【老いの証明】

最近とみに頭の回転が遅くなったような気がする。ワイフとの会話も「あの」、「その」、「あれ」、「これ」の代名詞が極端に増えている。しかしワイフとは少なくとも生活の中で定例化した会話では殆どの主語がこの種の代名詞で通じてしまうのだ。しかし会話の中で突然思い出せない人名、事象をその種代名詞で誤魔化そうとすると、トラブルに至るのが常である。老いたがために“仕出かした失敗”や“老いにブレーキを掛ける努力”を書き綴ってみたい。

第1話: 『すごい体験』  東京駅をワイフと二人走りに走ったのです。それも真剣に。こんな経験は
                     最初
で最後であって欲しいです。

第2話: 『ボケ除け俳句』 衰えにストップを掛ける為に俳句を始める。2つの句会に投句するのでここ
                     
では句を紹介できないが、年末にはそれらを纏めて「句集」編集してみたい。

New ! 第3話: 『ケチな読書術』  古本屋での本探しは大変に楽しいものである。ここでの30分や
                            
1時間は苦にならない。何か自分の好きな女性を探している
                            ような気分
に似てはいないか。

New ! 第4話: 『あたりまえの喜び』 当たり前に生きてきたのが“驚異の出来事”だったことに
                             
気が付いた。これからはPPKの生き方を志そうと決めた。

第1話:  『すごい体験』               2010年2月14日記

結婚34年目、2月14日のバレンタインディはがわが夫婦の結婚記念日であり、これに引っ掛けて2月11日出発2泊3日の『蔵王樹氷鑑賞の旅』をセットアップした。行程は1日目が新幹線を郡山で下車、そこからバスで中尊寺・金色堂を訪ね、田沢湖高原温泉郷で泊、2日目は乳頭温泉、角館、秋田ふるさと村と回って鬼首(おにこうべ)温泉で2泊目、そして3日目は銀山温泉、山寺を経由して午後2時過ぎに蔵王に入って地蔵山頂(1661m)までケーブルで登って樹氷を見るといったコースになっている。

さて「すごい体験」とはその旅の初っ端に体験した出来事だったのである。

2月11日出発の朝、集合は9時40分 東京駅北口改札口の前。すべて万端整えて8時50分に家を出た。東京駅まで20分ほどで行けるので時間に余裕を持っての出発である。

春日―水道橋―御茶ノ水―東京駅と電車を順調に乗り継ぎ、ゆっくり歩いて9時25分には指定されていた北口広場に到着した。沢山の旅行団があちこちに輪を作って添乗員の案内を受けている。しかし指定された場所に我がグループがいないようだ。まだ20分あるから添乗員が来ていないのかも。9時35分になってもどこにも我がグループが見当たらない。 おかしい??

ポケットに入っている旅行社から送って来てあった説明書を取り出して眺めた。

なっ! なんと! 集合時間は「9時10分」と太字で書かれているではないか!!

新幹線の発車時刻9時40分を集合時間と勘違いしていたのだった。時計を見るとただ今9時39分。出発まで残り1分。 

もうだめだ! 間に合わない! つくづく自分がバカに思えてくる!

さてどうしよう?冷や汗が出始める。

そういえばこの場所に来る途中のJR北口改札口を出た所で同じ旅行社が別のグループに説明していたのが思い出され、そこに戻れば何とかなるかも知れないと思い走り出す。ワイフも無我夢中で付いてくる。この戻りが100mほどはあるだろうか。

走っている間、強烈な速さで自己反省が頭をよぎる。「何故簡単に思い込みをしてしまうのか」、「自宅を出る前にあれだけ余裕があったではないか。なぜもう一度しっかりと旅行説明書に目を通さなかったのか」、「本当にお目出度いよ、馬鹿もんが!」ってな具合。

ふうふう言いながら改札口付近に来たがもうそのグループも散っていた。

するとワイフが「旅行説明書に書かれている【当日緊急連絡先】に電話してみては」と妙案を出す。しかし携帯からは、「ただ今サービスは終了しました。明日お電話ください」とのテープ録音の音声が空しく伝わってくる。これでは緊急連絡の役目を果たしていないではないか、と腹が立ってくる。

