伊那谷と私=水と井筋の物語=

 

『あぜ踏めば 水面を揺らす “おたま”かな』     
                        
**おたま=オタマジャクシ

高遠の小彼岸桜まつりの喧騒が去った4月後半になると ここ我住処(美すず六道原)の廻りの田棚を毛細血管のように走る“井筋(いすじ)”に水が流れ始め、お百姓さんが忙しそうに田植えの準備に入り 5月ゴールデンウィークが終わる頃になると、水田に水が張られ始めるのである。

この時期になると 伊那谷の両サイドに聳えるアルプスの連峰からその中央を北から南に

     <六道原の田棚・バックは手良村落と蟹沢方面>

流れる大河「天竜川」に流れこむ川の水足は驚くほどに速くなる。それはアルプスの山々に冬の間積もり積もった雪が一挙に解け始め水となって流れ落ちているからである。

この伊那谷にはアルプスの山面に対して 天竜川と並行に何段もの河岸段丘が走っており 山から流れ出す川の斜度は急で鉄砲水にとなって水害を引き起こす「暴れ川」が沢山ある。ひょっとすると こんな背景から長野県には あちこちに砂防ダムが作られてきたと推察できるが、この建設事業に味をしめた現地土木建設業者が行政とつるんで 数百年に1回起こるかどうかと言われる水害対策として過疎な山間にまでダムを作ろうとした為に 田中長野県知事の『脱ダム宣言』に繋がっているのかも知れないが。

我が住処の近くでも その『巨大なる幽霊ダム』を発見したのだ。我が住処(ドミトリー)に私と同様に単身で赴任されているH氏がおられ 二人して伊那にて週末を過ごす時、天気さえ良ければ一緒に2〜3時間ほどの“近所を探索する散歩”に出掛けるのを常としている。

それは半年ほど前の秋を感じるある土曜日、前から二人で必ず行ってみようと話していた目的地に挑戦した。そこは住処から東に位置する手良の村落の更に奥、伊那山脈の山々が幾重にも切り込んでいる谷間を棚沢川が流れており その奥深く入った所にある“蟹沢(かにさわ)”という場所である。その地名がなんとも神秘的なものを感じさせ 行ってみたいという興味をそそったのである。

蟹沢入口から30〜40分も歩いただろうか。夏の終わりを告げる弱い太陽光線の中、渓流に沿ってクネクネと走る山道を登るとじわじわと汗がにじみ始めていた。いくつかの山の端を曲がった途端、目の前に巨大なコンクリートの城壁が現れたのである。
「ドキッ!」
その壁面は太陽光の元で白く美しく我が目に迫ってくるが その巨大さが不気味である。
「何だ! あれは!」
すこし足早にその巨大な物体に近づいて驚く。

チョロチョロと流れる細い渓流を包み込むかの

         <蟹沢・幽霊ダム>

ように巨大な壁が遮断し、その巨大な壁のわずかな隙間からチョロチョロと水が流れていた。これこそ 数百年に一度起きるかどうかという川の氾濫から守る為の“砂防ダム”だと判明した。間違いなく『幽霊ダム』である。竣工が平成14年と書かれているので、ついこの間までこれをシコシコと作っていた事になるが信じられない話である。この棚沢川のふもとに大きな村落が有る訳でもないので、一体この巨大なるコンクリートの怪物は誰のために作られたのであろうか。

スッポリと大自然に覆われたすばらしい秘境を訪ねていた充実感は、このコンクリート塊により すっかり台無しにされてしまったのである。

この蟹沢入口から手良村落に下ってくる道沿いの両サイドは りんご畑が一面に広がり この時期でも収穫の遅い品種がまだ真っ赤な実をつけており なかなかの美景である。この辺の道は急斜面でその道に沿って流れる用水路にはすごい勢いで山からの冷水が流れている。道にそって建っている民家は どの民家もその入口近くに、この用水路からの水の“取り口だまり”が作られている。これを『川ばた』と言うそうで、そこから水を汲んだり、そこにしゃがんで洗濯をしたりする場所で文字通り“川端”に作った便利な「洗い場」である。このような川(用水路)を『つかい川』と言うそうである。
                                     <つかい川と川ばた・手良野口区>  

