●●第3日目 (5月4日【木】 =国民の日=)上村から地蔵峠を経て大鹿村へ

朝5:35、伊豆・伊東に旅している友人O氏からの携帯電話で目が覚める。「もう起きているかね。私は今一人で山を登っているところ。あまりこちらは天気がよくないが、そちらはどうかね」と聞いて来る。早速床から起き上がり窓のカーテンを開けると、こちらは突き抜けるような快晴でこれで3日間すべて上天気である。O氏は毎日電話をくれているが、私が途中で迷子になっていないか、
疲労で倒れていないか、と心配で電話してくれていると言う。本当に有難いと思う。まだ朝食にはチョット早いかと床の中で地元の“龍渕寺(りゅうえんじ)”が発行している新聞をぺらぺら捲っていると、そこに書かれている記事にいつの間にか引きずり込まれていた。この新聞は龍渕寺の住職によって書かれているのだろうと思われるが、そのトップ記事の題目は大きな活字で【七十兆分の一の確率】と書かれていた。この記事は「相田みつを」さんの「いのち」という詩で始まっている。
【朝の「かぐら山荘」】

『アノネ、にんげんはねえ 自分の意思で この世に生まれて きたわけじゃねんだなだからね、自分の意思で勝手に死んでは いけねんだよ 』

そして住職の文章が続く。「相田さんの指摘するように、自分の意思で生まれてきた者はいません。それに今、規則正しく脈拍を打っている心臓は、起きている時も眠っている時も、自分の意思とは関係なく働き続けています。生かそう、生かそうと働き続けているこの精巧な生命の設計図を私たち一人ひとりは天与の宝物として授かっています。」そして次に村上和雄博士(生化学者)の話を交えて「今、生命あるはありがたし」を説法しています。「生き物が生まれてくる確率は、1億円の宝くじに百万回連続して当たるくらいのことです。因みに年末ジャンボ宝くじの当選確率は1千万分の1と言われるのですから生命誕生は天文学的な確率です。私たちの遺伝子の中のDNAには46の染色体があり、父23と母23の染色体の組み合わせは実に70兆あると言われます。つまり70兆分の一があなたの命であり、私の命なのです。私の命は実は自分固有の命ではなく、親の命、先祖の命を生きているのです。これを“妙高の糸”と言います。どれだけ科学が進歩しても、どんなにお金を積んでも私たちの生命を買うことができません。」

自分が常日頃興味を抱いていたことが書かれているように感じてついつい読みふけっている時に突然電話が鳴り朝食が出来た旨の連絡が入り、慌てて床から飛び起きた。朝食を取りながら「よし、龍渕寺に途中で寄ってみよう」と決めた。2泊目のここ「かぐら山荘」は出来たてほやほやの感じで施設は何もかもが真新しく、働いている人々がまだ不慣れで一つ一つに一生懸命なのがこれまた新鮮な感じで心温まる。美人の女将さんは「ふるさと南信濃 親善大使」とのことで、このロッジ経営は名古屋から自分の生まれ故郷に戻って夢を実現させましたと話されていた。女将さんに昼食のおにぎりをお願いして、8時いよいよ3日目の一人行脚がスタート。おや? 足の動きが軽快である。昨晩の「かぐらの湯」の効果であろうか。

連休中の早朝だからか遠山郷・和田の町には人はまだ少ない。時々庭を掃いている人、商店の扉を開き始めた人に会うと「おはようございます」と挨拶を交わす。「魚釣りかね?」と聞いてくる人がいるが、これはきっと私のリックの脇から折りたたんだ登山用杖が飛び出しているので、これが釣竿にでも見えるのだろうか。龍渕寺は町の中心部、“和田城”の隣にあった。目の前に急な石段が現れ上の山門にまで伸びている。鬱蒼と生い茂る杉木立の中を100段以上は有ると思われる急な石段だが、初っ端からのハードな登りに直面してため息がでたが、気を取り直して一段、一段登り始めた。山門をくぐり本殿前に来ると掃除をしているお坊さんに出会う。「おはようございます」と挨拶を交わすと、お坊さんから「どうそ、そこのお釈迦様に甘茶を掛けてお祝いしてください」と言われ、あっ!そうだ、今丁度「花まつり」なのだと気づく。本殿の前に置かれたかわいらしいお釈迦様の像に小さな柄杓で甘茶を掛けて、早速話し掛けた。「あの〜〜ぉ、私は“かぐら山荘”に一泊したのですが、そこにあった【龍渕寺だより】という新聞を読ませて頂き、その内容に感激して是非お寺に寄ってみたいと思いやってまいりました」と言うと、「あ、あれは私が書いているものです。月に一回発行し遠山郷の人々への情報発信源となっています」とのことで、なんとお会いできたのは龍渕寺の住職さんであったのだ。それから新聞で感激した内容を話し合っていると、「この寺には“相田みつを”さんが創ってくれた詩があります」といってその石碑がある場所に案内してくれた。そこには『かんのん賛歌』という表題の詩が書かれていた。

