塩の道 第3章 “爽やかな安曇野を渡る”

今年の4月に入って【第3章】のスケジュール作りを始めた。今回の予定は伊那市からスタートして4泊5日で信濃大町までと計画して1日の行程、宿泊場所の予約などをするのだ。1日の歩く距離を無理の無い20〜25Kmとして県別地図を買ってきて国道に沿って記載されている町から町間のキロ数を足しながら、その日の「打ち止め」場所を設定し、その近所の宿を探すのである。そんな手順で伊那市の天竜川沿いの「入舟」をスタート地点として、【入舟】−(17Km)―【宮木(1泊目)】−(33Km)−【松本(2泊目)】−(17Km)−【穂高(3泊目)】−(20Km)−【信濃大町(4泊目)】と行程を組んだ。今回はなんと言っても2日目の辰野付近の宮木から善知鳥(うとう)峠(856m)を抜けて松本までの33Kmが最もハードな行程となっている。ここで算出しているキロ数は国道に沿って歩いた場合であり、私は原則としてその場所場所で旧道や車の少ないバイパスを迂回するのでこのキロ数よりは実際は多くなるはずである。

つまり今回の行程は三州街道(伊那街道)―千国街道(糸魚川街道)を歩くわけだが、山と山に挟まれた谷づたいに歩く所が多く「塩の道」が今の国道になってしまっている所もあるので、出来るだけ車のビュンビュン走っていない裏道を歩くように心がけるつもりである。そして今年のNHK大河ドラマ【風林火山】の舞台でもある街道を歩くので大いに楽しみである。


●●初日(5月2日 水曜) 伊那市・入舟から天竜川沿いを辰野市・宮木まで

1年前の第2章と同じ5月2日がスタートの日になったが、昨年と同様に朝は雨がシトシトと降っていた。しかし天気予報では回復基調で昼過ぎには晴れると予報されており心配はしていない。朝 新宿バスターミナル7:30発の中央高速バスに乗る。雨上がりの靄っている新宿を後にする。10:30頃バスは辰野の町に入ったが、目の前の木曾駒ヶ岳や経ケ岳の稜線は雲に隠れていた。「そうか、今日は伊那で下車して、半日掛けてこの付近まで歩いて来るのだ」と一人思いにふけっていた。

伊那市バスターミナルを降りる頃はラッキーにも雨は上がっていた。なつかしい伊那市街を歩き私の駄本【伊那谷と私】の販売の時にはお世話になった「小林書店」に立ち寄りご主人とご挨拶。大変に話し好きな方で、また地元商店街や地元教育委員会などに働きかけて“町お越し”に尽力されており、この地で活躍した漂泊俳人「井上井月」の俳句大会が5月13日に高遠城址公園内で開催されるのでその準備で忙しいと楽しそうに説明してくれた。私が塩の道を一人行脚していることを説明し、実はこれからが第3幕の歩きのスタートであり長居は出来ぬ事情をお話して早速ながら書店を後にした。


【伊那市中心”いなっせ”ビル】
【小林書店のご主人と】
今バスで通ってきたメインストリートを戻るように暫く行くと木曽駒ケ岳から流れ込む「小沢川」に掛かる伊那橋を渡ってすぐの交差点を右折すると、そこが「入舟」の飲み屋街である。単身赴任で伊那に来ていた4年前に“夜の社交場”として地元の多くの飲み友達を作ってくれた割烹「若光」に置手紙をして、いよいよ天竜川に沿って一人行脚のスタートである。しかしスタートする地名「入舟」があまりにも風流な名前なので以前から私にはチョットばかり気に掛かっていた。地元の長老から「昔 ここには置屋もあり大勢の芸者さんもいて賑わっていたのだよ」と聞かされていたので、花街と天竜川を結びつけてあたかも時代劇映画で観る江戸・深川の風情を連想していたのである。小沢川が天竜川に合流する部分が小さな入り江になっていて柳の木々が風になびいている船着場、そこが「入舟」で天竜の南、駒ヶ根や宮田方面から財を成した商人の若い衆達が舟で登ってきて、花街に消えていったのだろうか。

