私の紹介(プロフィール)

 

1944年 誕生、 1964年 千葉大学 電気工学科に入学、 1970年 4月 千葉大・

大学院(電気専攻)を卒業、丸紅飯田(株)に入社、民生電子機器の輸出業務に携わり、

1978年から 米国シカゴにて5年間駐在経験、1992年 2つ目の駐在地シンガポールへ

(ともに家族帯同)。3年後の1995年6月 帰国してロジテック(株)に出向。 2001年

に丸紅(株)よりロジテック(株)に転籍し 営業部門、更には製品企画開発部門を歴任し 

2005年1月 丸紅インフォテック(株)顧問 そして2005年11月より専門学校の理事

2007年4月地元の老人会会長をお引き受けし、2009年4月 ITEC(産業技術活用

ンター)のメンターに就任。

私の趣味

趣味      

始めた時期     

始めた動機                     

関心度

音響機器マニア

10代後半から

鉱石ラジオ製作の頃 ステレオ装置がはやった。
居間は8スピーカーシステムで臨場感最高!

音楽鑑賞

20代に入って

年代と共に好きなジャンルは変わってきたがクラシ
ックから演歌までオール・マイティー。

模型電車の収集

10代

Oゲージを部屋一杯に線路組んで走らせたのものだ。
息子が生まれてHO・Nゲージを集めた。

切手・コイン収集

10代ー40代

子供の頃は切手収集、商社マン時代は海外出張の
国々のコイン・紙幣の収集。

昆虫採集

5歳ー15歳

昭和25年ー30年頃は東京にも自然が沢山あり、
昆虫採集が大好き。特に「セミ」に関しては蝉吉と
いわれる位に 採取のプロだった。

書道

1996年より

50の手習い頑張るぞ〜!2006年行書コース終了。
今度は独自に写経をしてみたい。

 ◆【写真】も子供のころから好きだった−−−>クリック

私のアルバム

目次
年齢 キーワード
J 幼年期 1〜7歳 防空壕・ 本郷田町・ 甘ったれ坊や・ 石坂
K 少年期(前期) 7〜13歳 昆虫採集・ 三角ベース野球・ チョコとガム
L 少年期(後期) 13〜16歳 中学生・ 銀座のバー
M 青年期 16〜20歳 高校生活・ バレーボール部・ 浪人生活
N 成年期 20〜26歳 大学生活・ カンニング道具・ みゆき族
O 壮年期(前期) 26〜46歳 社会人生活・ 輸入スピーカー・ シカゴ赴任
P 壮年期(後期) 46〜61歳 シンガポール駐在・ 単身赴任・ 定年と創作

【I】 幼年期 

1944(昭和19)年 7月16日 文京区本郷田町(現在 西片)に長男として生まれる。生まれた年は 太平洋戦争の真っ只中、家の前の石垣には大きな防空壕があったそうです 。ウーーとサイレンが鳴ると私は口に鰹節をしゃぶらされて、綿入りのチャンチャンコにくるまれてその防空壕に入れられていたそうです。「泣いちゃぁ ダメですよ。 アメリカに見つかっちゃいますからね」となだめすかされ、一人暗い防空壕の中で 鰹節をピチャピチャとしゃぶっていたそうです。

戦争はその翌年の夏に終わりました。終戦後の混乱はそれはそれは大変だったのでしょうが、子供には 米国支配下とか 物不足の苦しみは分かるはずもなく あまり強烈な印象は残っていません。しかし5円玉とチョコレート、チューインガムの記憶は鮮明に残っています。

1951(昭和26)年 真砂小学校(現在 本郷小学校)に入学、おばあちゃん子に育った私は それはそれは”甘ったれ坊や”だったそうで、気が弱く、いくじのない弱虫だったそうです。とにかく入学式にもおばあちゃんに連れられて行ったというのですから。教室に入っても 私は教壇の先生のお話など耳に入らず、チョクチョク後ろを振り返りおばあちゃんが居るかを確かめていたそうです。

私の家は戦前は『甲子倶楽部』と称して 地域の集会場だったそうで 2階には大広間がある木造2階建でしたが、戦争に突入して その2階大広間は5つの個室に分断し そこに親戚、知人が住み込むようになり、共同台所/便所型の集団住宅に変貌していました。

私の家の前は 西片のお屋敷から下の町”本郷田町”に降りてくるS字型をした坂がありまして【石坂】と言います。坂の途中に大変に大きなお屋敷があり この敷地をよけるように道が曲がっていたのでS字の形になっていたようです。この石坂の途中に文京区教育委員会が作った史跡説明の看板が立ていますが、そこには 次のような説明が載っております。

    『新撰東京名所図会によれば ”町内より南の方、本郷田町に下る坂あり。石坂と呼ぶ”。 
     ここ一帯は備後福山藩(11万石)の中屋敷を幕府の御徒組や御先手組の屋敷としていた。 
     明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者が居住した。田口卯吉(経済学者、史論
     家)、坪井正五郎(考古学、人類学者)、木下杢太郎(詩人、評論家、医者)、上田敏 
     (翻訳者、詩人)、夏目漱石(小説家)、佐々木信綱(歌人、国学者) 和辻哲郎(倫理
     学者) など有名人が多い。その為 西片町は学者町と言われていた。
     ”交番の上にさしおほう桜さけり、子供ら遊ぶ おまわりさんと” (佐々木信綱) 』

【II】 少年期 (前期)

