エッセイ集『伊那谷と私』発刊記念スピーチ 

日時:平成17年6月13日 (月) 18:00 〜 19:30

     場所:早稲田大学国際会議場 4階共同研究室7

     発表者: 丸紅インフォテック(株)  顧問: 宮原一敏 

     題目: エッセイ集『伊那谷と私』発刊に際して

          副題: “21世紀は こころの時代”

◆ それではただ今より スピーチに入らせて頂きます。今日は急遽ピンチヒッターの私が「肩の張らないお話」という内容で1時間半 お話したいと思いますので御付き合いのほど御願い致します。本日このようなラッキーな機会を頂けましたのも実は御手元の「この本」のお陰なのであります。そして この本は この「セールス・フォース・マネージメント(SFM)研究会」によって生まれたといって過言ではございません。 そこで今日の最初のテーマ、この【伊那谷と私】が生まれた背景について紹介させていただきます。


<目次>

1) 拙著「伊那谷と私」が生まれた背景
2) 伊那谷について
3) 「伊那谷と私」を通して表現したかったこと
4) 『伊那谷と私」を通して私の想い: 21世紀は“こころの時代” 

1)拙著「伊那谷と私」が生まれた背景

  この研究会との出会いと これまでの3回のスピーチについて振り返ってみたいと思います。

● SFM研究会との出会い(1983年)と3回の講演の機会

  実は私がSFM研究会に参加させて頂いたのは何と22年前の1983年、昭和58年でございます。実はこの研究会の理事長であられる城市先生とは その10年前の昭和48年、学芸大学のあるスナックにてお知り合いになり、そのスナック主催のゴルフコンペに参加したりして飲み仲間として親しくお付き合いをさせて頂いておりました。昭和53年(1978年)の6月私がシカゴに転勤、5年弱の海外駐在を終えて昭和57(1982)年に日本に戻り、またまた学芸大学のスナックで城市先生とお会いし、「実は早稲田大学で異業種の仲間が集まって勉強会をしているが、君のシカゴでの駐在経験を発表してみないか」と誘われました。「人の前での発表など無理ですよ!」とスナックでお会いする度に逃げていたのですが、遂に城市先生の誘いの熱情にほだされ、いや私が酒の勢いで「それではやらせていただきましょう」ということになって、お受けしてしまったのです。

  第1回目: 1986(昭和61)年 1月 9日

        テーマ:「外から観た日本」

この“日にち”からお分かりのように 正月明けての初っ端の勉強会だったのです。つまりまだこの時代には恒例の田中由多加先生の「この年を斬る」という新年講演が無かったのですね。そして次のスピーチの機会は それから11年後の;

  第2回目: 1997(平成 9)年 9月18日

        テーマ:「我社における知力経営」

9月ですから、この日は関東地方に台風が襲っておりまして、皆さんが雨・風にやられビショ・ビショになって到着、スピーチ開始も30分遅れとなっことが思い出されます。この時は私が第2回目の海外駐在地 シンガポールから帰国して 丸紅からロジテックというPCや周辺機器の製造メーカーに出向しており、その専門メーカーであるロジテックにおける「知力経営」についてスピーチさせてもらいました。まだパソコンも“はしり”で オーディオ装置を例に周辺機器を説明させて頂いたのを覚えています。わずか8年前ですが、コンピュータ概念は まだまだ大衆には浸透していなかったのです。

  第3回目: 2004 (平成16)年 9月16日

        テーマ:「企業不祥事と継続企業の条件」

さて3回目は昨年9月に 長ったらしいテーマ「企業―――」という内容でお話させていただきました。これは今から3年前に「常勤監査役」になってその1年半の体験から「疑問に思っていること」をテーマに話させて頂いたのですが、その話しの中で 本日の “副題:21世紀は心の時代” というテーマでお話させて頂きました。今日の後半でこのテーマについて再度お話させて頂こうと思っています。

◆この駄本の出版に至る背景には 他に自分の環境変化として次のような事が起っておりました。

● 50の手習いと油絵(1995年)とホームページ(HP)製作への取組み(1999年)

50歳に突入した平成7(1995)年 つまりシンガポールから帰国したその年の12月 家族から「お父さん 定年迎えた時 ゴロゴロする“粗大ゴミ”にならないでね!」と忠告され、「ドキッ!!」として私は 雑誌「ケイコとまなぶ」を買ってきて油絵でも勉強しようとアトリエ探しを始めて、地理的にも秋葉原に近く仕事にも都合のいい御茶ノ水にアトリエを見つけ通い始めます。今も通い続けております。

