【第2日目】上根来〜小入谷〜久多へ

二日目の朝も雨空で明けた。ホテルの前の若狭湾も低い雲で覆われ正面に見えるはずの対岸が全く見えない。大阪から駆けつけてくれたN氏の車で今日のスタート地点「上根来」まで送っていただく。途中コンビニに寄って、今日の昼食のおにぎりと飲み物を購入し、およそ30分で上根来の集落に到着。ここまでしか車は入れない行き止まりの所に行き着くと、そこには大きな牛舎の廃屋があった。そこに車を止めてUターンをしている時、今通ってきた道を黒い傘をさした一人の男性がこちらに向って歩いてくる。私は車を降りると、雨がシトシトと降っているので、リュックから雨具を取り出し着始めた。

その時、近づいて来た男性が話し掛けてきた。

「これからそこの根来坂峠を登るのですか」

そこで私が、

「そうです。ところで、この巨大な廃墟は何だったのですか?」

「これは県が畜産農業の振興を目的に作った“和牛生産団地”だったのだよ。しかし山村の過疎化が進んで倒産してしまった。私は昔ここで働いていたが職を失い一旦都会に出た。しかしこの自然豊かな地が恋しくて一人でここに戻ってきた。あそこの小屋にネコと一緒に住んでいるよ。ところであなたはその格好でこれから登るのかね?」

とすでに雨で濡れ始めている私のスニーカー靴を見ながら不安そうに聞いてきた。

すると横から友人N氏が、

「この人はすでに一人で『塩の道』を歩いているので心配ありません」

と説明してくれた。するとその男性が、

「そうですか、それなら心配ないね。もし万が一雨や霧が酷くなったら戻ってきなさい。私はそこの小屋にいますから」

と心強い言葉を掛けてくれた。しかし本心は「そうならないで、何とか根来坂峠を切り抜けたい」と願っていた。この根来坂峠への登り(海抜百数10mから871mまで一挙の登り)が今回のコース一番の難所であろうとの事前情報を得たいたので、ここさえ抜ければと思っていたからだ。

8時45分、3人で挨拶を交わして私は一人林道を登り始めた。N氏の車は反対方向に静かに下ってゆく。林道を登って行くと右手下の方に男性の小屋が見え、男性が小屋の前で私に手を振っていた。
「そうか、あの人だったのか。昨日の郵便屋さんとの話に出た、都会から来て一人で住んでいる人とは」と心の中で思っていた。

<鯖街道・根来坂への入口>
<杉木立の中、急な登り>

霧雨が舞う林道を更に登って行くと「鯖街道入口」の看板が眼に入る。ここからが根来坂の急な登りが始まるようで、鬱蒼と茂った杉木立が暗く口を開けている。その暗い茂みの中に入ると、空気はヒンヤリしていて気持ちがいい。上の方を見上げると、急斜面の山肌をジグザグに山道がズ〜〜ット続いている。一歩、一歩、上へ上へと歩を進める。雨具を着て風通しが悪いせいか、リュックに押された背中の部分が汗でビッショリになっている。15分位歩いては立ち止まりを繰り返し、一息入れている時に下を見下ろすと、さっき歩いた幅1mもない道が遥か下のほうに見えた時、「ああ、あそこから登って来たのだ」と一種の快感が走る。そして暫く登ると急斜面が終わって今度はなだらかな広い斜面に出て緊張が解れてホットする。これの繰り返しだ。

9時25分、チョット道幅のある林道に出た。そこには「小浜より18.5K」と書かれた標識が立っていた。さあここから又林道から急斜面の山道に入ってゆく。急に霧が出てきて一瞬視界が利かなくなる。暫く行くと左手木陰に小さな「池の地蔵」の小屋が現れる。小屋には地蔵さんを隠すように沢山の赤い布が垂れ下がっているが、その派手な赤い色が何か回りの風景にマッチしていないように感じる。霧が早いスピードでモクモクと谷のほうから吹き上がって来て行く手を遮る。道は山の急斜面に獣道のように細く張り付いているようで、足を踏み外さないように歩幅を小さくしながら一歩、一歩先に進んだ。

<小浜より18.5km地点>
<池の地蔵>

このとき私には恐怖心ではなく不思議な気持ちが体を覆っていたのだ。

“今、自分は高度700〜800mの地点にポツンと居るのだ。キットこの地点から四方数km圏内には私以外には人は誰も居なかろう。この大自然の中にたった一人なのだ。真っ白な霧にスッポリ包まれた自分は、もしかすると大自然の子宮の中に居るのかもしれない。きっと、一歩一歩、神様に近づいているのだ。”