次に、東京駅なら旅行社のオフィスがあるかもしれないと思い中央口方面に向って走り始める。しかし、こんな時間には有ったとしてもオフィスはクローズしているだろうと一方で不安を抱きながら、小走りに歩きながら頭の中では旅の一行に途中で追いつく方法を思案していた。後からの新幹線で追い掛け、直接に平泉の中尊寺まで行ってそこでグループを待ち構えていれば、一行と合流できるだろう。このような考えにたどり着くと少し気持ちが治まった。

とっ、その時、 ポケットの携帯が「ジリジリリ〜〜ン」と鳴った。慌てて携帯を取り出す。

「宮原さんですか?」、

「ハイ、そうです。」

「新幹線は信号機故障とかで出発が遅れています。私達も20番フォームの5号車の前で待っていますので、至急来てください。」

「えっ! 本当ですか、すぐ行きますのでよろしく」といって携帯を切りワイフに状況を説明して走り出した。また戻るように新幹線の北口を目がけて走る、走る。ワイフは後ろから付いてくる。

新幹線北口改札口のところに来て2枚入場券を買う。自動販売機の前では以外と冷静な自分が居た。そして急いで改札口を入り、慌てて「東北新幹線は何番ホームですか」と駅員に聞く。すると、「この口は東海道新幹線ですから、東北新幹線はこの先の左側奥です」と言われ汗がドット出てくる。

また改札口を出て走りに走る。ワイフもネを上げずに付いて来てくれる。

【火事場のバカ力】ではないが、お互いにビックリするパワーである。

東北新幹線の改札口にたどり着き事情を説明して入場券を見せて中に入れてもらう。

すると駅員が「ここからホームまで長い階段でエスカレータは有りませんが大丈夫ですか」と心配そうに聞いてくる。上のホームの方から発車ベルのような音が聞こえてくる。そんなことかまっては居られない。それっ!! 

ホームの上に出るとダイヤ乱れの為か人であふれていた。そして発車のベルが鳴っている。5号車まで、5号車までと二人で一生懸命ホームの中央付近に向けて走りに走った。

とっ、その時ホームの発車ベルが鳴り止んだ。

「あ〜〜ぁ! 間に合わなかった。ダメだったか」と思いながら、静かに動き出した車両を良くよく見るとそれは長野新幹線だった。まだ【つき】は残っているぞ。

よくよく20番線側をみれば、確かに遥か彼方に東北新幹線が停まっている。それ!走れ!

しかしその時、またまたけたたましく発車のベルが鳴り始めた。これは間違いなく20番線の発車ベルだ。

「電車が出てしまう!」「どうしよいう」、「開いている扉から飛び乗ってしまうか」。
しかしワイフが少し後ろを走って来ているので無理な挑戦は諦めた。ベルが鳴り終わると静かに新幹線は動き出した。ああ、遂に間に合わなかった。ダメだったか。

とっ! 斜め前方に【蔵王樹氷鑑賞ツアー】と書かれた幟が目に入り、その回りに人垣が出来ていた。そばに寄って「宮原です」と言った。すると添乗員らしき人が、

「あ〜〜、宮原さん、今電車が遅れていて後15分ほどで我々の電車が入線となるそうです」と静かに言う。

「何? まだ時間が十分に残っていたではないか」と心の中で怒っているのだが、すぐに冷静さを取り直してワイフの顔を覗き込んで

「よかったね。僕達は何と運がいいんだろう」と言った。

ワイフも顔を汗で濡らしながら笑っていた。

しかし今起きた10分間の出来事は何であったのだろうか。

キット私は結婚してからの34年間で初めてワイフと一緒に走ったのではないだろうか。

<後日談>おかげさまでこのツアーは大変に楽しかったのですが、帰ってきて数日後ワイフは「膝が痛い」と言い始め、ただ今スポーツ・クリニックに通院中でございます。ハイ!!

