までの75kmの『鯖街道』をひとりで歩いて来ました。これまでは誰も歩いていない「古道」を選んで歩いて来たのですが、ある日友人から「次はどこを歩きますか」と聞かれて、ついうっかり「“塩”からスタート。そして次が“鯖”。となれば次に欲しいものは何ですか。“酒”でしょう。つぎは『酒街道』を歩きたいです」なんて口走ってしまったのです。その時は、酒作りに“杜氏”が歩いた街道を繋げて歩けばいい、なんて勝手に思い込んでいたのですが、しかしそんな都合のいい街道などは存在しません。

そこでインタネットで『酒街道』を検索していると何と気仙沼から一関の間を【黄金酒街道】と称して、その沿線にある酒蔵が連携してその名の日本酒を販売しているとの記事が見つかったのです。それなら自分は一関から更に西に伸ばして日本海までと地図を見ますと、何と西端に”酒の田んぼ”と書く町”酒田市”があるでは有りませんか。そして一関から西への道は芭蕉が【奥の細道】で歩いた行程でも有るのです。「よしこれだ!」と企画作りを始めた矢先にあの2011年3月11日「東日本大震災」が襲ったのです。

そんな訳で、酒街道プロジェクトは一旦お蔵入りとなりましたが、あれから7年、そろそろ気仙沼も落ち着き始めただろうとお蔵出しをしました。

2011年の1月頃に調べ集めていた資料が出てきて非常に懐かしく、その中に、私の「酒街道」企画のきっかけとなった【黄金酒街道】に関する資料も出て来たのです。

2006年に気仙沼商工会議所の中にある「風待ち研究会」が中心となって気仙沼を観光立都市にしようと『時を紡ぐ空間づくり』というプロジェクトを立ち上げたのです。気仙沼には昭和初期の建物が数多く残っていること、市内にはリアス式海岸の景勝地が随所にあることから、「三陸縦貫自動車道」の整備も整い始めたのを機会に新たな街づくりに取り組むプロジェクトでした。その取り組みの第一弾として「東北自動車道」の一関と気仙沼を結ぶ国道284号線を大いに注目される幹線にする必要があるとして、一関~気仙沼間にある国登録有形文化財の4件の酒蔵が連携して【黄金酒街道】というブランドの日本酒販売を始め、そしてこの国道284号線を【黄金酒街道】と呼ぶようにしたという事が分かりました。

上の写真は気仙沼湾の一番奥にある「風待ち地区」です。中央左のビルの上に雨天体操場がポコンと付いたような建物に注目願います。次のパワーポイント(以下PP)にまた登場しますので。

左のPPは、3・11の後の気仙沼・風待ち地区が壊滅状態となった姿です。あの特徴あるビルが何とか形を残して残っているのが分かります。

右のPPは、2018年6月の時点での風待ち地区の一部ですが、まだまだ復興の途上と言えましょう。右下の写真は新築された「角星」のお店ですが、まだ回りが寂し過ぎます。

次のPPにおいて左側のものは、私の「ひとりサイクリング」のスタート地点となる酒蔵「角星」(両国)の3・11からの再建の姿と小生のスタートの時の記念ショットです。

右側のPPは、なぜ「ひとりサイクリング」をするのか?を解説しました。

なぜ「ひとりサイクリング」なのでしょう?

275kmを歩けばおよそ20日は必要でしょう。私の年齢でそれだけの日数を掛けてのひとり旅は家族から許してもらえないので、自転車なら何とかなるか?と検討してみると、どうやら初日と最終日は電車移動に半日を考慮して4泊5日で実現しそうだ。 それにしても自転車による長旅も初体験である。

「ひとり旅」の理由は、「非常に危険なリスクの高い企画」は一人に限るのです。万が一の場合でも、自分だけで済むから。また複数で旅した場合は、自分以外の人に何かが起きた場合には無視できず、計画が狂ってしまうリスクがあります。更にもう一つの理由は、「一人なら旅の過程で大自然と会話が出来る」ということ。もし友人との旅ですと、会話は絶えずそばの友人との会話となってしまうのです。

自転車を輸送機関でスタートする地点まで運ぶことを「輪行」という。自転車を輪行袋にいれて、それを担いで自分で運べば、原則電車料金は自転車には掛からない。写真のような姿で、東京駅から新幹線で、と考えていたが、息子から「父さん、年を考えてよ! 無理です。宅配便など利用すればお金で済むではありませんか。」
「そうか」ということで、「輪行」について調べてみると、「ヤマト運輸」が「サイクリング・ヤマト便」というサ-ビスが有ることを知りました。このサービスを受けるにはまず「サイクリング・ジャパン・クラブ(CJ)」に入会する必要がありますが、サイクリングヤマト便を使えば3分の1の運賃で済むので早速CJに入会しました。

1日目晴れ気仙沼 ~ 一関   46km
    (宿泊)「蔵ホテル一関」
2日目大雨一関 ~ 川渡温泉  71km
    (宿泊)「旅館ゆさ」
3日目晴れ川渡温泉 ~ 新庄  59km
    (宿泊)「ルートイン新庄」
4日目晴れ新庄 ~ 鶴岡    65km
    (宿泊)「ホテル鶴岡」
5日目晴れ鶴岡 ~ 酒田    27km

初日は午前中が東京から気仙沼までの電車移動。まずは気仙沼・ヤマト運輸の配送センターで我が自転車とご対面。早速前後輪を組み立ててスタート地「角星」酒造に急ぐ。気仙沼教育委員会の方との待ち合わせ時間は11:30AM。 何とか間に合ったが、そこには新聞社「三陸新報」の記者も待っていてくれた。