『アノネ かんのんさまが みてくれるよね 

なにもかも みんな承知でね

かんのんさまが みていてくれるよ いいわけや 

べんかい なんかしなくてもね

かんのんさまが ちゃんとみていて くれるよ 

                      みつを』

『かんのん賛歌』
8:25 お寺の裏から斜めに民家の裏庭を抜けて町に向かって下りてゆくと国道152号線(秋葉街道)に出る。和田の町を過ぎると国道は遠山川の蛇行に沿って次第に登り傾斜を強めてゆく。たくさんの自家用車や商業車、そして大型のトラックやダンプに抜かれながらただただひたすら歩くのみ。しかし次第に川は渓谷の下の方に離れて行き、切りだった山と山の間の遥かかなたにさっき歩いた国道が小さく小さく見えている。「あ〜〜ぁ、あそこから歩いて来たのだ!」とすごい満足感が体全体に走る。そして「私を抜いていった沢山の車よ! それに乗っていた人々よ! 残念ながらこの満足感は体験できね〜〜ぇだろう。ちゃんと、“かんのんさま”は みていてくれて 一人行脚の自分にご褒美を与えてくれるのだ」なんて独り言をいっていた。
遠山川に沿って次第に深い渓谷に
今登って来た国道が遥か彼方に
暫くすると国道は上り詰めて平らな地形になるが、民家もポツポツ現れ始め、“大島”と言う名のバス停に辿り着く。バス停の前には南アルプス「池口岳(2392m)」への登山道入り口の看板が立っていた。バス待合小屋に入って一休み(9:00)。周りにはお茶畑があり、この辺は茶栽培の北端にあたるそうで“明石銘茶”と呼ばれて人気が高いという。しばらく進むと国道は“小道木橋”を渡りまた登りに入る。その橋の袂に“同祖神”の石像が立っていて昔の街道の面影を今に残している。暫く道に沿って上ってゆくと突然「気の出る神社 熊野神社」と赤字で書かれた大きな看板が目に飛び込んでくる。鬱蒼とした杉木立の中に神社本殿があるが、その脇に“遠山”で有名な「霜月祭り」を行うための神殿が建っていた。神殿の中はだだっ広い土間で中央には竈(かまど)があるだけの単調な構造で、毎年12月初旬の「霜月祭り」の際にここであの「湯切り」の儀式が行われているのだ。このお祭りは江戸時代に遠山土佐守一族が滅ぼされたが、その死霊を鎮める儀式として現在まで伝わっているそうで、この祭りの日に村内の神が全国から集まってきた神々に湯を捧げてもてなすと言う。村人が自分で作ったお面を被って神に扮し竈の周りを踊りまくっている時に禰宜(ねぎ)が素手で煮えたぎった湯を神に向かって振り掛ける。これが「湯切り」という儀式だそうだ。こうして神の舞が夜中まで続くと言う。
「明石銘茶」の茶畑
小道木橋の脇に「同祖神」
気の出る神社「熊野神社」
「霜月まつり」の行われる社殿
熊野神社を後に暫く国道を歩くと道路際に「木造校舎」の案内看板がやけに多く目に入り気になる。よしチョットと訪ねてみるかと国道から折れて木沢の旧道に入った。すぐに昔ながらの木造校舎と校庭が見えてくる。校庭には大きな鯉のぼりが吊り下げられており一見文化祭のような雰囲気だったが、人気は全く無くひっそりとしたたたずまいだった。校舎の中に入ると、空気はひんやりとして、ちょっとかび臭いような、そして薄暗い廊下と教室は時間が止まっているような錯覚に陥る。木沢小学校は児童数の減少により廃校となったが、この木造校舎を復活し、甦らせたいと願っている住民や南信濃村観光協会が後援して校舎の活用法を思案しているようだ。しばし教室の小さな椅子に腰掛けて黒板を眺めていると ふっと小学生時代に戻れたような不思議な感じになっていた。窓の外には真っ青な空に大きな鯉のぼりが悠々と風にたなびいていた(10:00)。
木造校舎(旧木沢小学校)
懐かしい小学校の教室
旧木沢小学校を後にしておよそ40分ほど歩くと突然広い平地になり神社の社殿のような格好をしたドライブインが現れた。そこは「梨元ていしゃば」と書かれており広い駐車場の脇には遊園地を走るような“汽車ポッポ”が置かれている。ドライブインの名前といい、汽車ポッポといい、何かいわれがありそうで興味津々にドアを開けて中に入った。中は今開店したばかりの様子でテーブルを整えていた男性に「すみませんが、コーヒーだけでもOKでしょうか?」と頭を下げて申し訳なさそうに問いかけると、「かまいませんよ。山登りですか?」と聞いてきた。自分が塩の道・一人行脚を続けていることを説明しているところにコーヒーが運ばれてきた。話をしている途中でこの男性がこのドライブイン運営管理組合の理事長であることが分かったので早速私から質問を返した。「なせ“ていしゃば”という名前なのですか?」と訊くと、「1970年代 ここは材木を運ぶ森林鉄道の終着駅つまり停車場だったのだよ。第二次世界大戦の最中、昭和15年に軍用材の搬出を目的に着工された森林鉄道で昭和40年に入ると「木材景気」でこの“遠山森林鉄道”も最盛期だった。ほら、こっちへ来てこの写真を見てごらん。」食堂の壁に掛かっていた写真はこの地が「梨元貯木場」と言う名の森林鉄道の終着駅として繁栄していた時代を写していた。そして終戦と共にこの鉄道の本来の役割を終了し木材景気も去った後は、暫く南アルプスの聖岳(3013m)や明石岳(3120m)への登山客の搬送に利用されたが昭和48年に軌道が完全撤去されて30年余の歴史に幕を降ろしたとのことである。そしてその森林鉄道の資産が現在はドライブイン経営の形で残されているのだと説明されていた。
ドライブイン「梨元ていしゃば」
「遠山森林鉄道」の残された姿

