『第4回:文京を歩くかい』の【雑学集】 

@「巣鴨」って何だ?

「おばあちゃんの原宿」だから駅前マクドナルドの店ではポテトを“おいも”、チキンを“とりにく”と呼んでいる。店内には“シルバーシート”がある。東京で有数のピンクサロン街である。国会議員などは「ここは穴場」として数少なく残っている料亭を使っているらしい。

 戦後久しく、無線関係を扱うものにとってはメッカ的存在で、巣鴨駅周辺には数多くの無線機器や電子パーツの専門店があった。ここから沢山のショップが秋葉原に進出した。「日本アマチュア無線連盟」の本部は今も巣鴨にある。

 巣鴨出身の有名人: 大原麗子、愛川欣也、高木ブー、宮城けんじ(漫才)

A「染井霊園」に入ったら次の人物の墓を探してみよう。

岡倉天心(美術家)、司馬江漢(浮世絵師)、松平定明、高村光雲(木彫刻家)、高村光太郎、高村千恵子、二葉亭四迷

ここは桜「染井吉野」の発祥の地。園内には約100本のソメイヨシノが植えられている。

  

B「飛鳥山公園」ではアジサイを探せ!

8代将軍「徳川吉宗」が今から280年前に江戸っ子たちの行楽地として【桜の名所】を造った。(「享保の改革」の施策の一つ)

しかしこの時期は、山手線線路側斜面の【アジサイ】が見ごろだといいのだが!

時間があれば「紙の博物館」で「雨にも負けない紙」の特別展示を見てみましょうか。

  飛鳥山は「東京都で一番低い山」で 愛宕山(25.7m)より低いが測量結果は公表されていない。本日午後、東京で最も高い山を登る予定でその名は「待乳(まっち)山」。ところで山の定義は“周囲から独立的に突起した地形を山という”。従って「上野の山」は山ではなく台地である。

C北区の「一里塚」とは何だ?

  「国指定史跡文化財」だそうだ。今歩いている道は「日光御成道(おなりみち)」で日本橋から丁度2里にあたる位置。江戸時代の塚の旧位置をそのまま留めているのは東京ではここのみ。江戸―岩槻間を「岩槻街道」とも呼ぶ。大正時代に道路整備計画により撤去されそうになるが“渋沢栄一”(幕末幕臣、明治初期大蔵官僚)等を中心とする運動によって塚の保存がなされた。

D「正岡子規」トピックス (後ほど「子規庵」を訪ねますが)

● 明治時代を代表する文学者(俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆)

● 愛媛県松山市花園町で松山藩主の長男として誕生(1867)、1884 17歳の時東京大学予備門へ入学、夏目漱石、山田美紗、尾崎紅葉と同級。

● 日本に野球が導入された頃の熱心な選手で、ポジションは捕手。野球用語を日本語に訳したのは正岡子規で、野球の普及に多大に貢献したとして、2002年“野球殿堂入り”している。

● 「子規」とはホトトギスの異称で 結核を病み喀血した自分を“血を吐くまで鳴く”といわれるホトトギスに喩えたもの。

E「室生犀星」トッピクス 

● 私生児として金沢に生まれ、寺院住職の内縁の妻に引き取られ7歳で室生家の養子となる。「お前はオカンボ(妾)の子だ」といじめられ、その生い立ちが文学に深い影響を与えたと言われている。

● 「犀星」は金沢で活動をしていた漢詩人“国府犀東”に対抗して“犀川”の西(せい=星)に生まれ育ったことから付けた筆名という。

●  金沢が生んだ三文豪の一人。 他は「泉鏡花」、「徳田秋声」。

● <代表作>「性にめざめるころ」「あにいもうと」、「杏っ子」
          『ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの』
          と歌って金沢にはほとんど戻ることは無かった。

F「芥川龍之介」トッピクス 

● 明治25年、京橋の牛乳屋の長男として誕生、大正8年に結婚、数年後から神経衰弱、腸カタルなどを病み、35歳にして「ただぼんやりした不安」との理由を残し田端の自室にて服毒自殺。後に芥川の業績を記念して「菊池寛」が“芥川龍之介賞”を設ける。

● 死の前日 室生犀星を訪ねたが犀星は雑誌取材のために上野に出かけて留守。

もし犀星に会えていれば龍之介は自殺していないかも?

● 龍之介の主治医は田端で近所付き合いの「飯島薫(雅号:空谷)」であり生まれは伊那谷の中沢村。龍之介は伊那谷を徘徊していた俳人「井上井月」の生き方に関心があった。一方偶然ながら空谷は子供の頃、家に訪ねてくるこじき俳人「井月」に向かって石を投げてからかっていたという。そんな関係から龍之介は空谷に連れられて伊那谷の井月の墓を訪ねている。

● <代表作>短編小説であることが特徴。「羅生門」「鼻」「芋粥」、「地獄変」

       「河童」など

G「幸田露伴」トピックス (作品「五重塔」跡地はこの後回るが)

● 明治文学の一時代を築く。尾崎紅葉との黄金時代を「紅露時代」と呼び、これに坪内逍遥、森鴎外を加えて「紅露逍鴎時代」ともいう。

● 16歳で逓信省電信修技学校に入り卒業後電信技士として北海道余市に赴任。

しかし坪内逍遥の「小説真髄」「当世書生気質」に感化され文学の道へ。

● 大正13年に伝通院近くの小石川に移り、戦後は千葉県市川市にて昭和22年他界、享年79歳。娘の幸田文(随筆家)が今も小石川の家に住んでいる。
文の子である幸田玉も随筆家でまたその子である幸田奈緒はエッセイスト。

H「子規庵」と「子規堂」

  子規を知るなら松山・道後温泉にいらっしゃい! そして正宗寺境内にある「子規堂」を訪ねられたし。松山は子規の生まれた地。司馬遼太郎は「坂の上の雲」での主人公の一人に子規を書いている。(他の2名は秋山好古と真之兄弟)

I「樋口一葉」トピックス 

● 5000円紙幣をジ〜〜ット見ても確かに美人の相だ。彼女が小説を書き始めるきっかけは「半井(なからい)桃水」という小説家でこれまたビックッリする美男子!和歌は後楽園そばの安藤坂にあった中島歌子の「萩の舎」に入門。

● 彼女はすごい近眼のため細かな仕事が不得意で、小説で当たれば大きな金が入ると小説家を決意し20歳で「枯れ尾花一もと」を執筆。しかし何と明治29年11月23日、24歳8ヶ月の若さで死去。(残念!)

● 一葉にもいくつかの縁談話があったようだが、その一つ、夏目漱石の長兄・大助を結婚させようとの話が持ち上がったが、一葉の父が漱石の父(直克)にチョクチョク借金を申し込んでくるので、直克が「上司と部下というだけで、これだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚関係になったら何を要求されるかわかったものじゃない」と言って破談にしたという。

J「堀辰雄」トピックス

● 昭和初期に活躍した作家。東京帝国大学文学部国文科。1930に「聖家族」で文壇デビュー、その頃から肺を病み、1934(昭和9年)矢野綾子と結婚、彼女も肺を病み翌昭和10年に二人で八ヶ岳山麓・富士見高原療養所に入院、彼女はその翌年他界、そのときの作品が「風立ちぬ」。

● <代表作>「美しい村」「風立ちぬ」「かげろう日記」

● “長野県 八ヶ岳山麓・富士見高原療養所”で思い出したが、美人画の巨匠「竹久夢二」も昭和9年9月1日 その療養所で49歳の若さで逝去。昭和9〜10年の偶然に驚き、この時代は確かに結核は不治の病であったのだ。

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