「遂にその日は来た」

<後編> “オデコミュニケーション”と“精霊”

<その9>

8月17日(水曜)夏の朝は早い。今日も快晴できっと日中になれば40度近い猛暑となるのだろう。朝食を済ませ10時に病院に母を見舞う。母は酸素マスクと腕からの点滴に加え、鼻からチューブが差し込まれており肺からでる痰を吸い取っている。その吸引している不規則な音が何とも悲しく聞こえる。母は薄目を開けているように見えたので顔の側に近づいて話しかけてみる。「お母さん、一敏だよ。分かりますか」しかし母は反応しない。ベッドは頭を高くするように傾斜を持たせており、壁には「ベッドを30度以下に下げぬこと」と注意書きが貼ってある。母の胸の部分、そして腹の脇にはドライアイスが入った袋が置かれている。肺の部分からの発熱を抑えているのだろう。母の足の指先をさすってあげる。おや! ピクッと動いたように感じた。「お母さん、気持ちいいかい」と言いながら真っ白なきれいな足をさすっていると、またピクッピクッと指先を動かす。母が私に何かサインを送ってくれているように感じた。

午後になると昨夜電話してあった弟夫婦が名古屋から飛んできた。弟も母の顔に近づけて話し掛けるも母は反応しなかった。つい10日ほど前に見舞いに飛んできた時には、意識もしっかりして会話していたのだからこの急変が信じられないといった顔をしている。「足をさするとちょっと反応するよ」と説明すると弟夫婦は足をさすりながら母に声を掛けて涙していた。弟と揃ったところでH主治医と面談し「母は元気な時から延命策は取らないで欲しいと言い続けておりましたので、危篤になっても手術をしたりせず安らかに他界出来るように」とお願いをした。8月18日には高かった血圧も下がり始めこれから安定状態が続きそうとの判断から弟夫婦は名古屋に帰って行った。

8月23日(水曜)母は安定状態を保っている。痰を吸い取るチューブも鼻から外され、その鼻には今度は栄養を補給する管が挿入されていた。呼吸器系が正常に戻り流動食が取れる状態になったことは我々を大いに喜ばせた。温かなタオルで母の顔を拭いてあげる。

静かに寝ている母のおでこに口づけをした。そうすることで今私が思っていることがすべて母に伝わるように感じたからだ。温かなおでこに口を付けると何か母の匂いが鼻に伝わってくる感じがするが、名づけて【オデコミュニケーション】。そして私が大学生の時(昭和42年、1967)私の祖母“おつねばあさん”が80歳で静かに息を引き取ったときに、畳の上に寝かされているおつねばあさんに接吻をしたことが静かに思い出された。

私は強烈なる“おばあちゃん子”だそうである。私の誕生は太平洋戦争の真っ只中の昭和19年7月、そしてその1年後に戦争は終結を迎える。おつねばあさんには子供がいなかったせいか私を父母から取り上げ可愛がったそうだ。床屋に行く、風呂に行く、そして本屋に行く、すべておばあちゃんと一緒の行動で、小学校に上がったときの入学式さえもおばあちゃんに連れられて行ったそうである。父母に取ってみれば、戦争が終わりやっと平和な時代が来て、子供はおばあさんに預けて二人新婚気取りで幸いだったのかも知れない。しかしその3年後 昭和22年10月に弟・光二が誕生し父母は弟を可愛がることになる。そんな訳で、小学生になっても私はおばあちゃんの布団に入って眠り、弟は父母の寝室で寝ていたのだから、当時兄弟が並んで寝た記憶は私にはない。

長野から東京に戦時下に嫁いで来た母とおつねばあさんとの世間で言う“嫁姑問題”が全く無かったとは言えまいが、母が祖母の言うなりに行動していたので、子供の目を通して見ても大きなぶつかり合いは無かったように想う。祖母の夫が町会長などをやっていた関係で祖母自身も町会役員を続け、母はその仕事を祖母から教わりながら町会の仕事に携わって行く。そのような公の仕事を通して母がとても強くなった体験話がある。

<その10>

私が小学生の頃の体験だという。当時町会長が区議会議員選挙に出馬した折に、賄賂が流れたのではとの疑いが発覚し、祖母と選挙活動を手伝っていた母が選挙後に本富士警察署から呼び出しが掛かり一人で出頭したそうである。警察側も選挙活動の下っ端運動員の方が情報を漏らし易いと母に白羽の矢を当てて一人呼び出しをかけたものだろうと思われたが、その時の警察官の質問態度は厳しく、よくも一人で頑張れたものだと自分でも驚いたという。「母からは町会の仕事のやりくりを色々教わりましたが、とにかくあの経験で私は強くなれましたよ」と母がこぼしていた。しかし私は「お母さん、本当はどうだったの?」とあのときの賄賂に関する真実を母から確認しておかなかった事が悔やまれる。

あの時代(昭和20〜30年代)は日本も戦争に負けて米国の【自由資本主義】とかが入り込んできた矢先でもあり、混乱の中での日常生活は“嫁と姑の争い”などしている暇さえ無かったのかもしれない。おつねばあさんは結構きつく母に当たっていたらしいが、母が上手に我慢して対応していたのではなかろうか。子供ながらに覚えている出来事は、配給になった貴重な“お砂糖”を大型ガラスビンに入れて祖母が美味しそうになめていて、「かず坊も ほら なめるか」と人差し指の上に載せた真っ白な砂糖を私に突き出した。「お〜〜〜、甘い! 母さん おばあちゃんから貰ったら」と言うと、母は「私はいいですよ」と返事する。祖母はだまってガラスビンの蓋を閉めて薦めようともしない。その時、私は子供ながら「あれ、おかしいな??」という印象だけが心に強く、強く残って居る。