【伊那橋と山頭火の詩】
【”入舟”船着場】

「入舟」の元船着場といわれる場所は高遠から西に延びる権兵衛街道(別名 杖突街道)が天竜川を渡ってすぐに南北に走る三州街道(国道153号線)と交差する所に位置しているのだが、そこには【天竜川通船の由来】という説明板が立っていて、その解説によれば「入舟」の船着場は私の風流な想像とは全くかけ離れていることが分かった。つまりここから発着していた舟は屋形船のようなものではなく、白帆を棚引かせた商船が月に12回ほど行き来しており、それも入舟から北に位置する上流・岡谷方面との航路が主であった由。南に下るラインは「木曽十一ケ宿**」や「中馬業者**」から苦情が出て就航には難航したと記されていた。そして岡谷付近からでも下りに5時間、上りに30時間を費やしていたとあるので、風流な気分になれる舟旅ではなかったようだ。漂泊俳人・井月は天竜川上流の通船を眺めて次の歌を残していると言う。

   春風に 待つ間程なき 白帆哉  (井月)

   **【木曽十一ケ宿、中馬業者】“木曽十一ケ宿”とは木曽川沿いに北からにえ川、奈良井、藪原、宮ノ
      越、福
島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠(つまご)、馬籠(まごめ)の十一の旧宿場町のこと。
      にえ川の北「これより
南、木曽路」、馬籠の南に「これより北、木曽路」の石碑が今も建っている。
      また“中馬(ちゅ
うま)”とは江戸時代に馬稼ぎ人達が作っていた同業者の組合。この中馬は信州か
      ら年貢米・タバコなど
を、「足助(あすけ)」(愛知県豊田市)からは“足助塩”を中心に運んでいた。
      三河湾で取れた塩を舟で
矢作川を足助まで運び、そこからは中馬業者により馬で信州に運ばれた。
      
従って足助から根羽(ねば)村、平谷村を通って飯田で秋葉街道(塩の道)と合流していたこの街
      道は「中馬街道」と呼ばれ、これも“塩の道”の一つである。


この元船着場は天竜川に沿って出来ている青空駐車場の脇にあるのだが、この駐車場を突っ切り三州街道(国道153号線)を辰野方面に歩き始めると、数分で「二条橋」の交差点に出るが、そこを直進、すぐに国道は緩やかに左に向きを変えて行くが、そこを天竜川の土手に沿って直進する。これで厳しい車の流れから逃げることができる。それでもバスを降りて40分ほども歩いたであろうか。土手道は「新水神橋」のところに出てくる。この辺一帯を双葉町といい左方向に「ニジザワショッパーズ」のスーパーマーケットが見える。ここは私が単身赴任時代に食料の買出しで大いにお世話になったスーパーであり、余りの懐かしさに暫し佇む。このときポツリと雨つゆが私の頬に当たり、頭の上を真っ黒い雲が通過していた。丁度昼時間も近い事だし、今日は朝食が早かったので「よし、ここでランチタイムとしよう」と決めてラーメン屋に入る。“味噌もやしラーメン”を注文し、早速おトイレを拝借する。

ラーメン屋を出る頃には雨は上がっていた。新水神橋を渡るとすぐに左に入る土手道があり、そこをただひたすら上流へと歩を進めることにする。誰も通らない天竜川の東側土手を一人歩く快感、これは歩いた者しか分からない快感であろう。暫く歩くと土手が行き止まりになるように右に回りながら県道19号線(伊那辰野停車場線=竜東線)に出てしまった。そこには「棚立(たなだて)の碑」がポツンと立っており、その脇の説明板によれば、天竜川は豪雨のたびに野底地域側に氾濫し田畑に膨大な被害を与えた。江戸時代の後期、高遠藩の領土であったころ、藩の高名な砲術家であった「坂本天山**」が自ら指揮監督してこの地に「押し出し堤防」を作って地域住民を大洪水から守ったと書かれていた。地図からみても確かに棚沢川が天竜川に流れ込んでいる所は、天竜川が45度くらいの角度で流れの方向を変えているところであり、水量が増大した時には確かに水流は勢いついて直進し野底地区に向けて出水しただろうと推測出来るような地形をしている。