さらにこのM理事長とはさきほど寄ってきた「木造小学校」の話しへと発展して行った。「さっきこの下の旧木沢小学校に寄ってきましたが、皆さん 何とか木造校舎をそのままの姿で残しておきたいとして努力されているようですね。本当に昔のものは何か心温まるようで、鉄筋校舎よりロマンが有りますよね」なんて言い出すと、M理事長はちょっと顔色を変えて、「じょうだんじゃね〜〜ぇ! あんなもの早く処分して欲しいと言っているのですよ」と穏やかな話ではない。続けて「あんな形で置いておくとその維持費が大変だ。それも我々の税金で補助されている。そしてもし不審火で火災でも起こしたらどうするのだ。もっと怖いのは、もし地震でも来てあの校舎がペチャンコになったとき、丁度見学に来ていた来訪者が下敷きにでもなったら誰がその責任を負うのかね! 恐ろしいことだよ。早く処分すべきだと思うよ」と最後の言葉に一層の力を入れていた。この小さな山奥の村も保存派と処分派で二分しているそうで ちょっとショッキングな話だった。

M理事長との熱の入った話に没頭し、あっという間に小一時間が経ってしまっていた。慌てて靴を穿きリックを背負って、気持ちを切り替えて炎天下の国道に出た。「しまった、ちょとばかり予定より時間を消費してしまった」と一人反省をしながらいつもよりはハイピッチで歩き“中根”の集落に来ると「しもぐりの里」入り口の大きな看板があった。ここから南アルプス易老岳(2354m)や聖岳への登山口でもあるようだ。炎天下の国道をひたすら上村川に沿って歩く、歩く。

