伊那谷と私==花木編==                    

伊那谷の春は『高遠の小彼岸桜』で始まる。桜前線は 例年3月半ば過ぎ九州に上陸し四国を通過、3月末に関東地方に到達し それから前線が北上し高遠城址の桜はほぼ1ヶ月遅れの4月中旬から末に掛けて満開期を迎えると言われている。

今年(2002年)は例年とは違い全国的に桜前線は半月ほど早めに進行し 高遠でも最高のタイミングは4月6日の週末からの数日間であった。

高遠の小彼岸桜は全国的な知名度で4月中旬から下旬に掛けて20万人の人が押し寄せるらしく1年中で最も人口密度を高くする一瞬である。この高遠には充分なる旅館・ホテル施設が無く、観光バスで訪ねて来るお客も2~3時間の滞在で桜を見れば 慌しく近隣の松本、諏訪、飯田、昼神温泉、天竜峡など各地に移動して行くそうだ。

高遠歴史館の前でおみやげ屋を開いている女将さんの話では「年々 景気は悪くなるよ。昔はそれでも2週間ほどは安定して各地から多くの人が集まり儲けさせてもらった。

    <高遠小彼岸桜>Presented by Mr.Y.Hara

今じゃ 皆インターネットとかで 満開時期を事前に調べて その瞬間を狙って人が集まるようになった。情報が行き渡ることも良し悪しだね。今年なんぞは2週間も開花が早まり1週間ほどは忙しかったが あとは閑古鳥だよ。観光バスだってもう咲いていないと知ったら寄りもしないよ。」とこぼしていた。

観光ツァー『高遠城址 桜祭り』も年々人気度をさげているとの評判を聞く。それは高遠城址の駐車場に至るまでが道幅狭い山道で中央高速出口から車の行列が延々と続き、早朝に東京を出発しても高遠の桜の下に到着するのが昼過ぎというのであるから気も遠くなる様な話である。従ってこのシーズンだけ街道筋のあちこちに「トイレこちら」の仮設トイレの看板が立ち並び、また畑の真中を走る村道にも抜け道を求めて大都市からの観光バスがニョッキと現れる姿は異様である。それでも毎年毎年 この期間だけはこの地域で大量の人間移入がまだまだ繰り広げられているのだ。

その理由に『日本人と桜』という因果関係が有るのかもしれない。兎に角「桜のある所 人が集まる」のである。 この年 4組の友人が高遠小彼岸桜を見物に伊那谷を訪ねてきた。

この内1組は半年も前から最高の時期として翌年4月17日の高遠湖畔「桜ホテル」を予約、他の3組は訪ねてくる数日前に高遠行きを決めて当社のドミトリーに宿泊頂いたのだ。皮肉なもので今年は半年も前から楽しみにしていた人を見事に裏切る結果となり 本当に桜とは何と無常な花なのでしょう。

私の『お薦め高遠桜コース』は 土曜日の午後便の中央高速バスで伊那入りして頂き、夕方7時過ぎから高遠城址に向かうのである。反対車線は帰路の車で混んでいるが これから城址へ上がる方向はスイスイである。そして夜桜をゆっくり観賞するのである。ビッシリと咲いた桜木は吹く風に一枚たりとも花びらを散らさず 力一杯咲き誇るその姿は城山一帯に緊張感を張りめぐらしているようだ。桜は下からライトで照らされ、木々の間から見える空は夜が深くなると共に次第に濃いブルーに変わって行き 子供の頃見たプラネタリュームの空を思い出す。何時の間にか空は真っ黒な闇になり一段と明るく桜天井が引き立つのだ。

小一時間の観賞の後、伊那市の町に出て小料理屋で春の山菜料理を楽しむ。「おこぎ」「せり」「こごみ」「たらの芽」「おにだら」「こしあぶら」などなど春の若菜をオシタシでいただくのは それぞれの味覚、歯ざわりが楽しめて伊那谷の地酒の肴として格好の持て成しだろう。