すると霧の中にボ〜〜ット地蔵小屋が姿を現した。小屋の中を覗くと、中には二つ地蔵さんが赤いチャンチャンコを着けて座っており、その下には避難用のビニールマットが置かれていた。私は無意識のうちにポケットから小銭入れを出してお地蔵さんの前にお賽銭を置いて手を合わせていた。霧が少し晴れて回りが見渡せるようになると、そこは「根来坂峠(871m)」の分岐点の所であることが判明した。(10時10分)ここの峰が福井県と滋賀県の県境でもあり、その峰伝いに「百里ケ岳」(931m)への登山口にもなっていた。これから暫くは滋賀県側(高島市)を歩く事になる。
<根来坂地蔵小屋>
<根来坂峠>
これから小入谷(おにゅうだに)集落に向けての下り道である。山道の右側に林道が近づいて来ては遠ざかりと並走しているようだ。一人山道を歩いている時は、車が通る保証など無いそんな林道でも並走しているだけで何かホットするものなのだ。暫く急斜面を下ってゆくと雨にぬかっているその林道に出た。そこには「焼尾地蔵尊」と書かれた大きな地蔵小屋があった。雨宿りするには最高の設備である。ここでゆっくり10分ほどの休憩を取る事にして、場所代として賽銭箱にお賽銭を入れた。
<焼尾地蔵尊>
10時55分、焼尾地蔵小屋を出発、林道の道幅が広い分、歩きやすいのだが、途中「鯖街道」に入る口を見落とさないように注意しながら歩く。25000分の1の地図を見ながら歩を進めているのだが、林道は車が走れるようにクネクネ大きく蛇行して下って行くが、鯖街道はそこを直線的に下るので、遠回りを避けるためにも鯖街道の入口を見失ってはいけないと注意深く歩いた。林道が右に曲がる角に立っている反射鏡の柱に小さな案内板が結わい付けられていた。その案内に従って林道と別れて左の細道に入る。途中V字に切れ込んだ急斜面に出っくわすが、この道はキット大雨が降った時など川のように雨水が流れ、それが道を更に削り取り厳しいV字を造っているのであろう。
<見落としそうな案内板>
<雨で抉られたV字の坂道>
急斜面を足元に注意を払いながら下り、緩斜面になった所で下を見ると道標が見えた。そこは沢に沿って「百里ケ岳」へ登る登山道との合流点であった。そこで沢を渡らなければならないのだが、橋は架かっていない。この旅に出る前の調べでは、沢の中に渡り石が敷いてあるのでそこを渡るようにと書かれていたが、その渡り石が雨で増水しているせいか水の中に沈んでいた。さて?と少し上流を見ると丸太棒が渡らせてあった。よし、丸太の上をワン、ツー、スリーと3歩で渡ろうと決めた。それにしてもこの時だけはスニーカーのような靴で来たことが悔やまれた。
<丸太の上を渡る>
無事に沢を横切り林道に出たところに完全に家の形を崩した廃屋が現れる。昔はこの辺まで人間が入って来て生活を営んでいた証であろうが、今はその廃屋を植物の蔓が覆っている姿は何とも悲しい気持ちにさせる。暫く下ると前方右手の山裾に萱葺き民家が見えてきた。そのひっそりとしたたたずまいに何か引きずり込ませる魅力を感じる。側に来ると、入口に「朽木(くつぎ)学道舎」と書かれている。「何じゃろう、これは」と尚一層興味が増す。
<完全に姿を変えた廃屋>
<ひっそりと朽木学道舎>
今歩いている街道は古代より大陸や朝鮮半島から若狭に海を渡ってきた人々が奈良や京都の都へと歩いた道であり、鎌倉時代には曹洞宗の開祖道元が北陸下向の際にこの街道を歩き禅林を創立させたという。それ以降この朽木谷の天台宗寺院の殆どが禅宗に改宗することになったと言われ、この「朽木学道舎」も現在は地元の人々の座禅堂として利用されていると言う。この舎の思想は「生命地域主義(バイオリージョナリズム)」だそうで、この考えとは、禅を通して今自分がいる「場所」について深く知れば知るほど、本来環境の中でさまざまなものと一体になって生きている自分の存在に気づくことが出来るということらしい。つまり自己存在が自分を取り巻いている山や川、植物、野生動物などと共鳴して生きているという深い喜びに気づくことだと言う。
11時30分、アスフアルトが敷かれた道に出る。正面から雨の中をゴミ集取車がこちらに向って走ってくる。道の左側に「小入谷(おにゅうだに)」と書かれたバス停留所があった。雨の中で昼食を取るには理想的な施設だがチョットばかり昼食を取るには時間が早すぎる。私とすれ違ったゴミ収集車は少し先に行ってUターンしているようだ。こんな山奥の人気のない場所にゴミ収集車が現れたのが何か奇異に感じていた。

