塩の道 第2章 二つの峠越え


●●第1日目 (平成18年5月2日【火】)龍山村から天竜川に沿って西渡へ

1年ぶりの「塩の道行脚」の再開である。現在お手伝いしている専門学校の仕事は、3月に入ると卒業式の手配、そして一方で来年度の新入生獲得の最後の追い込み活動があり、4月に入れば今度は入学式の準備などと学校運営の世界では超多忙の2ヶ月なのである。そんな状態が理由だったのかは甚だ疑問を残すが、週に1回は体力増進のためにスポーツジムに通おうと考えていたのにそれが実現できぬままこの5月連休を利用した「塩の道 一人行脚」の再開に踏み切ったのである。今回は塩の道全行程でも一番厳しいと思われる2つの峠越えがあるのに事前の準備運動を全くゼロでの挑戦であったのだ。自分自身「チョット無謀ではないか」と不安を抱いたことは事実だが、この5月連休を逃したら「次は何時になるか全く分からない。その内にやる気を失いこの一人行脚計画そのものが消滅してしまうのでは?」という不安にさせて、「え〜〜〜ぃ、行ってしまえ!」と無理やり実行となったのであります。

4月に入ってから第2章実行の準備に取り掛かり、1日歩く距離の計算そしてその日の宿予約など詳細に亘る日程表を作り始めた。昨年作ってあった全行程スケジュールに対して今回一部変更を行なった。一つは第2章の初日の行程は秋葉大社・下社からスタートして“龍山村総合センター”で一泊を計画していたが、今回宿泊予約の電話を入れると、「宿泊はこの3月から受けられなくなりました。例の耐震強度問題で県から宿泊禁止令が出ましたので」と言う。あの“姉歯事件”がここまで影響しているのかと驚きである。この付近には全く他に宿泊施設がないので、私のスケジュールにも大きな変更が必要となった。そして昨年の計画での2日目の宿泊地「西渡(にしど)」を今回の初日の宿泊地とせねばならなかった。もう一つの変更は、今回「青崩峠」そして「地蔵峠」の2つの峠越えの後 第3章での行程として大鹿村から秋葉街道を歩くことになっていたのだが、大鹿村から分杭峠〜長谷村〜高遠町〜杖突峠〜茅野〜諏訪湖〜塩尻の秋葉街道ルートは私の伊那単身赴任時代に何度も何度も通過しているルートで知り尽くしているので、思い切って大鹿村の後はルートをもう一つの塩の道、三州街道(伊那街道)に変更することにした。そんな訳で今回の第2章の最終地は私の思い出の地「伊那市」になったが、今回の計画で1日の歩行距離にちょっと無理があるのだが、その都度調整しつつ歩いて行こうと考え実行に移した。

第2章は、第1章の最終地「火の神様秋葉大社」の下、下社から歩きをスタートせねばならないのだが今日中に「西渡」に到達する必要から天竜川の秋葉ダム付近を歩行スタート地に設定した。9:06東京駅発 新幹線ひかり405号に乗り込む。ゴールデンウイークの谷間なのか車内は以外に空いていた。小田原付近を通過しているとき、外は嵐のように雨が新幹線の窓を叩きつけていた。天気予報では「次第に西より天気は回復して、GWの後半は晴れが続くでしょう」と言っていたのでそれを信じてこの行脚を実行に移したのだが、車窓から垣間見える伊豆の海岸線はボ〜〜ット靄に包まれ、これから始まる一人行脚が大いに不安になって来た。10:35浜松下車、「遠州鉄道」に乗り換えのためにチョット離れた新浜松駅まで小雨の中を小走りに歩きなら手を頭に当てて「おや? かぶっていたはずの野球帽が無い!」と気づく。新幹線の中に自分の野球帽を置き忘れたのだ。もう早速のミステイクである。新幹線の座席を立った時なぜ座っていた席を振り返らなかったのかが悔やまれる。なぜなら浜松到着の車内案内が始まると同時に立ち上がり通路を出口に向かって歩き始めたとき「さあ、自分の座席を振り替えて見て」ともう一人の自分がシグナルを送っていたのに私はそれを無視してしまったそんな自分に腹を立てていたのである。