そうだ! こんな事もあった。私が中学生のころの出来事だ。私の家は坂の途中に建っているので風呂場、井戸そして勝手裏口は一段下のレベルにあり、居間から風呂場までいちいち階段を下りてちょっと距離があった。風呂に水を入れているとき、母はチョクチョクそれを忘れてしまい、ジャージャーと湯船から水をあふれさせてしまう失敗をやっていた。祖母が「またですか。水はタダではありませんからね」なんて言って母を叱っていたように記憶する。そのような時代、私はすごい装置【風呂水・適量知らせ機】を考案するのである。

そのころ中学の理科ではエナメル線を巻いて電磁コイルを作り乾電池から電気を与えるとレバーがベルを叩くという実験をしていたが、それをヒントに【風呂水・適量知らせ機】の設計に入るのである。まず割り箸の先にピンポン玉を当てて、潮干がりの時に使った網を小さく切って それでピンポン玉を包むようにして割り箸の先に輪ゴムで抑えつける。次に物干し竿(竹竿)を20cmほどに切って中のふし部分に割り箸がスムースに通るサイズの穴をくり抜く。割り箸のもう一方の先にブリキ板(小片)を挟み付ける。次に竹ずつの頭の側に丸く切ったブリキ板を蓋代わりに取り付ける。さて次にベル警報機からの電気線の1本を竹ずつの先のブリキ版にハンダづけ。そして乾電池から来る1本の電気線を割り箸し沿って配線して割り箸の先のブリキ小片にハンダづけしておく。勿論乾電池からのもう1本の電気線はベル警報機のもう1本と繋がっている。最後に竹ずつを風呂桶に引っ掛ける器具だが、これは風呂桶の適量水位の位置と割り箸が竹ずつの天井に突き当たる(つまり通電を開始する)位置とを一致させるように取り付け器具を調整する。これにて完成である。

試運転の日、母には居間に居てもらって、実験開始。水が風呂桶に溜まって行く。暫くすると水位がピンポン玉を持ち上げ始める。「よし! うまく動いているぞ!」いよいよ適量水位に達すると「リリリッーン、リリリッーン」と鳴ったでは有りませんか。母がにこにこ笑って居間から飛んできてくれた。しかし何回か使用後に通電の際の接触不良などが原因で 母はまたまた“風呂水 溢れさせ事件”を起こしてしまう。私の【風呂水・適量知らせ機】はその後お払い箱になったが、それから10数年後に同じ目的で且つ又原理までも同じ機械がM電器(株)から発売されたのでした

<その11>

8月23日の午後、母の病院のあるJR飯田橋から総武線で中野に向かった。中野駅前にある学校法人O学園の理事にと推薦を受けていて、学園長との面接の日である。9月末に永くお世話になった丸紅(株)系列会社を退職するので、タイミング的に大変に有難いお話である。実はこのお話も母が関係していたのである。

話は昨年末、クリスマスイブの日に遡る。2004年12月24日、10年余りお世話になった丸紅系コンピュータ周辺機器メーカーL社で定年退職を迎えた。L社在職中の2001年から2年間、工場がある長野県・伊那市に単身赴任の時期があった。このとき書き始めたエッセイが9作品になり、会社を定年退職したのを機会に自分の人生の節目の記念に「エッセイ集」でも発刊出来たらと思い、出版社にエッセイを送り審査を受けた。その結果、出版社から「共同出版」しましょうとのお誘いを頂き私の駄本【伊那谷と私】が翌2005(平成17)年4月に発売となる。この発刊に母は喜んでくれて“お祝い”ですと私に「のしぶくろ」を手渡そうとしたのだが、私は受け取らず、「お母さん、私の本を10冊でも20冊でも買ってもらい親戚や友人に贈ってもらえませんか。その方が私はうれしいなぁ」と正直な気持ちを表現した。早速母は私の駄本を購入してくれて、親戚などに贈ってくれた。そして親戚のおばさんが私の駄本を読み、そしてその本がおばさんの姉、O学園の理事長の手に停まり、その結果「理事への推薦」の話に結びついて行くのでした。このタイミングの良い“不思議な縁”についても私は母に感謝せねばならない。

9月に入って、母は安定した状態が続いていた。従い家族も平常のスケジュールをこなすようになり私も会社仲間との付き合いでのゴルフに、そして飲み仲間との納涼会に参加するようになっていた。今年のプロ野球もIT系の企業がプロ野球チームを持つという話題で賑わしてのスタートだった。初めて東北の地“仙台”に「東北楽天ゴールデンイーグルス」が生まれ、ダイエーグループの事業行き詰まりからチームを売却し「福岡ソフトバンクフォークス」となり、そしてプロ野球の経営難から従来の2チームが合併して大阪に「オリックス・バッフアローズ」が誕生した。そんな状況の変化の中、何も変わっていないセリーグでは「阪神タイガース」がダントツの強さで暑い夏を驀進していた。