またそれから4年後の平成11年仕事でどうしても HPの必要性が出てきて 「はやく作ってくれ」とソフトエンジニアに依頼するのですが、ソフトのサポートで忙しいと理屈を言って何時までたっても手掛けてくれません。それならHP製作とはどんなものかと自前で作ってみようと当時の無料ソフト「Front Page Express」に取りくみなんとか形になって さてそのホームページの題名は?となったとき 丁度油絵を描いてましたので HPで仲間を集めようと「油絵仲間を探しています」という表題でHPを検索エンジンに載せたのです。

● SFM研究会 25周年記念誌へのエッセイの投稿の機会

その後に 決定的瞬間が訪れます。それは「SFM研究会の25周年記念誌への投稿」でした。その辺の経緯はこの駄本の「あとがき」の部分で書かれておりますので お読みいただければと思います。


2)伊那谷について

まずは 伊那谷の地理的位置から確認して参りましょう。 「いな」といえば皆さんは 関東地方の“伊奈”(さいたま市の上と もう一つ我孫子の上)の方が親しいかもしれません。「伊那の勘太郎」の“伊那”は長野県の南、諏訪湖から流れ出る天竜川沿いに位置しています。


● 地理的位置:

さて長野県については 皆さんよくご承知かと思いますが、意外と思い違いも有る様で実際に地図上で再確認してみましょう。本州の中で黒く塗られた部分が長野県の位置です。横に走る点線が「中央構造線」で、縦に走る2本の線で挟まれた部分が「フッサマグナ溝帯」です。さて黒の長野県の部分を拡大したのが上のピンク図ですが、ぞの図の中で 数字の@、A―Lは都市ですが、それぞれ都市名分かりますか? また四角の中のアルファベットA,B〜Jは何を表しているのでしょうか? そして斜線マークのカタカタ ア〜エの4つは何を表しているのでしょうか? 

●歴史的背景:

このAからJは街道を示しています。この山に覆われた地域が実は縄文土器時代から住み易い地域として当時人口密度が最も高かったと言われています。なぜ住み易かったと言いますと温暖的気候で森が多く、ドングリ、クリなど木の実が豊富であったからです。

<地図上の記号>

◆都市名:@長野市、A大町市、B上田市、C小諸市、D松本市 E佐久市、F塩尻市、G下諏訪町、H岡谷市、I高頭町 J木曾福島町、K飯田市、L上村町


◆街道名:A.北国街道、B.千国街道 C.西街道、D.中山道 E.佐久甲州街道、F.甲
  州街道、G.三州街道(伊那街道) H.秋葉街道、I.遠州街道(飯田街道) J.松本街道

◆自動車道: 中央自動車=F+G、 上信越自動車道=A、 長野自動車道=J+D〜H
  間

◆盆地名: ア。長野盆地(善光寺平)、イ。松本盆地(松本平)、ウ。上田盆地(佐久平)、
  エ。伊那盆地(伊那谷)

●気候環境: 

伊那谷は「伊那盆地」と言われており盆地気候で 雪少なく 朝昼の寒暖の差が激しく 冬はマイナズ10〜15℃の日が数日あります。夏は昼間暑いですが夜明けが涼しくて快適です。伊那谷は【日本のスイス】とも言われます。それは中央アルプスと南アルプスの雄大な地形に囲まれているからでしょう。

● 「中央構造線」と「塩の道」

こんなにスバラシイ地域なのですが、良いことばかりではなく、実はこの伊那谷は地震の源「活断層=中央構造線」の上に位置するのです。中央構造線の辿るコースについては、上図の本州地図上に点線で示してありますが、渥美半島付近から北東に方向を変え、長野県を突っ切って日本海・糸魚川市に抜ける部分、フォッサマグナ溝帯と交差する付近を拡大してみて見ましょう。

  ここをクリック


● 伊那谷の産業

  次にこの伊那谷には どのような産業が盛んかを説明いたしましょう。下の地図をご覧ください。

IT分野でエクセレントカンパニーと評価されている、エプソンやオリンパスなどが生まれ、歴史的に古い養命酒(関が原の戦いから2年後の1602年に誕生)や「てんぐさ」を材料に作るカンテンで大企業に成長した伊那食品(商標「かんてんパパ」で有名)などが存在します。

● 伊那谷がどうしてすばらしいの?

これまでのお話で 「日本のスイス、いかに伊那谷はずばらしいか、」皆さん想像がつくと思いますが、歴史的深さ、雄大なる自然が そのまま残っているからです。

これを更に残すのには これ以上便利にしてはなりません。今現在でも ここを訪れるのに、東京、名古屋から3.5時間、大阪から6時間という“本州の僻地”だからこそ この伊那谷はすばらしいのであります!