ご希望と有れば翌朝も6時起きで「早朝の桜」を見に 途中のコンビニに寄りおにぎりと飲み物を買って再び高遠城址へ。桜の下で取る朝食は さわやかな風と鳥達のさえずりが格別の味を添えてくれる。チョットひんやりした空気は食欲をそそるアピタイザーとなる。そして7時過ぎに下山するのだが、道路反対車線では もうすでに遠くからやって来た自家用車で渋滞が始まっており それを横目に見ながらバスターミナルへと向かう。朝9時台のバスにて帰京頂けば日曜の昼過ぎに

       <夜桜見物>Presented by Mr.Y.Hara
は東京に戻れるのである。

あっと言う間の出来事だが 訪問頂いた皆様からは「じっくり桜を堪能できた」と大変に喜こんで頂いている。高遠城は戦国時代(1547年)武田信玄により築かれたが、その後上杉謙信との四度にわたる『川中島合戦』を繰り返し決着がつかないまま 武田軍は方針を変更して海に面した駿河を攻める事になるが これが尾張の大名・織田信長との戦いへと繋がって行く。すでに京都入りして天下統一を進め始めていた信長に「それはさせじ」と信玄が3万5千の兵を率いて京都に向かう。

しかしすでにこの時 信玄は病に臥しており途中で甲斐の国に引き返さねばならない結果となる。1573年 途中三州街道・根羽村にて病没し 次男・勝頼が継ぎ、高遠城の守将は勝頼の弟・仁科盛信に任される。信長は息子の信忠に功績を上げさせようと高遠攻めを命ずる。信忠軍数万の兵に対し 受ける高遠城兵500であり 到底かなうはずがない。城内では女性も武器を持って勇敢に戦ったが次々に殺されていったと言う。その時城将の仁科盛信が城壁に登って仁王立ちとなり腹に短刀を突き刺して 中から腸(はらわた)を引き出し信忠軍に投げつけた。この時飛び散る真っ赤な血が小彼岸桜の朱色となって残っているという言伝えがある。

実は『タカトウコヒガンサクラ』として命名されたのは平成2年4月 高遠で行われた「国際

                                            <武田信玄病没の地>
さくらシンポジューム」で桜研究会にて高遠固有の種類と認知されてからと言うのであるからまだ日は浅い。しかしこれが切っ掛けで 「高遠には珍しい桜がある」と一層全国に知れ渡ることとなり また長野県の天然記念物にも指定されている。

当社の敷地内にも「高遠小彼岸桜」が10数本植えられているが、天然記念物だけに 簡単にはこの桜木を手に入れる事は出来ず役所に申請する許可制であり、今では殆ど手に入れることが難しいと聞いている。私の住むドミトリー「ここ」のベランダのすぐ目の前の庭に この天然記念物を見ることが出来るのは何と幸せな事であろうか。

しかし元々高遠城にこの小彼岸桜が有ったわけでは無く、明治に入って廃藩置県が行われ高遠城が取り壊しとなり明治8年(1876年)に城址を公園として整備する際にお城の南、三峰(みぶ)川の対岸に位置する『小原村』に有った桜を植樹したのが始まりで、その後同一種の植樹を繰り返し1500本の樹林を作り上げた。これと同種の桜は 東京の『新宿御苑』でも見ることが出来るそうだ。

「新宿御苑」一帯は内藤新宿と言われた如く徳川家康の譜代の家臣「内藤清成」に授けた江戸屋敷の土地で 江戸時代は甲州街道や青梅街道など西にのびる街道と鎌倉街道が交叉する要所であったことより、この一帯の警護など軍事的な理由で家康は最も信頼できる家臣に与えたと言われている。

          <ドミトリーの桜>
内藤家7代目「清枚(きよかず)」が元禄4年(1691年)高遠城の主になるが、この繋がりが 新宿御苑で小彼岸桜が見られる遠因となっているのである。

