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塩の道 第1章: 火の神様「秋葉神社」目指して

●●初日(5月26日 木曜)     <静岡県・相良町から 小笠町へ>

朝5時起床。長距離歩行のために新しく購入した「コンデイショニングタイツ」を履いて足の指先に
しっかりと「靴擦れ防止液」を塗りこむ。ワイフが用意してくれた”バナナ”をかじる。これで準備万端整った。5:49発の三田線に乗り東京駅へ。早朝にも係らず東京駅は人でごった返していた。楽しみの幕の内弁当と御茶を買って「こだま561号 6:23発」に乗りこむ。好天気なのに 残念ながら富士山は雲の中。何台もの「ひかり」、「のぞみ」に抜かれながら やっと8時静岡駅に到着。多分、人生で始めての新幹線静岡駅下車だろう。

「ウッツ!」 腹具合からチョット トイレに行きたい感じ。スタートから何という事だ。ピッタリとタイツを履いているし、そう簡単に用はたせない。」まずは先に相良行きバスの時間を確認してからトイレ探しとなった。次の発車まで40分ある。早速トイレ探しに駅前のホテルに飛び込む。案の定1階のトイレには先客が。そばで掃除をしていたおばさんに「2階にもある?」と聞くと「あるよ」の返事。急いで2階へ。しかし ちゃんと先客はいた。しかし男子トイレの大用はハンデキャップ用との共用で大型トイレだ。ここを使うことに決めてジット待つ。この時間が長く感じるのだ。

8:50発のバスに乗る。乗客はわずかの 3人。私みたいな旅人は私だけ。9:50 目的の波津商工会議所前で下車。すぐ目の前が真っ白に広がる砂浜。だぁ〜〜〜〜れもいない。白い砂がまぶしい。広大な海原がキラキラしている。ここが縄文時代からの塩田だったのか!きれいな貝を2つ拾った。さっそくリックの中に記念にしまう。あまりのんびり出来ない。

これからがスタートなのだから。

【相良・須々木海岸】

スタスタと歩きはじめ ケイタイで早速ワイフに「無事到着しスタート」を告げる。太陽光線がきつい!! 牛頭山・泰越寺を通り、元禄時代 田沼意次の城跡(小堤山公園)見晴台にて相良を一望に見渡す。公園には誰もいない。11:00市内の「塩の道 スタート点」を見つける。そばのセブンイレブンにて昼食のおにぎりと御茶ボトルを買って ついでに塩の道の道順を聞くが よく知らないようだ。いよいよ ここから塩の道街道の始まり”園坂”を上る事になる。しかし 早速 道を間違えて「般若寺」に出てしまう。通りすがりの郵便配達員のバイクを止めて園坂を確認するが「すみません。私 最近ここに赴任してきたばかりで 知りません」との返事。ついていない! もとのスタート点に1kmほど戻ることにする。

【塩の道・起点】

いよいよ ここから塩の道街道の始まり”園坂”を上る事になる。しかし 早速 道を間違えて「般若寺」に出てしまう。通りすがりの郵便配達員のバイクを止めて園坂を確認するが「すみません。私 最近ここに赴任してきたばかりで 知りません」との返事。ついていない! もとのスタート点に1kmほど戻ることにする。

元の地点まで戻ると、なんと分かれ道の細いほうが塩の道だったのだ。民家の脇を通り緩やかな上り道だが、すぐに「工事中につき迂回願います」の大きな看板に出っくわす。これは車への忠告であって歩行者には関係なかろうと真っ直ぐ突っ切る事にした。しかし道路工事にしては様子がおかしい。青いビニールが広い幅で地面一面に張られている。

近くに行って看板をみると、「国道150号線バイパス建設工事に伴い埋蔵文化財発掘調査を実施中です」と書かれていた。「なに〜〜ぃ! 塩の道を歩き初めて初っ端から“埋蔵文化財”とは?」緊張が走る。早速調査員のそばに行き何を発掘しているのか訊ねると、奈良時代の住居跡だそうである。塩の道の歴史の深さを行脚スタートと同時に再認識したのである。

【奈良時代の遺跡(住居跡)】
園坂の上り口 牧の原台地の茶畑(遠く相良町を望む)

園坂は ”茶畑の園にある坂”という意味だろう。茶畑の中をクネクネとうねりながらの上り道、汗が噴出すが 日陰に行くと風がとてもさわやかで、うぐいすの声、夏ぜみ、そして竹やぶの音、本当に幸せを感じる。須々木が原そして牧の原の台地をまっすぐ走る県道をだたひたすら歩く、歩く。人とすれ違うことは殆どない。不思議なくらいだ。時計を見ると12時を過ぎていた。初日からの無理は禁物。昼食の場所を探しながら歩くことにした。

