私の紹介(プロフィール)
1944年 誕生、 1964年 千葉大学 電気工学科に入学、 1970年 4月 千葉大・
大学院(電気専攻)を卒業、丸紅飯田(株)に入社、民生電子機器の輸出業務に携わり、 1978年から 米国シカゴにて5年間駐在経験、1992年 2つ目の駐在地シンガポールへ (ともに家族帯同)。3年後の1995年6月 帰国してロジテック(株)に出向。 2001年 に丸紅(株)よりロジテック(株)に転籍し 営業部門、更には製品企画開発部門を歴任し 2005年1月 丸紅インフォテック(株)顧問 そして2005年11月より専門学校の理事。 2007年4月地元の老人会会長をお引き受けし、2009年4月 ITEC(産業技術活用 センター)のメンターに就任。 |
私の趣味
趣味 |
始めた時期 |
始めた動機 |
関心度 |
音響機器マニア |
10代後半から |
鉱石ラジオ製作の頃 ステレオ装置がはやった。 |
強 |
音楽鑑賞 |
20代に入って |
年代と共に好きなジャンルは変わってきたがクラシ |
強 |
模型電車の収集 |
10代 |
Oゲージを部屋一杯に線路組んで走らせたのものだ。 |
中 |
切手・コイン収集 |
10代ー40代 |
子供の頃は切手収集、商社マン時代は海外出張の |
弱 |
昆虫採集 |
5歳ー15歳 |
昭和25年ー30年頃は東京にも自然が沢山あり、 |
強 |
書道 |
1996年より |
50の手習い頑張るぞ〜!2006年行書コース終了。 |
強 |
◆【写真】も子供のころから好きだった−−−>クリック
【私のアルバム】
章 | 期 | 年齢 | キーワード |
J | 幼年期 | 1〜7歳 | 防空壕・ 本郷田町・ 甘ったれ坊や・ 石坂 |
K | 少年期(前期) | 7〜13歳 | 昆虫採集・ 三角ベース野球・ チョコとガム |
L | 少年期(後期) | 13〜16歳 | 中学生・ 銀座のバー |
M | 青年期 | 16〜20歳 | 高校生活・ バレーボール部・ 浪人生活 |
N | 成年期 | 20〜26歳 | 大学生活・ カンニング道具・ みゆき族 |
O | 壮年期(前期) | 26〜46歳 | 社会人生活・ 輸入スピーカー・ シカゴ赴任 |
P | 壮年期(後期) | 46〜61歳 | シンガポール駐在・ 単身赴任・ 定年と創作 |
1944(昭和19)年 7月16日 文京区本郷田町(現在 西片)に長男として生まれる。生まれた年は 太平洋戦争の真っ只中、家の前の石垣には大きな防空壕があったそうです 。ウーーとサイレンが鳴ると私は口に鰹節をしゃぶらされて、綿入りのチャンチャンコにくるまれてその防空壕に入れられていたそうです。「泣いちゃぁ ダメですよ。 アメリカに見つかっちゃいますからね」となだめすかされ、一人暗い防空壕の中で 鰹節をピチャピチャとしゃぶっていたそうです。 戦争はその翌年の夏に終わりました。終戦後の混乱はそれはそれは大変だったのでしょうが、子供には 米国支配下とか 物不足の苦しみは分かるはずもなく あまり強烈な印象は残っていません。しかし5円玉とチョコレート、チューインガムの記憶は鮮明に残っています。 1951(昭和26)年 真砂小学校(現在 本郷小学校)に入学、おばあちゃん子に育った私は それはそれは”甘ったれ坊や”だったそうで、気が弱く、いくじのない弱虫だったそうです。とにかく入学式にもおばあちゃんに連れられて行ったというのですから。教室に入っても 私は教壇の先生のお話など耳に入らず、チョクチョク後ろを振り返りおばあちゃんが居るかを確かめていたそうです。 私の家は戦前は『甲子倶楽部』と称して 地域の集会場だったそうで 2階には大広間がある木造2階建でしたが、戦争に突入して その2階大広間は5つの個室に分断し そこに親戚、知人が住み込むようになり、共同台所/便所型の集団住宅に変貌していました。 