 高遠小彼岸桜の生まれは「小原村」だと言うが、この村から生まれたもう一つ、超有名な人がいたのだ。

   オハラ庄助さん  なんで身上つ〜〜ぶした

   朝寝、朝酒、朝湯が 大好きで それで身上 つ〜〜ぶした

   もっともだ〜〜 もっともだ〜〜

これは会津磐梯山の民謡で誰でもご存知の歌だが、なぜ高遠・小原と関係が有るのだろうか。実は小原の里「小原城」の城主は小原庄右衛門光俊という地方の豪族で高遠城主 保科正之(内藤家の前の高遠藩主)に仕えていた時 徳川三代将軍“家光”の命により保科氏は最上山形と会津の城主となり、それに同伴して小原氏一族も会津に移ったと言う。

この庄助さんは庄右衛門の孫にあたり、名門の出でありながら成人しても武士にはならず、庶民と一緒に楽しく過ごしたと言う。故郷が高遠の庄助さんは“木材商”だったとか“会津の塗り師”であったとか定かでは無いが 財をなし自由奔放に生き抜く本当の酒好き人間だったそうで 地元の人々から愛され 歴史を超えて今でも多くの人に「オハラの庄助さん」として知れ渡っている。

 桜と言えばその対抗馬に「梅」が引き合いに出されるが 伊那谷には有名な『伊那梅園』がある。この梅園は高遠とは天竜川を挟んで反対側に位置しており(箕輪町)、高遠の桜の満開時期とほぼ同じか多少後に開花のピークを迎え、梅と桜の開花期は平野部でのタイミングと逆になっている。紅梅、白梅など38種7000本に加え 真黄色のレンギョウが咲き誇る庭園は 赤、白、黄色の絵の具をちりばめた様な鮮やかさである。この梅園には梅の他に5月に満開となる2000本の「しだれ桃」、6月〜7月の「梅もぎ祭り」そして8月の「サルスベリ」と結構長期間に渡って花を楽しむことが出来る。ここも高遠桜を訪ねて来た観光バスがついでに立ち寄るが、どうやら全国的な知名度では無いようだ。

 5月に入ると次は「ぼたん(牡丹)」の時期が到来する。高遠城址公園の裏側に当たる山奥にぼたん寺として有名な『遠照寺(おんしょうじ)』がある。5月中旬のある雨模様の土曜日 一人遠照寺に向けて車を走らせた。雨の中 くねくね曲がる山街道を一人で車を走らせていると、何か薄気味悪い感じがするが、すっぽりと靄に包まれた寺につく頃は 雨は上がっていた。周りの静けさと雨上がりのぼたんを見ると一句浮かんだ。

     雨上がり  遠照ぼたんの  おじぎかな

山斜面に咲き誇る140種 1500株のぼたん群。直径30〜40センチもある白、赤、紫の大型ぼたんが雨を吸って重たくなり、みんなお辞儀をするように地面に顔を向けている姿。何とも寂しい光景のように感じられるかも知れないが、実は私には滑稽な姿に見えたのだ。

 この遠照寺にも『絵島の墓』が有ることは あまり知られていない。絵島の墓と言えば観光バスでも「蓮華寺」を訪ねるのがお決まりのコースである。何故に遠照寺にも墓があるかの解説は後に回すとして、『絵島物語』も高遠城を語る上であまりにも有名な話なのでチョット触れておきたい。

太平の元禄時代 絵島は徳川6代将軍“家宣”の愛妾である月光院に仕えていたが、7

              <遠照寺のばたん>Presented by Mr.Y.Hara
代将軍“家継”の生母である月光院は益々力を極め、月光院にかわいがられた絵島も大年寄りとして大奥での実権をにぎるようになっていった。