◆次に この本を通して私が表現したかった事を この機会を頂きまして追加説明をさせて頂きたいと思います。

3)「伊那谷と私」を通しての表現したかったこと

さてこれまで述べた経緯と地理的背景によってエッセイ集【伊那谷と私】は誕生したのですが、この駄本を通して 何を表現したかったのかをこのエッセイが生まれた年代順に追加の説明をさせて頂きます。これが本日の副題テーマ「21世紀は心の時代」に繋がって参ります。


● 「伊那谷と私」シリーズから ;

このシリーズはこの本の第1部を構成しているのですが、私に「ものかき心」があった訳ではなく2001(平成13)年に仕事の関係で単身赴任として伊那市に駐在となり、週末の自由な時間があった事と、先ほど説明しました「すばらしい伊那谷の自然環境」と そしてSFM研究会の25周年記念誌の投稿募集が兆度重なったことが私に取ってラッキーだったのです。

◆ 一人の時間と空間 :
シリーズの書き出しは「一人の時間と空間」でありまして、これが25周年記念誌に【伊那谷と私】という題名で掲載頂きました。この一人の時間を利用して伊那谷を探索散歩することから始まります。そして工場団地のある六道原の台地に1937(昭和12)年に陸軍の伊那飛行場があった事を知ります。今はこの台地が畑や住宅地に変わっており全く見る影は有りませんので大変な驚きでした。

◆ 自然との対話: 
そして一人での週末の“探索散歩”は 雄大なる自然とその中に生きる小さな生き物との対話を楽しむようになります。しばらくして、この六道原に【こじき俳人:井上井月】が居た事をしります。伊那の冬は雪が少ないのですが、アルプスから吹き込む風は冷たく 一年で最も厳しい時です。こんな冬の時期に書いたのが「伊那谷 冬編」です。

◆ 井月と俳諧の世界 : 
井月の俳句を読んでいる内に 自分も俳句の勉強をしてみようと伊那図書館に通い何冊かの本を読みます。さて、伊那谷では四季を通して道端の野草から高山植物まで沢山の花々を鑑賞することができます。よし 自分で俳句をたしなんでみようと、エッセイにしたのが「伊那谷  花木編」です。花々を求めて探索散歩を重ねておりますと、伊那谷の河岸段丘がなぜ「お米の産地」なのかと疑問がおこり、それが「水」への関心となり田んぼの畔の間を流れる「井筋」の探索散歩へと発展して参ります。それが第4作目「水と井筋の物語」となりました。

その次に「伊那みずず日記」が掲載されていますが、これは伊那単身赴任中の出来事を書いた日記調のものを3編選び出して纏めたものです。

● 「伊那美ずず日記」から;

伊那谷の良いところとして、◆温泉の天国 そして ◆満天の星空を題材に書いておりますが、実は良くないところとして、近代文明の副産物である自然破壊の◆車のお墓をテーマに書いておりますが、実はこんなにスバラシイ伊那谷ですら 人間の物質文明が便利さを追求して行く代償にとんでもない負の資産を背負ってしまっているのだ! と言いたかったのです。これは今日の副題のテーマに触れますので後でまたお話します。

この日記は今から3年前の2002年のもので、その年は「田中」の年で有ったことが「あとがき」に書かれていますが 今読むと大変に懐かしく思い出されますね。そしてこの年は◆企業不祥事と内部告発の年でもあり、“平家物語の出だし”をもじった 【私の詩(うた)】 が最後に載っております。特に私の好きな詩ですのでここで 読ませて頂きます。

   『 ウオール街の鐘の音 諸行無常の 響きあり

    高遠小彼岸の花の色 官僚必衰の理をあらわす

    奢り集るもの 久しからず ただ春の世の花のごとし

    カリスマも遂に滅びぬ ひとえに風の前の塵におなじ 』

この詩が創られた後、読売新聞・渡辺オーナー問題、そして西武・堤王国などなど、世間を騒がせる事件が起きましたが、結果として彼らは“風の前の塵”だったのでしょうか。

●「外から観た日本」から ;

この次のページから第2部「外から観た日本」が載っておりますが、これはSFM研究会での私の第1回目スピーチ内容がベースとなって、その後のシンガポール駐在の経験を書き加えたものです。この中で今回強調しておきたいのは 最後の章「日本は世界でリーダーになれないのか?」に就いての問題提起であります。その一節をここで読ませて頂きます。

  『 私の言うリーダーとは、巨大なる軍事力を持った国とか、巨大な外貨を抱え込んだ
    経済大国を指しているのではなく、ありのままの姿を世界に示して、自然体の日本
    の精神でもって他国と協調する姿、これこそが本当のリーダーと言いたい。そうなれ
    ない日本の卑近な例が、たった今も存在するではないか。それはイラクへの自衛隊
    派遣に見ることができよう。この自衛隊を 何ゆえに米国の影で派遣せねばならな
    いのか。なぜ堂々と“日本の独自の判断で、人道的精神に基づき戦争で破壊され
    たイラクを救済する為に救援隊(自衛隊)を送り込むのだ” と世界に発信できない
    のか。 』

皆様は どのようにお考えでしょうか???