第2話: ボケ除け俳句』               2010年3月6日記

衰えにブレーキを掛ける策として「俳句」作りに挑戦してはと考えた。

パソコンで時々 マージャンゲームやスパイダ・ソリテリアをやっていると、ワイフがそれを見て、「何を真昼間からお遊びしているのですか」と嫌味を言って来るので、「頭のボケ防止なんだよ」と返しても、何となく自分自身バツが悪いのは事実である。

そこでそんな時には難しい顔して俳句でも作っていれば、少なくとも遊んでいるとは見られないですむだろう。

俳句といえば、以前に私はチットばかりかじった時があったのだ。それは今から10年ほど前、仕事で長野県・伊那市に単身赴任していた頃、会社の側の畑のど真ん中に「井月」の墓があった。井月とは江戸時代末期から明治の始め、伊那谷をさすらっていた乞食俳人である。この井月の生き様と俳句の中身に興味を抱いて当時伊那の図書館に通って関連資料や本を読んでいるうちに自分でも俳句を作るようになっていたのだ。そして2002年(平成14年)にはエッセイ『伊那谷・花木編』を書き、その中に下手な俳句を数句載せている。

しかしその後、「近・現代俳句」特に太平洋戦争に負けて以降の俳人達の作品を読むうちに、何か俳句がつまらなくなってきたのだ。五七五型にこだわらない、無季語の俳句を読んでも全く感激しないのだ。それらの俳句を「造型俳句」とか、「前衛俳句」とか言われるが、それらはどんな事を勉強すれば、そしてどんなところを捉えれば前衛俳句と評価してくれるのかその基準が私にはよく分からない。次のような下ねたの近代俳句のどこがいいのだろうか。

    ちんぼこもおそそも湧いてあふれる湯 (種田山頭火)

この種は「川柳」の世界に入れたらお笑い感からしてピッタリではないだろうか?

しかしこんな考えを持つのもまだまだ俳句の深さを知らずに、単に表面的にしか理解していない為なのかも知れないが、兎に角そんな気持ちが小生を俳句から遠ざけていたのだった。

しかしある日、インターネットで『芭蕉の【あらび】と【かるみ】に就いて』という記事に触れた。
その記事によれば、どうやら芭蕉も晩年は風雅の精神とは離れた「荒びたる」つまり洗練されてない粗野である句でも、また「軽い」俗っぽい句でも高雅な句では表現できない詩情が表現されることがあると言い出したのだ。つまり芭蕉の晩年は、どちらかと言えば凝った句作りはせず、格調高く見える句で実際は陳腐な句を避けるようにしたそうである。こんな話に触れてチョットまた俳句の世界が気になり始めたのである。

能楽の世界でも、一度名人の位に達したものが、その位置に満足せずに、あえて俗な表現、掟破りの芸風を示すことを【蘭位(らんい)=たけたる位】と言うそうで、一度高雅な表現を身に着けたものが、それに満足せず、自己を否定して、もう一度世俗の世界に帰って行くという意味がこめられているそうだ。

こんな精神状態であった晩年の芭蕉が作った句に;

   につと朝日に迎ふよこ雲  (芭蕉)

私の場合だが、蘭位には全く関係ないが、いよいよ春のすばらしい季節になると、晴れ渡る空、暖かな風、あぜ道の花々、昆虫や鳥達の活動、そして野辺山の新緑と俳句の世界がパ〜〜ット広がるのだ。

そこで私は【俳句の作り方】という古い本を書庫から引っ張り出して再読し始めた。よし、もう一回俳句作りに取り組んでみよう。衰えの進むわが身のボケ防止の為に実践に移そう。そして「現代俳句」ではなく、私には取り組みがいのある「伝統俳句」の世界から入って行くことにしようと決めた。

少しでも芭蕉の【蕉風の世界】に近づけたら嬉しい。ある雑誌に書かれていた【蕉風の流儀】をここに書き出しておいて、これからの私の俳句作りの“道しるべ”としよう。

蕉風の流儀

  『幽玄閑寂』

   哀感を余情で表し その繊細な心を 日常的な言の葉に託し

     飾りやおごりを削いだ 枯淡な味わいとともに 静寂の美しさを表現する

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第3話: 『ケチな読書術』                2010年3月20日記