家宣の命日に、月光院の名代として絵島は芝増上寺を訪ね その帰り道 大奥に入っている商人の手引きで山村座の歌舞伎を見に寄るが、そこで人気俳優 生島新五郎との恋に落ちる。二人の仲は城中で知れ渡り 当時大奥では恋愛がご法度であり本来は死罪である所を 月光院の口添えで 絵島は高遠へ 生島は三宅島へ島流しとなった。この話も実は絵島が 大奥内部の権力争いに巻き込まれ 絵島の恋の沙汰も冤罪だったとの裏話もあり、この種の話は 今も昔も変わらないと言える。

 絵島は正徳4年(1716年)4月1日に高遠に到着、囲み屋敷に幽閉された。その時絵島はまだ31歳、 昼夜武士や足軽に見張られ、悶々とした日々を送っていた事だろう。

退屈な日々を紛らわそうと漢学の書を読みふけるが、この書物を貸し与えたのが遠照寺の住職であったと言う。暫くして高遠藩は絵島に対して特別に遠照寺にだけ行くことを許し、絵島は厳しく単調な流人生活から逃げ出そうと6キロの山道をせっせと通い女人成仏を説く法華経の教えに深く帰依するようになって行く。

高遠では一汁一菜の厳しい精進潔斎のうちに自らを律し、法華経の転読と唱題を日課として、み仏に帰依した静かな後半生を送ったと言われている。享年61歳、遺言「もしも果てましたら、日蓮宗ゆえ法華の寺へ葬って下され」のとおり『蓮華寺』に葬られたが、その遺言には さらに「女人成仏の道を諭してくれた遠照寺に自分の歯骨と毛髪を埋葬して欲しい」と言い残され その通りに遠照寺の絵島の墓に納められていると言う。

しかし人々は絵島を罪人として見ており そのため墓を訪れる人も無く、長く忘れ去られていたらしい。ところが大正5年(1916年)に作家“田山花袋”が蓮華寺の土の中に埋もれていた絵島の墓を探し当てたと言う。それ以来多くの人が訪れ、今では絵島の菩提を弔う『絵島まつり』が高遠町内にて毎年7月下旬にぎやかに行われている。           (参考:『ふるさと伝承 山峡夢想』赤羽忠二著 ほおづき書籍)

6月から7月に掛けては「アジサイ(紫陽花)」のシーズンとなるが、伊那にもアジサイ寺がある。7月初旬 我が母と妻と弟夫婦が父の墓参に長野/善光寺に集結した帰り道に伊那谷を案内する機会があり、アジサイ寺『深妙寺』を訪ねた。その日は中央アルプスからの強い風が吹き荒れ 時々それに雨が混じり アジサイの花々を烈しく襲っていた。

ヒューヒューと唸って吹く風に「手毬」が引きちぎられコロコロと飛び散ってしまいそうな不安を抱きながら 急いで本堂の裏手に駆け込んで雨宿り。そこにも風雨を避けるようにアジサイの花が寄り添って咲いていた。そこで一句浮かぶ。

雨烈し 庫裏に寄り添う 

         毬アジサイ

                  <深妙寺にて>
深妙寺は平安時代に密教の道場として誕生した古寺だそうで、本堂脇から裏庭、そして裏山一帯に アジサイ170種、2000株が植えられており、青、紫、白の艶やかな色彩が回り一面を覆っている。170種とは言え その花形から大きく分けて、一般によく知られている手毬のように丸々と花をつけた「てまり形」、ツンツンと伸びた額に特徴がある「がく形」そして柏葉アジサイのように花が「円錐形」のものと3種に分けられるそうだ。

 この深妙寺に行ってみて、アジサイもさることながら、他に「日本一」があることを知った。それは「挽き石臼」のコレクションであり、庭に引き詰められた敷石が石臼であり その数 1800個と言われ これは日本一だそうだ。いずれにしても何故に石臼が集まったのか疑問が起こる。お寺の説明によると 江戸時代に甲州、信州の地域では石臼を寺に奉納する習慣が有り、深妙寺本堂の前にも皆が持ってきて並べられ それが今は敷石となって残っているのだそうだ。