2両連結のローカル線「遠州鉄道」は新浜松駅から30分ほどで終点地「西鹿島」に到着。ここから1日4本しか走っていない水窪町行きバスで12:11発に乗ることにしている。この途中の秋葉大社の下に位置し天竜川沿いの龍山村・第一小学校前で下車し、ここから歩きを開始して今日は佐久間町・西渡にて宿をとることになっている。西鹿島は「天竜浜名湖鉄道」と「遠州鉄道」が交差している町であり結構賑やかであろうと推測して、ここで昼食を取ってからバスに乗り込もうと考えていたのだが、駅前にこれといったレストランが見当たらない。駅前交差点の角に小さな食堂がありそこの暖簾をくぐった。老夫婦が昔からやっている「めし処」といった雰囲気だが、案の定「ごめんください」と声を発するも返事が無い。暫くして遠くのほうから男の声で「ハイ」と聞こえたが、「ここで本当に食事に有り付けるのだろうか?」と一瞬不安が走った。一番早く出来そうで味の方も大きな違いは無かろうと判断して「ラーメン」を注文した。薄いカーテン越しに見える厨房で急いでガス台の上でお湯を沸かし始めた姿を見て「どんなラーメンが出てくるのか?」と不安はさらに大きくなっていった。味は今ひとつ私の好みとは違っていたが、折角作って頂いたのだから残しては失礼だと思い麺だけは残さず食べ支払いを済ませてバス停に向かった。

バスは天竜川に沿って山東〜船明〜相津を通過して次第に山深い渓谷に入ってゆく。天竜川が大きく蛇行し国道152号線もそれに合せてクネクネと蛇行している。山の絶壁が天竜川に張り出して

いるが、その張り出した合間のわずかな隙間にポツンと張り付いたようにある龍山村に入るとすぐに目の前に大きな秋葉ダムのコンクリート壁が聳え立つ。「次は第一小学校前」のバスのアナウンスと同時に下車用ボタンを押した。この停留所のすぐ先はトンネルになっていて車が激しく通るトンネル内を歩いて通過するのは危険なのでここで下車したのは実は好都合であったのだ。停留所の前に雑貨屋があったので、店に入り天竜川の向こう側を走る県道285号線(大輪天竜線)に渡る道を訊ねる。その雑貨屋の脇を抜けて崖に張り付くように建っている民家の庭先を通りダムの手前にある赤い釣橋を渡る。この時点で野球帽に続く2つ目のトラブルが発生した。バス停留所前の状況を写真に収めておこうと持ってきたディジカメのシャッターを押すも全く動作しないのだ。「おや? スイッチの切り忘れでバッテリーが放電し切っちゃたのか?」兎に角ディジカメはうんともすんとも動かず、これから道中のスナップを撮りながらと思っていた矢先のトラブル発生である。やむを得ず持っていた携帯電話のカメラ機能を使って要所・要所を撮る事でしばし間に合わせる事にした。
【秋葉ダム手前の赤いつり橋】
何ともスタート早々からのトラブル続き。よし途中で頭髪保護の為にも“野球帽”を買って、そしてデジカメは宿に着いたら充電をし直そうと腐る気持ちを切り替えて歩きを始めた。バスを降りた頃から空は晴れあがり始め、歩きは軽快なペースで進行して行った。秋葉ダムでせき止められた秋葉湖を左に見ながら新緑の道を一人歩くのは最高な気分である。天竜川を挟んで向こう側の国道には車が引っ切り無しに走っているがこちら側の県道には殆ど車が走っていない。歩き始めてまもなく村営「トロン温泉 やすらぎの湯」を通過し、暫くして天竜川の反対側に山に囲まれたわずかの平地に学校らしき姿が現われる。これが龍山中学校なのだろう。学校の隣に民家がたったの2軒建っているが、それ以外には何も無さそうだ。ここに通う学生も大変だろうなと考えながら歩いていると前方につり橋が見えてきてホットする。そこは「青台」という場所でつり橋を国道側に向かって渡ると、そこは小さな「道の駅」があった。タイミングよくそのトイレを拝借し最初の休憩を10分ほど取った後、またつり橋を渡って県道側に戻り北に歩きはじめる(14:10)。車がビュンビュン走っている川向こうの国道側を見ていると、誰あれもいない県道側を歩いている自分が何となく不安になってくる。例えば今私が突然腹痛でも起こしてうずくまってもここでは誰も助けてくれない。あちら側ならすぐに手でも上げれば車は停まってくれて助かる道はある。こんなことを考えていると時々現れる天竜川を跨ぐ“つり橋”が命綱のように思えてくる。だからつり橋をみるとホットしていたのかも知れない。
しばらく歩いていると前方に赤いつり橋が見えてきてホットする。これが「瀬尻橋」である。橋の袂に来てビックリ。目の前に【通行止め】の看板が飛び込んでくる。看板の下に小さな字で「途中落石のため危険なので通行を禁止します」と書かれている。「まさか、なんで? しかしこれは車に対する警告であって歩いている人は落石の脇を通過できるだろう」と勝手に判断して直進を決めた。しかし次のつり橋までには5〜6kmはある。新緑の葉の合間からキリキラ光る天竜川の川面が美しい。川の土手には薄紫色の“藤の花”や日影に群がって可憐な白い花を咲かせている“シャガ”。そして私を追いかけるように聞こえてくる“うぐいす”のさえずり。目線を山の上の方に向けると、はるか遠く高い山の斜面に茶畑が広がり民家らしきものが見える。「あんな高いところにも道があるのだ」と独り言をつぶやく。実は今歩いている街道は天竜川に沿った道なのだが、昔川の氾濫時にはこのような道は水の中に沈んでしまい、従って重要な街道は高台をはしっていたと言う。秋葉街道も本来の道は秋葉大社の裏参道から「千代」に降りてきて 
【秋葉湖に沿って県道側を北へ】