◆いよいよ本日の副題「21世紀はこころの時代」についてお話させて頂きます。

4)「伊那谷と私」を通して私の想い===> 21世紀は「こころの時代」

● 伊那工場での会社退職に際しての社員への挨拶より;

まずこの副題に入る前に 私がロジテックを退社する時に伊那工場の皆さんにお話した内容の一部をここで紹介させて頂きます。

    『 しかし 昨今 人間世界がおかしいとは思いませんか。天変地異やら、人間らし
      からぬ嫌な事件が多発。 東京から伊那に来るバスの中で読んだ雑誌記事に
      【欧米型の文明が行き詰まっており、これを打破できるのは”森の民”の知恵】 
      というのがありました。文明というのは「大地」と「人間」の係わり合いの中で誕生
      発展してきたものと言われます。ところが近代文明は「大地」を忘れ去り、大地
      が醸し出す風土性を忘却して暴走を続けているようです。資本主義のもと 
      人は 【欲望の奴隷】 と化し、合理性の追求とか言って【楽】を求め、道徳は
      腐りきってしまいました。これは欧米の考え 「人間」と「大地」を別物に捕え、
      人間が自然を支配して生きて行けるという判断、つまり 【人間中心主義】に
      走り、これが行き詰っているのです。これを救済するには もう一度 自然の中
      に人間を埋めこみ「大地」と「風土」との係わり合いにおいて文明や歴史を問い
      直すことが大事でしょう。

      日本人は コメを主食としタンパク質を魚に求めるのです。稲作は弥生時代に
      日本に入って普及したそうですが、その時 ヤギやヒツジなど家畜は入れなかっ
      たそうです。それは家畜が森を食いつぶすと考えていたからです。つまり 【森の
      文化】を発展させたのは【日本文化】と言えましょう。 』

● 物質文明(=近代文明)は止まらない

人類が「便利さ、楽さ」を求める為に 近代文明の発展とか理屈を言いながら突っ走って来ている訳ですが、その「便利さ・楽さ」にを得る分、ちゃんとマイナスの「負の資産」を積み重ねて来ているのだと思います。しかし この“近代文明の爆走=進歩”を残念ながら近代人が止めることは出来ません。つまりは進歩を重ねながら一方で“後退しているものが有る”と言う事でしょう。この最大の要因は産業革命以降の「化石燃料」(石油、石炭、天然ガスなど)を大量に使うようになってからの現象と言われています。つまり 例えば江戸時代のように「太陽エネルギー」だけで生きていれば 今私達が抱えている「負の資産」をこんなに積み上げずに済んだのですが。

● 日本の昔に急には戻れない

私はこの辺の所を 違う角度から前回のスピーチ・テーマ「企業不祥事と継続企業の条件」の中で、【日本経済の再生の道】の所で、 【21世紀は こころの時代】になるから 日本の得意とする時代になると説明させて頂きました。その時は【シュリーマン旅行記】を例に挙げて日本の素晴らしさをお話させて貰いましたが、ご記憶にあるかと思います。なぜなら日本の江戸時代前まではすべて「太陽エネルギー」の範囲内で生活を立派にこなしていたのですから。今回は“江戸時代の絵”を通して当時の文化を掴んで頂きましょう。

日向水(ひなたみず)にチョット熱湯を足して行水〈左上図)。 前年に太陽エネルギーで出来た菜種油などを使った行灯(あんどん)が一般照明器具だった〈右上図)。舗装していない道路は自然の空調機。江戸市中には舗装道路はなく 人通りの激しかった特別な道だけ石畳で舗装されていたが(左下図=現在の新宿通り)。安永5年(1776)にオランダ商館長とともに長崎と江戸を往復したC.P.ツュンベリー(スエーデン人医師)は【江戸参府随行記】(平凡社東洋文庫 高橋文訳)で日本の道について次のように書いている。