昔はこの川ばたで飲み水を汲み、顔を洗い、なべ釜を洗う、野菜も洗う、泥足を洗う、洗濯物を濯ぐといった日常生活の必須の場所で有った訳だ。とすれば当時は今では考えられない現象が繰り広げられていたと推察できる。つまり上の川ばたで洗濯物を濯いでいる時、その下の川ばたでは 食後の食器を洗い、その下では 赤ん坊の“おしめ”を洗い その下では 飲料水を甕に取り込んでいた なんていう事態が全く無かったとは言えないだろう。しかし「三尺流れればもとの水」そして「見ぬもの清し」という雄大な心持ちが この“つかい川文化”を維持して来たのだろう。しかしお互いがこの大事な生命線「つかい川」を安全に使う為の最低限のルールが有ったという。例えば嫁は“飲み水は早朝一番で汲むべし”と姑から教わり、また“おしめや下痢で汚した着物などは そーっと皆が寝静まった夜中に出て洗え“などと約束事が出来ていたようだ。

夜更けに急に雨が降り出すと その当時 主婦がすぐに頭に浮かぶのは「さて、水甕に充分水を汲んで有ったかしら」であり、雨が強く降れば降るほど、明朝は川の水が「にごり水」になってしまうのではと不安にさせて 今晩中に水を汲んでおこうと外に出る。 丁度そのとき、その家の一段上の民家の主婦は この急に雨が降り出した時にこそ 誰も外にいないだろと赤ん坊のおしめを洗いに出るのである。しかし「知らぬが仏」でこの両家には何事もなく平和の日々が続いて行くのである。           
 (参考:「ふるさとの文学=上伊那=」東京法令出版 向山 雅重著「つかい川」)

この村でも現在では 水道管の敷設そして下水道網の完備がされており この川ばたでの作業は激減しているようだ。今では田畑での農作業の後で取ってきた野菜を洗い、手足を洗う程度に川ばたを使っているようだが、この「つかい川」には昔と同じく 冷たく、清い水が勢いよく今でも流れ続けている。こちらの水の方が、水道管から流れて来る飲料水より スーパーマーケットで購入する「ナチュラル・ウォーター」にはるかに近いのではと勘ぐってしまうが如何であろうか。

ここ伊那谷は 日本アルプスの山々に囲まれた谷地だけに飲料水は

                                       <川ばたにて洗車>
都会よりずっと水質は優れているのは当然と言えようが、しかし我住処で飲む水道水が意外に伊那谷を遠回りして来ている事を知りナチュラル性を低めているのではと疑ってしまうのだ。伊那市の飲料水の水源は 伊那山脈の北端にある守屋山の麓から流れ出す沢川の上流に作った箕輪ダムによって塞き止められた「もみじ湖」である。この沢川は箕輪市に向かって流れ落ち天竜川に注いでいる。ところが水甕「もみじ湖」からの水道水は直径1メートルもある太い水道管を通って
沢川に沿って下り そのまま真っ直ぐ天竜川を跨ぎ、中央アルプスの北端「経ヶ岳」の麓付近の“長田”にある「箕輪浄水場」まで運ばれている。そこから天竜川の西側を南の方向に向かって いくつかの「配水池」を通過しながら 箕輪町、南箕輪村、伊那市、宮田村、駒ヶ根市の5市町村に配水されて行くのである。

我住処の位置は伊那市の東の外れであり つまり飲料水は もう一度天竜川を突っ切るのである。何とも遠回りしているよ

          <水甕「もみじ湖」を作った箕輪ダム>

うに感じてしまうのだ。更に驚いた事に我が地域のそばにある「笠原配水池」(貯水量:5000立方メートル、一日最大排水量;10,000立方メートル)は市内で最大級の配水池と言う。これには この一帯“美すず地区”は河岸段丘の真上で水に恵まれていないこと、そして宅地造成による住宅の急増が巨大な水需要を引き起こした背景があるようだ。