   **【坂本天山】(1745−1803)江戸中期の砲術家。信州高遠藩士。“周発台”と呼ぶ砲架を発明して
       
銃砲戦術論を展開し、幕末にヨーロッパの軍隊と互角に戦うことが出来た唯一の和流(天山流)砲
       術といわれる。高遠歴史博物館にて周発台のレプリカを見ることが出来る。


【棚立の碑 (坂本天山押出堤防)】
【天竜川の土手を北に】

また土手に戻り天竜川に沿って暫く行くと「新箕輪橋」のところに出る。空には黒い雲が出てきてまたポツンと雨が顔に当たった。道路の端に幟が立っていてそこには【風林火山・福与城】と書かれている。道の正面前方に「福与城址**」の城山がクッキリと見えている。

   **【福与城と武田信玄】武田晴信(信玄)は1541年自分の父武田信虎を駿河に追放し、自力で勢力圏
       の拡
大に打って出るが、まずは父の時代の連合仲間の諏訪頼重を上原城で破り、頼重の娘“由布
       姫
(ゆうひめ)”を側室とし、次に1545年高遠城の諏訪頼継を攻め落城、その勢いで龍ヶ崎城、
       そして地元豪族“藤沢
頼親”の「福与城」を攻め一挙に上伊那を掌握する。その後、塩尻峠、安
       曇野、筑摩、屋代へと勢力を伸ば
しながら8年後の1553年4月 越後・上杉謙信との第1次
       “川中島の戦い”に突入してゆく。


【風林火山の旗と正面が福与城址】
【水道管の橋と右手に「ゆとり荘」】
昼食後歩き始めて1時間半ほど経っているだろうか、以前に見たことがある橋が見えてきた。それは橋の下側に緑色の水道管が張り付いてる変わった形の橋なので記憶がある。実は私が4年前単身赴任時代に住んでいた「美すず台地」の水と井筋の流れを調べていた時に来たことがある橋なのだ。当時この橋を見つけた時の興奮は忘れられない。なぜなら「美すず台地」の水道水が2度も天竜川を渡って遠廻りして配水されていることが摩訶不思議に思っていたからである。この緑色の配管は天竜川の西側にある「箕輪浄水場」から伊那市の東はずれにある「美すず台地」に水道水を引いている管なのだ。この奇妙な橋「町田橋」に到着した時に少々尿意を催してくる。

丁度その時この橋の袂に立派な建物が建っていた。「よし、ここでション タイムとしよう」と決めて建屋に近づくと、それは「ゆとり荘」という名のデーサービスセンターであることが分かった。連休の中日なのか、建物の周りには全く人気が無いのだが館内には何か人気を感じた。正面玄関のドアを開けると正面に教室のような部屋がありご老人がグループになって楽しそうに話をしているようだ。玄関の脇のソファーには若奥さんと思われる方が座っていたが、きっとおばあちゃんを迎えに来ているのだろう。受付窓を覗き込み事務を取っている方に「すみませんが一人歩きをしている者ですが、おトイレをお借りします」と挨拶をして靴を脱ぎ奥に入らせて頂いた。本当にタイミングよく川の土手伝いに、オワシスのような場所があったことに感謝しつつ用をたす。トイレから玄関に戻ると先ほどの若奥様に介護の女性とおばあちゃんが加わり三人で玄関の外を眺めて喋っていた。「ほらあそこに大きなハトがいるっしょ。毎日見るだに。きっとこの玄関の脇に巣でもあるだに!」となんとも懐かしい伊那の方言が耳に飛び込んできた。