県道(69号線)が下り坂に入り、その 曲がり角が開けていて コンクリート・土管などの捨て場のような広場があり ブルトーザが放置されているように止まっていた。よしあのブルの裏をトイレに使い、あちらの土管の上で昼食としようと決めて一人荒れ果てた空き地に入っていった。誰もいない真昼の炎天下の空き地。私はなんでこんなところで食事をしているのだろう。建設現場や建築現場から持ち込まれた石や土管類が廃棄されている場所。人間はどうしてこんなことを平気でするのだろう。食事中に1台のトラックが入ってきて土管のようなものを二人がかりで荷台から落としている。
【昼飯処とブルトーザ】
勝手に入っている私に気づくだろうか? ちょっと不安が走る。なぜならここは土建屋の私有地だから。しかし このような場所が 今回は私に トイレと食事処を提供してくれたのだが(感謝!)。 食事を済ませて立ちあがると 目の前の草むらに動くものを感じた。なんと傷ついた「きつね」ではないか! かわいそうだが 助ける道はない。もうおにぎりも食べてしまった後だ。手を合わせてそこを去ることにした。
県道の坂を少し下がると すぐに「正林 寺」に到着。鬱蒼と茂った大きな木々に包まれた社(やしろ)の下で休憩。斜め上を見上げた部分が さっき昼食を取った場所に位置する。と言うことは 正林寺に向かってオシッコ?!(反省!) 引き続き県道をひたすら歩く、歩く。途中にある小さな「塩の道」の標識が道を間違えていない確認になる。

3時過ぎ 小笠町に近づく。広い水田では家族総出で田植えをしている姿に会う。自動田植機を操縦しているお父さんを子供が手伝っている姿。心が和む。

【正林寺】

3:30 小笠町 「代官屋敷・黒田家」と「歴史街道資料館」を見て 4:10 初日の宿「小菊荘」に到着。さっそく汗流しに風呂に入る。まだ今日の客は私しか到着していない様子。一人広い風呂で疲れを癒す。風呂から部屋に戻る途中、ロビーにある自動販売機で冷えた缶ビールを買う。冷たいビールが腸(はらわた)に気持ちよく広がった。 6:10 程よiい疲れと、風呂上りのビールでうとうとしていた時に突然電話が鳴る。 「御食事の用意ができましたよ。食堂に来てください」とのTelで 待ってましたとばかりに立ち上がった。

【田植え作業】

●●第2日目 (5月27日 金曜)     <小笠町から遠州森町へ>

朝7時に目を覚ます。外は快晴。窓の 外は村営のグランドで消防団が朝の訓練をしていた。7:45朝食。他の泊り客は男性が二人で私いれて3人。この小菊荘の玄関前の山が「獅子ヶ鼻砦跡」と書いてあり気になる。8:20 朝の散歩にとこの砦に登ってみる。頂上は子供用のアスレチック広場になっており ヒヤットする朝の空気が美味しかった。立て看板によれば 徳川家康が武田方と交戦のために家臣団に築かせた砦という。
【小菊荘】

9:00 2日目行脚のスタート。昨日通過した代官屋敷まで戻り そこから牛淵川の土手を北に向けて歩く。前方から電動イスに乗ったおばあさんが近づいてくる。「おはようございます」と挨拶を交わす。すれ違ってから「おばあさんは幸せだなぁ。こんなにスバラシイ散歩道があるのだから!!」と独り言をつぶやいた。

【獅子ヶ鼻砦・登り口】
牛淵川・おばあさんの散歩道 春日神社

10:00二平川の「春日神社」に到着。全く誰もいない神社の階段に腰を降ろして休憩(15分)。この時母に無事進行中を伝えるケイタイを入れる。さわやかな風に乗って 近所の家から「氷川きよしのズンドコ節」が聞こえてくる。のどかだ!! 10:45街道を歩いていると 右前方にこんもりとした杜が見えてくる。県道から思い切って小道に入りその杜を目指す。

そこは「古川神社」だった。間違い無く 塩の道を歩いていることが確認できた。その神社の脇を流れる上小笠川の土手に出てまたひたすら歩く、歩く。水田が一面に広がる田んぼ道に出てひたすら北に向かっているが、遥か前方の山の中腹に大きな社殿が見えてくる。あれが次の目的地「応声教院」だろうか。空にはヒバリが気持ちよさそうに囀っているが、太陽光線が無性に暑い。11:20 浄土宗「応声教院」に到着。
【古川神社】
炎天下の田んぼ道 応声教院