母は女学生時代から”野球“が好きで長野から東京に出てきてよく大学対抗野球を観戦していたという。私が小学生の頃、真砂小学校の側に旅館「真砂館」があり、ここは後楽園球場に近いことから当時「毎日オリンズ」の定宿であった。この旅館の前には戦争で焼け野原になった広い広場があり、そこには電信柱になる太い丸太材が積み重なっており、子供達にとっては格好の遊び場だったのである。ある日、学校の帰り道、この広場で遊んでいると、隅っこでバットを使って素振り練習をしている選手がいた。私たちが興味を持ってそばに近寄ると、その選手が「僕達、1、2と数えて100になったら教えてよ」と話しかけてきた。1、2と数えながら100になると私たちは大声で「ひゃく〜〜ぅ!」と叫んだ。そんな繰り返しを3〜4回する頃は夕日が真っ赤に空を染めていた。そして翌日も学校が終わると一目散にその焼け跡広場に向かうのである。またあの選手に会えるのを楽しみにしながら。そんな事を何回となく繰り返しているある日、夕日が真っ赤に空を染めるころ、旅館の2階の障子窓が開いて、「お〜〜〜ぃ! 山内、風呂が空いたぞ!」と声が掛かった。それで私たちはこの選手が“山内和弘”選手であることを知ったのである。そして素振り回数の手伝いの報酬として山内選手から後楽園球場の内野席「ビラ下券」を10数枚頂くことになる。それからというもの後楽園球場での毎日オリオンズの試合にはよく応援に行ったものである。私はそれから山内選手のファンになるのだが、父も、母もパリーグ、毎日オリオンズ、そして山内選手の大ファンとなってしまうのである。母は徹底して山内選手の移籍に沿って応援するチームが変っていったのである。つまり「毎日オリオンズ」「大毎オリオンズ」「広島カープ」「阪神タイガース」ってな具合に。山内選手は打撃コーチとして「読売ジャイアンツ」にいた時代もあるが、すでにそのときには完全に影の役になっていたので母は「巨人」を贔屓のチームにはしなかった。それには私と同じ理由があるのだろう。山内選手が「広島カープ」の時代、父母は私をよく「巨人X広島」戦を観に後楽園球場へ連れて行ってくれた。それは読売新聞がくれた招待券で行くのだが座席いつも3塁側であり、広島側の応援を重ねるごとにいつも超満員となっていた1塁側の強い「巨人」に対しては自然と敵愾心を抱いていたのかもしれない。

<その12>

9月12日(月曜)母は意識が無いものの容態は安定状態を続けているが、母の足をさするとピクッと動かす反応が日に日の弱っているように感じて不安になっていた。しかし病院側は、「もう治療をするところは無いので、そろそろ長期養生をする施設に移る準備をしてください。当病院の【医療福祉相談室】を紹介しますので、そこと面談してみてください」と言われ、今日はその面談日。相談室スタッフはとても親切に福祉施設に入る手順を説明してくれてはいたが、日に日に母との足を通してのコミュニケーションが遠のいて行く様でオデコミュニケーションになっているのに、本当にこのような状態で福祉施設に入って大丈夫なのだろうかと不安が募る。相談室で紹介された施設の内容を持ち帰って検討し、我が家の近所の母が掛かりつけの病院とも相談した上で最終的にどこの施設を利用するかを決めて、9月20日にもう一度【医療福祉相談室】と面談することにした。

母が道で倒れて病院に担ぎ込まれたのが7月31日、それからすでに1ケ月と12日が経っていた。病院とは“治療”をすることが目的で、治療する箇所がなくなり後は養生する状態になれば病院を出てその目的の施設に移らねばならないというのがルールである。治療が済んでから病院に滞在できる最長は原則3ヶ月という。昨今では養護施設は超満員の状況下であるので、今から施設に予約を入れておいた方が、3ヶ月目になったときスムースに引越し出来ますよとの病院側の思いやりから相談室の紹介を受けたのだろうが、何となく「納得できぬまま母が追い出される」ような気持ちを抱いていた。

9月19日(月曜)は「敬老の日」で3連休である。朝の10時、洗濯済みの母の寝巻きを紙袋に入れて自転車で飯田橋の病院に向かう。まだ残暑が厳しいが自転車で切る風が顔に当たってとても気持ちがいい。後楽園の横を通り神田川を渡って飯田橋の交差点に出て、少し先の神楽坂の信号を左に折れ早稲田通りに入れば、もうすぐそこが「東京警察病院」で家から10分ほどの行程である。病院のロビーに入ると、休日だけあって人影が全くなくシーンとした静けさのためか、いつもの強めの冷房が今日に限って気持ちよさを通り越して何か冷たく感じたのだ。エレベータで4階の病室に向かう。ナースセンターに「おはようございます。お世話様です」といつのも挨拶を掛けて病室に入る。母は静かに寝ている。

いや、本当に寝ているのだろうか? 静かに呼吸はしている。母のおでこに口づけをしながら、先週の出来事を頭の中でしゃべることで、母と会話が出来たように思える。その時看護婦さんが母の血圧を測りにベッドの側に来て、「お母様、今朝ちょっと血圧が低いのですよ。痰の方は出方も緩くなって呼吸もし易くなったのですがね」と言いながら、驚くほど細くなった母の腕にベルトを巻いて血圧を測っている。私の方から看護婦さんに今母にオデコミュニケーションで報告した介護施設の件をお話した。「我が家の側にJ病院があり、そこで面倒を診て貰えそうなので、明朝J病院と正式に11月初旬には入れるように交渉する事にしました。明日午後1時半にここの【医療福祉相談室】と面談しますので、その時にその結果を伝えることにします。しかし母はこんな状態で11月になれば本当に移れるのでしょうかね」というと、看護婦は返答に困った顔をしながら、「これから徐々にお元気になられるから大丈夫ですよ」と私を元気つけてくれる。

9月20日朝は快晴でありまだまだ残暑が暫く続きそうな気配だった。朝9時前にJ病院に出向き11月からの母の受け入れを交渉し、「特別個室なら何とかなりますからまずはそこに入り一般病室が空いたらそこに移れば如何でしょうか。何とか致しましょう」ということで自宅近隣の病院に入れる確認が取れてまずは一安心。J病院は母の町会での友人が何人も介護要の状態でお世話になっており、その都度母が見舞いに出向いていた病院である。今度は母がその見舞われる側になってしまうのだろうか。