私は子供の頃は読書が大の苦手であった。そういえばその頃、両親が本を読んでいる姿を殆ど見たことが無かったので、その点は親譲りなのかも知れない。小中学生の頃、国語の授業が最も嫌いだった。理由は順番が来て立って教科書を読ませられた時、スムースに読めずにいつもつっかりながら読んでいた。そして漢字の読みも苦手な方だった。中学の国語の時間、教科書を読んでいる時、「そして自らの努力で〜〜」という箇所を「そしてじからの〜〜」と読んで皆から笑われた事を今でも鮮明に覚えている。

しかし人生とは不思議なものである。中年を過ぎた頃から結構な量の本を読み出したのである。それも乱読で同時に2〜3冊を平行読みする時もあった。従って本の内容がしっかりと頭に残っているケースは稀であるが。そして何と50歳の後半になって、今度はエッセイを書き始めたのである。大学も工学系を歩いてきた自分を考えると想像も付かない変異である。先日エッセイ作品数を数えてみたら35点にもなっていた。若い頃本もろくに読まなかった者が、年を取って文章を書くとは摩訶不思議な現象では無かろうか。

さてさて年金生活に入った私の「ケチな読書術」をご披露したい。「読書術」の表現となると、相当な「術」と思われそうだが、「ケチな術」ということでご容赦頂こう。

我が家は「神田神保町」に近く本探しには地理的に恵まれている。最近はよほどの事が無い限り新刊本は買わない。「神保町」は昔から【古本の町】であり、定期的に「古本屋巡り」をするのが私の楽しみの一つになっている。定期的といったが、実は月に1~2回健康のために「半日ウオーキング」をするのだが、そのコースに必ず神保町を通過するように組んでいる。この理由は家を出る時のリュックには水ボトルをサイドポッケに入れてあるだけで中は空にしておき神保町にて古本を数冊購入して、これをリュックの重みにするのである。つまりある程度の重さを持った小型リュックにして、それを背負って歩こうという訳で、一石二鳥を狙っているのだ。古本の平均購入価格は、厚手の学術書でも1000円以下で、殆どが「3冊まで500円」の古本店で購入するようにしている。新書や文庫の古本はサイズ的にも重さ的にも貢献しないので殆ど買わないようにしている。

それでは2月21日(日曜)の「半日ウオーキング」のケースを例に挙げて「ケチ」振りを紹介してみよう。この日は余りに天候が良く家に燻っていてはもったいないと次のようなコース設定をして空のリックを担いで外に飛び出した。13:00我が家を出発、後楽園〜神保町〜浅草橋〜蔵前〜御徒町〜本郷三丁目、そして午後4時前に帰宅した。万歩計による歩数は12,435歩となっていたが、このときに購入した本は4冊で2.1kgだった。さてその古本とは;

  (1)『樹木と文明』コリン タッジ著 大場秀章監修 渡会圭子訳 アスペスト社

  (2)『人類 究極の選択』 根岸卓郎著 東洋経済新報社

  (3)『袖すりあうも他生の縁』清水義範著 角川書店

  (4)『尖閣列島』 井上 清著  第三書館

ところで神保町には古本屋が170店以上あるそうだ。そしてそれらの店がそれぞれ専門色を出しているところが特徴である。分野別に美術、文芸、文学、古書、学術や最近のマンガ、スポーツ、アイドル、アダルトなどなど、更には中国語本、洋書、宗教などとありとあらゆる分野の専門古本屋が軒を並べているのである。従い自ずと自分好みの本の置いてある店は絞られて来る。この古本選びも男女間の好き嫌いに似ているように思う。だからこそこれほど多くの古本屋が神保町に集中していていも店がしっかり特徴さえ出していればマネージして行けるのであろう。

さてさて今年に入ってから3月末までに読み上げた古本は10冊になる。購入の総額は3700円ほどである。勿論この古本以外に新刊本は数冊読んでいるが、今年1年間、古本だけを書棚(名づけて「古本書棚」)に並べてみようと考え、まずは3月末までの10冊の写真を撮ってみた。これらの本タイトルから私がどんな種類の本を好んで探し出しているか特色が出ているかもしれない。この中から数冊、印象深かった本を選びその読後感を述べてみたい。

@『尖閣列島』井上 清著 第三書館 (1996年10月発行 2060円)

