【老いの証明】
最近とみに頭の回転が遅くなったような気がする。ワイフとの会話も「あの」、「その」、「あれ」、「これ」の代名詞が極端に増えている。しかしワイフとは少なくとも生活の中で定例化した会話では殆どの主語がこの種の代名詞で通じてしまうのだ。しかし会話の中で突然思い出せない人名、事象をその種代名詞で誤魔化そうとすると、トラブルに至るのが常である。老いたがために“仕出かした失敗”や“老いにブレーキを掛ける努力”を書き綴ってみたい。 第1話: 『すごい体験』 東京駅をワイフと二人走りに走ったのです。それも真剣に。こんな経験は 第2話: 『ボケ除け俳句』 衰えにストップを掛ける為に俳句を始める。2つの句会に投句するのでここ New ! 第3話: 『ケチな読書術』 古本屋での本探しは大変に楽しいものである。ここでの30分や New ! 第4話: 『あたりまえの喜び』 当たり前に生きてきたのが“驚異の出来事”だったことに |
私は「尖閣列島」は当然日本の領土と思っていたし、その様に学校で教わったと記憶している。地図帳を開いて確かめてみても、尖閣列島(諸島)までは日本領土と表示されている。しかしこの本は、「実は歴史的に見ても間違いなく中国の領土である」と主張しているのだ。興味あるではないか。この本によれば、尖閣列島は中国・明の時代から「釣魚(ちょうぎょ)島」と中国名が付けられており、日本の文献でも江戸の中期1785年に林子平によって書かれた『三国通覧図説』の中の付図でも「釣魚島」は中国領土として色分して表示されていた事から見ても明らかに中国領土と主張している。更には地理的に見ても、中国から東方向の琉球に向けての |
航路は偏西風に乗って容易に航海が出来たと思われ、当時日本側から西に向っての逆方向の航海は至難の業と思われる事からも日本が中国より先駆けて「釣魚島」を開拓したとは考えにくい。そして日本は日清戦争の勝利に乗じて釣魚島が「無人島」だったのを理由に中国に対して日本の領土と主張した事になっており、中国は「略奪された」と主張している。
誰も住んでいない小島を自分のものだと言い争うのも大人気ないと思うのだが、こと国土の問題となると「はい、そうですか」と簡単には引き下がれないものだ。国の境界線がどこかにより「200海里問題」にも触れて、それぞれの国の管轄権にも関係してくるので簡単に解決する方法は無いであろう。韓国との竹島問題、そしてロシアとの北方領土問題のごとく人間はいつまでも「ショバの取り合い」で争い続けるのだ。 南の太平洋上にも同様の問題を抱えている。太平洋に浮かぶ孤島「沖ノ鳥島」が日本領土の境界となっているが、中国が「あれは単なる岩」と主張したことに端を発し、石原東京都知事が波で削られて島が消えてしまうのを避けるために、慌てて島の保全工事を行い、その付近で漁業の創業を始めたのが5年ほど前の出来事だったが、結局は欲の突っ張った人間さまには戦争を回避出来ないのと同様に、領土問題を解決できる道を見つけることは出来ないのであろう。 A『人類 究極の選択』岸根卓郎著 東洋経済新報社(1995年4月発行2900円) まずは「古本書棚」の写真をご覧頂きたい。この本は580ページに及ぶ分厚い本なのだが、2週間で読み上げたのは私に取っては相当早いスピードである。そもそもこの本が古本屋で私の目に留まったのは本の副題「地球との共生を求めて」という小さな字に引き付けられた事にある。古本屋を歩いていて何時も不思議に思うのだが、ありとあらゆる種類の古本が並んでいる群の中で、私が読みたいと思わせる本の表題だけが私の視界の中でぼやけずクッキリと見えるのだ。ス〜〜ット通過しそうな所でフット立ち止まり、「ほら、私を取り上げて!」と訴えている本をスット抜き出しペラペラと中身をチェックして、そして価格をチェックして、それを購入するのである。「躓く石も縁の端」の諺ではないが、そうして選ばれた古本も私の手に入る縁を持っていたのかも知れない。