【ゆとり荘の正面玄関】
【抉られた天竜川土手】
オワシスの館を後にして再び土手に出て歩き始めると、次の橋「箕輪橋」を通過し暫く行くと土手が県道に吸収される場所にでるが、そこで県道を避けるように小さな橋を渡って天竜川の西側土手を歩く。何か風が強くなったように感じるが、フォローの風なので歩きには助かる。西側の土手から東側土手を見ると川の流れに抉り取られた赤裸々な姿が現れる。これは昨年7月に梅雨前線の活動が活発になり天竜川が暴れまくった名残であろうと思われる。いよいよ見慣れた懐かしいメーカー“KYODEN”の大きな工場建屋が右手前方に見えてきた。(14:00)暫くすると土手道は自然と公園の中に入って行く。ここは「みのわ天竜公園」という名の綺麗に整地された公園である。近所の工場の社員と思われるグループがテントを張り出してバーベキュー・パティーの準備をしていた。ここは「十沢橋」の袂で左に真っ直ぐ行けば飯田線の「伊那松島駅」に出る。この自動車道を突っ切って更に土手を北に向かって歩を進める。

【“KYODEN”の工場】
【みのわ天竜公園】
この先から天竜川は右に大きく蛇行する。昨年7月の大雨で堤防が完全に抉り取られ、高圧線電柱が流されそうになるTVニュースのシーンを何度も見たがその現場に到着。大掛かりな河川改修工事が行われていた。昨年7月15日〜21日の間に降雨量が600ミリを越え例年の7月の量の2倍の雨が降ったという。兎に角あの時はTVのニュースで毎晩この暴れ川の状況を中継していたのだから。その工事現場には「通行禁止」のサインが立っていたが、それを無視して(遠回りするのが辛いから)今自分の足でその現場を横断しているのだ。

【護岸工事現場より辰野方向】
【流されそうになった鉄塔(伊那方向)】
天竜川西岸の土手を暫く進むと正面に水道管のみの橋が見えてくる。見覚えのある橋だ。これが伊那市や宮田に配水する為の水道水が通る管で、伊那山脈の中の水瓶「もみじ湖」から天竜川を渡って中央アルブルの北端「経ヶ岳」の麓にある「箕輪浄水場」に引いているのである。この橋も4年前に水と井筋を調査している時に発見した橋である。トイレを拝借した「ゆとり荘」からすでに1時間半ほど経っているのでそろそろ休憩を取ろうと思い始めながら土手の地面に目を落とすと、何とアスファルトの表面を突き破って草が顔を出しているではないか。一瞬立ち止まり、かがみ込んでその草の勢いに感動する。春の息吹がアスファルトのわずかな割れ目から差込み、草に巨大なる力を与えてアスファルトを持ち上げ、ついにぶち破って地上に顔を出したのだ。自分の足で歩くということは、天竜川の大暴れ現場に立たせてくれる魅力もあるが、もう一方でもっとすごい喜びは、このようにして足元の小さな小さな感動に直面させてくれる事なのだ。

【もみじ湖から一旦箕輪浄水場への水道管】
【アスファルトを突き破った草】
しばらくすると土手は「伊那路橋」の袂に出る。橋を渡った向こう側にガソリンスタンドのサイン塔が見えた。「よし、今度はあそこでトイレをお借りしよう」と決めて一旦橋を渡り川の東側に出る(15:00)。この後天竜川は大きく左に蛇行して行き、川に沿って歩いては相当に遠廻りになりそうだと判断して川から離れ出来るだけ近道を選んで辰野の「荒神山公園」の方向を目指す。何故なら地図によれば第1日目の宿はその公園の向こう側に位置しているからだ。道は田んぼと田んぼの間を抜けて暫く行くとポツポツと農家が現れ、県道がすぐ近くに迫ってきた証拠だ。真っ白な花をつけた果樹園の脇を通過する。中で作業をしていた女性に尋ねると、それは“梨の花”と教えてくれた。

【伊那路橋の先にガソリン・スタンドが】
【梨の花】
田んぼに沿って歩いていると道は緩やかに右に曲がり平行して走る県道19号線(竜東線)に吸収されそうなので、その前に休憩を取ることにして腰掛けやすい土手を探してリックを下ろす。土手の周りにはタンポポやヒメオドリコ草がビッシリと咲いていた。腰を下ろしてまず靴を脱ぎ両足を順番にさすってやった。これが何とも気持ちがいいのだ。正面はるか彼方に中央自動車道が走っている。4時間半ほど前には、あそこをバスで通過していたのだと思うと何か不思議な感じがした。10分も休んだだろうか。「さあ、今日最後のひと歩きだ。今日の宿、夕母屋旅館まで頑張ろう」と元気つけてリックを担いだ。