私は「尖閣列島」は当然日本の領土と思っていたし、その様に学校で教わったと記憶している。地図帳を開いて確かめてみても、尖閣列島(諸島)までは日本領土と表示されている。しかしこの本は、「実は歴史的に見ても間違いなく中国の領土である」と主張しているのだ。興味あるではないか。この本によれば、尖閣列島は中国・明の時代から「釣魚(ちょうぎょ)島」と中国名が付けられており、日本の文献でも江戸の中期1785年に林子平によって書かれた『三国通覧図説』の中の付図でも「釣魚島」は中国領土として色分して表示されていた事から見ても明らかに中国領土と主張している。更には地理的に見ても、中国から東方向の琉球に向けての
航路は偏西風に乗って容易に航海が出来たと思われ、当時日本側から西に向っての逆方向の航海は至難の業と思われる事からも日本が中国より先駆けて「釣魚島」を開拓したとは考えにくい。そして日本は日清戦争の勝利に乗じて釣魚島が「無人島」だったのを理由に中国に対して日本の領土と主張した事になっており、中国は「略奪された」と主張している。

誰も住んでいない小島を自分のものだと言い争うのも大人気ないと思うのだが、こと国土の問題となると「はい、そうですか」と簡単には引き下がれないものだ。国の境界線がどこかにより「200海里問題」にも触れて、それぞれの国の管轄権にも関係してくるので簡単に解決する方法は無いであろう。韓国との竹島問題、そしてロシアとの北方領土問題のごとく人間はいつまでも「ショバの取り合い」で争い続けるのだ。

南の太平洋上にも同様の問題を抱えている。太平洋に浮かぶ孤島「沖ノ鳥島」が日本領土の境界となっているが、中国が「あれは単なる岩」と主張したことに端を発し、石原東京都知事が波で削られて島が消えてしまうのを避けるために、慌てて島の保全工事を行い、その付近で漁業の創業を始めたのが5年ほど前の出来事だったが、結局は欲の突っ張った人間さまには戦争を回避出来ないのと同様に、領土問題を解決できる道を見つけることは出来ないのであろう。

A『人類 究極の選択』岸根卓郎著 東洋経済新報社(1995年4月発行2900円)

まずは「古本書棚」の写真をご覧頂きたい。この本は580ページに及ぶ分厚い本なのだが、2週間で読み上げたのは私に取っては相当早いスピードである。そもそもこの本が古本屋で私の目に留まったのは本の副題「地球との共生を求めて」という小さな字に引き付けられた事にある。古本屋を歩いていて何時も不思議に思うのだが、ありとあらゆる種類の古本が並んでいる群の中で、私が読みたいと思わせる本の表題だけが私の視界の中でぼやけずクッキリと見えるのだ。ス〜〜ット通過しそうな所でフット立ち止まり、「ほら、私を取り上げて!」と訴えている本をスット抜き出しペラペラと中身をチェックして、そして価格をチェックして、それを購入するのである。「躓く石も縁の端」の諺ではないが、そうして選ばれた古本も私の手に入る縁を持っていたのかも知れない。この本は私にそんな事を考えさせる“究極の選択”のような読みがいのある本であった。

私はこれまでにスピーチの機会が有ると、「21世紀はこころの時代」というテーマで欧米型文明である“人間中心主義”の行き詰まり、“森の民”である日本人の日本文化の取り戻し、“少欲知足”の精神での日常生活の改善などを訴えて来たが、この本は私の様な直感的思考からの話ではなく、環境問題を「文明」、「技術」、「哲学」、「宗教」、「文学」、「倫理」、「政治」、「社会」の各方面から現実的に解明されており深く感銘を受けた。この本の第1章「序論」での次のような書き出しからしても、私をグ〜〜ト引き込ませてしまうのだ。