私が小学5〜6年生の頃、この西片町は 大きな木々が群生しており子供の目には大きな山のようでした。夏ともなれば セミ、トンボ、チョウチョ、クワガタ、カナブン、そして背が七色に輝くタマムシも飛んできておりました。とにかく昆虫の宝庫でした。

当時は物も豊かではなかったので 昆虫捕獲器も自分たちで工夫して作った記憶があります。セミとりには モチ竿、そしてくもの巣竿、トンボは 糸の両端に小さな鉛錘をつけて それを空高く舞い上げると トンボがその錘を虫と思い食いついた瞬間にトンボにその糸が絡みつき 落ちてくるというスバラシイ捕獲法なのです。これでオニヤンマを捕まえた時などの興奮は今でも覚えています。 
チョウチョは 女性のナイロンストッキングを利用して作った網で捕りました。 家の前の防空壕のあった石垣の上にはカラタチの木が植えられており、そこはシジミチョウ、モンシロ、キアゲハ、クロアゲハ などなど多種のチョウチョが集まって来ておりました。そしてその山には くり、柿、いちじく、ビワなど野生の木の実、くだものが豊富であり 遊んでいる間の”おやつ”には不自由しなかったのです。 

その日捕まえた昆虫を夜寝るとき蚊帳の中で離すのが楽しみで、これは今は無き巨大なる【虫かご】だったのです。しかしお盆の期間だけは おばあちゃんから 「この日だけは殺生してはなりません。すべて逃がしてやりなさい。」と言われシブシブ外に放しました。こんなことを言いながら;

   「おまえたち、きょうだけ自由に 飛んでゆけ〜〜、 飛んでゆけ〜〜」 

きっとこの言葉は おばあちゃんが丁度そのとき玄関先で 乾いた”しらかんば”の枝とお線香とを一緒に焚きながら、

   「おじいさん、おばあさん、この明かりで おい〜〜で、おい〜〜で」 

を真似していたのかも知れません。

この遊び盛りの頃、夕方5時を過ぎますと 近所の八百屋の小僧さんが大八車に野菜を乗せて売りに来て我が家の玄関先に止めます。近所の奥さん連中が出てきて そこで四方山会議が始まります。その頃の石坂はまだ舗装がされておらず、上り坂の一角が三角州のように開けていてそこで私たちは三角ベースの野球を日が暮れるまでしていたものです。当時はいかにこの坂を上ってゆく車が少なかったかを物語っています。しかし夕方になると ここでの野球を中断する出来事が起きます。

この西片町の山の上に グリーンホテルという西洋館風の建物があり、それが進駐軍に占領されておりました。この石坂でいつも三角ベースで遊んでいると 夕方ころ 米軍のジープが砂埃を上げて すごいスピードで坂道を登ってゆきます。ジープには数人の米軍兵とそれと同じ数だけの日本人の女性が乗っていて「キャーキャー」と騒いでいました。
特に印象的な姿は、女性の顔のなかの真っ赤にぬられた口が大きく感じたこと、そして私たちが ジープを追いかけると、チョコレートやチューインガムが バラバラバラっとばら撒かれるのです。夢中で走り 夢中で拾いました。時々黄金色にひかる穴の開いた五円玉も混ざっていました。

【III】 少年期 (後期) 

1957(昭和32)年 文京区立第二中学校(現在 本郷台中学校)に入学。入学生総数244名(男 136、女 108)で 一クラス 50名ほどで5クラス有ったのですから すでに【団塊の世代】(昭24〜25年生まれの世代)に突入する前兆が現れていました。この年の10月ソ連が世界初の人工衛星【スプートニク】を打ち上げていたのです。

私の中学時代はこれと言って強烈な思い出が無いように思うのですが、異性に対する関心が芽生え始めた時期として記憶に残っています。私の祖母には子供が無く 私の両親は養子として宮原家に来たのですが、もう一人 養子の”信子おばさん”がいました。信子おばさんは この頃銀座に【ナルビー】というバーを経営していましたが、時々 週末になると、おばさんを訪ねてこのバーに行くのが楽しみだったのです。
母から都電の運賃とおやつ代を手に握り締め都電の停留場「初音町」から「三田」行きの”2番”に乗り「有楽町」で下車、それから泰明小学校の向かいのビル地下1階のバー「ナルビー」に向かうのです。子供ながらこのバー行きが楽しかったのには理由がありました。
その日が 夜更かしができること、そしてバーが終わるとおばさんと一緒におばさんの家にて1泊できること、さらにはその夜、大人の女性群に囲まれて寝る快感が有った様に思います。バーが終わるまでの時間、カウンターの右隅に座り おばさんから渡される昨夜の伝票の束とソロバンで売上金額の集計をするのです。4回、5回と何度かソロバンで足算を繰り返せば正解は一つに絞られます。それでもバーの終わる夜中の12時頃までは長く感じたものです。
雨の激しい夜などは、「もう今夜はお客は来ないね」とおはさんが早々とバーのおねえさん達を連れて食事に出る時などはうれしく感じたものでした。

この頃は日本の景気も下り坂で【なべ底景気】などと言われていましたが 1960(昭和35)年に入るとカラーテレビ放送が本格開始、そして「国民所得倍増計画」が閣議決定(池田勇人内閣)され、景気にも活力が出てくるわけすが、そんな年の春 都立北園高校に入学。