次第に民家も増え始め酒屋、公民館、学校が現れて“上村”の集落に入ったことを確信させた(11:45)。しかし一方でお昼が迫っているのにまだ上村地点を歩いていることは、今日中に地蔵峠を抜けて大鹿村まで歩いて到達するのは明らかに物理的に無理では無かろうかと不安が襲い始めていた。一直線に伸びた国道の先のほうにバス停らしき物が見えてきた。「よし、このバスを利用して地蔵峠登り口の下“矢筈トンネル”の側まで行けば何とかなりそう」と判断してバス停の時間表を覗き込んだ。なっ!なんと次のバスは14:12となっている。
【しもぐりの里 案内看板】
これでは全く利用の価値が無い。よし、もう少し歩いてとにかく上村の中心部に行けばお店や人家があり何とかなるだろう、と考え気を取り直して歩き始める。すぐに“上村駐在所”が有ったが中には誰もいない。周りを見渡しても真昼の炎天下、全く人がいないのである。上村小学校・中学校のところに来ると、道は二手に分かれており、ここで国道から左に入る旧道のような道を選ぶ。理由はこちらの方が民家が密集して人気が有りそうと判断したからだ。
上村川を跨ぐ橋を渡って、旧道に入るとすぐに民家の軒先に日本の国旗が掲揚されていた。あっ!そうか、今日は旗日で「国民の日」なのだと気づく。しばらくその細い路地を進むと右手に【タクシー】と書かれた看板がありその下に黒塗りの車が1台停まっていた。多いに希望が湧いてきて、夢中でその看板の下のお店のドアを開けた。その店は洋品店だった。ワイシャツやネクタイそして下着類が積み重ねられていたが、何かそれらの商品がこの静寂な集落に不釣合いのように感じた。「すみません。ごめんください。あの〜〜ぉ、タクシー借りられますでしょうか」と大声を上げると、奥の方から
【炎天下の上村のバス停】

「ちょっと、待っててください」と声が返ってきてホットする。暫く待つと洋品店の奥様風の女性が出てきて、「今、車出しますから」と笑顔で対応してくれた。ガラス戸越しに外を見るとダンナ風の男性が黒塗りの車のエンジンを掛けていた。

タクシーは国道に戻って上村川に沿って北上した。計画では歩いているはずの道を今は車のシートにドッカリと座り込み、風を切って車が爽快に走っていると、「あ〜〜〜、よかった。これで計画より遅れ分を一挙に取り戻せるぞ」と自分に都合の善い様に理由付けしていた。タクシーの運転手さんは、自分から喋り出す性格の方では無いようで私から話しかけないと話題は続かない。それでも旧道の洋品店があった集落は“上町”と言う地名で昔“宿場”であったと聞き出した。暫く走ると「中郷トンネル」工事現場に差し掛かり片側車線交通規制を行っている。工事現場は一部掘り起こされて道は

細くなっており、もしここを歩いていたら相当苦労したであろうと思われ、そして中郷トンネルの暗闇の中では体をスレスレに通る車がどんなに怖かっただろうと、タクシーの車窓から眺めながら「ゾ〜〜ッ」としている自分がいた。タクシーには地蔵峠登山口にあたる“大島河原カントリーパーク”まで運んでもらった。この公園はオートキャンプ場となっており、多くの家族連れや若者仲間がキャンピングカーで来てテント生活を楽しんでいるが、丁度昼食時と重なりどこのグループからもバーベキューの煙が昇っており食欲をそそる匂いが鼻をくすぐった。さぁ! 私も「かぐら山荘」の女将さんが作ってくれたおにぎりを食べようと、テーブルの上にリックを降ろした。
【上町の入り口 左の民家に国旗が】
やはり手で握ってくれた“おにぎり”は形が大きくコンビニで買う物とは一味違う。脇に付けてくれた“たくわん”と“梅干”が更にうま味を増してくれる。2個をペロリと平らげるとテーブルの脇の芝生に大の字に仰向けになる。真っ青な空が美しかった。うとうと眠りに誘われると、側で子供の大きな声で目が覚める。私の脇に飛んできたサッカーボールを拾いに来ていたのだ。時計を見ると13:40。これから険しい登山道に入って行くわけだが、その前に”地蔵峠“の状況を聞いておいた方が安全と思いオートキャンプ場の管理事務所を訪ねた。「すみませんが、これから地蔵峠に登るのですが、素人の私でも迷わないように道は大丈夫でしょうか」と管理人室の人に聞くと、最初は私の体格好や身なりを上から下まで眺めながら、「まあ、木に赤いテープでマーキングしてあるから、それに沿って行けば大丈夫だと思うよ」と言う。ちょっとばっかり不安になったが、地元の主が「何とかなりそう」とジャッジしてくれた事に誇りを感じて「よし、挑戦だ!」と一人登山道に入っていった。上村川の渓流に沿って登山道は緩やかな登りになっているが、アスファルトが引かれており車も登れる道幅で、これなら何も心配はいらないと一安心。
時々渓流に沿ってピンク色に花を咲かせているミヤマツツジが綺麗だ。暫く行くと道は広がり大きな駐車スペースとなっている場所に出た。2台の車が停車していてその車の向こう側、河原のところでパラソルの下に長椅子を出しその上でビールを飲みながら歓談しているグループが居た。車の横を通過して登山道に行こうとするが道がどこにも見つからない。「おや? 行き止まりなのか。それとも道を間違えたのだろうか?」と不安が襲って来たが、側に人が居てくれてよかったとホットする。早速パラソルに近づいて行くと向こうから話し掛けて来た。
【地蔵峠前のキャンピング場での昼食】
「沢釣りに行くのですか?」そこで私が塩の道・一人行脚中でこれから地蔵峠越えに入るところですと説明すると、「えっ! この先に行く道が有るのですか?」なんて逆に聞かれて益々心細くなる。不安になりながら河原をグルリと360度見渡すが道らしい道はどこにも見当たらない。「おや!」対岸の上流のず〜〜っと先の方の小さな木に風でヒラヒラ動いている赤いテープのようなものが見えた。目をこすって何度も確かめるが確かに赤い何かがある。長椅子で寝そべっている人にも確かめてもらうと間違いなく赤いテープだと言う。私は決断して目の前の小さな木片の橋を渡って対岸に出て、ず〜〜っと先の赤いテープを目掛けて歩き始めた。
いよいよ地蔵峠への登り
先に道が無い、遥か先に赤いテープが!