この県道285号線より一段高い所を平行に走っている道であり、白入沢〜大萩〜名古尾を通りこの県道にこの先の「大輪」で合流する。しかし現在はこの街道が途中何箇所かで切断されているとの情報を得ていたので今回このように川沿いの道を歩いているのだが。

あの【通行止め】の看板からすでに30~40分は歩いただろうか。まだその現場に辿り着けない。もし一段上の秋葉街道のように本当に道が遮断されていたら、前の「瀬尻橋」まで戻らねばならないのだ。太陽光線も斜めになってきて、ここでもし道が全く遮断されていたらどうしよう。不安が募るばかりである。「おや?」はるか先のほうに小型車が駐車している。恐る恐るその車に近づく。誰も乗っていない。とそのとき川の土手斜面の大きな竹薮からゴソゴソと音がした。そ〜〜っと近づくと一人の男性が


青台のつり橋
瀬尻橋

竹薮の中を歩いている。きっと“たけのこ”を探しているのだろう。人が居て助かったとばかり早速声を掛けた。「あの〜〜、すみません。一人で歩いているのですが、瀬尻橋のところで通行止めの看板がありましたが、落石現場はここから近いですか? 歩いて通過できますよね」。するとその男性が「これから歩いて10分位先にデカイ石が道の真ん中に落ちているよ。気を付けて行けば大丈夫だよ。但し大きな音や振動を出さないでね。上からまた石が落ちてくるかも知れないから!」と言う。この説明にちょっとばかり不安になったが、いやむしろどんな状態なのか興味津々となった。

しばらく歩くと「見えた!」。確かに道の真ん中にバカデカイ石が横たわっている。信じられない。こんなことがやはり起きるのだ。明らかに自転車でも横切れないほどに道を塞ぎ止めている。大石のそばに近づき落ちてきたと思われる位置を見上げるとポッカリと地形が凹み、その上側にある石が今にも落ちそうな姿である。なるほど、さっき竹薮にいた人が大きな音や振動を出さないようにと注意してくれた意味が納得できた。