午前中は今年5月から通い始めた【60歳からの男の料理教室】の5回目の日でJ病院の後、池袋に向かう。今日の実習内容は“いわしの蒲焼、焼きなす、豚汁”である。これまでに実習の成果を家で試したのは“切干大根の煮物”、“きゅうりと白子の酢の物”、“きんぴらごぼう”そして“なすとみょうがの味噌汁”であるが、7月のある週末の夕食に私の料理を母にも食べてもらっているが「とても美味しかったですよ」とお褒めを頂いた。

料理学校のあと飯田橋の病院に移動、【医療福祉相談室】にメッセイジを置き、母の容態をチェックに4階病室に上がる。日に日に呼吸の力が弱まっているように感じるが、一方で苦しんでいる訳でもなく、本当に静かに、穏やかに眠っている姿にホットしている私がいた。午後2時半、10月退職後の健康保険と厚生年金基金の手続処理の件で湯島にある健保組合を訪ねていた。その理由は現在“顧問”として勤めている会社はこの9月に終了となり、昭和45年に丸紅飯田(現在の“丸紅”)に入社してからサラリーマン生活を続けて35年、いよいよ9月末でサラリーマン卒業を迎え10月からフリーターとなるからである。午後3時半、健保組合から近い御茶ノ水にある油絵教室に顔を出した。ここでおよそ1時間半油絵を描いて教室を出たのが5時過ぎで、この後午後6時から友人との飲み会がアレンジされていた。しかし油絵教室を出た所でワイフからの携帯電話が鳴った。

<その13>

「もしもし。お父さん、今病院から電話で母の容態が急変したのですぐに病院に来てくださいとの事です。私は今から家を出ますから、お父さんもすぐに病院に向かってください」と言った内容だった。そのとき空はにわかに真っ黒い雲が被い、ポツン、ポツンと大粒の雨が顔に落ちて来た。急いでタクシーを拾う。と同時に6時からの飲み会の仲間に事態急変を伝えるために携帯電話を入れて一旦キャンセルして貰う。タクシーに乗り込むとほぼ同時にザーザーと強烈な雨が降り出した。滝のように降る雨がアスファルトの地面を叩き、ポンポンと飛び跳ねているように見える。大雨の為かすぐに車は渋滞し始め、すべての動きが何かわざと病院に行くのを遅らせているように感じてしまう。「運転手さん、この時間は病院前の早稲田通りは、九段坂上側からの一方通行なのですが、例の神保町を通る靖国通りはいつも渋滞しているので避けたほうがいいですよね。とにかく少し遠回りしてでも早く行ける道を使って東京警察病院に行ってください」と頼み込んだ。突然襲って来た夕立は、ラッシュアワーと重なり車は渋滞の真っ只中にはまり込みノロノロと走っているように感じる。私は手を握り締め「お母さん、死んじゃぁだめだよ。待っててくれよ」と祈りながら、タクシーの窓を叩くように降る雨が恨めしかった。

タクシーが病院正面玄関に着くと手の中に用意してあった金額を運転手に払うと同時に車のドアを開けて病院ロビーに飛び込んだ。もうすでに6時を過ぎたロビーは閑散としていたが、エレベータを待つ自分が何か非常に冷静にいられるのが不思議だった。それは母が植物人間状態になった8月16日の夜以降いつかはこのような状況が襲ってくるのだと私は覚悟していたからなのだろうか。エレベータを降りて病室に向かうがいつもの廊下と違っている感じがする。看護婦さんが慌しく母の病室に出入りしている。「出来ればあの病室に入りたくない」という気持ちが私を襲う。母のベッドの周りには医者と看護婦がいたが、その脇にある心電計の波形音がなんとも小さくそしてその間隔が不規則に長いのが異様に気になった。医者が私にこの危篤状態に落ち入った経緯を説明しているが耳には入ってこない。あまり重要な話ではないと自分勝手に決めているからだろう。母の顔をジィ〜と見つめる。苦しい表情はなく本当に安からに眠っているような顔をしている。そこで私は「隣の患者さんにも迷惑だし、自宅が近いので一旦家に帰へり万が一の場合に待機します」と病院側に説明してワイフと病院を出た。

二人して病院を出て夜の雑踏の中に入る。外はいつものように何事も変わっていないかの様に動いているが私たち二人はいつもと違う気持ちで歩いていた。自宅への帰路途中で夕食を簡単に済ませ自宅に戻っては来たが何か落ち着かない。不思議と自然に目が電話機の方に向いていたりする。机に向かって何かをして気を紛らわせようとするが、どうしても長続きせず、あれやこれやと仕事を見つけ出してはトライするが途中でギブアップだ。また目は電話機に注がれた。何度電話機をチラチラっと眺めただろうか。何度目だろうか、目が行ったかと思う瞬間にベルが鳴った。 私は「ホラ!」と小さく口ずさんでいた。

案の定電話は看護婦さんから「危篤状態ですからすぐ病院に来てください」という連絡で「それ!」と息子の運転で家族三人病院に駆け込んだ。もう何も慌てることはない、もう何も悲しむこともない、ただ落ち着いて行動することだ、などと自分に言い聞かせながら病室に入った。母は静かに眠っていた。もうベッドの側にある心電計からは何の音も聞えて来ない。側に付き添っていた医者が小さな声で何かを私たちに言っている。私は【遂にその日は来た】と悟った。平成17年9月20日午後11時36分 母永眠ス。