【M】 青年期

北園高校(旧府立九中)は当時公立校としては珍しく自由な校風で制服はなく、各自自由な服装で登校ができました。当時はミニスカートばやりで女子高校生の服装にワクワク・ドキドキさせられ、北園高校の文化祭は他校からも人気が高く、多くの男子生徒が目の保養に来ていました。
北園高校はバスケットボール、バレーボールが都立高校の中では強く、私はバレーボール部に入部しました。入部当時はまだ9人制で背丈のない私はレシーバーとして後衛に専念しようと思っていたのですが、2年目に高校バレーボールも6人制に変更となったのです。それに伴い練習方法も変わったのですが、私が誰よりも先に きれいに【回転レシーブ】が決められた時の喜びは今でも思い出します。
高校2年生の秋、関東甲信越大会(水戸市にて)にまでコマを進めることが出来たのですが 残念ながら2回戦で敗退。勿論私はレギュラーメンバーには入っておらず補欠員としての参加でしたが、貴重な体験が出来たと思っています。

ある試合でコートに立った時の経験。相手は都立戸山高校、私の心臓はドキドキドキと音打っています。相手からのサーブが唸るように自分に向かって来るではありませんか。ボルは目の前でわずかに右にカーブしました。アッ!! 慌てて床に落ちる寸前のボールに向かって体で飛び込み、握り締めた右手をボールの下に滑り込まします。ボールが握りこぶしに当たったと同時に高く舞い上がりました。 成功!  
しかしその後が悪かったのです。私の目の中には お星様のようなキラキラするものが飛び回っているではないですか。これではいけないと何度も何度も目をこするのですが、こすればこするほど そのお星様が増えてくるのです。マズイ! 
そんなお星様とジャレテいる状況におかれた私は多分 試合の中からポツンと外れた存在だったのでしょう。相手コートに戻ったボールが 即相手からの次の攻撃に変わり 私の足元にアタックして来たのです。そのスピードに反応できず 私はただ立ちすくんでいたのです。当然速やかに選手交代をされてしまいます。その時 室内体育館2階からの女子バレー部のキャーキャーと響く声援が自分の緩慢なプレーに対しての非難の声ように聞こえていたのです。

高校3年になる前の年の暮れ、大学受験をひかえて進路打診がありました。私は当時これと言って強い目標があった訳ではないのですが どちらかといえば自分は文科系人間ではないと思い込み ”理工系”と進路希望を提出したのです。

すると即担任の先生からお呼びが掛かりました。 「宮原、おまえはこのままでは理工系は無理だ。進路を変えるか バレー部を辞めて受験に今から対処するかだ!」と忠告されました。自分ではどちらを取るかを決められず母が学校に呼び出されたある日の放課後。バレー部担当の先生とクラス担任の先生が議論しているではありませんか。それも私の進路のことで。母がその脇でチョコンと座っています。私はうれしさと不安が折り重なって涙しながらしゃくりあげているではありませんか! 
丁度そのとき職員室に掃除当番で来ていた女子バレー部のメンバーに【しゃくりあげていいる自分】がしっかり見られてしまったのです。 それから受験勉強に集中するも時すでに遅しで基礎知識が出来ていないレベルで応用問題が解けるはずがありません。親には1年の浪人生活の了解を貰って 予行演習と理由付けして 私立大学 理工学部を4校受験するも すべて予測どおり不合格。

1963(昭和38)年大塚にある【武蔵予備校】に通い始めます。学校生活から浪人の生活に変わり100%が自由な時間になった訳ですが、生活のリズムだけは一定に保とうと予備校の受講科目で曜日のスケジュールを作り、受験科目での1年間の消化スケジュールを作り、それを毎日毎日こなして行く生活に自分をはめ込みました。はめ込み生活からの気分の発散は「映画の鑑賞」でした。洋画のロードショーは上野の映画街へそして邦画は神保町にあった【神田日活館】にはよく通ったものです。

実はこの年 11月には日米間のTV中継に成功し 皮肉にも11月22日 ダラスでの ”ケネディー大統領暗殺事件” をTV画面で興奮しながら見たのです。こうして私が映画に通っていた時期は TVの普及により、日に日に映画鑑賞者が減少し始め 翌年1964年の【東京オリンピック】によって映画は完全に斜陽産業への道を歩みだしていたのです。

【V】 成年期

1964(昭和39)年4月 何とか1年の浪人生活で国立千葉大学・電気工学科に合格できました。八月には米国のベトナムへの介入が本格化(トンキン湾事件)して世界情勢も曇り空になる予兆を表していたように思います。翌1965年2月 遂に米国は北ベトナム攻撃を開始し あの泥沼戦争にに突入して行くのです。浪人生活という拘束された生活から大学生の開放された世界に入った私は、教室での勉強より社会の中でのお勉強に興味を示して行きました。

東京オリンピック(1964年)の後遺症景気なのか、行け行けドンドン的風潮がはびこり、この頃から経済マインドが墜落し始めるのです。そんな大人の動きに抗議するかのように、学生たちが大学の構内大きな旗をなびかせ、大きな看板を立ててシュプレヒコールを繰り返していました。そんな荒れ果てた社会に嫌気がさしていた私はノンポリ学生に徹して午前中から仲間で【代返係】を順番に設定して、校門前の【雀荘】で過ごす日々の連続でした。

冬の夕方などは、西千葉駅前の「おでん屋台」でバクダン(コップ酒)を飲んで帰るのが日課となりました。また定期試験の時期が来ると、試験勉強よりもカンニング用道具をまじめに作っていた事が思い出されます。一番苦手な授業が「ドイツ語」であり、あのメチャクチャな語尾変化がどうしても覚えられずに、仲間から圧巻な【カンニング道具作り】を教わったのでした。