【ドッキ!【通行止め】看板】
「しかし道のど真ん中にある落石を取り去らないままにしているのは、もう一つのあの石が落ちるのを待っているのかも知れない」なんて勝手なことを考えていた。緊張しながらこの大石の脇を通過、暫く行くと赤い橋が見えてきた(15:10)。あれが「大輪橋」であろう。川の反対側を走っていた国道152号線はこの大輪橋を渡ってこの県道と合流する地点である。「その地点の手前に進行方向右手の山の上からクネクネ曲がりながら秋葉街道が下りてきて県道と合流する地点に
【バカデカイ石が確かに!】
【そお〜〜っと脇をすり抜ける】
【秋葉道・塩の道】と書かれた小さな道しるべが立っており、よし間違いなく予定通りの道を歩いているのだと確認できて一安心。「大輪橋」の交差点のところに「スーパー渡辺商店」という雑貨屋があった。ここで一休み、自動販売機で冷たい飲み物でのどを潤す。暗い店内に入って「野球帽」を探す。なんとそれが有ったので早速購入した。何か山の奥の辺鄙な村のお店で自分が今欲しいものがすぐに手に入ったことが無性にうれしかった。
【遠く「大輪橋」が見えてくる】
【秋葉湖畔をこんな姿で】
真新しい野球帽をかぶるとなにかシャキット身が引き締まったような気分になり、今日の宿泊地「西渡」までおよそ5kmと思われるが足どりは軽快になっていた。軽快な足どりはあっという間に次の橋「大井橋」に到着した。天竜川に水窪川が合流する地点で「塩の道」が盛っていたころは天竜川の川船の港町であったそうで、塩や米、しいたけ、酒、味噌などの生活必需品が荷揚げされる集散地として、そして宿場町として大いに繁盛していたと言う。「大井橋」を渡った所にチョイトした広場があり、そこには大きく「西渡駅前」と書かれたバス停留所がある。この広場には他にガソリンスタンドがあり その脇に1軒のお土産屋が建っているだけである。もう太陽光も西に傾き山の上部は明るく光っているが、広場はトップリと日が暮れ薄暗く何か物寂しい感じがする。1台のバスが時間調整のためかガソリンスタンドの前で停車していた。いそいでバスに近づき運転手に「すみません。私は西渡の民宿“植山食堂”に行きたいのですが、この道でよいのでしょうか」と訊ねた。すると「植山? あの“うなぎ”を食べさせる処か。それなら ここから5分も歩けば左手にあるよ」と教えてくれた。この説明に「なに?この季節に唯一の泊まれる宿ということで予約しておいたのだが”うなぎ”が名物の宿とは!」となにか体の中から元気が沸いてくるように感じた。この西渡の町並みは天竜川の両面に張り出してきている山斜面のわずかな平地の部分に木造3階建ての民家が張付くようにビッシリ軒を並べていて、その姿は異様に感じるが、一方で何か往時の勢いを物語っているようだ。
ここ西渡地域は明治30年代、近くに古川鉱業・久根鉱業所があり、山腹には従業員宿舎がぎっしり建ち、この町にも商店が立ち並び従業員や家族達で終日賑わっていたと言う。

昭和18年には従業員慰問のために、市丸、淡谷のり子、並木路子の一行が訪れて、従業員食堂の特設舞台で唄った時代も有ったという。それに続いて大相撲の双葉山関一行も慰問興行を行ったというのだから、きっと山奥の秘境にスッポリと存在した賑やかな町であったのだろう。また宿場町としても流行ったので宿屋が多く、狭い道筋には飲食店、雑貨屋が立ち並び芸奴さんも十数人居たというのだから、なんとなく楽しい気分にさせる。しかし昭和45年に鉱山は閉山となり、また坑内粉塵による“じん肺患者の多発”という公害事件が起こり、その後は急激なスピードで過疎化が進み、経済発展の影に泣いた人間破壊の現実がこの山奥にも存在していたのである。
  (参考:「秘境はるか塩の道の秋葉街道」有賀 競著)

【絶壁に建つ3階建て民家】

5時少し前に民宿「植山食堂」の入り口ドアを開けて私の到着を伝える。すると奥から女性の声で「あ〜〜ら、早い到着ですね」と驚いた様子だ。冗談じゃあない、私にとってはやっと辿り着いたという気分でホットしている矢先なのだから。早速風呂に入り6時から玄関食堂のテーブルで一人夕食を頂いた。確かに“うなぎの蒲焼”が料理されていた。

食事をしながら宿の女将さんと一談義。10数年前にここに嫁いで来て主人と食堂兼民宿を始めたという。うなぎは下の天竜川脇でうなぎ養殖をしていて、これを料理に出していると言う。この付近には宿泊施設が殆ど無く「塩の道」行脚の人々や「龍頭山(1352m)」などの登山客がよくこの植山食堂を利用するとのことである。

明日の予定コースを女将さんに相談すると、ここから秋葉街道・塩の道は急激な「八丁坂」を登り「明光寺」に出て、さらに明光寺峠を経て徐々に下りながら「相月」にでるのが正規のルートだが、そこを通っていては、明日中に青崩峠を経て南信濃村・遠山郷に行くのは絶対に無理と忠告され、身の安全を最優先に考えて明日早朝に西渡から水窪までバスを利用し、水窪から歩きを開始すれば何とかその日中に遠山郷に着けると判断し、女将さんには朝食6:30、昼用おにぎりを2ヶお願いして、21:30に床に入り眠りに就いた。

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