<その14>

午後11時36分を過ぎて数分も経たない内に、横から「あの〜〜、この後の段取りはついていますでしょうか?」と声が掛かる。私は「はぁ〜〜?」と何事かと考えめぐらしていると、「この後、ご遺体は地下の安置所に移動されますが ご自宅への搬送からご葬儀の手配などご指定先が無ければ病院側でご紹介できますがーー」と言う。「あ! そうか!」と一瞬にして現実の世界に引き戻された。この辺の手順に就いては生前母から聞いていたので、「私の方で手配出来ます」と返事して、まずは私だけ一旦我が家に帰ることにした。

母の部屋に戻って電灯をつける。今家主を失ったばかりのこの部屋は全く何事も無かったように整然となっている。真っ先に仏壇に駆け寄り隅に立てかけてあったビニール袋を開く。この中には母が健在だったときに母と私で確認のために作って置いた【葬儀時のマニュアル】が入っているからである。それには 次のようにメモされていた。

   『宮原家・法事の手順書』     作成:平成13(2001)年7月15日

一、 連絡先: 葬儀手配 「○○護助会」 TEL:xxxx−xxxx

二、 町会経由で斎場手配 町会長TEL:xxxx−xxxx

三、 菩提寺手配 長野光蓮寺 TEL: xxxx−xx−xxxx

四、          栄恩寺   TEL: xxxx−xx−xxxx

五、 母からの伝言

○斎場は町内にある斎場ですること。祭壇は最高級でなくてよい。 ○写真はシンガポールで撮ったもの(床の間の裏にあり)○「家紋」は“抱き柏”だが同封の図を参照。○「遺言」と「法名」は別の封筒を見よ。○お棺に入れるもの同封してある(善光寺の蓮形の紙、小さい数珠、好きな写真数枚)○光蓮寺の墓の脇に「墓誌」を建ててほしい。「墓誌」の内容は同封のメモを参照。○仏壇のお花は生花を絶やさないでほしい。

六、 法事の流れ

初七日、納骨、四十九日、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌

仏壇の中からこのビニール袋を取り出すと、そのビニール袋の後ろにお習字用紙を幾重にも折り畳んだ紙切れが出てきた。それは2本のセロテープで止めてあった。「一体母はこんな所に何をしまって置いたのか?」と疑問に思いながら静かにこの紙を開いてみる。そこには何と次の文言が筆字で書かれていた。

  『我が儘な おねがい。 

医者さわぎせず 自然のままに まかせてください。

                      志げ子 (母)  』

この文面を見ながら涙があふれ出て止まらない。真っ白な紙の色、筆で書いた字、このメモはどう見てもそんな昔に書かれたものでない。このビニール袋の中身にしても、このメモにしても母は何と自分の死に際をスマートに演出しているのだろう。無性に涙が止まらない。

      

とにかくこのマニュアルのお陰で全く慌てることもなく、護助会への連絡や、そして母を迎え入れる為の最低限の部屋の整理をスピーディに済ませて病院の安置所に戻る。安置所は畳が敷かれた日本間で、6畳ほどの広さの部屋が3つほど並んでいた。母の顔には白い布が掛けられ、よく映画やテレビで見たシーンが今はわが身の現実として目の前に展開している。線香をつけて目を閉じ深く合掌するも、今は頭の中に何も浮かんでこない。1時間もすると護助会が手配した寝台車が到着、母は静かに病院を出ておよそ一ヵ月半ぶりの帰宅となった。

母は和室の畳の上に北枕で寝かされる。護助会の方々が手際よく設定してゆき午前3時過ぎにはやっと落ち着けた。今夜はワイフと二人でこのまま寝ないで通夜をすることにした。

ワイフと入れ替わりで蝋燭と線香の火を切らさないようにしていたが、ワイフがポツリと思い出すように言い出した。「お母さんが倒れた7月31日の前の日は隅田川花火大会の日で、皆で一緒に夕食しましたね。あの日は“鉄火丼”だったけど、お母さんが美味しいと言ってペロリと食べたのには驚いたわねぇ。いつもは食が細いとか言って出た料理を食べきれないでいたのに、あの日はとっても早く食べたので、あれ?いつもと違うなと思ったほどよ。だけど本当の食事らしい食事はあれが最後だったのね」と言う。まだ続いて「お母さんが帰るときに明日の朝食用にしじみ貝一人前を渡しておいたけど、翌日の倒れた日には、しじみの味噌汁を作る準備をしたまま散歩に出たみたいだったもの。」私からも不思議に思えた母の姿についてワイフに話をした。「あれは母が倒れた日の数日前の朝だったと思う。6時過ぎにいつものように朝刊を取りに玄関のポストのところに下りて行くと、母が玄関脇の駐車場のところで朝日に向かって手を合わせてお祈りをしているような姿に出っくわしたのだよ。そのとき太陽光が燦燦と母に降り注いでいるように見えて、声を掛けてはまずいように感じてそのまま新聞を小脇に抱えて上がって来てしまったことがあったよ。」この話にワイフは、別に驚くことでもなかろうといった顔をしていたが、私にとってはあの瞬間は何か太陽光が母だけに燦燦と降り注いでいるように感じてしまったのだ。いつもなら「お母さん おはよう」と声を掛けているのだが、不思議とあの瞬間だけは声も掛けられずにそのままその場を去ってしまっていたのだ。