所で前述の5市町村での1日平均水消費量は 51千立方メートルで、それを地下水(39%)、箕輪ダム(37%)、湧き水(20%)、表流水(4%)、伏流水(微小)で賄っているそうで 伊那谷の天竜川沿い低地では井戸水をポンプで汲み上げ、また蟹沢のような渓谷地では涌き水を集めて飲料水にしている地域が点在し、意外と“地下水の利用”が多いことを知る事ができた。           
           表流水=河川から直接引いている。伏流水=河川の下の地下を流れている水。)

<天竜川を跨ぐ水道の橋・箕輪浄水場へ> <もう一度天竜川を跨いで笠原配水池へ>
しかし一方で河岸段丘の上に載った地域は水に乏しくダムからの配水に頼っている訳だが、段丘の上に位置するここ六道原一帯が「笠原配水池」を介して 何と箕輪ダムからの配水量の凡そ20%を消費している勘定になる訳だが、何故に天竜川を二度も跨いでまで遠回りしてこの最大消費地に配水されているのだろうかと疑問を抱くのは私だけだろうか。

(参考:「上伊那広域水道用水企業団」のHPより)

    <湧き水・大清水(春日公園付近)>

しかしこの水の乏しい六道原が何と一面に水田が広がる“一大穀倉地帯”なのである。何故に水の乏しい所でお米が沢山取れるようになったのか?その疑問を解く鍵が 前出のH氏と週末の探索散歩を重ねて行く中で次第に解明されて行くのである。

この六道原の北 笠原という所に小彼岸桜の穴場があることを地元の人の話から知った。

早速 桜の時期に散歩の行程に組み入れその穴場を訪れる事となる。そこはまわるく土手が張り巡らされていて、

                                 <円筒形の笠原配水池・バックが六道の堤>

その土手にぐるりと桜の木々が植わっており、土手の内側は溜池となっていた。満開の桜が水面に映り その向こう遥かかなたに雪しかしこの水の乏しい六道原が何と一面に水田が広がる“一大穀倉地帯”なのである。何故に水の乏しい所でお米が沢山取れるようになったのか?その疑問を解く鍵が 前出のH氏と週末の探索散歩を重ねて行く中で次第に解明されて行くのである。

この六道原の北 笠原という所に小彼岸桜の穴場があることを地元の人の話から知った。早速 桜の時期に散歩の行程に組み入れその穴場を訪れる事となる。そこはまわるく土手が張り巡らされていて、その土手にぐるりと桜の木々が植わっており、土手の内側は溜池となっていた。満開の桜が水面に映り その向こう遥かかなたに雪をかぶった中央アルプス「木曽駒が岳」の霊峰が聳える姿は本当にすばらしい。しばらく土手を歩けば角度が変わって今度は背景に南アルプス「仙丈ケ岳」が入ってくる。

案内板の説明によれば 1849年 江戸時代の後期 内藤藩が高遠藩主であった頃、江戸幕府からの厳しい年貢の取り立てに対処すべく高遠藩が六道原の開墾計画に取り組み 藤沢川から水を取り込み 途中の鉾持神社の脇(鉾持参道)が急な崖の為、その脇の山の中にトンネルを掘って井筋を伸ばし 六道原に約八百坪の堤を造りそこを溜池とした。 そこから六道原の原野に灌漑用水路を張り巡ら  
          <桜と六道の堤・バックは木曽駒ケ岳>

し周りから住民を移住させて新田の村(末広村)が出来上がったと言う。全長凡そ10キロメートルの水路であるが着工から竣工までにわずか8ヶ月と言うから当時のそのスピードと技術力に驚かされる。一体どのように斜度を計測し、そしてどのようにして水のトンネルを正確に掘れたのであろうか。

しかし伊那谷には河岸段丘がこの美すず六道原だけではなく他にも沢山あり それぞれの段丘の上には美田が広がっている。「なぁ〜〜〜んでだろ? なぁ〜〜〜んでだろ?」という疑問が起こる。

その疑問を解き明かすのは、ここ伊那谷の地形と歴史が、そして人間の欲望と信州人の勤勉さがそうさせたのであり、それぞれの段丘で稲作農業を起こそうと先人達による心血を注いだ水路開削が繰り広げられて来たことが 伊那谷に残る数々の伝説や地元の人のお話から「なるほど」と納得するのである。