鉛筆を縦に安全カミソリで両サイドから切り込み、上手に二つに切り開き鉛筆の芯をまず取り除く。それから用意してあった”ドイツ語変化”を書き込んだ薄紙を、”魚のひらき”のような形に二つに分かれた鉛筆の胴体の上に貼り付けるのです。最後に鉛筆の削ってある側に1センチほどに切った鉛筆の芯をしっかりと貼り付けて完成です。右手でこの鉛筆を持ち、親指でこの鉛筆の割れ目を開くようにコントロールすると これはお見事!!しっかりと語尾変化が見えるではありませんか。この間のスリルが何とも言えないのです。ちなみにドイツ語は最終成績”可”でございました。はい!

部活は入学してすぐに自動車部に入り、先輩からエンジンのメンテ方法を教わり、1年後に直接武蔵小金井の自動車試験場で、確か当時しめて1万円2千円ほどで自動車免許証が取れたと記憶しています。ライセンス取得の目的が達成されると自動車部を退部し、仲間と中古の観音開きのトヨペット(トヨタ)を購入、それを使って千葉から銀座に出張したものでした。実はこの頃【みゆき族】が大ブーム。アイビールックに身を包み、雨が降るでも無いのに”細い傘”を持ち、銀座みゆき通りを闊歩したのです。当時は雑誌【平凡パンチ】を小脇に抱え、【VAN】や【JUN】と印刷された紙袋を引っさげて歩き、女性グループを見るやお茶に誘うのです。そんな時代にTVでは大橋巨泉の【イレブンPM】なんていう番組が流行っておりました。

大学3年で専門講座に配属になるのですが、私は溶接が専門の【第五講座】を選択、そこには日本溶接学会における”東の杉原、西の安藤”と言われている【アーク溶接】での第一人者 杉原栄次郎先生がおられ色々と勉強させて頂きました。西の大阪大学には【抵抗溶接】の大家と呼ばれた安藤先生がおられ、日本の二大巨頭のお一人の門下生であったことが誇りでした。四年目 いよいよ就職活動に入る時期になり、三菱電機、日本電装などが就職先の対象候補に上がっていたのですが、杉原先生から 「宮原、どうだ、大学院に残ってもう少し勉強してみるか」とお誘いのお言葉。親にも相談して大学院試験を受ける事にしたのですが、大学生活合計6年間で、この一年が何か一番勉強をしたように思います。1968年(昭和43)年3月 学士卒論テーマは『風速のアーク安全性に及ぼす影響』でした。

大学院生活に入ったこの年の夏、是非日本の外を見てみたいと、大森実が主催する【太平洋大学】セミナーに参加したのです。このセミナーとは35日間の洋上生活にて勉強をしながら途中ハワイ島に寄りながらサンフランシスコまで行き、シスコに6日間滞在して、また太平洋を戻ってくるコースなのですが、参加費用は大学生が23万円。父親に相談し「社会人になったら返すので是非23万円面倒を見て欲しい」と説得し、いよいよ8月8日東京竹芝桟橋をギリシャ船【マルガリータ号(1万トン)】にて出港したのです。参加数800人1割ほどが社会人と少年が参加していましたが、殆どがピチピチの大学生。

昼間、船の甲板上での授業も、大森実による「国際政治」、萩昌弘の「映画史」、そして梶山季之の「文学論」、そして米国人先生達による「英会話」などなどセミナー・コースは多彩でした。有名人講師たちと夜な夜な太平洋上の甲板の上で酒を酌み交わしたながら夜中まで議論したことが楽しく思い出されます。このセミナーに参加して最後のアンケートに私はこんな様に回答しています。

   @船でのドミトリー生活で得たことは:

     団体生活の楽しさ、決断力の強さ。マージャン2回の結果はプラス4千円 マイナス2千円。

   Aアメリカを見て感じたことは:

     あらゆる面で個性美を感じた。家、服装、ビルの合間にあるグリーンは自然を大事にして
     いる。

   B太平洋については:

     海は生きている。朝、昼、夕方、夜、それぞれ色を変える。そして不気味なときは むくむくと
     活動をを始める。

   C今後の抱負は:

     もう一度アメリカに来る。今度は大西洋側のアメリカを見たい。

   Dその他強く感じたことは:

     日本の食事はすばらしい。女性も習慣もすべて日本が一番と感じた。だが外国に行きたい。

大学院2年目 杉原先生から「どうだ、宮原、君は商社が向いていそうだが、丸紅飯田に行ってはみないか。あそこならペーパーテスト無しで面接だけだ」と。その最後の「テストなし」の条件を聞いて、イッパツ返事「行きます!」と返答していたのです。この第五講座から2年連続で先輩が丸紅飯田に就職しておりました。その5月丸紅飯田の入社試験は面接を受けただけで、確かにその日の夕方には自宅に合格の電報が届いておりました。当時の日本は輸出大国にのし上がっており、総合商社の活躍は目覚しいものがありあましたが、商社はこれからは”販売に技術知識を加味して”と【セールス・エンジニア】を求めておりまして、私にとってはラッキーな時代だったのです。

