『第5回:文京を歩くかい』の【雑学集】   2009.4.18

@ 湯島聖堂: 上野の山にあった林羅山の私邸内の孔子廟が1690(元禄3)年に5代将軍徳川綱吉によって湯島に移築され「聖堂」と呼ぶようになる。1797(寛政9)年、幕府の官立「昌平坂学問所」となる。“昌平”とは孔子が生まれた村の名前で、そこから取って「孔子の諸説、儒学を教える学校」として名付けられた。

A 神田明神: 江戸東京に鎮座して1300年近くの歴史を持ち、神田(下町の元祖)、日本橋(老舗が集まる江戸文化の町)、秋葉原(ITとサブカルチャーの町)、大手町、丸の内(日本一のビジネス街)など108の町々の総氏神様。御祭神が3人もいる贅沢な神社で“一之宮”が縁結びの神様のオオナムチノミコト【だいこく様】、“二之宮”が商売繁盛・開運招福のスクナヒコナノミコト【えびす様】、そして“三之宮”が平将門ミコト様で除災厄除の神様。1600(慶長5)年には徳川家康が天下分け目の「関が原の戦い」に臨む際に戦勝のご祈祷を行い、その結果9月15日、神田祭の日に見事勝利して天下統一を果たせたという縁起のいい神社。

B 鳥越神社: 蔵前橋通りに面し1350年の歴史をもつ神社だが、知名度と比較してあまりにも質素なたたずまいに驚く。“鳥越まつり”は6月初旬に行われ東京一重いと言われる「千貫神輿」の渡御が有名。この神社の起こりは、平安時代この小高い丘「白鳥山」の上に建つ「白鳥明神」として奉祀され、主祭神は「日本武尊」。鎌倉時代になって「鳥越神社」と名付けられたが、その謂れは源氏親子が東国に向かうとき、この武蔵の大川(隅田川)を渡るのが難しく大いに苦しんでいる時、白鳥が飛んできて川の浅瀬に下り立ち、そこなら対岸に渡れることを悟してくれたとして、これは白鳥明神のご加護であるに違いないとして「鳥越神社」という社号を奉ったという。

C 吉良邸跡: 1702(元禄15)年12月14日は、赤穂浪士(兵庫県・赤穂市)が吉良邸に討ち入り、見事本懐を遂げた日。槍先に吉良上野介(江戸鍛冶橋生まれ)の首を結びつけ、吉良邸裏門から「回向院」に向かい、そこで追っ手に備え、次に両国橋の下から舟で移動を予定していたが、舟主たちが関りあうのをいやがる。やむを得ず陸路で隅田川東岸を南下し、浅野内匠頭の墓がある泉岳寺に赴き“さらし首”を墓前に供える。このとき浪士たちが歩いた、本所―深川―永代橋―霊厳島―鉄砲洲ルートは、今日私たちが歩く道のりとほぼ同じです。

D 松尾芭蕉と歌川(安藤)広重: 歴史上で隅田川・深川地区で超有名なお二人。

■芭蕉は1644(正保元)年、伊賀上野生まれ。若くして江戸・日本橋に出て、1680年に隅田川沿い万年橋の脇にあった弟子(杉山杉風=さんぷう)の住処(生簀の番小屋)に移り住んだ(現在の「芭蕉稲荷神社」の地)。周りに芭蕉の株が生い茂っていたことより“芭蕉庵”とよばれた。『古池や蛙飛び込む水の音』 51歳で没。

■ 江戸時代以前は『名所』と書いて「などころ」と読み、和歌のなかに詠まれる地名のこと。京都では、はるかな武蔵の地を思いながら作られた和歌に隅田川や待乳山(まっちやま)などがよく出てきた。江戸の後期に江戸名所を描いたのが、歌川広重の浮世絵『名所江戸百景』シリーズ。百景というが作品総数は118点でこのうち29景が隅田川沿い風景で約1/4も占めている。

E 辰巳(深川)芸者: 花街(かがい)とは芸者街で置屋と料亭の営業が許可されていた街。そして各花街には「見番」という組合事務所があり、芸者衆を抱える家(置屋)と料亭の間を取り持っていた。江戸幕府から吉原の芸者だけ特に「芸者」と名乗ることを許可され、ほかの土地(岡場所)の芸者は「町芸者」と区別されていたようだ。町芸者のランキングは一等地=柳橋・新橋、二等地=芳町(人形町付近)、三等地=烏森・日本橋、四等地=深川・神楽坂、五等地=赤坂・向島・浅草。深川は江戸城から辰巳の方角にあるので辰巳芸者と呼ばれたが、周りが木材問屋の多い木場で巨利を得た連中が色町で財を散じた。木場の連中を相手にする芸者も威勢がよく人気があったそうだ。この地での大物(お大尽)は「紀伊国屋門左衛門」であった由。

                       [参考:雑誌「江戸連」平成21年3月号]

F 深川丼: 飯の上にアサリやハマグリとネギなどの野菜を煮込んだ味噌汁をかけた丼のこと。隅田川の河口あたりはアサリがよく取れたので、江戸時代末期の深川の漁師達には、簡単に作れてすばやくかき込めるメシとして好まれた。私も冬場、ゴルフに行く早朝などに、昨晩の味噌汁を温め、それをご飯の上にぶっ掛けて食べる事があるが、いわゆる「ネコめし」だが味は似ているのであろう。

G 富岡八幡宮: 1627(寛永4)年に当時永代島と呼ばれた現在地に創建、周辺の砂州一帯を埋め立て広大な社有地とし、江戸最大の八幡様。特に毎月1、15、28日の月例祭は縁日が開かれ大変な賑わい。例祭は8月15日を中心に開催され「深川の八幡祭り」とも呼ばれ、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つ。平成3年に完成した日本一の「黄金大神輿」は有名。

H 小津安二郎: 1903(明治26)年 深川万年町(現在江東区深川1丁目)に生まれる。20歳のとき、松竹キネマ蒲田撮影所に撮影助手として入所。27歳で監督に昇進し、第1作が『懺悔の刃』の撮影中に予備役で入隊。1942(昭和17)年に『父ありき』で第一回日本映画賞を受賞。小津は生涯で54本の作品を残している。

その作品の中でロンドン映画祭第一位を受賞した「東京物語」を先日DVDで観賞した。

昭和28年放映の白黒映画で私が小学生の頃の作品。終戦後、急成長する東京に暮らす子供たちのところに尾道から老夫婦(笠智衆と東山千栄子)が訪ねて来るが、滞在が長引くと両親を持て余してしまう。そんな状況に居づらくなって予定より早く尾道に帰ってゆく老夫婦。特に老夫婦が子供たちの家で時を過ごしているとき、現代のようにTVも無いので、ただただ二人で団扇を煽りながら会話も少なくボーットしているシーンが何とも言えない味をかもし出す。ゆっくり、ゆっくりと時間が進行してゆくのだが、そこに本当の夫婦愛そして人間味が表現されていると思うが、これが「小津調」と言われるところだろうか。しかし今の築地にはこの雰囲気は残念ながら残っていない。

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