11:45 原さんからケイタイが入る。11:50出発、12:05 小川さんからケイタイ。12:10 のぞみさんからのケイタイ。何と一度有ることは ちゃんと三度あった。12:20上内田の「のどの寺・印宗坊(カラオケ寺)」に到着。そのとき、「あ!カメラを落とした!!」びっくり仰天! これまでの全ての記録がパ〜〜〜〜か?一瞬にして疲れがドドドッと出た感じ。さあどうする!? 歩きながらケイタイで話していたあの時にポトンと落としてしまったのか? 今きた道を戻るのか?どこまで? よし 20分だけ戻ってみよう と決めた。歩いてきた道には殆ど通行人はいなかったのだから 誰かに拾われている可能性は薄いはずだが。やはり昨日 正林寺の上でションベンをした”たたり”なのか!? しかし今来た道を数分戻ると 「塩の道・道標」の所に出た。「あ! そうだ。ここで写真を撮ったのだ」と気づき腰のポシェットをもう一度チェックすると何と別のポッケにちゃんとカメラは入っていた。 よかったぁ〜〜〜!

「龍登院」が次の休憩地。「およそ1時間歩いて5分の休憩」を守りながらの歩く旅。側に有る自動販売機で冷たく冷えた缶コーヒーをひと飲み。12:50出発。今日は掛川の町で昼食と考え 昼飯は持っていない。茶の産地「五百済(いおすみ)」を通過、しばらく行くと「つま恋」の裏側に突き当たる。左折して「杉谷(すぎや)」を抜けて東名高速を潜り掛川市のはずれに到着。はるか彼方に「掛川城」が聳え立つ。

【龍登院(日影に私のリック)】

掛川の町並みに入るとすぐに「そばや」を探し掛けこむ。13:40 「おろしソバ」を食べそばやのおばさんと談義。「相良から歩いて来ました」というと目を丸くしていた。14:30掛川城に到着。何かお城の雰囲気に惹きつけられ、よしここでジックリ時間を費やそうと決めて 天守閣、二の丸御殿、美術館の見学。この城主だった山内一豊は来年のNHK大河ドラマ化が決まっているそうだ。「二の丸茶屋」にて茶立てを楽しむ。きれいな茶室できれいな庭園を眺めてのお抹茶は最高! 裏千家のきれいどこと塩の道談義。和服をきれいに着こなした美女(裏千家の師匠たち)から御土産を頂いて茶屋を後にする。

【遠く左に掛川城を臨む】
掛川城 天守閣

(15:30)予定以上に長居をしてしまったなと反省しながら 歩数もすでに16000歩を過ぎていた。掛川の西にひたすら歩く。

陽が随分と西に傾き正面からさし込む光線がまぶしい。倉真川の大池橋に出ると この付近が 「秋葉路」という地名で ここが秋葉街道のスタート地点とも言われる。「一の鳥居」に寄り、バッチリ記念写真。ここから森町まで歩いては宿着が夜に入ってしまう。止むを得ずここから電車 「天竜浜名湖線」を利用 西掛川から遠州森駅までは鉄路と化けた。

茶室にて 一の鳥居
17:00森駅に到着、金森神社経由、 北のはずれ「天の宮」まで歩く。足はボンボンに張った感じ。17:30 二日目の宿「新屋」に到着。古い古い昔ながらの宿。清水次郎長が密会を持った部屋に泊めさせてもらった。柱にはその当時の刀の傷跡が生々しく残っていた。新屋の女将さんが ここは「森の石松」が14歳まで預けられた家ですよと、当時を示す文献を持ち出してきて私に説明してくれた。2階に上がる狭い急な階段の天井に畳サイズの凧が飾ってあった。
【金森神社】

宿のおばあちゃんの話では、森町には昔から初孫が出来ると5月5日の端午の節句に川原に出て凧を揚げるのが慣わしだったそうだ。 「ほらほら こちらに来なさい」と私を玄関先に誘って飾ってある初孫を囲んでの記念写真を得意げに見せるのである。古ぼけた、薄くらい部屋で 一人布団にくるまり歴史の重さをじっくり味わえた夜だった。

【新屋】

●●第3日目 (5月28日 土曜)       <森町から 秋葉神社「下社」へ>

6:30起床。今日も快晴。ラッキーだ。 早速 朝の散歩で隣の「天宮神社」に参拝。大木に囲まれた社殿とひんやりした空気。「くちなしの池」を訪ねる。涌き水の池で出口がないので ”口無し”の池と名ずけられたという。神秘的な池だった。宿の前の「太田川」のチョイト北に「城下(しろした)」という城下町がある。城は太田川を挟んで反対側の山の頂上にあったそうだ(新天方城址)。この城下町は街道に沿って斜めに家々が建っており興味深い配置である。今は軒先の三角形の空き地がそれぞれの家の駐車場に使われている。
【天宮神社】
城下の家並み 城下の常夜灯まで斜めに