私の家の前は 西片のお屋敷から下の町”本郷田町”に降りてくるS字型をした坂がありまして【石坂】と言います。坂の途中に大変に大きなお屋敷があり この敷地をよけるように道が曲がっていたのでS字の形になっていたようです。この石坂の途中に文京区教育委員会が作った史跡説明の看板が立ていますが、そこには 次のような説明が載っております。 『新撰東京名所図会によれば ”町内より南の方、本郷田町に下る坂あり。石坂と呼ぶ”。 |
私が小学5〜6年生の頃、この西片町は 大きな木々が群生しており子供の目には大きな山のようでした。夏ともなれば セミ、トンボ、チョウチョ、クワガタ、カナブン、そして背が七色に輝くタマムシも飛んできておりました。とにかく昆虫の宝庫でした。 その日捕まえた昆虫を夜寝るとき蚊帳の中で離すのが楽しみで、これは今は無き巨大なる【虫かご】だったのです。しかしお盆の期間だけは おばあちゃんから 「この日だけは殺生してはなりません。すべて逃がしてやりなさい。」と言われシブシブ外に放しました。こんなことを言いながら; 「おまえたち、きょうだけ自由に 飛んでゆけ〜〜、 飛んでゆけ〜〜」 きっとこの言葉は おばあちゃんが丁度そのとき玄関先で 乾いた”しらかんば”の枝とお線香とを一緒に焚きながら、 「おじいさん、おばあさん、この明かりで おい〜〜で、おい〜〜で」 を真似していたのかも知れません。 この遊び盛りの頃、夕方5時を過ぎますと 近所の八百屋の小僧さんが大八車に野菜を乗せて売りに来て我が家の玄関先に止めます。近所の奥さん連中が出てきて そこで四方山会議が始まります。その頃の石坂はまだ舗装がされておらず、上り坂の一角が三角州のように開けていてそこで私たちは三角ベースの野球を日が暮れるまでしていたものです。当時はいかにこの坂を上ってゆく車が少なかったかを物語っています。しかし夕方になると ここでの野球を中断する出来事が起きます。 この西片町の山の上に グリーンホテルという西洋館風の建物があり、それが進駐軍に占領されておりました。この石坂でいつも三角ベースで遊んでいると 夕方ころ 米軍のジープが砂埃を上げて すごいスピードで坂道を登ってゆきます。ジープには数人の米軍兵とそれと同じ数だけの日本人の女性が乗っていて「キャーキャー」と騒いでいました。 |
1957(昭和32)年 文京区立第二中学校(現在 本郷台中学校)に入学。入学生総数244名(男 136、女 108)で 一クラス 50名ほどで5クラス有ったのですから すでに【団塊の世代】(昭24〜25年生まれの世代)に突入する前兆が現れていました。この年の10月ソ連が世界初の人工衛星【スプートニク】を打ち上げていたのです。 私の中学時代はこれと言って強烈な思い出が無いように思うのですが、異性に対する関心が芽生え始めた時期として記憶に残っています。私の祖母には子供が無く 私の両親は養子として宮原家に来たのですが、もう一人 養子の”信子おばさん”がいました。信子おばさんは この頃銀座に【ナルビー】というバーを経営していましたが、時々 週末になると、おばさんを訪ねてこのバーに行くのが楽しみだったのです。 この頃は日本の景気も下り坂で【なべ底景気】などと言われていましたが 1960(昭和35)年に入るとカラーテレビ放送が本格開始、そして「国民所得倍増計画」が閣議決定(池田勇人内閣)され、景気にも活力が出てくるわけすが、そんな年の春 都立北園高校に入学。 |