修士論文テーマは『エンジン駆動方式溶接機のスローダウン装置に関する研究』でした。その論文の概要では、次のように書いています。

   『従来のスローダウン装置の制御回路は、機械式なので故障が多く一般化されていない。
    そこで本研究は、純電気式なスローダウン装置の開発を目的とした。従って制御部はトラ
    ンジスタ、SCR,ロータリーソレノイド等の電気制御素子を用いる事を主体として回路設計
    を行った。研究対象となる溶接機はDCとACの2種類とし、それぞれ簡単で高信頼性の
    回路を工夫した。また溶接機は工場現場の過酷な作業環境で用いられる事を考慮して、
    振動や騒音、温度の問題に対する対策を研究した。更に安全性の点から交流溶接機に
    対してスローダウン装置に電撃防止回路を組み込む研究も行った。 』

この研究は杉原先生の紹介で、あるエンジン溶接機メーカーと共同で行い、私は出来上がった制御回路をそのメーカーの工場に持ち込みテストを重ねて行きました。いわゆる【産学協同のプロジクト】であったのですが、現在では産学協同開発が一大ブームですが、当時では学生運動のひとつのスローガン「産学協同反対」時代であったのですから、やはり杉原先生は先を読んでいた立派な恩師であったのだと感心させられました。

その数年後して、会社で仕事中に偶然【日刊工業新聞】を開いていて、そのエンジン溶接機メーカーだ出した【自動制御付エンジンウエルダー 10名様モニター募集】の全面広告が目に飛び込んできてビックリ仰天。何と私の研究成果が市場に製品となって出ようとしているではありませんか!   

【O】 壮年期 (前期)

1970(昭和45)年4月 丸紅飯田に入社、当時は大手町ビルに東京本社があり、後楽園駅から大手町へ 地下鉄丸の内線での通勤が始まりました。配属は【民生電子機器課】という課で、白黒テレビ、カセットテープレコーダ、カーラジオなどの輸出でした。この年3月から「大阪万国博覧会」が開幕しており日本は「いざなぎ景気」に酔っていた時代でした。

1972(昭和47)年1月 丸紅飯田から【丸紅】に社名変更すると同時に現在の東京本社の地、竹橋に建てた自前ビルに移転したのです。翌1973年10月 第4次中東戦争が勃発、第一次オイルショックで あの有名なスーパーでのシーン【家庭主婦のトイレットペーパー買いあさりの姿】が思い出されます。 
丁度このころ 都民の足 ”都電ネットワーク”が自動車優先政策の為に崩されて行く最中なのでした。昭和42年にまず銀座界隈から都電が消され、それから急速に撤廃が進み、私の通勤ルートは初音町から一ツ橋まで 巣鴨から来る都バスを利用していた記憶があります。しかし昭和48年11月 高島平ー三田間に地下鉄【都営三田線】が開通となり(昭和51年5月 西高島平まで延長)、通勤は春日駅から神保町駅まで2っ目の駅下車ですから通勤時間はドア・ツー・ドアでタッタの15分と最高の環境であったのです。
会社が竹橋に移動すると、都が地下鉄を走らせてくれたのですから通勤地獄の時代、会社と都庁に感謝せねばならないのでしょう。

当時の日本の好景気を狙って 私は世界から高級音響スピーカーの輸入商売構築に挑戦していました。米国よりボザーク、フィッシャー、ハートレイ、そして欧州からは 英国/グッドマン、フランス/シャルランなどの超高級スピーカー、そしてヘッドホンのスイス/ユックリンなどなど。秋葉原そして大阪の日本橋を自分の足で1軒1軒歩いての販売店を作る仕事は 本当に国内商売の難しさを勉強させられ、この体験が今でも私の貴重な体験財産だと思っています。

昭和51年に結婚、翌年10月に長男「健一」の誕生。その翌年1978(昭和53)年6月には「シカゴ赴任」となりその11月家族がシカゴにやってきます。1979年に入ると原油供給の削減からオイル価格高騰が続き世界不況に見舞われ 第二次オイルショックに突入します。この5月には英国では保守党のサッチャー政権が誕生。米国でもガソリン価格が上がり 米国政府は全国の道路の最高速度制限を、もっとも経済的スピードの時速55マイルに規制、また西海岸地域では ガソリン消費を抑えるべく車のナンバーの最後の数字が奇数か偶数かによって曜日別に給油できる制度を公布し、そして単独運転でのダウンタウンへの乗り入れを禁止していたのです。

そんなご時世だった米国駐在期間は 私はエレクトロニクス製品の日本からの輸入商売には手を出さず、もっぱら日本製のディーゼル・エンジンを冷凍トラック搭載用冷却機メーカーや、レジャーボート用冷蔵機メーカーに納める商売に専念していました。 当時はガソリン・エンジンと比較して燃費効率が高いとして人気を上げており ディゼル・エンジン商売も面白いように拡大を続け多いに儲けさしてもらった記憶があります。

5年弱のシカゴ駐在から1982年の末に帰国します。1984(昭和59)年4月 長男健一が私と同じ真砂小学校に入学。秋の運動会の時、私の時代のマンマの校舎の中を歩き、「あ! ここが職員室、ここが音楽室だ」とあまりの懐かしさに感無量であったことを今も思い出します。その真砂小学校も1999年に弓町小学校と統合され、本郷小学校となりその2年後に近代的な校舎に建て変わってしまっています。

帰国後は【電子機器部】に配属、当時はしりのH製作所製ファクシミリの欧州・中近東・アフリカ・東南アジアへの輸出を手掛けるのです。これらの地域の各国に販売代理店を設定してゆく過程がとても楽しかったのです。当時FAX機は100万円もしていたのですが、ドイツに売り込みに行った際に事務機メーカーとして老舗の R.R社の社長さんとのやり取りが思い出されます。その社長さん曰く; 