8:45 新屋を出発。しまった! 新屋を出るときトイレ(小)を済ますこと忘れた。戻るのもシャクなので 太田川の土手に出て 駐車してある車の影でション(sorry)。 スッキリした気分で歩きがスタート。国道58号線をただひたすら北に、北に。「大鳥居」に突き当たって左折、「黒石」のバス停留場で一休み。前の泉陽中学校の校庭で野球部、テニス部の練習風景が 私を元気づける。

「三倉川」に沿ってうねうねとくねった山 道をただひたすら歩く、歩く。ここは江戸時代「四十八瀬越え」と言われ、雨が降ると橋はしばしば流されて、川中を歩いてゆく不便さが有ったという。歌川広重画「五十三次名所図会」でも掛川・秋葉道として旅人の難儀な姿が描かれている。
【黒石の常夜灯】
10:40「上島橋」のたもとに秋葉街道 の常夜灯があった。ここで一休み。「三倉」に出ると県道56号線と63号線との分岐点。「三倉トンネル」に入る前のドライブイン「よってけ」にて昼食休憩。ここで浜松からドライブしてソバを食べにきた70歳代の方と「ざるソバ」を食いながらの歓談。ここでも立派なハンディキャップ用トイレを使わせてもらって感謝。13:30 2つ目のトンネル「周知トンネル」の前に立つ。中で道が曲がっているせいか出口が見えず真っ暗で不気味だ。スピード上げて時々通過する車に引っ掛けられてはたまらないと、よいしょとリックを降ろして懐中電灯を探す。
【三倉・秋葉社】
懐中電灯を片手に一人トンネルを歩く体験、なんともいや〜〜な気分だったが、ラッキーにもトンネル内では全く車は来なかった。トンネルを抜けると「ここから春野町」の看板が目に入る。途中「花梨(かりん)の里」を通過し14:20「新不動橋」のバス停の小屋の中で休憩。

こんな田舎のこんな小屋にいる自分が不思議だった。しかし何故か心は充実していた気がする。少し歩くとドライブイン「明野いきいき天狗村」に到着、先ほど歩く私を抜いていった乗用車が停まって休憩を取っている。道沿いに見えたトイレが新しくきれいそうなので よし、ここでション・タイムと決めた。レストランに入りリックを置かせてもらい「抹茶入りソフトクリーム」を買ってペロリ。ここでもハンディキャプ用大型トイレを使わせて頂いた(感謝)。

【バス停留所・小屋】

さあもう一息と歩きを開始、道は下りでそんなに苦ではない。民家が多くなり始めたなと思っていると急に視界が開け大きな河原にぶつかった。気田川が緩やかに大きく蛇行しているここが「若身橋」。そこを左折しばらく広いアスファルトの道を行くと、春野高等学校の前を通過、 そして「春のふれあい公園」の交差点を右折、原方面への分かれ道のところに小さな「塩の道・道標」を見つける。16:00領家の「下社」に到着、 鳥居の脇のお土産屋が3日目の宿「門前屋」であった。

【若身橋・電信柱に門前屋の看板】
旅館の人の説明によると、ここ秋葉神社 の「上社」、「下社」は諏訪大社のとは違って1943(昭和18)年の山火事で本殿(上社)が全焼してしまい、1986(昭和61)年に現在の本殿が再建されるまでの間の仮の奉還所として、例大祭などすべての神事が下社で営まれていたという。
【秋葉神社下社・門前屋】

6時過ぎ 嘉太郎さんからtel入る。ここ山間部はケイタイの電波弱く 旅館の外に出てケイタイに対応する。泊り客は私以外に 男女の一組のようだ。だだ広い和座敷にて一人夕食。座敷の突き当たりに大型のフラットTVが鎮座ましており その脇にカラオケセットが置かれていた。きっと祭り時などに村落の連中が集まって大カラオケ大会を催すのであろう。窓の外に目をやると 次第に陽が暮れて行く情景がすばらしい。旅館前の広場に車で駆けつけた連中が車中で軽装に着替えている。彼らは気田川の河原でキャンプをする連中だそうだ。陽が静かに暮れてゆく中、そんな状景を見ながらチビリチビリの日本酒はこれまた格別の味がする。とっくり2本がすぐに空になった。