北園高校(旧府立九中)は当時公立校としては珍しく自由な校風で制服はなく、各自自由な服装で登校ができました。当時はミニスカートばやりで女子高校生の服装にワクワク・ドキドキさせられ、北園高校の文化祭は他校からも人気が高く、多くの男子生徒が目の保養に来ていました。 ある試合でコートに立った時の経験。相手は都立戸山高校、私の心臓はドキドキドキと音打っています。相手からのサーブが唸るように自分に向かって来るではありませんか。ボルは目の前でわずかに右にカーブしました。アッ!! 慌てて床に落ちる寸前のボールに向かって体で飛び込み、握り締めた右手をボールの下に滑り込まします。ボールが握りこぶしに当たったと同時に高く舞い上がりました。 成功! 高校3年になる前の年の暮れ、大学受験をひかえて進路打診がありました。私は当時これと言って強い目標があった訳ではないのですが どちらかといえば自分は文科系人間ではないと思い込み ”理工系”と進路希望を提出したのです。 すると即担任の先生からお呼びが掛かりました。 「宮原、おまえはこのままでは理工系は無理だ。進路を変えるか バレー部を辞めて受験に今から対処するかだ!」と忠告されました。自分ではどちらを取るかを決められず母が学校に呼び出されたある日の放課後。バレー部担当の先生とクラス担任の先生が議論しているではありませんか。それも私の進路のことで。母がその脇でチョコンと座っています。私はうれしさと不安が折り重なって涙しながらしゃくりあげているではありませんか! 1963(昭和38)年大塚にある【武蔵予備校】に通い始めます。学校生活から浪人の生活に変わり100%が自由な時間になった訳ですが、生活のリズムだけは一定に保とうと予備校の受講科目で曜日のスケジュールを作り、受験科目での1年間の消化スケジュールを作り、それを毎日毎日こなして行く生活に自分をはめ込みました。はめ込み生活からの気分の発散は「映画の鑑賞」でした。洋画のロードショーは上野の映画街へそして邦画は神保町にあった【神田日活館】にはよく通ったものです。 実はこの年 11月には日米間のTV中継に成功し 皮肉にも11月22日 ダラスでの ”ケネディー大統領暗殺事件” をTV画面で興奮しながら見たのです。こうして私が映画に通っていた時期は TVの普及により、日に日に映画鑑賞者が減少し始め 翌年1964年の【東京オリンピック】によって映画は完全に斜陽産業への道を歩みだしていたのです。 |
1970(昭和45)年4月 丸紅飯田に入社、当時は大手町ビルに東京本社があり、後楽園駅から大手町へ 地下鉄丸の内線での通勤が始まりました。配属は【民生電子機器課】という課で、白黒テレビ、カセットテープレコーダ、カーラジオなどの輸出でした。この年3月から「大阪万国博覧会」が開幕しており日本は「いざなぎ景気」に酔っていた時代でした。 1972(昭和47)年1月 丸紅飯田から【丸紅】に社名変更すると同時に現在の東京本社の地、竹橋に建てた自前ビルに移転したのです。翌1973年10月 第4次中東戦争が勃発、第一次オイルショックで あの有名なスーパーでのシーン【家庭主婦のトイレットペーパー買いあさりの姿】が思い出されます。 当時の日本の好景気を狙って 私は世界から高級音響スピーカーの輸入商売構築に挑戦していました。米国よりボザーク、フィッシャー、ハートレイ、そして欧州からは 英国/グッドマン、フランス/シャルランなどの超高級スピーカー、そしてヘッドホンのスイス/ユックリンなどなど。秋葉原そして大阪の日本橋を自分の足で1軒1軒歩いての販売店を作る仕事は 本当に国内商売の難しさを勉強させられ、この体験が今でも私の貴重な体験財産だと思っています。 昭和51年に結婚、翌年10月に長男「健一」の誕生。その翌年1978(昭和53)年6月には「シカゴ赴任」となりその11月家族がシカゴにやってきます。1979年に入ると原油供給の削減からオイル価格高騰が続き世界不況に見舞われ 第二次オイルショックに突入します。この5月には英国では保守党のサッチャー政権が誕生。