   「このFAX機は漢字文化の日本だからこそ生まれたのだ。この技術はそもそも欧州生まれな
    のだが 我 々にはテレックス・マシーンという機器ですでに全世界でネットワークが構築され
    ているからFAXは不要だね」 とあっさり断られました。

そこで「ハイ! そうですか」とは引き下がらなかったのです。そこで私から;

   「テレックスの場合は 秘書が帰ってしまったら社長さんの場合は相手への連絡が翌日になって
    しまうでしょう。 FAXなら 社長さんが手書きのメッセージを そのまま電話回線で送信できる
    のですから 秘書がいなくとも いつでも相手と即通信できるので 相手様からも喜ばれ、
    すばらしい機器ではありませんか」 と反論しました。

その結果、その社長さんから初の2台のサンプル・オーダーの取得に成功しました。

平成に入ると(1989年)平成景気は土地神話に走らせ 地価はどんどんと上がり【相続税の巨額化】が話題になり始めました。我が家も50坪程度の土地ではありますが、当時話題の高騰地価で相続税を試算すると とてもではないがサラリーマンの私には相続出来そうも無い数字でした。そこで父と相談し、父の名義で銀行借入をして家を新築し、相続の際にはその借金で相殺する方式で相続税を軽減させる作戦を練り上げましたが、不幸にしてこの作戦は失敗に終わってしまうのです。

1990年4月 長男健一が私と同じ文京区立第二中学校に入学、その6月に私の中学校時代の同期生のS建築設計事務所と「新築設計契約」、11月に「工事請負契約」の締結と プロジェクトは着々と実施に移されました。住み慣れた家から仮住まいのアパートに引っ越す日、引越し荷物がすっかり運び出されガラーーンとした居間で家族が朝食を取っていたときに、TVでは、ベルリンの壁が崩壊されドイツ市民が一つになった喜びの興奮を伝えていました。家の解体ー整地ー基礎工事ー鉄骨くい打ちー棟上と工事は順調に進行して行き 父も毎日毎日その進捗状況を見るのが、そしてその変化をカメラに納めるのが楽しみな様子で、「地鎮祭」でも元気に世話をしてくれていたのですがーーー。

1991年(平成3年)正月が過ぎたある日、私が両親の仮住まいに立ち寄った時、父が床に臥しているではありませんか。母が言うには、父が昔の仕事仲間、つまり浅草橋界隈、子供婦人帽子卸業の仲間との新年会に参加したその帰り道、道路で滑って顔に怪我して帰って来たのだと。
そうして2月に入るや妻・順子のお母上の様態が急変、3月に他界されます。そしてそれを追いかけるように義父が5月に他界。一方父は3月に入って引いた風邪が長く続き5月連休に企画されていた母と二人での長野墓参を中止して、なんと急遽入院騒ぎとなってしまうのです。咳と微熱が続き 家族は「最近流行の老人結核ではないか」位に考えていたのですが、実はそんな単純な病では無かったようです。
父の様態は入院後 日に日に悪化して行き入院の数日後主治医から 「お父さんの病気が肺水腫か それとも肺癌なのか分からない。これまで例の無い奇病だ。お父さんの苦しみを和らげるには抗癌剤を打つしかないが、どうされるか?」と言われたのです。突然の宣告に ただただオロオロするのみ。母と相談の上、「よろしくお願いします」 と回答する他に道は有りませんでした。

しかし父は回復の目処もなく、7月7日 七夕の日に静かに天国に召されました。七夕と言えば「おりひめ(織姫)」が年に1回この日に天の川を渡って「ひこぼし(牽牛)」とテードする日と言われていますが、家族が年に一回父と会う日(命日)をこの日に選んだのは父らしく洒落ています。この1991年は我が家にとっては 3/5/7月と1ヶ月おきに”法事”が連発し、そして夏の8月に新居完成の運びとなるのですが、父の49日法要が皮肉にもこの新居で行われ、本当に父には申し訳なかったと、残念に思っています。

家を建てると起こるといわれるジンクスがあります。一つは「家族に不幸な出来事がおきがち」そしてもう一つが「その新築に住めないことがおきがち」という何とも不吉な話です。この2つのジンクス、なんとなく納得出来るのです。新築の時、引越し作業、人生一大プロジェクト進行からの疲労蓄積、そして仮住まいでの生活サイクルの変化などなどが体調を狂わせ 不幸な結果が起きがちなのは理解できます。
「易本」にも必ず”家造りの吉凶”が書かれている事からも、方位や年月日だけでなく 家族で取り組む人生最大のプロジェクトだけに環境の変化に充分対抗できるそれぞれ家族皆の体力が求められるのでしょう。もう一つ”新築には住めない”ジンクスは よく商社でも話題に上ります。「やっとマンションを購入したと思ったらニューヨーク駐在だってさ」 といった類の話がザラにあります。
これもありがちな理由が分かるような気がします。社会人となって企業に勤め経験を重ねて課長職レベルに到達したころ、もっとも会社生活が充実し給料もそれなりの額になると、社宅やアパート住まいから 「よしイッチョ 自分の家でも持つか」というプロジェクトに取り組みやすいタイミングと言えるのです。しかし一方で会社にて責任ある立場に立っている為、会社としても次のお役目をオーダーしてくるのでしょう。結果として国内転勤や海外駐在というケースとタイミングが重なってしまうのでしょう。