稲作の生命線と言われる農耕用水灌漑設備いわゆる“井筋”が如何にして現在の形、あたかも毛細血管が張り巡らされたように造られて来たかを その地形と歴史を通して辿ってみたい。

伊那谷はアルプスの山々に挟まれた地形とは言うが中央アルプスの向こう側 木曽川に沿った「木曾谷」と比較すると 切り立った山々に挟まれた木曾側に対して、伊那谷は広い平地が天竜川に沿って広がっている。従って天竜川に注ぐたくさんの支流に沿ってかなり昔からその川水を利用して水田が開けていたようである。

それを証明する『権兵衛峠』の話がる。元禄時代(1690年代)のお話。木曾側に住む“古畑権兵衛”さんが峠を越えて伊那谷に来ると伊那側の住人は真っ白なお米を食べていた。そこで権兵衛さん、稗や粟やソバしか食べられない木曾の人々にもお米を食べてもらおうと峠を馬や牛が通れる広さに拡張工事を敢行したそうだ。そうして木曾からは漆器や曲げ物細工を運び、伊那からは、お米や干し柿が運ばれ、多い日には千頭もの牛や馬が往来し重要な商業道路になったそうである。

しかし当時の水田は川水をそのまま田に引いていたわけで、大雨が降ればすぐに川は氾濫し一瞬にして田畑は流れてしまい、農民は耕しては壊されと絶えず自然との戦いを繰り返していたようだ。江戸時代の後期、年貢の取り立てが厳しくなり各藩主も藩財政の強化策として農地開墾、そして治水の整備に力をいれたそうだ。ここ伊那谷も例外ではなく新田開発がピークになったのは 1770〜1780年代(安永時代)であった事が駒ヶ根市に残る史料から分かるそうである。 
             
(参考:「伊那谷のこころ」小松谷雄 著、岳風書房)

各地で盛んに水田開発が行われるようになると、次は貴重な水の奪い合い“水争い”が多発するのである。天竜川に流れ込む支流はアルプスからの急斜面を一挙に流れ下る為に水量の増減が烈しく洪水や干ばつの被害が農民を襲い、水不足の度に川上の農民が水を一人占めにしたと川下の農民が怒り、また井筋を川上から川下に敷けば 水の取りすぎだと川上の農民が井筋の堰を勝手に閉めてしまい、引っ切り無しに川上・川下間で死傷者を出すような烈しい“水喧嘩”が繰り返されていたと言う。

このような水争いが各地で多発していた時代に生まれ、明治に入って自分の資産を投げ打って灌漑用水路を作り上げた男がいたことを知った。その名は『御子柴艶三郎』。
天竜川の西岸 現在の
JR伊那市駅のすぐ西側にある高台“上の原”地域に小規模ながらも灌漑用水の開拓を行なった人物であり、当時は藩や村の公的資金が投入されての大規模な開拓が主流であった時代に 住民個人の力で成し遂げた事業である所が凄い。『ベンチャー事業』の江戸時代版であり どの時代にも“アントレプレナー(起業家)”はいたのである。

御子柴家は室町時代からの旧家で艶三郎は7代目にあたる由。江戸時代から明治の世に変わっていくころ艶三郎は17歳の青春時代。きっと今と同じように“カオス(混沌)の時代”の真っ只中であっただろう。その青春時代 この“上の原”地域は水に乏しく頻繁に起こる水争いに艶三郎は先頭に立って暴れまくったという。艶三郎の農業に対する関心は強く 百姓が安定した収入が得られる道を模索し、養蚕業や豆腐製造にも挑戦するがどれも基盤とはなり得ず やはり農民を救う道は“米作り”だとの結論に達し“上の原”地域を安定した美田に作り上げようと情熱を燃やす。
    <上の原・横井の水源・ 指を指すH氏>