米国でもガソリン価格が上がり 米国政府は全国の道路の最高速度制限を、もっとも経済的スピードの時速55マイルに規制、また西海岸地域では ガソリン消費を抑えるべく車のナンバーの最後の数字が奇数か偶数かによって曜日別に給油できる制度を公布し、そして単独運転でのダウンタウンへの乗り入れを禁止していたのです。 そんなご時世だった米国駐在期間は 私はエレクトロニクス製品の日本からの輸入商売には手を出さず、もっぱら日本製のディーゼル・エンジンを冷凍トラック搭載用冷却機メーカーや、レジャーボート用冷蔵機メーカーに納める商売に専念していました。 当時はガソリン・エンジンと比較して燃費効率が高いとして人気を上げており ディゼル・エンジン商売も面白いように拡大を続け多いに儲けさしてもらった記憶があります。 5年弱のシカゴ駐在から1982年の末に帰国します。1984(昭和59)年4月 長男健一が私と同じ真砂小学校に入学。秋の運動会の時、私の時代のマンマの校舎の中を歩き、「あ! ここが職員室、ここが音楽室だ」とあまりの懐かしさに感無量であったことを今も思い出します。その真砂小学校も1999年に弓町小学校と統合され、本郷小学校となりその2年後に近代的な校舎に建て変わってしまっています。 帰国後は【電子機器部】に配属、当時はしりのH製作所製ファクシミリの欧州・中近東・アフリカ・東南アジアへの輸出を手掛けるのです。これらの地域の各国に販売代理店を設定してゆく過程がとても楽しかったのです。当時FAX機は100万円もしていたのですが、ドイツに売り込みに行った際に事務機メーカーとして老舗の R.R社の社長さんとのやり取りが思い出されます。その社長さん曰く; 「このFAX機は漢字文化の日本だからこそ生まれたのだ。この技術はそもそも欧州生まれな 「テレックスの場合は 秘書が帰ってしまったら社長さんの場合は相手への連絡が翌日になって その結果、その社長さんから初の2台のサンプル・オーダーの取得に成功しました。 平成に入ると(1989年)平成景気は土地神話に走らせ 地価はどんどんと上がり【相続税の巨額化】が話題になり始めました。我が家も50坪程度の土地ではありますが、当時話題の高騰地価で相続税を試算すると とてもではないがサラリーマンの私には相続出来そうも無い数字でした。そこで父と相談し、父の名義で銀行借入をして家を新築し、相続の際にはその借金で相殺する方式で相続税を軽減させる作戦を練り上げましたが、不幸にしてこの作戦は失敗に終わってしまうのです。 1990年4月 長男健一が私と同じ文京区立第二中学校に入学、その6月に私の中学校時代の同期生のS建築設計事務所と「新築設計契約」、11月に「工事請負契約」の締結と プロジェクトは着々と実施に移されました。住み慣れた家から仮住まいのアパートに引っ越す日、引越し荷物がすっかり運び出されガラーーンとした居間で家族が朝食を取っていたときに、TVでは、ベルリンの壁が崩壊されドイツ市民が一つになった喜びの興奮を伝えていました。家の解体ー整地ー基礎工事ー鉄骨くい打ちー棟上と工事は順調に進行して行き 父も毎日毎日その進捗状況を見るのが、そしてその変化をカメラに納めるのが楽しみな様子で、「地鎮祭」でも元気に世話をしてくれていたのですがーーー。 1991年(平成3年)正月が過ぎたある日、私が両親の仮住まいに立ち寄った時、父が床に臥しているではありませんか。母が言うには、父が昔の仕事仲間、つまり浅草橋界隈、子供婦人帽子卸業の仲間との新年会に参加したその帰り道、道路で滑って顔に怪我して帰って来たのだと。 しかし父は回復の目処もなく、7月7日 七夕の日に静かに天国に召されました。七夕と言えば「おりひめ(織姫)」が年に1回この日に天の川を渡って「ひこぼし(牽牛)」とテードする日と言われていますが、家族が年に一回父と会う日(命日)をこの日に選んだのは父らしく洒落ています。