  「文明の前に森林があり、文明の後に砂漠が残る」

  「自然破壊を非難する文章ですら、緑(森林)を食い潰して作られた紙の上に印刷さ

   れるという事実を忘れてはならない」

  「物質的な豊かさのみを追求する時代の科学的物質文明(欲物文明)の下では、人類

   は『乱開発・乱獲→大量生産→大量消費→大量廃棄』によってこの自然の精緻な生

   態系の秩序を大きく撹乱している。

こんな内容で始まるこの本は私の興味を沸き立たせ次へ次へとページを読み進ませる。この本の発刊は平成7(1995)年4月であり、今から15年前である。この年の1月には“阪神淡路大震災”があり、3月にはオウム真理教による“地下鉄サリン事件”の有った年でもう遥か昔のように感じるのだが、この環境問題に関しては15年前から何も変わらず、むしろ今はもっと悪くなっているように感じてならない。

「環境問題が日に日に悪くなっている」と感じてしまうのは、政治も経済もその場その時の対策で逃げまくって将来にツケを残しているように思えるからだろうか。「高速道路無料化」、「ガソリン税の廃止」とか「原子力発電の増大」とか、本当に次世代の事を考えているのだろうか。

この本では「日本人の脳は左脳と右脳に回路がある“左右脳型”な脳であるから、西洋人の左脳型の脳とはその機能において大きな違いがある」と説明している。この結果として「論争を好む西洋人気質と、和を持って貴しとする日本人気質の違いが見られる」と言う。我々日本も一神教の欧米文化からオサラバして、多神教の我が大和魂の日本人による「調和主義的文明」を地球上で実現してゆく時代が到来しようとしているのではないのだろうか。

この本は、倫理面からも「環境破壊は、現代世代が加害者となって、未来世代がその被害者になるということだ」とも指摘している。そして「現在世代が地球資源を使い尽くし、地球環境を破壊し尽くすことは、これからこの世にやってくる罪なき『最も弱い立場』の未来世代の人々を、現在世代の人々が一方的に殺戮し尽すことになる」と警告している。

だから「現在の繁栄は未来の窮乏であり、現在の成長は人類の終末を意味する、と知るべきである」と言い切っている。そうならぬ為には「社会的規範として世代間倫理は、各人や各集団や各国が、それぞれの責任において自然破壊や資源枯渇の負荷を次世代へ積み残してはならない。これが【持続性の世代間倫理】であり、そして自然の生存権は人間だけではなく、全生物種、全生態系、景観などにも生存の権利があるので、人間がそれを否定してはならない」と主張している。私も全く同感で、この明快な指摘で胸がス〜〜トして来るのだ。

15年前にこの本の著者・岸根卓郎氏が広い分野からの解析により明快に述べられていた事が、現在では“持続性”に関しては【サステナビリティ学問】として大学などに学部が新設され研究が始まっているし、“全生物種の生存”に関しては一例として、今年10月に名古屋で【生物多様性EXPO2010】が開催され、人間中心主義から脱皮してあらゆる生物が地球上で生き残れるようにしようとする産業界の取り組みが披露される事になっている。

我ら人類も“このままでは人類の終末”である事に気づき始めているのだろうか。そして世界中が日本人のリードにより調和主義的文明に入って行く前触れかと思うと仕合せな気持ちにさせ、自分の頭を整理させてくれたこの15年前の分厚い本に感謝、感謝の気持ちである。

今は友人から紹介された新刊本『日本の分水嶺を行く』(細川舜司著 新樹社)を読んでいるのだが、その次に読む本が無いので何となく不安になっていた。早速神保町に出掛け、次の4冊を1550円にて購入して来た。総重量は1.6Kgで有った。

  (1)『梅と雪 水戸の天狗党』 杉田幸三著 永田書房

  (2)『これを読んだら連絡ください』 前川麻子著 光文社

  (3)『くたばれ 竹中平蔵 さらに失われる10年』 藤沢昌一著 駒草出版

  (4)『歴史散歩 江戸と東京』 堤 紫海著 文化総合出版

これでこの先1ヵ月半は何とかもちそうで、変な不安から抜け出ることが出来たようだ。

第4話: 『あたりまえの喜び』              2010年4月3日記

庵に入って色々考える時間があると、大変な事に気づき始めるのである。お陰さまで私は65歳になった今日まで健康な家族に包まれて順調に生きてこられたのだが、これが「人間としての当たり前の人生」であったのだろうか。実はこれこそ“驚異の人生”であったと気づき感謝の念を抱くに至ったのである。