沢伝いに赤いテープを頼りに歩いて行くが、人はだあ〜〜れも居ない全く孤独の世界であった。コケが張り付いた岩、濁流に流されて岩に引っかかっている枯れ大木、そんな物騒な河原を一人で歩いていると、ちょっとした音や動くものが不気味で恐ろしく感じるのだ。

本当にこれが“塩の道”なのか? 秋葉街道なのか?昔の人はこんな道を歩いて本当に塩を運んだのだろうか? 信じられない! 暫くコケ岩や枯れ大木の間を進んでゆくと水が滝つぼに落ちているような音が聞こえてくる。ズ〜〜ット先に大きな壁みたいなものが現れ、その壁を上から水が滝のように落ちているのが見えた。その側に黒く動くものを感じた。「ドキッ!」何か動物か、熊なのか、一瞬体全体に恐怖が襲いブルブルっと身震いをした。確かに動いている。少しずくこちらに近づいて来るようにも思える。向こうもこちらに何かが居ることに気づいたようで、のそりのそりと近づいてくるように見える。そ〜〜っと岩陰に隠れて恐る恐る顔を上げて先方を観察した。何とそれは砂防堤防の上から落ちる滝の下で釣り糸を上げたり下げたり位置を変えている“いわな釣り”の人だった。「こんにちは」と声を張り上げて彼に近づいて行くと 彼も一人歩いている私の姿を見てビックリした様子だった。

砂防堤防のそばに何かが?
左に「いわな釣り」が、この急斜面を登る

私はリックを岩の側に降ろし“いわな釣り”の姿を眺めていると、彼が私に近づいて来た。

「たくさん捕れましたか」と聞くと、「まあまあですな」と言いながら魚篭(びく)の中を見せてくれた。覗くと腹の部分が赤く色づいて背の部分が濃く黄緑がかった“いわな”が20cmくらいの大型から10cmくらいのものまで5〜6匹ほど入っていた。そして彼も釣り竿を水面から上げて私の脇に腰を下ろして休憩を取り始めた。彼は地蔵峠から沢を下りながら釣りをしているそうで私とは逆ルートを歩いている。下りてくる途中で彼が河原で見つけた“鹿の角”を私に見せてくれた。「ここからチョット上の河原の水の中に落ちていたものですよ。これは鹿が自然に落とした角で“縁起物”ですよ。あなたにあげましょう」と差し出す。私は突然の贈り物に「いや手荷物を増やすと危険ですから」とか言って辞退するが、彼は「なに、そのリックのポケットに差し込んで行けば大丈夫ですよ。

これからの難所を守ってくれるかもしれないよ」と薦められ戴くことにした。鹿の角を手にして記念写真を撮った。しかし私は彼の言った“これからの難所”の一言がが気になっていた。そもそも自分はもう相当歩いたので きっと地蔵峠はすぐこの上近くにあるような期待で彼に、「この先 まだまだ地蔵峠までは大変なのでしょうか?」と問い掛けると、「これからが大変だよ。これからいくつかのこのような砂防堤防があるが、その脇を抜けて行くのだが、結構これからの上りはキツイよ」という。そこでビックリした私が「ところでそこの砂防堤防の脇のあの急斜面を登るのですか?
【鹿の角を戴き記念写真】