この本は私にそんな事を考えさせる“究極の選択”のような読みがいのある本であった。 私はこれまでにスピーチの機会が有ると、「21世紀はこころの時代」というテーマで欧米型文明である“人間中心主義”の行き詰まり、“森の民”である日本人の日本文化の取り戻し、“少欲知足”の精神での日常生活の改善などを訴えて来たが、この本は私の様な直感的思考からの話ではなく、環境問題を「文明」、「技術」、「哲学」、「宗教」、「文学」、「倫理」、「政治」、「社会」の各方面から現実的に解明されており深く感銘を受けた。この本の第1章「序論」での次のような書き出しからしても、私をグ〜〜ト引き込ませてしまうのだ。 「文明の前に森林があり、文明の後に砂漠が残る」 「自然破壊を非難する文章ですら、緑(森林)を食い潰して作られた紙の上に印刷さ れるという事実を忘れてはならない」 「物質的な豊かさのみを追求する時代の科学的物質文明(欲物文明)の下では、人類 は『乱開発・乱獲→大量生産→大量消費→大量廃棄』によってこの自然の精緻な生 態系の秩序を大きく撹乱している。 こんな内容で始まるこの本は私の興味を沸き立たせ次へ次へとページを読み進ませる。この本の発刊は平成7(1995)年4月であり、今から15年前である。この年の1月には“阪神淡路大震災”があり、3月にはオウム真理教による“地下鉄サリン事件”の有った年でもう遥か昔のように感じるのだが、この環境問題に関しては15年前から何も変わらず、むしろ今はもっと悪くなっているように感じてならない。 「環境問題が日に日に悪くなっている」と感じてしまうのは、政治も経済もその場その時の対策で逃げまくって将来にツケを残しているように思えるからだろうか。「高速道路無料化」、「ガソリン税の廃止」とか「原子力発電の増大」とか、本当に次世代の事を考えているのだろうか。 この本では「日本人の脳は左脳と右脳に回路がある“左右脳型”な脳であるから、西洋人の左脳型の脳とはその機能において大きな違いがある」と説明している。この結果として「論争を好む西洋人気質と、和を持って貴しとする日本人気質の違いが見られる」と言う。我々日本も一神教の欧米文化からオサラバして、多神教の我が大和魂の日本人による「調和主義的文明」を地球上で実現してゆく時代が到来しようとしているのではないのだろうか。 この本は、倫理面からも「環境破壊は、現代世代が加害者となって、未来世代がその被害者になるということだ」とも指摘している。そして「現在世代が地球資源を使い尽くし、地球環境を破壊し尽くすことは、これからこの世にやってくる罪なき『最も弱い立場』の未来世代の人々を、現在世代の人々が一方的に殺戮し尽すことになる」と警告している。 だから「現在の繁栄は未来の窮乏であり、現在の成長は人類の終末を意味する、と知るべきである」と言い切っている。そうならぬ為には「社会的規範として世代間倫理は、各人や各集団や各国が、それぞれの責任において自然破壊や資源枯渇の負荷を次世代へ積み残してはならない。これが【持続性の世代間倫理】であり、そして自然の生存権は人間だけではなく、全生物種、全生態系、景観などにも生存の権利があるので、人間がそれを否定してはならない」と主張している。私も全く同感で、この明快な指摘で胸がス〜〜トして来るのだ。 15年前にこの本の著者・岸根卓郎氏が広い分野からの解析により明快に述べられていた事が、現在では“持続性”に関しては【サステナビリティ学問】として大学などに学部が新設され研究が始まっているし、“全生物種の生存”に関しては一例として、今年10月に名古屋で【生物多様性EXPO2010】が開催され、人間中心主義から脱皮してあらゆる生物が地球上で生き残れるようにしようとする産業界の取り組みが披露される事になっている。 我ら人類も“このままでは人類の終末”である事に気づき始めているのだろうか。そして世界中が日本人のリードにより調和主義的文明に入って行く前触れかと思うと仕合せな気持ちにさせ、自分の頭を整理させてくれたこの15年前の分厚い本に感謝、感謝の気持ちである。 