ところで石臼は歴史が古く、およそ8000年前にヨーロッパにおいて小麦を臼で挽き粉にして それを練ってパンを作る作業がすでに完成していたという。それが東洋の農耕文化圏の石臼を使って米を打つ、餅を打つ、そばを打つなどの技術とどのように繋がっていったのかは更なる調べを要するが、しかし なぜ江戸時代に石臼が社寺に奉納されたか推理してみよう。

当時ではこの石臼は単なる石とは言え 最先端技術による器具として大切に扱われていたのではなかろうか。石の自重で擦り合う動作を穀物の脱穀や餅つきに利用したシンプルな構造の機器であり、長期間の使用後に石が磨り減り新たに交換する際には『針供養される針』のごとく、 簡単には廃棄処分されず感謝の意を込めて社寺に奉納されたのではなかろうか。

 

7月に入ると伊那谷は夏一色となる。アルプスの山々の上にニョキニョキと真っ白な入道雲が雄姿をあらわし、田んぼには稲穂が顔を覗かしている。夕闇が迫る頃になると「ひぐらしゼミ」の合唱が始まり あたり一帯に涼しさをもたらす。熱帯夜で寝苦しい夜などは、その明け方4時ごろ カナ・カナ・カナと鳴き始めるひぐらしの鳴き声は 耳からの「心の癒し」となり深い眠りに誘ってくれる。

この頃は太陽光線も強く花々は極端に少なくなるが、「サルスベリ(百日紅)」が元気に花を咲かせているのがうれしい。

サルスベリはそもそも中国生まれらしいが、本名は“百日紅(ひゃくじつこう)”と呼ばれ“サルスベリ”は日本で命名されたそうだ。一つの花が百日も咲いているわけではなく一つの花が咲き散ると側の次の花が咲き あたかも百日も咲き続けているように見えることから中国人は百日紅と名づけたそうだが、日本ではその木の幹がツルツルで猿でも滑りこけそうだと 樹皮の特徴から名づけているが 中国人と日本人、その注視するポイントの違いが面白い。

 伊那梅園にサルスベリが植えられていると前に述べたが、8月のお盆休みに季節外れの伊那梅園へサルスベリを訪ねてみた。真夏の炎天下、庭園には人っ子

                               <サルスベリ>

一人もおらず 静まり返って不気味だが、梅の木々の間にポツンポツンとピンクや白の花を咲かせるサルスベリが散見される。無心に咲かせているサルスベリに近づいて一句。

      赤化粧  人無き園の  百日紅

8月半ばを過ぎると 伊那谷はもう秋の気配である。田んぼには 太く成長した稲穂が垂れ下がり一面を黄金色に変えている。朝の散歩する畦道には すでに「すすき」が出始め風になびく姿は 冬の前触れを告げている様で寂しさを感じる。そしてこの頃「そば(蕎麦)の花」が畑一面を白くする季節でもある。

伊那谷・箕輪町の高原農地には 赤いそばの花が畑一面に咲き乱れ 真っ赤な絨毯を敷き詰めたような景色に変わる『赤そばの里』がある。赤そばの花は、普通の白いそばの花より半月ほど遅く9月末頃に満開を迎え 11月に入ると収穫期を迎えるそうだ。実はこの赤い花を付けるそばは新種「高原ルビー」と呼ばれ その原産地はヒマラヤ山系だそうで、信州大学の先生が農家の活性化を狙ってヒマラヤから種を持ち帰り日本で育つように品種改良を施したのが始まりという。

 