【初日最後の休憩地」
【遠く荒神山公園が見える】
辰野の「荒神山公園」には伊那単身赴任時代に数回訪ねたことがあるので、この付近の地理は多少分かっていたので心強かった。遥か彼方に見える荒神山を目指して田んぼ道を北に向かって歩く。途中左に向きを変えて中央自動車道の下を潜る事になる。この辺いったいは「樋口」と言うところで結構民家が密集している。しかし人間集落が近づくと見たくないもの、すなわち自然破壊の “自動車の墓場”に出っくわしてしまうのだ。これで一瞬自然を満喫する楽しい一人行脚の旅が台無しになってしまうのだ。荒神山の麓に「湯にいくセンター」があり懐かしく思う。ここにも何度か風呂に入りに来たことが有るからだ。しかしそれにしてもこの日帰り浴場に“ユニーク”な名前を付けたものだとニアニアしながら脇を通過した。

【嫌な姿”車のお墓”】
【荒神山の麓の“湯にいくセンター”】
「夕母屋旅館」は天竜川に沿った眺めのよい宿と辰野市のホームページの宿案内に書かれていたので、そろそろ夕方が近づいてきたこともあり天竜川に出てそれに沿って歩くのが最も安全と考えて最短距離の道を見つけながら天竜川を目指す。暫く行くと向こう側からカバンをしょった女子生徒が歩いて来るではないか。すれ違う時に立ち止まって「こんにちは、この道を真っ直ぐ行けば天竜川に出ますか?その先に夕母屋旅館ありますか?」と聞く。彼女は不思議そうな顔をしながら「今、私は学校から土手伝いに歩いて来ました。宿屋については全く分かりません」との返事だった。これで質問に対して半分の回答を得る事が出来て一安心。彼女が来た方向に真っ直ぐ歩くことにして暫く進むとお地蔵様の小屋が現れたが、そこが天竜川の土手であった。土手の右側には荒神山が天竜川のすぐ側まで迫ってきており鬱蒼とした木々に覆われた土手道は薄暗くなっていて薄気味悪い。右の荒神山の上は公園になっていて辰野美術館、パークホテル、そして町民体育館、野球場、武道館などがあり、またホテルの前に「たつの海」と呼ばれる池があり桜満開の時は見事な眺めになるそうである。木々に覆われ薄く暗くなった土手道を抜けるとその先は行き止まりとなりそのまま道は右の高台への登りとなる。暫くすると一般道に突き当たり、そこから左を眺めると本日の宿「夕母屋旅館」が目に入った。

【地蔵小屋】
【正面が「夕母屋旅館」】

午後4時15分、夕母屋旅館に到着。どうやら今日のお客は私一人の様子。二階の部屋に案内されると、部屋にはすでに布団が引いてあった。窓の外には天竜川がゆっくりカーブを描いており、その向こうに辰野中学校の校舎群が見える。さっき会った女子生徒はきっとあの中学校の生徒だったのだろう。夕食を6時にお願いして早速風呂で汗を流す。民宿風の宿なので風呂も大型のユニットバスで家族風呂の雰囲気だった。今日は初日で半日歩きだったのだが、足に疲労感があり風呂の中で足の筋肉にマッサージをしてやる。今日のコースは伊那市から辰野までの半日コースなのに疲労感が有るのは、これまでにこの辺を何度か車で走った事があり、なまじっか地理事情を知っていると距離を長く感じてしまうせいなのかも知れない。