ある日、田んぼ作りをしている時、みごとな砂の層を掘り当て、この下には水の層がある証拠だと自信を深め それから毎年少しずつ農地を買い占めて行く。周囲の百姓は「なんでそんなことするのか」と首を傾げていたそうだ。艶三郎は密かに水脈や水路の研究を重ね、水路設計図を書き上げる。研究結果から推測される水路上に「縦井戸」を掘り、そこから「横穴」を掘り、70〜80メートル先にまた「縦井戸」を掘り これを繰り返して1本の用水路に仕上げて行く。この作業の為に艶三郎は自費で工事夫を雇い入れ農閑期に山からは丸太材を、川原から石を運んで凍てつくような冬でもこの井筋作業に心血を注いだ。このとき艶三郎 42歳。

その過程はすべてが順調に運んだ訳では無く、地盤が緩く穴掘りの途中で壁面が崩れ落ち恐れをなした作業夫が逃げ出したり、事業資金が底をついたり、周りの村人が「水なんか出やしない」と陰口をたたいたり、と苦難の道のりであったようだ。艶三郎もそのストレスにたまらず大酒を飲む日々が続く。 そんなある日、大きな水脈にぶち当たり水はこんこんと井筋を流れ始めたのである。すると村人は手のひらを返したように今度は艶三郎の灌漑作業を手伝ったり、土地を提供したりでこの事業は成功の兆しが見え始めてきた。当然艶三郎は村のリーダー角にのし上がり その地域の区長に選任されてしまい 一挙に野良仕事に加え灌漑事業の世話、そして区長としての公の仕事と超多忙人間となってしまうが しかし艶三郎の肩に掛かった借金の額だけは決して軽くなる事はなくずっしりと負いかぶさり続けていた。それでも艶三郎はこの事業の最後の仕事に取り掛かるのである。井筋を流れる水量が増えて行くに従い このまま簡単な構造の水路では立派な開田には繋がらないと考え、今がチャンスと更に事業の大型化に挑戦するのである。その為には新たな資金が必要になり 融資を求めて“銀行”説得に奔走するのである。

日本は明治に入って円・銭・厘を単位とした金本位の貨幣制度が作られ渋沢栄一が中心となり国立銀行条例が制定され(明治5年)商人、地主や華族・士族などの資産家が私立銀行を設立、各地に銀行が増えて行ったと言う。艶三郎はいち早く時代の変化を察知し その変化から生まれる新しい機能を経営に取り込み 事業拡大を計るその才能には驚嘆させられる。

銀行側は 艶三郎の私欲の無い事業計画と その事業の確実性を見届けると積極的に融資を受けてきたと言う。しかし艶三郎の体は、すでに病に蝕まれており 48歳の冬、「自分の仕事は終わった」と自宅にて首を切り壮絶な死を遂げるのである。
ビックリした家族が真っ赤な血に染まった艶三郎を囲むと、艶三郎はかっと目を見開いて「何を騒ぐのだ。泣くやつがあるか。涙など流すでない。おれは死なないぞ。おれは神になって生きているのだ。」

  それからおよそ100年、現在でもこの“上の原”段丘には豊富な水が流れ、

                                  <艶三郎の霊をまつる祠・水神宮(上の原)>

水田にはみごとに稲穂がたなびいている。こうして艶三郎は地元の人々に『水神様』として慕われ、近年にはこの地に中学校・高等学校が建てられ そこでの用水にも利用されていると言う。   

                       (参考:「御子柴艶三郎」宮下慶正 著 岳風書房)

井筋は江戸末期から明治に掛けて こうして河岸段丘の上に盛んに開拓されてきた経緯を知ることが出来たが、実は昭和の時代に入って更にこの地に一層灌漑用水路を整備した時期があり、その結果として現在の毛細血管を張り巡らしたような用水路ルートが出来上がったのである。それを知ったのもH氏との週末の探索散歩にて とんでもないものを見つけてしまうからである。

あれは野辺から汚れ気味の残雪が消え、畦道には春の到来を告げる花々が次から次へと咲き始める私の一番好きな季節の出来事だった。H氏との探索散歩には 私はいつも小さな手帳とボールペンを携帯して出かけるのである。H氏は『お花辞典』のような方で、田んぼの畦道を歩いていると「この土から顔を出しているのが春を告げる“クロッカス”、そして あれが“福寿草”です。」「このかわいいのが“姫踊り子草”ですよ。」「あの群生しているのが“仏の座”。」のごとく散歩を楽しみながら 同時にH氏から花の解説が聞けるのである。すぐにそれらの花名を私は覚えられないので、その都度 記録するために手帳は欠かせないのだ。