これ本当に秋葉街道ですか?」と聞くと 「そう、とっても崩れやすい地盤だから注意して登りなさいよ。そこの上に出ると次の堤防が見えて来ますよ」という。この残酷な情報はこれから一人で大丈夫なのだろうかと多いに不安にさせた。

いくつの堤防の脇を通過しただろうか。急斜面を走る崩れそうな砂質の道は緊張の連続である。切りだった沢では一挙にこの急斜面を上がってしまえと、ずり落ちないように足元を見ながら一歩一歩登り、少し平らになった場所に来ると「よいしょ」と背を伸ばして一息入れて また足元を見ながら急斜面登りの繰り返し。 何回目かの一休みの後 さあ歩こうかと先を見ると「あっ!」次の行く道がどこにも見当たらない。360度見渡してもあの赤いテープがどこにも無い。 きっと勝手に判断して急斜面を足元だけ見て登って来てしまったので本来の道から外れてしまったのだ。「どうする?どうする?」と自分に問い掛ける。今登ってきた急斜面をさっき有った赤いテープの所まで戻るか、それとももう少しこの急斜面を上がって緩やかな斜面に出てしまおうか、とかの考えが頭をかきめぐる。最終的にはリスクを最小限に抑えようと今上がってきた沢伝いに赤いテープの所まで下りる事にした。この下りるのがまた怖い。ズルズルと足元の地肌が崩れ、一歩間違えば10〜20m滑り落ちてしまいそうで、そして捻挫でもしてしまったら誰が助けてくれるのだ、なんていう恐怖が頭をよぎる。赤いテープの所に戻って回りを見渡し次の赤いテープを見つけた時には「あ〜〜ぁ、助かった!」と胸を撫で下ろした。そしていくつ目かの堤防の脇をよじ登ると目の前に広大なる石ころの河原が広がっていた。ゴロゴロと真っ白な石が広がる平地はあたかも「賽の河原」のように思えた。だぁ〜〜〜〜れもいない、全くの別世界に舞い込んだようだ。