私はこの2つのジンクスをバッチリ体験してしまった事になるのです。 なんと新築の翌年、1992(平成4)年4月会社よりシンガポール駐在の辞令が下るのです。

【P】 壮年期(後期)

1990年ころから日本の経済にも陰りが見え始めます。日本企業は まだバブル景気の余韻を捨てきれず、景気回復策としてリストラや人件費の安い東南アジアへの工場進出によって立ち直りを図ろうとしていた時代です。 この安易な戦略が2000年代に入って多くの企業を廃業に追い込むような危機に落とし込む原因になるのですが。
そんな日本の戦略によって 生産市場として見られたインドネシア、マレーシア そしてベトナムやインドなど、更にはそれらの国との中継地としてのシンガポールは 好景気に沸いていました。当時のそんな東南アジア地域は総合商社にとっても注目すべき美味しい市場に見えたのです。そんな時代、新規市場開発のための現地派遣駐在員として私に白羽の矢が当たったのでした。 

1992(平成4)年5月24日 シンガポールに赴任、我が家族は翌年3月に来星します。息子健一が中学を卒業し、渋谷幕張高校シンガポール校に無事合格してのシンガポール入りとなったのです。南国の地での家族生活が始まりました。新規商材の開拓が業務指令と言いますが、それは決して簡単ではありませんでした。日本のメーカーは人件費などコスト削減目標で東南アジアにダイレクトに進出している時代で 商社の介入は不要で、全く新しい商売の仕掛け作りが非常に難しい時代だったように思い出されます。 

どんな仕事に挑戦したか回想してみます。

    @ NTTインターナショナルとのインテリジェント・ビルディングの売り込み
      (インドネシア財閥との取り組み)

    A 京都S製作所の中古医療機器(CT,MRI)をインドネシアの大学病院、緊急病院
       に設置し場所代を払って運営するプロジェクト

    B 諏訪SNK精機とインドネシア最大たばこメーカーGudung Gram社との小型モータ
       生産工場設立 合弁事業

    C FX社製コピー機のベトナムでの販売網の構築(ベトナムにおけるリース販売の確立)

    D 日本家電メーカーP社の単3電池 インド生産工場設立プロジェクト(インド財閥
       との取り組み)

    E シンガポール政府のロード・プライシング・システム入札に参加 (シンガポール財閥
       との取り組み)

    F 北九州S社製の移動体位置確認装置を香港セキュリティ社の現金輸送監視
       システムへの採用商談

など物件をあげれば切りが無いのですが、それにしてもシンガポールは人口300万ほどで淡路島サイズの島国であり、商売市場としては小さすぎて、ここを拠点にして近隣の国々を攻めたのです。当時はなんと言っても人口2億人のインドネシアがポテンシャリティ高く私の活動もそこに集中していました。シンガポール駐在32ヶ月の間で 海外出張は インドネシア/29回、マレーシア/9回、ベトナム/6回、日本/4回、インド/3回、香港・中国/2回、そしてタイ、欧州がそれぞれ1回の全部で55回、とすれば1ヶ月にほぼ2回近くはシンガポールから外に飛び出ていた事になります。

1994年末、3年目に入ってもこれと言った新規商売が構築出来ぬまま、東京本社との波長が合わず気持ちだけが焦り始め軽い「鬱」のような精神状態に陥ってしまっていました。この年の年末・正月休みを利用して思い切って家族で「オーストラリア・シドニー&ゴールドコースト9日間の旅」を敢行。この旅は生まれて初めてホテルにて新年を迎えれる体験をしたことになります。
我々家族はツアーパックで組まれたスケジュールから外れて4日目の午後ブリスベーン Indooroopilly Golf Course, そして6日目の大晦日の日 ゴールドコーストへの途中にある Hope Island Golf Course を組み込んでいました。このパック・グループには他に日本人参加者はおらず、中国系シンガポール人そして米国人で15人ほどのグループだったのですが、この9日間の行程で我々は3回も団体行動から抜け出たのです。 予定していた2回のゴルフでの別行動にもう一回別行動のチャンスを与えてくれたのは息子でした。その事件はなんと大晦日に起きたのです。

大晦日の出来事を日記帳から拾ってみます。

12月31日:  きょうは今年最後の日。ブリスベーンからゴールドコーストに観光バスにて 移動
          する日だが、我々はゴルフを入れていたので別行動。目的地はHope Island 
          Resortの中にあるゴルフ・コース(The Links)。アメリカを思わせるような大変に
          雄大でフラットなコースに大満足。プレー後家族3人はタクシーを呼んでもらって
          ゴールドコーストのホテル Chevron Paradiseへ(ダクシー代A$110)そして
          団体と合流。ホテルチェックインを済ますと、息子が「ぼく サイフなくしたみたい」
          と小声で言い出した。3人で どこでなくしたかの推理をはじめたが、どうやら2日
          前のゴルフをした時にさいふを貸しゴルフバックに入れたままではとの推論に
          至った。
          早速 Indoorooplliy G.C.に電話して調べてもらうと 「見つかりました」との
          返事。このパック旅行は1月3日にブリスベーン飛行場からシンガポールに戻る
          スケジュールであったので、それでは我々は別行動で2日にゴルフをして夜、団体
          に合流しようと決めた。 皆での夕食後ホテル内レストランでの年越しパーティー
          (参加費@A$70)に参加してみることにした。賑やかに飾られたパーティ会場
          にはシャンパンの音、クラッカーの音 そうして午前0時に海岸から大きな花火が
          打ち上げられ、人々の歓喜が一斉に沸き起こった。