この1991年は我が家にとっては 3/5/7月と1ヶ月おきに”法事”が連発し、そして夏の8月に新居完成の運びとなるのですが、父の49日法要が皮肉にもこの新居で行われ、本当に父には申し訳なかったと、残念に思っています。 家を建てると起こるといわれるジンクスがあります。一つは「家族に不幸な出来事がおきがち」そしてもう一つが「その新築に住めないことがおきがち」という何とも不吉な話です。この2つのジンクス、なんとなく納得出来るのです。新築の時、引越し作業、人生一大プロジェクト進行からの疲労蓄積、そして仮住まいでの生活サイクルの変化などなどが体調を狂わせ 不幸な結果が起きがちなのは理解できます。 私はこの2つのジンクスをバッチリ体験してしまった事になるのです。 なんと新築の翌年、1992(平成4)年4月会社よりシンガポール駐在の辞令が下るのです。 |
【P】 壮年期(後期) 1990年ころから日本の経済にも陰りが見え始めます。日本企業は まだバブル景気の余韻を捨てきれず、景気回復策としてリストラや人件費の安い東南アジアへの工場進出によって立ち直りを図ろうとしていた時代です。 この安易な戦略が2000年代に入って多くの企業を廃業に追い込むような危機に落とし込む原因になるのですが。 1992(平成4)年5月24日 シンガポールに赴任、我が家族は翌年3月に来星します。息子健一が中学を卒業し、渋谷幕張高校シンガポール校に無事合格してのシンガポール入りとなったのです。南国の地での家族生活が始まりました。新規商材の開拓が業務指令と言いますが、それは決して簡単ではありませんでした。日本のメーカーは人件費などコスト削減目標で東南アジアにダイレクトに進出している時代で 商社の介入は不要で、全く新しい商売の仕掛け作りが非常に難しい時代だったように思い出されます。 どんな仕事に挑戦したか回想してみます。 @ NTTインターナショナルとのインテリジェント・ビルディングの売り込み A 京都S製作所の中古医療機器(CT,MRI)をインドネシアの大学病院、緊急病院 B 諏訪SNK精機とインドネシア最大たばこメーカーGudung Gram社との小型モータ C FX社製コピー機のベトナムでの販売網の構築(ベトナムにおけるリース販売の確立) D 日本家電メーカーP社の単3電池 インド生産工場設立プロジェクト(インド財閥 E シンガポール政府のロード・プライシング・システム入札に参加 (シンガポール財閥 F 北九州S社製の移動体位置確認装置を香港セキュリティ社の現金輸送監視 など物件をあげれば切りが無いのですが、それにしてもシンガポールは人口300万ほどで淡路島サイズの島国であり、商売市場としては小さすぎて、ここを拠点にして近隣の国々を攻めたのです。当時はなんと言っても人口2億人のインドネシアがポテンシャリティ高く私の活動もそこに集中していました。シンガポール駐在32ヶ月の間で 海外出張は インドネシア/29回、マレーシア/9回、ベトナム/6回、日本/4回、インド/3回、香港・中国/2回、そしてタイ、欧州がそれぞれ1回の全部で55回、とすれば1ヶ月にほぼ2回近くはシンガポールから外に飛び出ていた事になります。 1994年末、3年目に入ってもこれと言った新規商売が構築出来ぬまま、東京本社との波長が合わず気持ちだけが焦り始め軽い「鬱」のような精神状態に陥ってしまっていました。この年の年末・正月休みを利用して思い切って家族で「オーストラリア・シドニー&ゴールドコースト9日間の旅」を敢行。この旅は生まれて初めてホテルにて新年を迎えれる体験をしたことになります。 大晦日の出来事を日記帳から拾ってみます。 12月31日: きょうは今年最後の日。