日曜日の朝は雲が低く垂れ込めていてシトシトと外は雨。2日から昨日までの5日間は快晴であったのに、バスに乗って東京に戻る今日は朝から雨、何と言うラッキーマンなのだろう。9:25 伊那市バスターミナル発のバスに乗り込む。やはり5月連休の最後の日でもありバスは混んでいたが、ウトウトと眠りに入ればあっと言う間に新宿に着く。午後1時には「ハイ! ただいま」と玄関のドアを開けていました。
実はこの後にとんでもない出来事が起きたのです。なんと排泄欲が今ひとつすっきりと処理出来ないのです。久しぶりの自宅での睡眠なのに夜中何度もトイレに起こされ、そして普段は1日一回の大の方も細々と出る感じで何かおかしいのです。5月10日(水)早速近所の行き着けの医院に行き診断してもらう。1週間後に血液検査結果が出て、「PSAが6.0なので、もしかすると“前立腺がん”の疑いが無いともいえない」という驚きの結果が出た。そこで更に専門医での診断を薦められ泌尿器科医院に行く。そこでも血液検査が行われ1週間後にPSAが9.157とほぼ絶望的結果が出てしまったのだ。PSAとは“前立腺特異抗原”と言うもので4.0以下なら正常らしい。そこで当然手術の出来る総合病院を紹介しましょうとなる。6月15日(木)紹介されるまま日本医科大学付属病院の門をくぐる。朝9時にもかかわらず泌尿器科受付前の廊下は待ち患者で溢れかえっていた。この患者が溢れた姿は内科、精神科、放射線科、整形外科のどこの部署でも起きているのだろう。そしてこの時間帯にこの病院だけでなく日本中の病院でこの情景が起きているのだと思うとゾ〜〜ッとする。不安そうな顔をして黙って廊下の長椅子に座って待っている軍団の中、今私はその中に混ざり込んで何とか座れるスペースを探し、持参してきた単行本を読み始めた。
まだ朝だと言うのに何か暗い感じをかもし出す空間。それぞれの人が不安を抱きながら今ここで座って待っている姿。ずうっと長く真っ直ぐ伸びた廊下、その両サイドの椅子に座っている人々の姿はいつか映画で見た捕虜収容所のイメージとダブラせる。殆ど会話は聞こえてこない。しかし時々顔見知りなのか挨拶を交わしている人、そして通り過ぎる医師と親しく立ち話している人、おれはこの空間では歴史が長いのだと得意そうに座っている人、「ああ!!私はあのようにはなりたくない!」と神に祈った。1時間もすると私の名前が呼び出され診察室に入った。「前立腺がん治療」は現代病の一つらしく患者が多く、病院側も対応が手馴れたものである。「それではまず入院の手続きをして、それから手術前の血液検査をしましょう。」といった具合にポンポンと事は運び入院日は7月6〜8日の2泊3日と決まった。そしてその事前最終確認のために6月23日(木)9:00にアポイントが決められたのである。手術と言っても「経直腸的前立腺生検」という内容らしく、つまり前立腺の所へ肛門から超音波装置と注射針を挿入し前立腺部分の細胞を取り出してくるもので、この細胞抽出の時に相当の痛みが走るので一応全身麻酔を掛けるので2泊3日の入院になってしまうらしい。そしてこの抽出された細胞を調べて癌が存在しているかを検査するらしい。しかしこの生検でも癌が存在しているのに針が当たらなかったり、病巣が非常に小さいため発見されない場合もあり3~6ヶ月おきに再検査を受ける場合もあります、なんて言われて“手術”に対して何かスッキリした気持ちにはなれなかった。その後、血液検査、レントゲンなど一通りの検査を受けて昼近くに病院を脱出できた。
6月23日 朝8:30には病院に入り、診療受付手続きを済ませて泌尿器科に行くとすでに待ち患者10数人が椅子に座っていた。9時から診察が始まり15分もすると私の名前が呼び出され診察室に向かった。すでに覚悟していたので、何を言われても驚かないはずだが、実は医師のセリフに驚いてしまったのだ。「先日の血液検査の結果でPSAが 1.7という結果で、これでは手術は必要ありません。きっと5月のPSA検査の時には何か炎症みたいな事が起きていたのかも知れませんね。そんな訳で手術はキャンセルしておきましょう。3ヶ月後にまた血液検査を受けてください」といった説明だった。9時半過ぎには病院の外に居たが、何か気が抜けたような感じだった。しかし私は知っている。こんな出来事の原因を。それはあの塩の道での青崩峠での空に向かってのション、そして地蔵峠の賽の河原での排泄、あれが山の神聖な神を怒らせたのだ。深く深く反省をしている私である。
<第2章 完>
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