ワイフと母を偲んでの話を重ねているうちに、窓の外が白々と明るくなっていた。

<その15>

9月21日の朝、早速町会長のところに連絡を入れて斎場(興善寺会館)の予約をお願いするも、なんと最短で6日後の26日(月)お通夜、27日(火)告別式と決まった。これには訳があるのだ。何と母が他界した日の翌日が21日で“お彼岸の入り”でお寺・お坊さんは超多忙、そしてその週末24・25日がここ田町の“お祭り”である。何と母は彼岸に旅立つ前に6日間も自分の部屋でゆっくり休むことが出来たのだ。私もじっくり母の側で6夜も通夜を共にすることが出来て幸せであった。夏の夜、母は両脇下にドライアイスを抱え、一方で部屋はクーラーを掛けっぱなしで一定温度に保たねばならない。夜中一人母の部屋で一緒に寝ていると、クーラーのかすかな音さえもが何とも悲しく聞こえてくる。暗い闇夜に目を凝らすと、目の前の壁に私の油絵作品【かのひとの祈り】が掛かっていることに気がついた。母の前の蝋燭の炎でその絵が微かに見えるような気がする。この絵は2年前に私が長野県・伊那市に仕事で単身赴任していた時に描いた油絵である。母は詩を小さな紙片に筆で書き残し、時々私の所に持ってきて説教する。その詩の中に私が引き付けられた詩があった。

”幸せは忍耐の枝に咲く”

是非この詩に合った絵を描いてみたいと素材を探し、ある日古い「NHK俳句教室」の雑誌の中にポックリを履いたお嬢ちゃんとその母の白黒写真が目に止まった。神社の前でかがみ込んだ母と子供。その母の部分のみを「おみくじ」を木に巻きつけている姿に表現したのがこの絵である。“何かを祈り、じっと耐えている姿”に描いてみたかった。母が私にくれたいくつかの小さな紙片には次のような歌が書かれている。

“子は人のもの 孫は親のもの”

“芽が出りゃ摘まれ、葉が出りゃ揉まれ、それでも茶の木に花が咲く”

そして父を想う心を次のような詩にしている。

“亡き夫(ひと)に秋草かざる 月見かな”

“めぐりくる 七夕まつり 亡父の日”

“我が夫の逝きにし年を今なりて 今日の無事 神に感謝す”

田町の祭りは毎年雨に見舞われる。今年も雨模様のハッキリしない天気だった。祭りと言えば父は、そしてその亡き父の後の母も、いつも町会の神酒所で寄付金の金額・氏名を貼り紙用紙に墨筆で書く役を仰せ付かっていたようで、町会役員からは、「年々この役が亡くなられて行き神酒所も寂しくなっちゃったよ」とこぼしていた。昨年の祭りの日には、母は神酒所に座っていたのに今年は家の前を通る神輿の掛け声を、そして大通りの神酒所の前で景気付けの「壱岐坂太鼓」を母は静かに自宅で楽しんでいる。この和太鼓の演奏者の中に私の中学校同期生が二人おり一心不乱に叩いている姿を見ると、何か母に聞いてもらおうと一生懸命に叩いてくれているように思えてきて涙ぐんでしまう。この日弟一家も名古屋から駆けつけてくる。弟の前で母の「遺言」を開き内容を確認し、そして「法名」と書かれた封筒を開くと次のように書かれた和紙が出てきた。

  法名: 釈尼志願

  俗名: 宮原志げ子

  帰敬式: 平成3年10月13日

  光蓮寺十四世住職: 釈了英

何と明快な一度覚えたら絶対忘れられない法名ではないか!「志願」とは! その封筒にはもう一枚のメモが入っていた。それは住職から頂いたものか、「法名:志願」の言われに就いて書かれていた。

  『この“志願”は【高僧和讃】の27項より;

   無碍光如来(むげこうにょらい)の名号と、かの光明智相とは、無明長夜の闇(あん)を

   破し、衆生の志願をみてたまう。 』

<その16>

9月26日、月曜の朝、祭りの去った町の朝は静かに明けた。天気予報によれば今日は全く雨の心配は無いそうだ。午後に入って護助会との前打合せの通りに斎場作りが始まった。母は花が大好きだったので祭壇は菊の花一色で包んであげ、遺影の写真の部分をあかるく洋花で囲むデザインとした。皆様から贈られる生花もこちらの指定した先に御注文を頂く形式にさせて頂き、すべて同一スタイルの生花がお棺と祭壇を包み込むように設計したが、なんとも母らしい雰囲気が醸し出されたように感じた。そして母が生前戴いていた数々の感謝状をお棺の脇に置かせて頂いた。それには訳がある。母が私や弟・光二に常日頃から言っていた「大事な三言葉」は【感謝】、【素直】、【反省】であった。母は口だけでは無く、チャント人様から【感謝】されていたのであり本当に立派な母だと尊敬していたからである。

そろそろ祭壇作りも最終段階に入り、町会の人々が手伝いに来てくださり外にはテントが張られ「お通夜」の受付開始 午後6時が迫っていた頃、「文京区から感謝状をお持ちしました」と役所の方から箱を渡された。その中には額に入った次のような文言の“賞状”が収まっていた。

  【感謝状】

   あなたは本会の会員として多年にわたり地域の福祉向上に貢献されました

   功績は誠に顕著であります。

   よってここに感謝の意を表します。

        文京区社会福祉協議会 会長  平成17年9月26日

この感謝状も祭壇にすでに並べられていた全国民生委員児童委員協議会や同じく東京都そして文京区の同協議会からの表彰状や楯と一緒に並べることにした。母の逝去についてどんなところからどのように情報が協議会に届いて、そしてこのように今日のうちにタイミングよく賞状が届いたのであろうかと驚きと同時に“感謝”の気持ちで一杯であった。