  『 この国の道路は1年中良好な状態にあり、広く、かつ排水用の溝を備えている。
   〈中略)そして埃に悩まされる暑い時期には、水を撒き散らす。さらにきちんとした
    秩序や旅人の便宜の為に、上りの旅をする者は左側を、下りの旅をする者は
    右側を歩く。つまり旅人がすれ違うさいに、一方がもう一方を不安がらせたり、
    また害を与えたりすることが無いよう、配慮するまでに及んでいるのである。この
    ような状況は、本来は文明が開化されているヨーロッパで、より必要なものであ
    ろう。この規則は、ヨーロッパ諸国のように身勝手な国々にとって大いに注目する
    に値する。なにせそれらの国では、地方のみならず都会の公道においても、毎年、
    年齢性別を問わず、特に老人や子供は軽率なる平和破壊者の乗り物に轢か
    れたり、ぶっつけられてひっくり返り、体に障害を負うのが珍しいことでは無いのだ
    から。啓蒙された民族にとって、その品位を落とすような嘆かわしい経験をしてい
    るのである。 』  

江戸日本橋、交通量の多い橋の上を見ると、確かに左側通行をしている人が圧倒的に多いのだ〈右下図)。        (参考: 「大江戸 エコロジー事情」 石川英輔著 講談社文庫)

しかし 今から化石燃料を使わずに 江戸時代の不便な時代に逆戻りすることは 全く不可能と言えましょう。そしてこれからも物質文明はひたすら進歩を、つまり負の資産を積み重ねて行くのでしょう。

● 21世紀 私はこう生きたい =【塩の道】行脚

しかし人類(特に近代文明の先駆者たち)も「物質文明の代償があまりにも高すぎた」ことに気づき始めています。地球温暖化問題、危険化学物資の使用禁止、リサイクル対策、ゴミ処理対策などなど目先では対応策を検討していますが、一方で「便利さ・楽さ」を求めるスピードは今のような対策検討のレベルでは 「焼け石に水」でしょう。

それでは どうしたら良いのか?? それは一人 一人が 【今までのあり方で、良いのか】と疑問を抱き 【もうこれ以上 便利さの追求は止めとして、これ以上の楽は求めない】との認識を持った上で 生活の、仕事の あらゆる面で対処を考えるようになって行くことではないでしょうか。

つまり 仏教の言葉ですが 【少欲知足】の精神 (欲望を抑えて 足るを知る) を一人ひとりが持つような時代になって欲しい。

私はそれを肌で感じたいと考え、塩の道(全長350Km)を一人歩いてみよと決めました。そこから私の残された人生を「どう生きようか」のヒントが掴めればいいなと思っています。

皆さん! 「昔に帰る」 ことは毎日の生活の中でも少しずつ実現できるのです。例えば;


     電車にのる    => 自転車を使う、 歩く に切り替えてみる。
     クーラーを入れる => 汗をかいてチョット我慢してみる。
     暖房をいれる   => チョット厚着して対応する。
     ビニール袋使用  => 自分の布袋(カゴ)での買い物に切り替える。
     自家用車は本当に必要か? => 必要な時にだけレンタカー利用に変えられぬか。

生活必需品の中で、石油がベースで生まれてきている製品・商品は何かを自分で調べ それを他の物で代用できないかを自分で考えてみる。               

     => そして毎日の生活の中でそれらを代用品に自分で切り替えて行く努力をする。


自分に取っての無駄を探し出し それを少なくしたり 止めることを自分のもう一つの仕事とする。そしてインターネットを利用して同じようなことを考えている人々とグループを組んで行きながら インターネットを介してそれを他人に広めてゆく。(くちコミ戦法)

◆チョット今日のテーマから横道にそれますが、SFM研究会は「マーケティング」が専門分野で
すので【21世紀のマーケティング手法】に関して述べてみます。

今 インターネットの時代を向かえ、TV・ラジオとか新聞・雑誌とか マスメディアを介しての高額な費用を掛けての宣伝は効果が薄いと見直されはじめていることはご承知のことと思います。米国でも いわゆる【風評=口こみ・マーケティング】の旋風が起きていると言われています。  

  すなわち;

  商品やサービスについて 周囲に口こみで伝える人を見つけ出し その人を活用する 

  = くちコミ要員の組織化


◆なぜなら インターネット社会は それを介して全く新しい概念を生んでゆきます。本日の最
終テーマであった「昔にもどる」もインターネットを利用して 一人ひとりが対処して、それを仲間に拡めて行き、これまで溜めあげた負の遺産を少しずつでも減らしてゆきたいものです。

これで本日の私のスピーチは終わります。長い間 ご清聴ありがとうございました。

<終了>

                       2005.6.5 記


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