夕食は一階の居間に用意されていたが、その居間に入って驚く。部屋の四面の壁全面に黒塗りの面上に白文字が書かれたかまぼこ板の大きさのプレートが張られているのである。ビールを飲みながら料理に箸を入れていると、宿のご主人がペットボトルを抱えて「一緒に一杯やりながらおしゃべりしましょう」と同じテーブルに座る。当然会話の始まりは先方から「歩いていると聞きましたが、今日はどこから来ましたかね」という質問である。私は得意になって「塩の道・一人行脚」のこれまでの経緯を話し始めると一挙に打ち解けた雰囲気になってくる。早速私から黒のプレートに関して質問を投げる。次にご主人が得意になって話を始める。「私は俳句に興味がありこの辺の人を集めて俳句会もやっているが、この板には歳時記に載っている“季語”が書かれているのだよ。このすぐ側に中央自動車道の辰野パーキングエリアがあり、そこの食堂を手伝っているが、そこで“板わさ”に使われる蒲鉾の板が沢山でるが捨てないでそれを貰って来て、それに黒色を塗ってその上に季語を書き入れて壁に貼ってあるのだよ。今は3000枚以上になるかな」とのこと。これが何と立派なインテリアになっているのだ。早速今日の昼、伊那市の小林書店のご主人から得たホットな情報、高遠城址で開催される【井上井月俳句大会】の件をお話すると大いに感激され、「よし、必ず行ってみましょう」というので私も益々テンションが上がり、「私も俳句が好きで、特に伊那谷の漂泊俳人“井月”については興味を持っています。井月のことや私の俳句が載っている駄本【伊那谷と私】を帰ったら贈りましょう」と約束してしまう。


【旅館の窓から辰野中学校】
【蒲鉾板に俳句季語が】

そしてご主人との話はドンドン深みに入ってゆく。ご主人は10年ほど前までは諏訪で旅館を経営し諏訪湖温泉旅館組合副理事長、諏訪市観光協会理事そして諏訪市俳句連盟理事などの職歴を勤められて来たそうだが、次第に不況風が襲いこちらに移って来たという。そして毎晩晩酌をする特製の酒に就いての講釈がはじまる。アルコール度45度と高いが安い焼酎に3倍の量の水で薄めて、それにケーキ用の“バニラ・エッセンス”を数滴垂らすと、ほら、このように軽い香りがあって飲みやすくなるのだよ、と私に試飲させてくれた。酒好きな私にはシロップのようで今ひとつ物足りない感じだが、ご主人によればこの飲み物を毎晩ペットボトル(500ml)1本だけ飲める許可を奥様から得ているという。そう言えば、長時間の会談の間、上手にそして大事そうに飲んでいたのが印象的だった。

酒が進むに従って遂に話は佳境に入り、ご主人が自分が作った“歌謡詞”を持ってきて「これは新聞“長野日報”に今年4月17日に掲載されたのだが、これに曲を付けてくれませんか」と言われ、いい気分になっている私も、「それでは何時になるか分かりませんがトライしてみます」なんて安請け合いしてしまったのだ。それではこの歌謡詞をご披露しよう。何となくジ〜〜ンと来てしまう。

        【中央高速下り線】          作詞:佐藤 則男

    1)飲めば父さん口癖に        2)ぼったつもりは無いけれど

      亡妻(つま)の容姿に仕草まで    なのに落書き誰がした

      声のかすれもそっくりと         諏訪湖エリアのトイレにさ

  

      浮かぶ予感に着替えを済ませ    朝の明け方メールに起きて

      娘十五は闇より逃げて        愛してるのよ頂戴電話

      辰野ホタルは母の里         スナック優香のさき子です

      “おばあちゃん”            “早よ消して”

      中央高速下り線           中央高速下り線

夜も更けて10時が近い。いい曲が付くといいなと思いながら自分の部屋に戻る。すると下から「電話ですよ」との声が掛かる。急いで一階に下りて電話に出ると、割烹「若光」からで飲み友達の大先輩、高遠の歯医者の先生からだった。今日一人行脚の出発前に店へ置手紙をしてきたので早速電話をして来てくれたのだ。感謝である。

明日は今回一番のハードな行程 30Km以上の歩きである。「おやすみなさい」。 第1日目 歩行距離:18.3Km。


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