母は17年間に亘って【民生委員】の活動をしてきたが、その活動期間の長さには頭が下がる。母の側で6日間の通夜を続けていた時に、母の使っていた棚を整理していると、その17年間の民生委員手帳が出て来た。そこの記録を見て、管轄地域の人々と大変に細かな対応をされていたことがその手帳記録から分かったのである。母は生前私にはこのような苦労話は一切しなかった。人のお役に立つということは 本当はこうゆう事なのだな、とその手帳の中身を見たことで母が私に教えてくれた気がする。

翌27日は青空の朝を迎え、そしてつつがなく告別式を終えることが出来た。お通夜、告別式を通して大変に多くの方々に会葬頂ききっと母も喜んでいると思う。私の学友や会社の方々の母への印象は「元気のいいお母さんだったなぁ」と言うものだった。お通夜の時に会社時代の先輩が母についてこう語った。

「あれはまだ国鉄や私鉄が春闘ストライキをやっていたころだったよなぁ。宮原の家が会社から近いから電車が止まっても翌朝歩いてこられるからとか理由を付けてテツマン(徹夜でマージャン)をよくやったもんだった。そんな時 出勤前に宮原のお母さんが暖かな味噌汁とおにぎりを作ってくれたっけ。あのときの“みそにぎり”と“おしんこう”の味が忘れられないよ。」この話を聞いて私は目頭を押さえた。人の記憶とは自分では予想もつかないことで残してくれているのだと驚かされたからだ。終戦後、まだまだ物不足の時代、母がご飯を丸めてその周りに塩をまぶった“塩にぎり”そして味噌をまぶった“みそにぎり”をよく作ってくれた記憶がある。


<その17>

我が家の菩提寺が長野市郊外にあることから、11月6日 四十九日法要を東京で済ませ11月12日に「納骨式」を長野・光蓮寺にて名古屋の弟一家と一緒に行った。そして師走の真っ只中の12月27日 百か日法要を我が家族だけで済ませ、新しい年 2006年を迎えたのである。

2006年は暦上では丙戌(ひのえいぬ)三碧(さんぺき)木星の年だそうだ。丙は「陽の気がいよいよ表れるとき」そして戌は「滅ぶとか切れる意」そして三碧木星は四季でいえば春、月なら4月、そして日でいえば午前5時〜7時と解説されている。とすれば今年は”夜明け前”の年とも解釈され、我が家にとっても新しく切り替わる年になると言うことかも知れない。

母の部屋を整理していると懐かしい写真や手紙そしてメモ書きなどが出てきて、その瞬間「あっ、母はいなくなったのだ」と改めて実感させられる。そして「いなくなる」とは一体どういうことなのだろうかと考える。「いる」ということは「生まれる」こと、そして「いない」ということは「死」。そして「生まれる」ことを継続して出来ていることを「生きている」と表現しているのだろうか。あの8月30日の土曜日、隅田川の花火大会の日、母はチャント我が家で一緒に夕食を共にしていた。確かに「生きていた」のだから「生まれる」ことを継続出来ていたのだ。それではこの「いる」とか「いない」とは何か?

私の勝手な持論では、それは「精霊」なのである。

私の勝手な持論によれば、精霊は個体間を浮遊する。精霊は個体すなわち人間なら受精体に(後に体に成長するが)宿り、これを「生命誕生」と我々は表現する。精霊には“死”がないが、個体には寿命があるので、個体の終了期限が近づくと精霊は他の個体を求めて徐々に個体から逃げ出して行き、完全にその個体から精霊が“いなくなった”時を我々は「臨終」とか「他界」と表現しているのだ。精霊は出たり入ったりしているので、一つの星(例えば地球)の「精霊」の量は一定なのだ(キット)。その精霊に重量はあるのだろうが、星の表面を層として被っているので(大気圏と同じように)その重さを人類が量る方法はないのだ(キット)。我々は仏教の世界でその精霊が個体から飛び出した空間を「彼岸」と言い、精霊が個体に張り付いた世界を「娑婆」言っているではなかろうか。そして残念なことだが、この娑婆には“寿命”とか“限界”とかが存在しているために“欲望の坩堝”と化し、醜く辛い世界になっているのではないだろうか(キット)。

しかし考え方を変えれば、今我々が生きているこの世界が最悪な状態であって、死んで行く「彼岸」は娑婆よりは良い世界(もしかすると天国のよう)なのかもしれないので、死を何も恐れることはないのだ(キット)。しかし進化が進んで知恵がついた生き物ほど欲望の坩堝に深く嵌まってしまい、その結果、死を意識し“死んでしまうこと”を恐れるのかも知れない(キット)。その智恵のついた生き物の代表格は我ら“人類”なのだろう。なぜなら我々“人類”を【霊長類】なんて呼んでいるではないか。

<その18>

今年は例年になく寒さが厳しい冬のようで、この東京でも零下の朝を迎える日々があった。そしてこの冬は日本海側の豪雪地帯には記録的大雪を降らせ、太平洋側には殆ど雪は降らず、富士山にも例年より雪が少ない。これは“偏西風の大蛇行”が原因と言われているが、これら地球上を襲っている天候不順は、なにか【霊長類】が文明とか理屈をつけて地球自然を犯しているのが最大原因ではないのかと不吉な予感が走る。

私は毎朝仏壇の花の水を交換している。これは母の遺言にあった「生花を切らさないでね」を守る最低限の行動である。我が家では仏壇の中にある仏具の花たてにいつも生花を立てており、その水は2日とは持たないので母も毎朝水を交換していた。そしてこの生花はおよそ一週間から10日で新しいものに交換する。ある日、私は仏壇の引き出しなどの整理を始めた。その中身たるや祖母の時代からのいわく因縁がありそうな物が次から次に出て来るのだ。誰かの抜けた歯、そして壊れた金歯など、きっとこの中には私の子供時代の抜けた歯が有るのかもしれない。それら奇妙なものは簡単には捨てることも出来ず、またそのまま在ったところに戻しておいた。そんな中に母が使っていた小さな“経本”が出てきた。あまりの懐かしさにペラペラと中身を開くと、なぜか自然と中に引きずり込まされた。