我々は、五体満足の形で産み落とされた後すぐに「それが当たり前」という感覚となり、神が人間に与えてくれた“超高密度精密装置”によって行動が出来ていることも「当たり前」と思い込んでしまっているのでは無いだろうか。つまり「食べる」「歌う」「詠う」「叫ぶ」「泣く」「笑う」そして「書く」「描く」「取る」「投げる」、「歩く」「走る」「跳ぶ」更には「寝る」「起きる」「思う」「想う」などの何から何まで行動が、頭からの指令通りに(欲求通りに)正確に動作できることを「当たり前」と思い込んでしまっている。

「当たり前」の言葉に含まれたニュアンスとして、「有って当然」とか「あるべき権利」といった雰囲気で、なにか見下したような言葉に感じられる。どうしてであろうか。「当たり前」の語源に何か原因があるように思える。 

「当たり前」の語源をインターネットで調べると次の2説が有ると言う。

@「当然」の当て字「当前」が広まり、それが訓読されて「あたりまえ」になった。

A 分配される分を「分け前」、取り分を意味する「取り前」などと言い、それを受け取る

  のは当然の権利であることから、「当然」の意味を持つようになった。

いずれにせよ、はやり「当然の権利」という強い意味合いがあるので、そこには感謝の意などは全く感じ無かったのであろう。

ある新聞記事に次のような一節が有った。

「五体満足で不自由なく生活していると、健康であることが“あたりまえ”と思いがちです。しかしあたりまえと思うこころからは感謝の心は生まれず、愚痴しか出てきません。考えてみると、一人でトイレに行ける、一人で食事が出来る、という一つ一つの動作は、機能を失った人にとっては、途方も無く大変なことであって、その背景には大きな働きが有っての事です。この働きのことを“仏性”といいます。」

私はこれまで何と長くの間、キット愚痴バカリを言い続けて来たことだろう。

さてさて、私が庵でこんな事を考え始めた切っ掛けには、もう一つの引き金が有ったのだ。

それは最近世間で広まっている『PPKのすすめ』であった。皆さんはPPKをご存知だろうか。そしてPBNはどうだろう。更にADLは?IADLは?「全く知らない」という方々は、まだまだこんな世界には無関心で居られるということで、日々の生活に邁進して行って欲しい。但し日々の「当たり前」に感謝しながら。

さて『PPKのすすめ』だが、PPKとは「ピンピンコロリ」の略だそうで、そもそもは長野県の伊那谷の南部、下伊那郡高森町で昭和54年に県の体育会が開催され、体力・健康作りのキャッチフレーズとして利用したのが始まりと言う。あまりにゴロがよい事と、更に平成10年秋に医事評論家の水野肇さん他による著書『PPKのすすめ』が発刊されて全国的に「PPK運動」が広がったそうだ。

ある医師が発信しているホームページにこんなのが有った。

「20歳の成人までの成長期を“第一の人生”、それから社会に出て活躍する年代を“第二の人生”とすると、定年退職後の人生は“第三の人生”ということになります。第三の人生を迎えると、老いが不安なのはその後に控えてある“死”に対して悪いイメージを持っているからだと思います。現在の死のイメージは、病院でまるでスパゲティのように点滴などの管に繋がれて、やせ衰え苦しみながら死んでゆくと言うイメージです。また痴呆症患者を長年介護してきて疲れ果てた家族に、『大きな脳出血が起きましたので、命の保障は出来ません』とお話すると、まるで良かったとばかり安堵の表情をされる方を何人も見てきました。こんな姿を見てくると、自分は死ぬ前までは元気に生きて、死ぬ時はコロリと逝きたいと願うようになりました。」

そしてこの医師は、最後に次のような言葉で閉めている。

「ピン・ボケ・ネタキリ(PBN)を避け、PPKを目指しましょう。」

ところで年金生活に入り、年を取ると共に「当たり前」であった諸機能が当たり前に働かなくなって来るのが一般現象であろう。「目は見え難くなる」「耳は遠いい」「手は上がらない」「肩が何時も痛い」「腰が痛い」「膝が痛い」「寝つきが悪い」「トイレが近い」などと、働いて忙しい盛りにはこんな体力事情の一つ一つを気にしていられなかったのだが、職から離れ時間が十分に取れる生活に入ると諸機能の低下に気づくのだ。そう、これが恐ろしい前兆である。つまり医院に飛び込み、特効薬と言われて薬を貰い、そしていつの間にか薬浸けに至るのである。