●●第4日目 (5月29日 日曜)      <秋葉山本宮への秋葉詣で>

6:30起床。今日も晴れ。これで全行 程が晴れだったことになる。宿前の「春野町キャンプ場」まで散歩。昨夜から来ていた人々が それぞれ河原にテントを張り、朝の食事の準備をしている煙がなんとも心に安らぎを与える。今年は気田川の水量は少なく カヌーにきた人には気の毒だ。8:00朝食。8:45 リックを宿に預け ステッキと御茶ボトルを持って”秋葉詣”のいよいよスタート。
【気田川】
下社から坂下の集落を抜けてチョイト歩 くと栃川に掛かる「九里橋」に到着。掛川からも、浜松からも丁度9里ということから名付けられたという。登りは初っ端から厳しい。海抜100mから 一挙に2時間で山頂 海抜866mの秋葉神社まで胸突き上り坂。なるほど これこそが修行だ、とよく理解できた。ふうふう言いながら一歩一歩と足を運んでいると、上からピョンピョンとはねるように降りてくる若者に出会う。体力練習をしているのであろうが、ゴロゴロした石が多い山道で よくも捻挫しないものだと関心させられた。同じように走って降りてくる若者に4人ほどとすれ違ったが、ここはきっとハードなトレーニング場として最適なのであろう。
【九里橋】
急な登りだけに江戸時代には曲がり角 のちょっと平らな所には要所要所に休息をとる茶店が有ったようだ。そしてある間隔で石灯篭(常夜灯)が建っているが、昔の夜道、この灯火で本当に勇気付けられた事だろう。頂上が50丁目となっており 途中に路程を示す”丁石”が置かれており 30丁目の「子安地蔵」、37丁目「武田信玄ゆかりの岩」を通過し、10;20「秋葉寺」着、この急激な上り、友人から勧められて用意した登山用ステッキが充分効果を発揮してくれた。
【子安地蔵】

秋葉寺の裏には山中にしてはビックリするほどきれいなトイレがある。よし帰り道でここを利用させてもらう事にしてまずは頂上を目指す。樹齢400年の大木群の中に突然大きな山門が現れる。これが「神門」で1943年の山火事で焼けずにすみ、江戸時代の建造物として唯一残っているものだそうだ。

【秋葉寺】

10;50山頂に到達。社殿は予想を絶する立派な造りである。本殿への階段を上るとそこには金色に輝く「幸福の鳥居」そして本殿正面にぶら下がっている大きな注連縄(しめなわ)は見事である。本殿前から後ろを振り返ると山頂からの雄大な眺めが眼前に迫ってくる。薄っすらとかかった靄の向こうに遠く遠州方面が見下ろせた。この雄大ですばらしい景観と、みごとな社(やしろ)は苦労して登ってきたご褒美なのであろう。授与所にて おみやげの「火災よけ御守り」を買って11:00には下山開始。下ってきて秋葉寺付近を通過するとき ジョージさんからケイタイ。

【幸福の鳥居と奥に本殿】

「ハイ! ハワーユー、アイム ベリー ハッピー ナウ ! バット、マイニーズ(knees) アー ラーフィング(laughing) ソーマッチ」。

12:15「門前屋」にもどり シャワーをお借りして サッパリしてから昼食。またまた「ざるソバ」。

さあ これで【歩く旅の第1章】は終わった。13:34発の 西鹿島行きバスに揺られて40分。西鹿島から「遠州鉄道」の赤電に乗って新浜松へ。そこから 14:24発のこだま538号で 東京駅着16:23. 我が家には 17:00 「は〜〜〜〜い。 ただいま」 でした。


●● 感想

大変に勉強になった行脚でございました。前調査がよく出来ていたのか、大きく街道を外れるミスもなく、一応目的が達成できたと思います。やはり自分の足で歩くことは、道端の小さな生きもの、山間の村落の生活、昔の街道の香り、などなど沢山の発見が有りました。

この日記を読み返してみますと、なんとトイレの話が多いことか!!実はウオーキングの場合 間違いなく「トイレ問題」は最重要問題であることを再認識致しました。今回はコンディショニング タイツを穿いておりましたので いちいちズボンを下ろし、大事なものを引っ張り出しての作業ですから普通の男子トイレではなく大用の施設を使わねばなりません。いつもとはコンディションが違っていたのですから 日記にトイレが沢山登場したのも やむをえないのでしょう。

第2弾は 7〜8月ころ 秋葉下社から大鹿村に向けて 行脚が予定されています。次回は 「青崩峠」そして「地蔵峠」と連続して厳しい峠越えが待っています。

<続く>                             2005年7月16日記

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