私が引きずり込まされた訳が分かった。私は祖母に育てられた“おばあちゃん子”だったが、この祖母が毎晩寝る前にお経をあげていたのだ。子供ながら毎晩そのお経を聞かせられていたので、「きーみょう・むりょう・じゅー・にょらい」や、お経の最後に出る「あなかしこ、あなかしこ」などの音の響きが耳に残っていたし、その言葉が経本から目に飛び込んできたからだ。

その経本には“浄土真宗の歴史”という解説が載っており その解説内容が私にはとても新鮮に感じられたのである。何故なら「おや、お坊さんも娑婆では やはり本能丸出し、つまり欲望の坩堝に嵌まってしまうのか」と思わせたからである。仏教にも多々宗派があり、更に“浄土真宗”一つをみても天台宗の行き詰まりを感じた親鸞聖人が“誰でも阿弥陀如来に念仏を唱えることで救われる”と道を開くのだが、しかしそれもその後を継いだ上人(しょうにん)の自我欲望により本願寺派と大谷派に分かれてしまうのだ。そしてその後も分派が生まれ、現代に至っても次々に新教宗教が生まれ続けているのだから、やっぱり娑婆は自我の欲望の坩堝なのだろう(キット)。

母の経本に引きずり込まれた結果、何時しか私自身もお経を上げるようになっていた。週末になると朝の仏壇の水の交換と線香を燈してから読経を始めるのである。これは突然私が信心深くなったということではなく、仏前の前で静かに手を合わせて読経をすることが何か精神的に「すばらしい瞬間」を得られる事を見つけたからであろう。それはキット私の勝手な持論から“大事なのは自分のこれから先【将来】では無く、自分が生まれて来た背景、つまり【ご祖様】の方々が大事なのだ”と思っていたので、その入口が“ひとり静かに読経”だと気づいたからであろう。自分が父母の間に生まれたというが、その父母のそれぞれの親、そしてその親の更に親たちとルーツを辿れば自分の存在は巨大な数の人々のお陰で存在しているのだ。そう考えると皆一人ひとりがピラミッドの頂点にポツンと居るようなものだ。

母の体から精霊が徐々に抜け始めたころに、母がやっとのことで書いたと思われるノートが見つかった。真新しいノートの初めのたった数ページにそれには書かれていた。

平成17年4月8日

  朝食 しげの作り、トマト、玉子入りおじや、残りの大根葉

  昼、順子さん手製の色々いれた やきめし(私のためにカロリーを考えての品)で

  3階で食す

  夜は3階にて7:30 ウド、わかめの酢味噌和え、タラと豆腐 あんかけ 煮物

  (コンニャク、ハス ナス)そしてご飯

  たくさん眠ったのに 起きたときより何となく気分悪い ウツか今は?思う

  今日 嫁、母を見に 私は子供のごとく

17年4月9日

  朝 7:20 動き始める 早くしっかりするように自分に言い聞かせる

  不燃ゴミを捨てに出る

  5時ごろ大和さん うどん、たらこ持ってきてくれた

  順子さんには 心から感謝、感謝の気持ち

  1日世話になり、自分の姿に哀しむ 夕食時 テレビは中日―巨人戦 ちらちら

  見ながら楽しむ 足湯する 10:40 床に

17年4月10日

  みのり会役員会 町会会館へ2時より出席する 町会花見の件でみのり会の数人に知

  らせの電話する

  昼 干しぶどういりパンを食す 牛乳 バナナ

  夕食 おから、順子さんより頂く 残りのカレー、うどんを赤みその汁にネギを入れ煮る

17年4月11日

  思いのままに床にて 

   娘にもまさる嫁の心よりの温かさに感謝す しげこ

   人のことと思うこと わが身にとは

   我が姿 哀しむ  人に頼らず、自分の行動を 心にいいきかす

17年4月13日

   目の前に置かれし花瓶に グリーン小菊、淡いピンクのカーネーションに

   白いかすみ草

   こころに和む うつくしいな  と思ふ

   我が手で飾りし 作品を

   朝食はいつものようにしっかり食べた 病は気から 元気をだそう 頑張れ

きっと母は何かを書き残しておこうと思いついたのだろう。そして真新しいノートを引っ張りだして書き始めたのだろう。しかしその記録は10日も続けられなかったようだ。しかしこの記録の文章から母が我々に伝えておきたいことがビッシリ詰まっているように思う。少しずつ精霊が母の体から抜けてゆく状態に陥ると、自分の体が思い通りにならない歯がゆさがあるのだろう。そんな自分のどうにもならない姿を見て哀しんでいる。これまでは人のことの様に思っていた事が今わが身に襲ってきているのだと実感し、哀しんでいたのだ。

この記録の最後の日からおよそ5ヶ月後に【遂にその日は来た】ことになる。しかし母は最後の最後まで人に世話をかける事無く、人に“感謝”をしながら、彼岸にたどり着くまで自分の事は自分ですべて万端整えて、静かに 静かに“お浄土”に参られたのだ。

その引き際のなんと美しいことか。

この真新しいノートに書かれていた記録の後に小さな1枚の紙がセロテープで貼られており そこには墨でこう書かれていた。

  『 一念は 石をも 通す 』


<合掌>

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