そんなある日曜日、H氏が「手良の近くに有る鎮守の杜の所で こんこんと水が湧き出ていて そこから田んぼに配水している結構大きな“井筋”を見つけたのですよ。しかしどうしてあんな所に水が湧き出ているのか不思議です。」私はその一言に「ううっ!」と唸り「ぜひそこに連れて行って下さい」とお願いし 一瞬にしてこの日の散歩のコースが決定されたのである。30分ほどでその鎮守の杜に到着、コンクリートで固められた四角い井戸のような所から確かに水がドクドクと湧き出て来ており、横から覗くと中は真っ暗で 何か吸い込まれそうで不気味な感じ。二人で周りを見渡すが どこからも流れ込む水路も無さそうで、むしろそのコンクリートの周りは逆に地表レベルがだんだん低くなっており、とにかく湧き水としか考えられないような地形なのだが、こんな所で勢い良く水が湧くのも信じがたい。不思議だ!

そこから流れ出る水の井筋に沿って暫く歩くと真っ黒に日焼けしたお百姓さんに出会う。相手も朝早くから大の大人二人が何ゆえに井筋に沿って歩いているのかと奇妙に思ったであろうが、とにかく思い切って聞いてみることにした。
「おはようございます。今あそこの鎮守の杜の所で水が湧き出ているのを見て来たのですが あの水はどこから流れ込んでいるのですか?」
するとお百姓さんが「あれかね。あれは あの先の谷の向こうに民家が見えるだろう。その脇から来ているのだよ。」
  <手良のサイホン原理利用の出水口に立つH氏>
そこで我々が「それはおかしいな。一旦谷を下ったら その後 水が坂を上がって来るのはへんですよ。ポンプか何かで汲み上げているのでか?」するとその60歳代のお百姓さんの口から 「サイホンの原理だよ。サイホン!!」
二人は「ええっ!!」と絶句して顔を見合わせた。お百姓さんの口から『サイホン』という単語が軽く出た事が大変な驚きであった。サイホンと言えば平素“コーヒー沸かし器”ぐらいしか思い浮かばないのだが、農業の世界でサイホン原理を応用しているとは私にとっては一大発見であったのだ。

それからと言うのも、H氏も私も散歩といえば その井筋の川上は?そして川下は?と井筋に沿っての探求散歩になったのである。その結果 段丘の入り組んだこの地域ではあちこちでサイホン原理を利用しながら配水している場所を見つける事が出来た。そして何度かの散歩を繰り返しながら井筋を遡って行くと 水路は一旦三峰川(みぶがわ)を渡り 最終的にこの灌漑用水路は何と高遠ダムで作られた高遠湖の脇にまで繋がっていることを知った。つまり高遠湖の水が ここ六道原の広大な稲田に配水されていたのである。

                                  <三峰川を渡る用水路(ブルーの部分)・虹橋>

6月に入り我住処の庭の“山法師”の木々に白い花が満開になる頃は 田んぼを訪ねる機会が極端に少なくなる。それは梅雨に入って晴れの週末になかなか恵まれないからだが、久々に晴れ上がった平日の朝、散歩に出た。いつも歩く畦道の脇でアルプスの山々を見ながら大きく手を広げラジオ体操をしていた時、自転車に乗ったお百姓さんが近づいて来た。これまでにもこの時間帯に畦道で何回かすれ違い「おはようござます」とお互いに声を掛け合っていた人である。私が体操をしている間に 自転車を降りスタスタと畦を歩きながら田んぼの水取り口の所にしゃがみ込み 井筋からの入水を調節しているようだ。2つ3つの田んぼを一回りしてこちらに戻って来た。
すかさず私は「おはようございます。ご苦労様です。」と声を掛けると、「朝早くから精が出るね。良く毎朝歩いているのう。どこにおられるかね。」と聞かれ簡単に自分の仕事と所在を説明して早速質問を投げかけた。
「毎朝水田を回って水をチェックしておられるようですが、相当広い範囲を回っているようですが ずいぶんたくさんの畑をお持ちなのですね。毎日 朝早くから大変でしょうね。」
「私かい。私はこれが仕事なのだよ。一日4時間位かけて皆の畑の水量をチェックするのが仕事さ。“水番”という仕事でちゃんと給料を貰っているよ。」 
「それでは大変に責任の重いお仕事ですね。何かの事故で水枯れでも起こせば責任重大でしょう?」 
「そんな心配はいらん。わしは昔から野良仕事しておるから間違いなど起こさんし、いたずらして行くヤツもおらんしな。」
「ところで今年の冬はこの辺一体の井筋の改修工事をしていましたね。そもそもこの井筋は何時頃作られたのですか?」
「“サブロク(36)災害
**”のあった昭和36年にこの辺一体が国から予算が出て農業基盤整備が行なわれれたんだよ。その時期にこの井筋が完成し それからこの辺の農家も皆んな米作りに走った訳さ。」
  **36災害=昭和36年6月、梅雨前線の停滞から始まった雨が台風接近と重なり
        飯田市付近の天竜川が氾濫、堤防決壊などにより大被害をもたらす。

