<後の章>

七月十七日、高城(たき)修三氏の市民公開講座『連歌の可能性について・連の楽しみ』を聞きに行って来ました。講演の中で、連歌、俳諧、俳句の歴史に触れ、私には“驚きと発見”がありました。その内容を七月二十一日次のような内容でブログに掲載しました。

私の“驚きと発見”をかいつまんで下記に述べたいと思います。

・俳句は歴史の浅い「近代文学」である。

・芭蕉も俳諧をやっていたのだ。

・連歌・俳諧はみんなで作る句集だから「開かれた文学」である。

・正岡子規が西洋近代文学の視点から「連歌形式は文学にあらず」と否定。 連歌の付句を廃止し

  発句を「俳句」と改め 「作者の個性で閉ざした文学」とした。そして七百年の歴史を持つ連歌・

  俳諧は忘れ去られる。

・子規の弟子「高浜虚子」が師に背けず、俳諧をそのまま擁護できず、「連句論」 として展開し、

  現在に至る。

さて「連歌」の面白さは発句(五・七・五)から次の人が「脇」(七・七)を詠い、そして次の人が「第三」(五・七・五)を詠み次に四句(七・七)、五句(五・七・五)〜と順々に続け「挙句」まで行くのですが、これらが繋がって一つの物語となるのです。(つまりこれが「連」の楽しみです。)

この連句が重なって行くに従って前の句の意味が全く変わって行くのです。そこが大変に面白そうですね。

連句・俳諧はこのように大勢の人で繋げてゆく面白みがあった訳ですが、発句のみにしてしまった俳句は季語と「切れ字」で面白み(驚き)を表現することになったようです。

つまり俳句(発句)の作り方のヒントは、(五)+(七・五) あるいは (五・七)+(五)と切れ字で分かれ、その二つを結びつけるワザだと言う事になりませんか。 つまり上手に二つを繋いでとんでもない味をだすワザなのです。

つまりは「料理」や「服装」と同じ感覚だそうです。

有名な俳句でもそんな経緯を辿ってきているのだそうです。例えば、「蛙飛び込む水の音」(七・五)の驚きは「蛙鳴く」ではなく「飛び込む」としたところだそうだが、その上が「やまぶきや」もあったそうな。

「岩にしみ入るセミの声」も同様に、上に「山寺や」もあったそうな。それらの上が「古池や」そして「閑かさや」に収斂し世の中に残る名作となったと言われています。

だから俳句の作り方の要領として、まずは普通の現象・出来事をまず書き出しておいて、もう一つの方を驚きなる言葉を探し出し、その二つを組み合わせて驚かすように(自己満足だが)作ったらいいのではなかろうか。こう考えると何かすんなりと俳句が創れるような気がして参りました。

〜ってな事をブログに書いておりました。

今年は七月二十五日から名古屋の弟夫婦と長野・西尾張部にある菩提寺「光蓮寺」に墓参に行って参りました。静まり返った広い本堂で住職の読経が始まると、母との色々な想い出が蘇って参ります。

母はお盆の入りに玄関先でシラカンバをお線香と一緒に焚きながら、「おじいさん、おばあさん、この灯りでおい〜〜で、おい〜〜で」、そして盆の明けには「おじいさん、おばあさん、この灯りでお帰〜〜り、お帰〜〜り」と小声でご先祖さまをお迎え、お見送りしておりました。そんなシーンを思い浮かべて;

    シラカンバ燃やして想う母の声

そして平成十七年八月、母が脳梗塞で倒れて飯田橋の警察病院に入院していた頃、私の勤め先のオフィスが九段坂上にあり、昼休み時に毎日靖国神社お参道を横に突っ切って早稲田通りを神楽坂方面に下って警察病院に母を見舞っておりました。今年の夏も記録的な猛暑でその頃を思い出しながら次の句が生まれました。

    靖国の灼ける参道蝉しぐれ

この句は八月の「インターネット句会」に五句投句した内の一句ですが、八百三十九句の中で一点頂けました。そうして今回投句五句の内二句が選句されたという、私には初体験でした。そのもう一句は、

    枝豆でステテコ観戦甲子園

一方、「仲間句会」の【夏編】に投句した中で最高得点三点を頂いた句に、

    盆休み畳に大の字昼下がり

上の二つの句を詠んでつくづく思ったのですが、他人の方々に共感頂くのは、やはり枝豆であり、ステテコであり、畳に大の字なのですね。私も他の方々の俳句を選句する際に、やはり自分も同じような体験があるとか、自分と同じような環境を詠っている俳句には一目おいて選んでしまいますよね。特に難しく故事に絡ませたり、古語を使ったり、何か無理して五七五にしているような句は魅力に欠けるように思いませんか。