しかしこの問題を違った角度から取り上げ、科学的根拠を示しながら、「PPKの道」に進める方法論を紹介した人物が居る事を知った。それは4月に開かれたセミナー『低炭素社会の構築に向けて』というテーマで小宮山宏氏(三菱総合研究所 理事長・東京大学 総長顧問)が語った講演の中での事である。

この講演で配られた資料の一つ<下図>をご覧頂きたい。

科学的分析とは、このグラフは全国の高齢者(男性)をピックアップして20年間の追跡調査より分析したものだからだ。この最も左のライン(比較的若くに死亡)が恐ろしいラインで20%近くも居るのだ。このラインの丸で囲まれた斜線部分がPBN(ピンボケネタキリ)期間で介護という世話で若い世代に多大なる迷惑を掛けている期間である。これが長ければ長いほど辛い人生となる。一番右上のライン(健康維持)が10%も居るが、これは羨ましい限りだが、まあ精々真ん中のライン(徐々に健康悪化)の70%ラインに沿って残された人生を送れば、それがPPKだと示唆している。
そしてあなたが、今ハット一番左ラインに沿っているのではと気付いたら、今すぐに真ん中の線にジャンプアップするように努めればよいのだと小宮山氏は言う。それが図に示した矢印である。そのための一番効き目のある“薬”は(つまり行動は)【社会への積極的な参加】であると小宮山氏はヒントをくれている。

さてこの図の横軸は63〜89歳までの年齢で、縦軸の0、1,2,3に就いて解説しよう。

 3 = 自立

 2 = 手段的日常生活動作(IADL)に援助が必要なレベル。

     IADL(Instrumental ADL)=手段的日常生活動作とは 買物、洗濯、電話、

       薬管理、金銭管理、乗り物 および趣味活動など。

 1 = 基本的(ADL)および手段的日常生活動作(IADL)に援助が必要なレベル

     ADL(Activity of Daily Living)=基本的日常生活動作とは 食事、排泄、着脱衣、

     入浴、移動、寝起きなど。

 0 = 死

ところで、何ゆえに小宮山氏の講演の中でADLやIADLが登場してくるのか、不思議に思われるだろうが、実はこの講演の最大テーマである「日本が低炭素社会を構築」するには、新しい産業、新しい雇用、そして経済の活性化を起こさねばならぬが、そのためには3要素が考えられると言う。それは@【グリーン】(エコハウス、省エネ家電、エコカー、太陽光パネル、風力発電、水、食料など)、A【シルバー】(バリアフリー・インフラ、健康管理、視覚・聴覚支援など)そしてB【知】(教育、生涯学習、付加価値創造など)となるが、日本はBが不得意であるので@とAに注力し、日本は特に老齢化大国としては世界の先進であり且つ技術大国であるからAで世界のリーダーとなればよい、と主張する。

「団塊の世代」が一斉に定年を迎えた日本が、これから生き残る道はシルバー産業での新しいビジネス・モデルの発掘に取り組み、その分野での世界のリーダーという道を辿るべきと主張しているのである。

なるほど、隠居生活だ、なんて言ってのんびりとしてはいられない。それでは「PBN症候群」にハマルのが落ちである。これまで私が65年間、当たり前のような人生を歩いて来られたのも、ラッキー中のラッキーで「ありがたい」と感謝せねばならぬのだ。当たり前に過ごしてこられたことは驚異なことだったと気づいた。つまり「そう簡単には有り得ない」、すなわち「有り難い=感謝」なのである。

これからは、いつまでも基本的日常生活動作(ADL)そして手段的日常生活動作(IADL)が当たり前に出来続けるよう「PP]で生きながら、そして「PP」を続けていられる日々に喜びを感じつつ「K」に辿りつこうと自分に言い聞かせた。

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