ただただひたすら赤いテープを探しながら
急な道無き道、赤いテープが見えますか?
どこに道がありますか?
滑り落ちたらどこまでもズルズルと!
その平らな広い平地に辿り着いて緊張が解けたせいなのか、途端に腹が排泄したいと我が脳細胞にシグナルを送って来た。周りを見渡し誰もいないことを確かめ、そして山の神様に祈りを捧げて許しを得て、日陰となっている石河原のコーナーに石を重ねて「即席便器」を作りそこで排泄作業をさせて頂く。静かな世界だ。鳥の囀り、河原のせせらぎの音、そして排泄のごく自然な健康な音、何と平和な瞬間だろうか。排泄欲の正しい処理の後は晴れ渡る空のようにスッキリ気分となり体全体に満足感がみなぎった。作業の終了後その周りに沢山ころがっている石ころをその現場に覆いかぶせて何事も無かったように元の自然の姿に戻した。13:45「さあ、峠はもうすぐだろう」と元気を振るい立たせてリックを肩にしょった。リックのポケットからニョッキと出ている先の尖った「鹿の角」が何とも強さの象徴のように思えて勇気が湧いてきた。細いせせらぎに沿って登り始めると 道の脇に小さな【秋葉道・塩の道】の道しるべが立っていた。すると突然腹だたしくなってこう叫んだ。「ふざけるなよ!これ本当に秋葉街道かよ? 昔本当にこんな悪路を通って塩を運んだのかよ? こんな平らなところに案内板を掲げるのではなく、あの急斜面の道無き道のような所に立てて欲しいよな。苦しみながら登っている人々に道は間違っていないよと勇気を与えるために。」
「賽の河原」に出る
一人静かに排泄処理の場
こんななだらかな所に道しるべ〈右下)
上に車道のガードレールが見えた
暫く平坦な沢を登ってくると目の前にまたまた急勾配の壁にぶち当たる。上の方を見上げると白い色の自動車のガードレールのような物が見える。「しめた! やっと地蔵峠が近いぞ」と独り言が出た。急斜面を一歩一歩上がって行くと、その斜面上には捨てられた魔法瓶、カセットラジオ そして懐中電灯などが転がっている。きっと上を走っている国道152号線から投げ捨てられたのであろうか。人間が作った悲しい姿である。山の尾根のようなところに出ると、そこにはお地蔵さんの小屋があった(14:10)。ここが地蔵峠(1314m)で鬼面山(1889m)への登山口となっており、すぐ側に国道が大きく迂回している。しかし青崩峠とは違ってここには“すばらしい眺め”は全く無い。さあ、これからくねくねと蛇行しながらゆっくり下ってゆくアスファルトの国道を大鹿村に向けて歩くのだ。実は2年前に鬼面山の登山をしたので伊那市から車でこの地蔵峠まで来たことがあるので、このダラダラと下る道はイメージ出来ていたのだが、しかし今回は車ではなく、ただひたすらそこを歩くのである。車はスイスイと私を抜いてゆく。いくつかの曲がり角を曲がると、左斜面の下の方にこれから通る道がすぐそこに
地蔵峠のお地蔵さん
地蔵峠1314m
見えている。しかしそこまで行くにはまだ相当に遠回りさせられるので、「えいっ! ここを一層のこと突っ切って下りてしまえばーー」なんていう考えが誘惑してくる。しかし道無き急斜面を無理して下りることは、結果的に時間を掛けてしまったり、滑って捻挫のおそれなどリスクが高いぞと誘惑を思い止めた。次第に高度が下がると共に太陽光線も斜めになり、角度によっては薄暗くなり始めていた。その薄暗くなった青木川の渓流で沢釣りをしている夫婦姿があった。軽乗用車で小道を入ってきて沢のすぐ脇に停めてテントを建てその側にテーブルを出してバーベキューをする態勢にしているようだ。女性の方は椅子に座りながら男性の釣っている姿を見守っている。
【地蔵峠から大鹿村への下り】
そばでカセットラジオが音を出していた。きっと男性が釣った川魚をバーベキューしようなんて話し合っているのだろうか。そして夕食後は電灯のない真っ暗な世界でたった二人なのに怖くはないのだろうか。
青木川が薄暗く
青木川渓流にテントを張るカップル
“桃の平”の村落に入った頃には日も暮れ始め民家の側にはまだ桜が咲いていた。夕日の柔らかい光線に照らし出された桜花を見ているとその一帯が何か桃源郷のように思わせる。暫く歩くと進行方向の先に校舎のような建物が見えその隣に「中央構造線博物館」の建屋らしきものが見えた。「あ〜〜やっと、大鹿村に着いた」とホットしながら大きなため息が出た(17:00)。丁度その時、道の脇の電信柱の上のスピーカーから突然“夕焼け小焼け”のメロディーが流れ出した。青木川と小渋川の合流点に掛かった新小渋橋を渡るとすぐそこに本日の宿「赤嶺館」があった。
「桃の平」の民家
桜の土手、あたかも桃源郷を思わせる
新小渋川橋を渡っていると携帯が鳴った。「いま、どこかね?」とあのO氏の声だ。「今 橋を渡っているところだよ。右手の彼方に白く雪を被った南アルプスの明石岳が銀色に光ってその雄姿を現しているよ。丁度この橋を渡ると今日の宿だ。今日はよく歩いたのでさぞビールが美味いだろうね」などとこれから一風呂浴びてから起こるだろう楽しみを私の方から一方的に話していた。

旅館のこぎれいな部屋に通されて床の間を見ると次のような言葉が書かれた掛け軸に引き込まれていた。

 『芸術はこの大自然の 奇しき調和を表現する』

引き込まれた理由は2つあった。一つは“奇しき調和”の“奇しき”は何と読むのかが分からなかったこと。「あやしき」か、それとも「めずらしき」だったか。「あやしい」なら「怪しい」か「妖しい」だろうし、「めずらしい」なら「珍しい」の漢字が思い浮かぶ。

【遠く中央構造線博物館の屋根が見えた】

二つ目は今渡った新小渋川橋の上で見た明石岳の雄姿に感激して「よしあの姿をいつか油絵に描いてみよう」と考えていた直後にこの言葉にぶち当たったことが驚きだったのである。

この日の総歩行距離は26.8kmで私の昨日の最長記録を早々と更新したことになる。

大鹿村の宿「赤嶺館」
宿の部屋の驚きの掛け軸


二日目へ  四日目へ