赤そばの刈り入れ時期が来ると山々では紅葉が始まる。紅葉と言えばその代名詞は「もみじ(紅葉)」であるが、箕輪の「赤そばの里」と天竜川を挟んで反対側

       <赤そばの里> Presented by Mr.Y.Hara
の山奥に箕輪ダムによって作られた人造湖『もみじ湖』がある。このもみじ湖は箕輪・伊那地域の「水がめ」となっており大事な水道水の源となっている。ここのもみじ群生も人造だそうで、1988年箕輪ダム建設の際に湖底に沈む村(長岡新田)の住人が ここを日本一のもみじの名所にして欲しいと町に苗木を寄贈し、それから町民の手で植林が続けられ、今では1万本のもみじ群になっているという。

 11月初めの文化の日を絡めた3連休を利用して東京から旧知のご夫婦が伊那谷を訪ねて来られた。勿論来伊の目的は是非紅葉がみたいというご希望であったが 「来たれもの」で初めての秋を迎える私には紅葉の名所に関する知識もなく、地元の方から紹介を受けて「もみじ湖」を訪ねる機会を得た。生憎にもその日は雨模様で期待は半減していたが、車が山道を登り箕輪ダムに到着する頃には雨も上がり 山を包んでいた靄も切れ始め、真っ赤に染めたもみじ、まだ真黄色のままのもみじ、湖面を染めるもみじ、その幻想的な眺めは一瞬 我々を別世界に導いた。

 

     山深き  湖面を染める  紅葉かな

ところでその翌日 私が「来たれもの」だからこそ出来た予期もしない体験をする事になる。

 

翌日は昨日とは打って変わって快晴の朝、我々は南アルプス、中央アルプスそして北アルプスまで360度 連峰が一望できる伊那山地の中腹に広がる標高1,852mの『鹿嶺(かれい)高原』を訪ねたのである。地元の人なら こんな時期に「鹿嶺高原」の頂上まで登っても何もないよと敬遠されるだろう。しかし私は 車で頂上まで行けるので来訪の友人に是非アルプスの山々を見て頂くには理想的な山だと判断し時期外れかもしれぬが 頂上を目指してドライブを敢行したのだ。

以前に一回この山を訪れた事があり、頂上までしっかりと舗装された道なので まずは安全と判断し実行したのであるが、しかしこの時期には確かに頂上を目指す車は全く無いようだ。道路一面を覆っている落葉樹の葉の上に車の轍が全く無いことがそれを物語っている。頂上が近くなると道路が木々の落ち葉の茶褐色から急に白い色に変わった。皆一斉に声を上げた。

「雪だ!」

 それは昨晩降った初雪なのだろう。頂上の駐車場に車を止め見晴台に向かう。枯れ草の上にうっすらと積もった白い雪に脚を取られないように注意しながら 驚きの情景に心は子供のように弾んでいた。

そして見晴台に立って この世のシーンとは思えないすばらしい景観を目の前にする。

目の上の山々は白色の雪化粧をしており 足元の下の山々は赤、黄、オレンジで塗り染めた紅葉の姿、まさしく こんな瞬間にめぐり合えたことが何と幸せな事か 

                              <甲斐駒ケ岳>

皆言葉がでず無言である。しばし その雄大で、幻想的な世界に浸っていた。しかしアットいう間に雲が広がり始め陰ったかなと思うと同時に、小雪が舞い始め、気温がどんどん下がり始めたようだ。慌てて自動車に戻るはめとなる。興奮冷め遣らぬ内に 車は上がってきた同じ道をそのまま静かに下りはじめた。雪雲の中を抜けて下界におり太陽の光が車中に差し込み始めると、ほっと我を取り戻し 先ほど頂上で見たシーンは何だったのかと 皆んなで顔を見合わせていた。

 

12月に入ると もう伊那谷には何も無い。これからは厳しい寒さと戦いながら じっと長い長い冬を我慢するのである。あの春を告げる「高遠小彼岸桜」の時期が来るのを楽しみにしながら。

 

<完>

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