松尾芭蕉も晩年になって次のように言っていたそうです。

   『風雅な世界から離れ、洗練されていない粗野な句(これを「粗び」というそうです)でも、また軽

    くて俗っぽい句(これを【軽み】というそうです)でも、高雅な句では表現できない詩情が表現さ

    れることがある』

九月に入りますと、何となく秋の季語を使って句を創りたい気候になってまいります。そしてまずは「歳時記・秋編」を開き、使ってみたい季語を選んでおきます。季語「宵闇」が気に入って次のような句を創りました。

    宵闇やフランク永井思い出す

選んだ季語から生まれ、「仲間句会」に投句して選句頂いた句に次のようなのが有ります。

    路地に出て赤子寝かせる秋の暮

    静寂が戻るガレージ燕去る

我家のそばに一階をくり貫いて車が二台ほど入るガレージにしている家がありますが、そのガレージの中の蛍光灯の笠の上に燕の巣があります。毎年五、六月ころに燕が巣に戻ってきて卵を産み、やがて雛に返る夏ころになると、子が親に餌をねだる鳴き声が騒音のように聞こえてきます。しかし夏も終わるころ、子燕は巣立ちをしたのでしょうか、突然に全くの静寂が戻ってくるのです。そしてその巣をよく見るともう親燕も居なくなっておりました。

九月の真っ青に晴れ上がった朝、布団をベランダに出して虫干しをしました。布団が日焼けしないようにその上に真っ白なシーツを掛けておいたのですが、暫くするとそのシーツに赤トンボが止まっておりました。

    陽だまりの白いシーツに赤トンボ

この句は「インターネット句会」と「仲間句会」の両方に投句してみたのですが、インターネット句会で一点、仲間句会で二点取得出来まして、二つの句会で選句された初めてのケースでした。頭で考えて創った句より、状況を見てサラット出て来た句の方がむしろ味が出て他人に受けるのかも知れませんね。

そうしてこの月には両方の句会にて同時選句されたもう一つの句が有ったのです。それは、

    外灯に気づく釣瓶落としかな

仲間句会でこの俳句を選句してくれた方が「季節感がよく出ていると感じました」とコメントを添えてくださいました。晩秋の候ともなると、陽が短くなり、夕方になると我家の玄関の外灯の光が煌々と照らしているように感じたときの句です。同時に創った句にこんなのもあります。

    街灯が引き立つ釣瓶落としかな

十月十四日 友人と奥武蔵自然遊歩道(西武鉄道・高麗駅〜巾着田〜日和田山〜新しき村〜武州長瀬駅)を歩いてまいりました。高麗駅を降りてすぐに高麗川が大きく蛇行して「巾着」の形をしている「きんちゃく田」に出ますが、そこは“彼岸花群生地”として有名ですが、私が訪ねた時には彼岸花は終わっていて、それに代わってコスモスが一面に咲き誇っておりました。そこで一句。

    きんちゃく田名物去ったら秋桜

釜北湖を通過して東部越生線・武州長瀬駅に向かう途中に武者小路実篤が昭和14年に作ったと言われる理想郷「新しき村」を通ります。ボランティアでこの村の案内役をしておられる方に村内を案内してもらった後で、彼が挑戦している“竹の炭焼き現場”に案内してもらいました。そんな光景から次のような句が生まれています。

    秋高し炭焼きの煙武者の村

    武者の村竹の春に炭づくり

日が西に傾くころこの村を後にしましたが、駅までの帰り道、道の脇で持ち主不明と思われる柿の木に真っ赤になってぶら下がっている柿の実をもぎりとって被りつきましたが、それが甘柿でホットしました。そして小高い峠を抜ける処では、私の背丈ほどに伸びたススキが秋風にユラユラとなびいておりました。

    人おらぬ柿をもぎって畦をゆく

    峠越え我が身より高い芒かな

十一月に入ると季語は冬になりますが、歳時記の冬版を眺めていてもなかなか俳句を創る気分が生まれて来ません。その理由を考えて見ますと、気候的に寒くて野外に出て吟行をするような雰囲気ではないのは確かですが、もう一つの理由に惹きつけられる季語が少なく、たとえば「冬〜」や「枯れ〜」が頭に付く季語が多すぎるように思います。更には現代生活からはすでに死語になりかけているような季語が多い為なのかも知れません。

十二月に入って新聞に載っていた小さなコラムに目が留まりました。最近、平城京の跡地で九九が記載された木簡が発見されたことに関連した記事で、次のように書かれておりました。(毎日新聞十二月七日「余禄」より)

  『奈良時代に編まれた「万葉集」に用いられた万葉仮名にはクイズか謎掛けみたいなのがあ

   る。「山上復有山」と書いて「いず」と読ませるのは、「山」の上にまた「山」が有るから「出

   (いず)」というわけだ。 「十六待如」は四四十六だから「鹿猪(しし)待つごとく」と読む。

   「八十一隣之宮」で「くくりのみや」で美濃の泳(くくり)の宮のことだ。歌を詠むのにも頭をひ

   ねらねばならなかったのだ。つまり万葉の時代には九九が言葉遊びになるほど普及していた

   のが分かる。(以下略)』

この記事には驚きと共に面白さを感じました。奈良時代には九九を使って計算をするケースは希でしょうが、むしろ九九の小気味いい調子が歌創りの世界で好かれたのかも知れません。早速自分も真似して俳句を創りたくなりました。(3X3=九)