暫くアスファルト道を歩いて行くと道は緩やかに左に曲がり右手に大きな森に包まれた「大宮神社」が現れる。そろそろ昼食の時間になったので、雨を避ける適当な場所を探すが、境内の中には無さそうだ。

<小入谷バス停留所前にて一人旅証拠写真>

やむを得ず次の集落「中牧」向けて歩き出す。歩き出して10分もしない内に、川原の土手際にポツンと車が3台ほど入る大きな建物が建っていた。
「おや、これは昼飯を取るのに最高のスペースだ」と感激しての独り言。右側の一角が「資源ゴミ、有害ゴミの回収所」となっていて、そこにはダンボール箱が幾重にも畳んで置いてあり、これが地面に敷くマットとして最適である。チョット2枚ほど拝借した。

早速靴を脱ぎ、マットの上に胡坐をかいて今朝コンビニで買ったおにぎりを戴く。美味いおにぎりにかぶり付いている時、突然見た覚えのある大きな車が目の前で停まった。あのゴミ収集車だった。きっと運転手達も、誰もいるはずのない場所に居る私を見つけて「ああ、あのバス停で会った一人歩きの人が、こんなところで休んでいるのか」何て言い合っているのだろうか。

<中牧にて昼食を取った小屋>
<ダンポールを敷いて座る場所作り>
30分ほどの昼休みを取ってまた歩き始めた。「古屋」の集落に入る頃には雨は一旦上がっていた。この辺まで来ると寄り添って建っている家屋も茅葺では無くトタン板製で新築のように見える。冬は大雪が降ると見えてトタン屋根は急傾斜だが、「入母屋造り風」の同じような形をした家々が一列に並んで居て何ともかわいらしい風情だ。しかし古屋の集落を抜ける付近に茅葺屋根の廃屋があり、そのガラス窓から熊ちゃんのぬいぐるみが外を眺めているが、顔を下に向けて寂しそうな姿が印象的だった。
<古屋の集落>
<茅葺の家に熊ちゃんが>
街道は朽木谷を流れる針細川に沿って南下し「桑原(くわばら)」の集落を通過すると(13時25分)また道は鬱蒼と木々が生い茂った山道に入ってゆく。そこで予期もせぬ出来事に遭遇する。遥か前方に3つ動いているものがこちらに向って来るようだ。よ〜く見ればそれは犬のようだ。向こうもこちらに気がついたようで、3匹とも歩きを止めた様子。100mほどの距離に近づいて見れば、間違いなく3匹の犬だった。先頭の1匹は一番大きな柴犬のようで後ろの2匹は1匹が同種の柴犬だがちょっとサイズが小さい。もう1匹は別種のようで足がちょっと悪いようだ。先頭の親分肌の柴犬が立ち止まり私と目が合うと同時に後ろの2匹に振り返って「どうする?」と相談したようだ。私はグッと手に持っているステッキに力を入れた。私は「この犬達は野生ではなく、桑原の村に帰る途中なのだ。従って人間慣れしているから、黙って何気なく通り過ぎれば襲って来ないだろう。絶対に脅してはならぬ」と考えた。私は硬直した人間のように、まっすぐ前方を見たまま犬達とすれ違った。ステッキに最大の力を込めて何も起きませぬようにと祈りながら。すれ違って少し離れてから後ろをそ〜っと振り返ると、3匹の犬達も首を高く伸ばしてこちらを見ていた。ハラハラ、ドキドキの瞬間だったが、やはり通過した村の名前が良くない。クワバラ、クワバラ。
<平良集会場前にて休憩>
<街道にたった1軒の山本酒店>
ハプニングの後、道は次第に下り坂となり次の集落「平良(へら)」に入るころは午後2時になっていた。また雨の降りが激しくなって来たようで、平良集会場の玄関先の軒で雨宿り休憩を取る。5分ほどの休憩の間に目の前を通過した車はゼロで、平良集会場のバス停の脇にある赤い郵便ポストも、玄関先にある緑色の公衆電話も何か無意味に感じてしまうほど、何とも静寂仕切った空間だった。ただただ雨が落ちてくる音だけが聞こえる。次の集落「小川(こがわ)」に入ると、この街道を歩いてきて初めてのお店らしいお店「山本酒店」が現れた。お店の方とお話できればとガラス戸を覗き込むも誰もいない様子だ。しかし庭にいる飼い犬が気が狂ったように吼え続けているので、余りの煩さに急いで退散と相成った。