今は友人から紹介された新刊本『日本の分水嶺を行く』(細川舜司著 新樹社)を読んでいるのだが、その次に読む本が無いので何となく不安になっていた。早速神保町に出掛け、次の4冊を1550円にて購入して来た。総重量は1.6Kgで有った。 (1)『梅と雪 水戸の天狗党』 杉田幸三著 永田書房 (2)『これを読んだら連絡ください』 前川麻子著 光文社 (3)『くたばれ 竹中平蔵 さらに失われる10年』 藤沢昌一著 駒草出版 (4)『歴史散歩 江戸と東京』 堤 紫海著 文化総合出版 これでこの先1ヵ月半は何とかもちそうで、変な不安から抜け出ることが出来たようだ。 |
科学的分析とは、このグラフは全国の高齢者(男性)をピックアップして20年間の追跡調査より分析したものだからだ。この最も左のライン(比較的若くに死亡)が恐ろしいラインで20%近くも居るのだ。このラインの丸で囲まれた斜線部分がPBN(ピンボケネタキリ)期間で介護という世話で若い世代に多大なる迷惑を掛けている期間である。これが長ければ長いほど辛い人生となる。一番右上のライン(健康維持)が10%も居るが、これは羨ましい限りだが、まあ精々真ん中のライン(徐々に健康悪化)の70%ラインに沿って残された人生を送れば、それがPPKだと示唆している。 |
そしてあなたが、今ハット一番左ラインに沿っているのではと気付いたら、今すぐに真ん中の線にジャンプアップするように努めればよいのだと小宮山氏は言う。それが図に示した矢印である。そのための一番効き目のある“薬”は(つまり行動は)【社会への積極的な参加】であると小宮山氏はヒントをくれている。
さてこの図の横軸は63〜89歳までの年齢で、縦軸の0、1,2,3に就いて解説しよう。 3 = 自立 2 = 手段的日常生活動作(IADL)に援助が必要なレベル。 IADL(Instrumental ADL)=手段的日常生活動作とは 買物、洗濯、電話、 薬管理、金銭管理、乗り物 および趣味活動など。 1 = 基本的(ADL)および手段的日常生活動作(IADL)に援助が必要なレベル ADL(Activity of Daily Living)=基本的日常生活動作とは 食事、排泄、着脱衣、 入浴、移動、寝起きなど。 0 = 死 |
ところで、何ゆえに小宮山氏の講演の中でADLやIADLが登場してくるのか、不思議に思われるだろうが、実はこの講演の最大テーマである「日本が低炭素社会を構築」するには、新しい産業、新しい雇用、そして経済の活性化を起こさねばならぬが、そのためには3要素が考えられると言う。それは@【グリーン】(エコハウス、省エネ家電、エコカー、太陽光パネル、風力発電、水、食料など)、A【シルバー】(バリアフリー・インフラ、健康管理、視覚・聴覚支援など)そしてB【知】(教育、生涯学習、付加価値創造など)となるが、日本はBが不得意であるので@とAに注力し、日本は特に老齢化大国としては世界の先進であり且つ技術大国であるからAで世界のリーダーとなればよい、と主張する。 「団塊の世代」が一斉に定年を迎えた日本が、これから生き残る道はシルバー産業での新しいビジネス・モデルの発掘に取り組み、その分野での世界のリーダーという道を辿るべきと主張しているのである。 なるほど、隠居生活だ、なんて言ってのんびりとしてはいられない。それでは「PBN症候群」にハマルのが落ちである。これまで私が65年間、当たり前のような人生を歩いて来られたのも、ラッキー中のラッキーで「ありがたい」と感謝せねばならぬのだ。当たり前に過ごしてこられたことは驚異なことだったと気づいた。つまり「そう簡単には有り得ない」、すなわち「有り難い=感謝」なのである。 これからは、いつまでも基本的日常生活動作(ADL)そして手段的日常生活動作(IADL)が当たり前に出来続けるよう「PP]で生きながら、そして「PP」を続けていられる日々に喜びを感じつつ「K」に辿りつこうと自分に言い聞かせた。 |