口にタバコをくわえ昔を思い出すように遠くを眺めながら にこにこ話をされるその姿から私は何とも”爽やかさ”を感じていた。「それでは 又」と、お互い別れの挨拶を交すと自転車は再び畦道を走り出して行った。気になっていた“井筋・高遠湖ルート”の完成時期の“答え”を思いがけない所で得る事が出来て その帰り道は何時にも無く心がはずんでいたのである。

週末のH氏との“六道原・井筋探求調査”はおよそ3ヶ月続き、井筋の“六道の堤ルート”と“高遠湖ルート”がどのようにそれぞれの棚田に配水ネットワークを張っているかを凡そ掴む事が出来て私には大きな収穫であったと思う。六道の堤ルートは 藤沢川のせせらぎから水を取り込んでいるので いつも澄んだ水なのだが、高遠湖ルートは長谷村方面から流れ込む三峰川の水で相当の土砂を含んでいつも乳濁色をしている。この散歩調査の後は、畑の畦を歩きながら「この井筋は水が澄んでいるので六道の堤から来ているのだ。」と井筋の水源をジャッジ出来るようになり、二人して“井筋通“になった気分でお互い自己満足しているのである。

かくして河岸段丘上の田棚を毛細血管のように走る“井筋”がどんな過程を辿りながら作られてきたのかを知ることが出来た。 江戸後期「暴れ川」が井筋の必要性を促し、「幕府の年貢アップ」が治水網の拡大に繋がり、昭和に入って「サイホン技術」を応用した灌漑整備 そして「自然災害」の後の農地整備と時代時代のうねりを辿りながら現在の『毛細井筋』が作り上がったのである。

8月になると棚田は黄金色に姿を変える。朝早く田んぼからは大きな爆発音が引っ切り無しに聞こえて来る。この頃、畦道を散歩している最中に 破裂音を発する『すずめおど

                                          <六道原の毛細井筋> 

し』の機械が設置された田んぼの側を通過する時は“心の準備”が必要なのである。何故なら数分間隔で鳴るその巨大な破裂音は我が心臓を「ドキッ!」とさせるからである。そこで「すずめおどし」が仕掛けられた田んぼに近づいたら一旦足を止め、まず1発が鳴るのを待って、次の1発が鳴るまでのその数分間の間に その田んぼを通過してしまえば心臓への負担を小さく済ます事が出来るからである。

 

この時期の毛細井筋には 春のドクドクと流れる水の勢いはすでに無く、今にも止まってしまいそうな僅かな水量が静かに流れている。そして9月に入ると毛細井筋の水はピタリと止まり、畑の周りには「すすき」が群生しはじめ、風に黄褐色の穂をなびかせている姿は秋の到来を感じさせる。


間もなくすると田を覆う黄金の“みのり”の刈り込みが忙しく始まるのだ。

半年間の活動を終えて冬眠に入った“井筋”は秋の虫たちのコンサートホールに変っていた。

『涸れ井筋 

  枯葉中から 

      虫の声』


                <すすき群と秋の空>

   

<完>   

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