エッセイ 『翁のひとりごと』
はじめに : New! 第5章: 「地球が暖かくなっているの?」 |
<はじめに>
これを書き始めたときは、 2009年8月30日の衆議院議員総選挙の結果が出て、政権交代劇が終わり、いよいよ【新生日本】がスタートする事になったのだが、日本の歴史に有りがちな【一瞬の茶番劇】に終わらぬよう、我々国民も新政府に対して、短期間で結果を求めるような安直な判断をしないよう心掛けたいものである。 |
「生きる」をGoogleで検索すると、谷川俊太郎の詩が出てくる。この詩は、普通の人が生きているとき「起きている」、「感じている」、「思っている」ことを羅列しているだけだが、実はそれが生きていることの証なのだろう。今、一瞬、1秒、1時間、1日、1年と時間が経過して行く中にいて、それが認識出来ている状態を「生きている」と表現するのだろう。とすれば今病院で意思が無くチューブを通して栄養剤が口から送り込まれながら呼吸をしている体を「生きている」と表現できるのだろうか。しかしこの方向に話を進めると「人間の死」に関しての議論となってしまうのでここではその方向は避ける事にしたい。 仏教での「四苦八苦」の四苦の内の一つが「生きる苦しみ」である。他の三つは「老苦」、「病苦」そして「死苦」であるが、この三つは「生きているからこそ生まれてくる苦しみ」である。そして地球上で自分の意思で生まれてきたものは無い。人間もそうだ。そして今ドキドキドキと規則正しく、一時も休むことなく脈を打っている心臓は、天が与えてくれた【超精巧デバイス】としか言いようが無い。人間の意志でこの超精巧デバイスを自由にコントロールは出来ず、出来ることと言えば、ただただ壊す(停止させる)事だけである。 しかし、現代文明の下では医学が発達してペースメーカーやカテーテル治療法などで、脳は死んでも心臓や肺が動いている現象を作り出し、この超精巧デバイスをコントロールできるようにしてしまった。その結果として医学の世界で「死の判定」を難しくしているのだが。 虫も、鳥も、草も、花も、皆、生きている。なぜ人間だけが「生きるのが苦しい」のか。 それは「人間が考える動物」だからだろう。生き物が「本能的に持つ欲望」にただただ順ずればいいのに、人間はそこに「考え」が入ってしまい「貪欲」になってしまった。するとその結果「悩み」が生まれる。貪欲と悩みは正比例する。貪欲がますます大きくなると、悩みも拡大化してゆく。拡大して行った結果が「格差社会」の顕在化に至る。欲望の塊のわれら凡人は、それだけ悩みを抱えながら生きてゆかねばならない宿命を負っていると言うことだ。これが「生きる苦しみ」なのだろう。 2年前の正月に観たTV映画【佐賀の“がばい”ばあちゃん】が思い出された。佐賀に住む凄く(がばく)ケチなおばあちゃんのセリフ、『金がたくさん有ると、おいしい物が食べたい、今度どこどこに旅がしたい、あれを買おうか、これを買おうか、と悩みが多いのだ。貧乏ならそんな悩みは無いのだよ』と子供に諭す。 また、映画【ライムライト】の中でのチャップリンが『人生に必要なものは、“勇気”と“想像力”と“ほんの少しのお金”だ』と言った言葉が胸に刺さって来る。私たちは、豊かな想像力を停止させ、勇気を持ってリスクに挑戦することを避け、そこそこのお金だけが貯まってしまった為に悩み始める。つくづく“がばいばあさん”が言う通りだと思ってしまう。 それなら、「生きる苦しみ」を軽減するにはどうしたらいいか。 このように考えたらどうだろう。自分と同じ出自を持っている者はこの世にいない。従って絶対に自分を他人と比較しないこと。そしてこの世に生れ落ちた以上、一人では生きてゆけないので、人様の為になる自分に見合った“仕事”を探し出し、その仕事を通して毎日の【やり概感】、【満足感】を体で感じ取ることであろう。この為にはチャップリンのセリフではないが、自分の想像力(あるいは創造力)を発揮し、自分なりに勇気を持ってリスクに挑戦してゆく必要がある。しかし多くの金は必要ない。人の目を気にせず、表面的に自分を誤魔化すことをせず、金だけを最優先に考えるような“娑婆の濁流”の中に自分の身を任せてしまうことを避けて行動すれば、“生きる苦しみ”を軽微にする事が出来よう。 この欲望の大海“娑婆”を去って“お浄土”に上る時、誰も一人なのだ。そしてお浄土には差別がないので悩みが生まれない。従ってあちらでは生きづらい事は無い。娑婆を去るとき、沢山の花輪に囲まれ壮大な葬儀が組まれ大勢の人々に送られようが、たった一人さびしく去って行こうが、この世を去る時は自分はその事象を全く識別出来ないのだから、なにも“娑婆での格差”に悩む必要は無いのだ。つまり娑婆では自分に真っ正直に生きてゆけばいいのだ。気にしない、気にしない! 『起きて半畳 寝て一畳、 天下取っても二合半』 |