気仙沼から一関までは、殆どが軽い上り坂。「かわさき」からは国道284号線を外れて、北上川に沿って北上。爽やかな風が気持ちいい。地図上の黄色の丸点は「金鉱山」の有った跡。国道284号線に「黄金酒街道」と名づけたのもうなずけます。

2日目の行程は上のPPをご覧ください。一関から川渡(かわたび)温泉までで今回の一日走行距離では一番長い71kmです。それも朝から大雨でどうなることやら、と不安なスタートでしたが、何とか予定通りの行程をこなし5時ごろ旅館「ゆさ」に到着。

一日中大雨でしたので、写真は数枚しか撮れず、それが左のPPです。
ビショビショになって自転車を走らせているとき、屋根付きの休憩場は「救いの神」のようでした(左写真)。街道脇の自転車道と言っても、誰も通らないので雑草が生え放題で、それを避けながら走るのも容易ではありませんでした。(右写真)。

3日目は川渡温泉から本州の背骨「奥羽山脈」を横切り新庄までの59km。江戸時代、松尾芭蕉もこの街道を通り抜け、その様子が「奥の細道」でも語られています。鳴子温泉を抜けた先は大変に険しい「鳴子峡」で江戸時代には管理の厳しい「尿前(しとまえ)の関」があり、芭蕉はここを通過する許可をとるのに往生したそうです。そんなこともあり、芭蕉が「中山峠」を越えて次の宿場まで行く前に日没となり急遽「封人の家」に泊めてもらったそうです。「封人」とは国境を管理する役人だそうで、役人が寝泊りしていた館で、芭蕉はその後雨の日が続きそこに2泊3日も過ごしたそうで、そこを発つと「赤倉温泉」に向けて南下し「尾花沢」に向かいますが、私はそのまま西に最上町方向に出て「瀬見温泉」を目指しました。

4日目は新庄市から本合海に出て最上川に沿って下ります。尾花沢に南下した芭蕉は更に「立石寺」、「山寺」まで南下して、そこから引き返し尾花沢、舟形を通って「新庄」に寄った後、本合海から舟で最上川を下り「最上峡」の絶景を楽しみながら「清川の関所」で上陸しています。

庄内平野にでると風は強く、それも向かい風のため自転車のペダルが重たい。ただただ広がる水田地帯を無我夢中で走る自転車をすずめ達が追いかけてくる。水田の先に「亀の井酒造」⑬を見つけた時、本当にホットしました。

いよいよ最後の日です。鶴岡駅前から40分くらいで“酒造りの町”「羽前大山」に到着、3軒の酒蔵を回り、次に県道38号線と海岸線の国道112号線をジグザグに走り3軒の酒造を回り午後2時に「ヤマト運輸・京田センター」に到着。

ご苦労様でした。ところでこの日(22日)の「三陸新報」の朝刊には、下記のような記事が掲載されておりました。

20の酒蔵を回ってきたまとめです。私は日本酒の良し悪しを語れるほど日本酒に詳しい訳ではありませんので、今回サイクリングで回って来て私が感じた“地域の特殊性”に関してお話してみたいと思います。大きく3つのゾーンに分けました。

<黄金酒街道ゾーン>古代から中世に掛けて五畿七道の一つで近江国から陸奥国へ貫く「東山道」が走っていたが、江戸時代には五街道の一つの「奥州街道」になり、一関の先「平泉」には平安時代に奥州藤原氏が勢力を張り、当時「金」が豊富に取れたことより絢爛豪華な「平泉文化」が生まれていた。特に厳寒の冬、きれいな水、そして米どころの自然環境は「酒造り」にも恵まれており、平泉の隣の「石鳥谷町」は酒造り集団として有名な「南部杜氏」の拠点となっていた。気仙沼などの漁港から上がる新鮮な海産物料理とピッタリ合うような日本酒の味、風味を追求しているようだ。

<出羽街道ゾーン>東北地方の背骨といわれる「奥羽山脈」に隣接したゾーンだが、川渡、鳴子、中山平、赤倉、瀬見などの温泉卿が連なっており、温泉客への酒の需要が大きく、山から流れ下る「水」が豊富で古くから酒造りが盛んであり、当初は「南部杜氏」が酒造りを指導しに来ていたと言う。しかし温泉ブームが去ると共に酒の消費量も減り、現在では多くの蔵元は自前で製造することを諦め、外注するOEM方式に変わってしまっている。

<酒田鶴岡ゾーン>酒造りの町として歴史的に古いのは酒田と鶴岡の間にある「大山」地区であろう。ここの酒造り職人を「大山杜氏」と呼び、他地域の杜氏は農家の人たちか蔵人として農閑期に酒造りしていたが、大山杜氏は大工、左官といった冬期仕事が少なくなる職人衆が酒造りをしていたと言う。大山の「水」は鉄分が少なく酒造に適しており、明治時代には函館や新潟では「大山酒」が良い酒の代名詞のように使われていたと言う。
「奥の細道」の時代、芭蕉が「大山」に立ち寄ったころには、蔵元が30~40軒ほど有ったそうだが、日本酒の人気が次第にダウンすると共に、現在では大山地区に蔵元として残っているのはわずかに4軒という。

『酒街道 Movie』

  275kmのサイクリングの旅の写真をスライド編集し、YouTubeにUPしました。

  4泊5日の旅を約10分間のMovieで観る事ができますが、2日目は一日中大雨でしたので、

  十分に写真が撮れませんでしたので2日目の編集はしておりませんが、どうぞお楽しみください。


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