ここから10分も歩くと左手、川の反対側に「渓流釣り堀」が見えてくる。雨の中でも釣りをしている数人がポツンポツンと見える。道脇に「ここから京都市」との道路標識があった。さらにそこから10分ほど歩くと、針細川が久多川と合流する「川合町」の分岐のところに到着(15時40分)。二つの川はここで安曇川となって琵琶湖に流れ込んでいる。私はこの分岐を右折して、本日の民宿「ダン林」がある「久多・宮の町」に向かう。雨はまだ激しく降っている。道は広いアスファルトの自動車道に変わっているが、上り傾斜が厳しい。途中民家のガレージの軒を借りてひと休憩。シトシト降り続けている雨が恨めしい。

<これより京都市>
<川合の分岐を右折>
<庇のあるガレージにて休憩>
アスファルト道を上りきると、その先に大きな集落が現れる。ここが宿のある「久多」の町だ。最初に郵便局が現れるが、そこがT字路になっていて鯖街道は左に曲がって「オグロ坂峠」の登りになるのだが、明朝はここまで戻ってくるわけだ。宿を目指す私はそこを直進、川に沿って走る道の片側に建物が繋がっており、郵便局の次が警察の派出所、そして次がコンビニ、その次が病院と学校、そして農協と続いていて、やっと人の生活を感じる町にたどり着いたという感じがした。道は「志古淵神社」に突き当たりそこを左に少し入ったところに今日の宿「ダン林(だんばやし)」があった(16時35分)。
<志古淵神社>

民宿「ダン林」の入口の前に立って驚いた。目の前に巨大な茅葺屋根の母屋、その前に立派な御成門と、江戸時代の武家屋敷そのものの姿。おもわずデジカメを出してパチリ。

門を潜って玄関先に来て大声で「もぉ〜〜し、お頼み申す。どなたか居られませぬか」と言いたくなったが、ふっと我に戻り玄関障子を開けて暗い奥に向って「すみません。ごめんくださ〜〜い」と言った。

すると奥の方から低い男性の声で「はい」と聞こえた。私の体は雨でビッショリ、スニーカーはしっかりと水分を吸い込んで色を変えており、帽子の鍔先から雨の雫がポタポタと垂れている。とっ、その時私の後ろに和服姿の男性が立っていた。

<民宿【ダン林】の入口>
私は「ドッキン!」とビックリさせられ、慌てて「私は今日予約を入れている宮原です」と言うと、その男性は静かに、「あ、そうですか。そこの下駄箱に履物を入れて、どうぞ上がってください」という。後で分かったことだが、この男性がここのご主人の壇林氏で、台所から裏を回って玄関側に出てきたものだから、私の後ろに突然現れた格好となり驚かされた訳だ。

一番奥の和座敷に通される。まずはズブ濡れの雨具、衣服を脱いで部屋の隅にある衣架(和風ハンガー)に掛けた。部屋の中央には炬燵が用意されていて中はほのかに暖かくなっていた。薄く開けられた雨戸の間から外の光が差し込んでいる。ガラス戸などは無い。雨戸と障子だけで外の寒さを凌いでいるのだ。だからだろうか、まだ部屋の隅っこに石油ストープが置いてあった。
部屋を見回せば、書院造りを思わせる丸窓付きの床の間、床の間の達磨掛け軸、隣部屋と区切る襖絵、その上に木をくり貫いた欄間、そして鴨居に掛かっている額や古い白黒写真と、何もかもが重要な文化財のようで、じ〜〜っと静かにしていると江戸時代にタイムスリップしてしまいそう。

3つの和室を通り過ぎ、土間になった台所の側を通って、教えられた風呂場に行く。風呂を浴びた後で台所を覗いて飲み物の注文をする。ビールは大瓶とのことなので、一人では飲みきれないだろうと焼酎のロックをお願いした。ここの料理は「鶏づくし」だそうで、お客様があると、自分のところで飼っている地鶏をその都度ご主人が料理して出すそうで、奥様が運んできた料理は、「鶏刺し」、「鶏すき焼き」そして「若菜のてんぷら」など。それに「これを適当に飲んでください」と芋焼酎の一升瓶がデ〜〜ンと用意された。

<江戸時代にタイムスリップ>
<コタツから中庭を眺める>
<鶏料理と野草のテンプラ>
この部屋に入ってからズ〜ット気になる匂いがあった。この匂いの原因は部屋を照らす蛍光灯に集まる「カメムシ」ではないかと推理していた。蛍光灯に集まってくる虫を一つ一つ捕まえながらティッシュペーパーに包んで「ギュッ」とつぶして殺すのだが、やはりあの強烈な匂いが襲ってくる。何度も石鹸を使って手を水洗いするも匂いが消えていない気がするのだが、部屋の匂いの原因はどうやら「カメムシ」君であると確信できた。今日の歩行は36204歩、21.72kmとなっていた。今夜もお陰さまでぐっすり眠れそうだ。

<鯖街道 最終編へ>   <TOPページへ>