この家族大旅行から戻ってすぐに丸紅の孫会社に当たるロジテック社のTH社長から電話がありました。電話の趣旨は 「我が社も順調に規模を伸ばして来ており ここに来て台湾からの輸入が激増。貿易実務の経験がある君に手伝ってもらいたい」 というお誘いの話だったのです。東南アジアでの新規商売開拓の任務半ばして放棄するのは、とも考えましたが 自分としても一つの壁にぶつかって不安定な精神状態にあることから、よしここは自分から環境を変えてみようと決断しました。

1995(平成7)年3月23日家族が一足先に帰国、私は4月21日に帰国の途につきました。しかしこの年はとんでもない出来事が多発した年であったのです。1月17日 あの阪神淡路大震災に始まり(6433人の犠牲者)、3月地下鉄サリン事件、4月に入って青島都知事、横山ノック大阪府知事のアベック当選、4月19日には東京外国為替市場で1ドル=79.75円と二度と起きないだろう高値、5月 オウム真理教の麻原彰晃が逮捕(しかし2005年現在も生きている不思議!)、そして2年連続の猛暑続きの平成7年7月7日 我が父の命日は なんと大正7年生まれが77歳になった日で7が6つも並ぶ特異な日だという。
8月村山首相がアジア諸国に向かって植民地支配を謝罪している。私はこの年の末、家族から「お父さん、粗大ごみにはならないでね!」の言葉にハットして油絵教室に通い始めたのです。

私がロジテックに参画して 早速取り組んだのが親会社から脱皮して一人立ちできる体制にすべく、新規商売の構築でした。しかしPC周辺機器の市場が大盛況で 年々自然増幅的に売上高をアップさせ、この傾向が従前どおりのビジネスモデルから脱皮して親離れを図ることを脇におき去ってしまったのです。この結果はいよいよ21世紀に突入して、PC市場の膨張が止まり始めると売上下降線のパターンに転換してしまったのです。しかし2004(平成16)年に入ると心強い新しいパートナーが現れ、新進のロジテックとして再挑戦するチャンスが到来しました。丁度この年は私の還暦、人生の一つの区切りのタイミングであり、12月24日 クリスマスイブの日に定年退職の日を迎えたのです。

私の人生は一体何だったのだろうか?半生を振り返ってみて一体何が自慢できるのだ?実は自慢できるものがあるのです。それは私の家族です。商社マン、海外生活、単身赴任などなど波乱万丈な家庭生活に文句を言わず付いて来てくれた体の丈夫なワイフと一人息子が私の自慢であり、かけがいの無い私の財産なのです。

また自分の人生で一体何が得意だったのかを考えると、確かに小さい頃から【もの創り】は好きなようでした。従って社会人になってからも、どちらかと言えば、ルーティンの仕事より、新規に創る仕事が多かったように思います。そのように考えると自慢のもう一つが見つかったような気がします。

それはこれまで私はたくさのブランド/ニックネームを作ってきたのです。丸紅の時代ではFAXを台湾で作り【MAC Fax】としたのが第1発目です(昭和62年頃)。ところが暫くたって丸紅の管理部門から 「MACはまずい。なぜならパナソニックがビデオレコーダをマック・ロードと称して宣伝しているし、米国ではマッキントッシュ製PCをMACと呼んでいるので侵害にあたる」との忠告を受けたのです。
しかしすでにカタログ、サンプル機は作り終わり、すでに少量ながらイタリア、南アフリカに本体を輸出していたので、 「それは当社のFaxが世界で大量に売れた場合に問題になるのでしょう?」と反論したのですが、万が一を考え丸紅が商標登録しているブランドをくっつけて【Benny Fax】に切り替え販売を継続しました。
その後扱い機種をPCにひろげって【BennyPC】、更には米国にて日本NK製デイジタル電話機のディストリビューションを開始しましたが、それには【Optima】というブランドが付いていました。

ロジテック社でもPCにCADソフトをインストールしたスターターキットに【BL CADキット】なんて命名してディストリビューションを展開。また独自に設計・開発したインターネット・サーバーには【LogiPRO】と命名、瞬間風速的でしたが市場シェア3位の位置を取ったのです(平成13年)。

私の半生の中で仕事とは別の世界でも、私は創り上げる喜びを見つけ出していました。それは50歳になってヒョットした切っ掛けで取り組んだ「油絵の世界」、そして2001(平成13)年 ロジテック伊那工場(長野県伊那市)への単身赴任となって、伊那谷で過ごす週末の【一人の時間と空間】が私にエッセイを書く機会を与えてくれたのです。
これはサラリーマンとしての達成感とは違った 後々に形として残るものを創り上げたという喜びを与えてくれるのです。また2000年に仕事の関係でホームページを自作してみるチャンスに恵まれ、「油絵仲間を捜しています」のタイトルでこのHPを開設し、そして翌2001年にエッセイの掲載も始め、現在油絵作品 25点、エッセイ 9作品になっております。

2005(平成17)年はフリーターとしての年の始まりです。これまでの人生での体験を社会の人々のために貢献できればと思っています。そして許せる限り人生の旅を続け、油絵を描きそしてエッセイを書き続けて行きたいと思っております。

                                 (2005年1月23日)

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