    九花の風にひらひら白模様

この『雑詠綴・後の章』の始めの部分で「連歌の可能性」について述べておりますが、今日の俳句は俳諧の発句が独立して誕生したのであるから、俳諧の発句のあり方とか約束を当然備えていなければならないと言う。俳句の約束として(1)五・七・五の十七音からなる定型詩、(2)自然や風土・風物の正しい季節感を詠みこむ事、つまり季節を明示する詞、季題、季語が必要という事になります。

すなわち俳句を一言でいえば、「十七音を基調とした有季定型詩」と言えましょう。
(参考:『俳句への第一歩』(社)俳人協会著)

しかし私は考えました。魅力に欠ける季語ばかりの「冬」の場合は、十七音全体で「冬」を詠っていることが表現出来ていれば、あえてそこに季語が無くとも良いのではと考えました。そんな考えから生まれたのが次の句です。

    風つくる銀杏葉舞って黄色みち

師走のど真ん中、私は車で本郷通りを駒込方面に向けて走っておりました。本郷通りの街路樹は銀杏の木が多く、昨夜からの突風で落ちた真黄色の銀杏の葉が地面を覆っており、時々吹く風で木々からひらひらと太陽光に照らされながら舞い降りてくる葉の姿は格別に美しく、あたかも真黄色の絨毯の上を走っている感覚でした。「銀杏散る」(秋)「銀杏黄葉(いちょうもみじ)」(秋)や「銀杏落葉」(冬)という季語はありますが、東京では銀杏の葉が黄色になるのは十一月後半からであり、つまり冬に入ってからとなります。そこで、あえて「銀杏」と「黄色」とを使って「冬」を詠いました。そして「仲間句会」でお二人から選句して頂けました。

そして私の大好物で冬を一句。しかし「法隆寺」を連想しないでください。

    牡蠣食えば北の荒海親不知

ふっくらと盛り上がった肉の厚い生牡蠣を食べた時、「塩の道・一人行脚」で最終地・糸魚川市に辿りついてその夜市内のお寿司屋で、そこの店長が朝早くに親不知の岩場の突端に出て素もぐりで採ってきた靴サイズもありそうな生牡蠣にかぶり付いたあの時が思い出されるのです。

年の瀬が迫って来ると何かと慌しく感じてしまいます。忘年会も多くなり、そしてジングルベルの音、大掃除をやらねばという義務感などなど。この一年を振り返りますと、それにしても本当の政治家が居らず政治屋ばかりの日本、この政治の貧困さには気分をず〜〜っと滅入りさせ続けました。そんな年の暮れ、次のような句が生まれておりました。

    暗闇の行き先見えぬ年の果

自殺や孤独死が多い昨今ですが、先日のテレビで「こたつ」や「火鉢」が大ブームになって来ていると報道しておりましたが、きっと今のような殺伐とした無機質な時代から、徐々にではありますが私達が子供の頃にあったこころ温かな時代に戻って行くように感じます。

    静けさや火鉢の回り赤い顔

それでも我が家にとっては 今年は「初孫誕生」という幸せな年でありました。

    行く年や我にもうれし孫誕生

いよいよ今年も数日を残すタイミングとなると大掃除に入ります。今年も昨年同様、仏壇のお磨き、外窓ふき、外階段の掃除、そして外壁のスス落としなどをやりこなして年を越します。ワイフはおせち料理作りに腕を振るいます。

    過去帳のほこり払って年の暮

『翠敏四季句雑詠綴』も新年の俳句からは始まり、春、夏、秋、冬と四季を経てまいりました。そして今、新しい年二0一一年(平成二十三年)兎年を迎えました。正月休みの間に創った数句をここに載せて雑詠集の締めと致します。

    東海道朝からテレビ二日かな

毎年恒例の「箱根駅伝」を今年も楽しみました。

    選択の余地無し御節の三日かな

もう正月三日の夕飯となると、残っているおせち料理の種類が限られてきます。そしてワイフの毎日の食事作りの悩みが例年通りにスタートするのです。

そして不思議なものです。次の句は「仲間句会」では選句されませんでしたが、何と「インターネット句会」の方では九百二十一句の中から一点選句されていたのです。

    耳元でウサギ年だよおっかつぁん

きっと選句して頂いた方もお父様か、それともお母様か、どなたかを介護なされている方なのか知れませんね。「新しい年が来ましたよ! さあ、この一年もまた元気で頑張ろうね!」と耳元で大声で伝えたかったのでしょう。本当に俳句とは不思議なものですね。だから創る楽しみが有るのかも知れません。

そして新しい年の句会も始まります。

    顔見せぬ電波に乗せて初句会

<おわり>

<前の章>へ

Topへ戻る