ブリスベーンからゴールドコーストに観光バスにて 移動 この家族大旅行から戻ってすぐに丸紅の孫会社に当たるロジテック社のTH社長から電話がありました。電話の趣旨は 「我が社も順調に規模を伸ばして来ており ここに来て台湾からの輸入が激増。貿易実務の経験がある君に手伝ってもらいたい」 というお誘いの話だったのです。東南アジアでの新規商売開拓の任務半ばして放棄するのは、とも考えましたが 自分としても一つの壁にぶつかって不安定な精神状態にあることから、よしここは自分から環境を変えてみようと決断しました。 1995(平成7)年3月23日家族が一足先に帰国、私は4月21日に帰国の途につきました。しかしこの年はとんでもない出来事が多発した年であったのです。1月17日 あの阪神淡路大震災に始まり(6433人の犠牲者)、3月地下鉄サリン事件、4月に入って青島都知事、横山ノック大阪府知事のアベック当選、4月19日には東京外国為替市場で1ドル=79.75円と二度と起きないだろう高値、5月 オウム真理教の麻原彰晃が逮捕(しかし2005年現在も生きている不思議!)、そして2年連続の猛暑続きの平成7年7月7日 我が父の命日は なんと大正7年生まれが77歳になった日で7が6つも並ぶ特異な日だという。 私がロジテックに参画して 早速取り組んだのが親会社から脱皮して一人立ちできる体制にすべく、新規商売の構築でした。しかしPC周辺機器の市場が大盛況で 年々自然増幅的に売上高をアップさせ、この傾向が従前どおりのビジネスモデルから脱皮して親離れを図ることを脇におき去ってしまったのです。この結果はいよいよ21世紀に突入して、PC市場の膨張が止まり始めると売上下降線のパターンに転換してしまったのです。しかし2004(平成16)年に入ると心強い新しいパートナーが現れ、新進のロジテックとして再挑戦するチャンスが到来しました。丁度この年は私の還暦、人生の一つの区切りのタイミングであり、12月24日 クリスマスイブの日に定年退職の日を迎えたのです。 私の人生は一体何だったのだろうか?半生を振り返ってみて一体何が自慢できるのだ?実は自慢できるものがあるのです。それは私の家族です。商社マン、海外生活、単身赴任などなど波乱万丈な家庭生活に文句を言わず付いて来てくれた体の丈夫なワイフと一人息子が私の自慢であり、かけがいの無い私の財産なのです。 また自分の人生で一体何が得意だったのかを考えると、確かに小さい頃から【もの創り】は好きなようでした。従って社会人になってからも、どちらかと言えば、ルーティンの仕事より、新規に創る仕事が多かったように思います。そのように考えると自慢のもう一つが見つかったような気がします。 それはこれまで私はたくさのブランド/ニックネームを作ってきたのです。丸紅の時代ではFAXを台湾で作り【MAC Fax】としたのが第1発目です(昭和62年頃)。ところが暫くたって丸紅の管理部門から 「MACはまずい。なぜならパナソニックがビデオレコーダをマック・ロードと称して宣伝しているし、米国ではマッキントッシュ製PCをMACと呼んでいるので侵害にあたる」との忠告を受けたのです。 私の半生の中で仕事とは別の世界でも、私は創り上げる喜びを見つけ出していました。それは50歳になってヒョットした切っ掛けで取り組んだ「油絵の世界」、そして2001(平成13)年 ロジテック伊那工場(長野県伊那市)への単身赴任となって、伊那谷で過ごす週末の【一人の時間と空間】が私にエッセイを書く機会を与えてくれたのです。 2005(平成17)年はフリーターとしての年の始まりです。これまでの人生での体験を社会の人々のために貢献できればと思っています。そして許せる限り人生の旅を続け、油絵を描きそしてエッセイを書き続けて行きたいと思っております。 (2005年1月23日) |