●●2日目(5月3日=憲法記念日) 辰野・宮木から塩尻抜けて松本まで

5:30起床。外は快晴のようだ。朝から早々とチョットばかり不安な事態に直面した。
それは昔ながらのトイレなのだ。便器の蓋を開けると二階から一階までそのものを落とす昔なら当たり前の方式である。それがどうも私は昔を忘れてしまって馴染まないのだ。それでも我が侭は一人旅には禁物と言い聞かせ思い切って座らせて頂いた。なんとも下から風が来るようで、そして冬眠から目覚めた蛇がニュ〜ット出てきたらどうしよう、などと考えてしまうのでどうも落ち着けない。用を済ませて退散する時も局部を水洗いすることも無く、ただただ紙で拭いて水も流さずそのまま蓋をして出てくるのだが、何かをし忘れているよいうでこれまた落ち着かないのだ。面白い体験をさせて頂いた。

7:00に朝食を戴き7:30には宿のご夫婦に送られて出発。宿の玄関先でスナップ写真を撮る。雲一つない快晴は気分的に足元を軽快にさせる。天竜川沿いに出て後ろを振り返ると「夕母屋旅館」の私の泊まった部屋の窓が見える。そしてその横遥か彼方に中央アルプス「木曽駒ケ岳」の雪帽子を被った稜線がクッキリと見える。今年は暖冬で雪が少なかったのだが、さすが木曽駒には雪が残っていた。宿の部屋から見えていた辰野中学校の所に出て左に折れて「城前橋」を渡る。橋から右側上流の正面には天竜川と横川川の合流点が見える。これから三州街道に入ると天竜川とはオサラバで横川川沿いに北進することになる。城前橋を渡りきると、道は緩やかな上りになる。左手に飯田線の「宮木駅」が見える踏切を跨ぎ暫く上ってゆくと三州街道に突き当たる。その三叉路の右側が「辰野公園」であり高台に有るので木々の間から辰野の家並みが垣間見えた。


【夕母屋旅館 出発前に】
【左隅に夕母屋旅館、右に木曽駒の霊峰】
暫く三州街道を北に進む。祭日の早朝のせいか車が少ないので助かる。街道に沿った宮木の集落が終わる付近で民家の脇に「道祖神」が突然現れた。感激である。これからの旅は道々の辻で沢山の道祖神にめぐり合える事だろう。「小横川川」を渡ると左手に次第に山が迫ってくるが街道の右側を平行に走っている「横川川」が急に街道に接近して来て急カーブを取っている。そこも濁流に大きく抉られたのであろうか、土嚢を積んで護岸工事が行われていた。これも昨年7月の大雨の傷跡なのであろう。丁度その場所に街道から左斜めに入る道があり、その角に看板が立っていた。そこには【徳本水と今村の信仰遺跡】と書かれており、その説明文によれば、古来からここは伊那谷の交通の要衝で、かの東山道もここを通っており旅人が休息する“水場”であったそうだ。当時は岩間より清水が滾々と湧き出ており「徳本水(とくほんすい)」と呼ばれ人々の病を治したという話を伝えている。そして崖上の平は“小屋場”と呼ばれ江戸中期の名僧「徳本上人」が草庵を結んだ所と伝えられ、戦国時代にはここに「龍ヶ崎城」が築かれていたと書かれている。何と昨日歩いた天竜川沿いの福与城と繋がりがあり武田信玄が徐々に勢力を拡大してゆく行程を今私が歩いている事になるのだ。


【三州街道・人家の前に道祖神】
【今村の信仰遺跡(徳本水の脇)】
どうやらこの裏道は県道と平行して走っているようなので、思い切って自動車道を避けてこの裏道を歩くことに決めた。次第にこの裏道は高度を高めて行き右に走る県道が段々と下の方に見えるようになる。道に沿って「今村」の村落があり、民家の庭先には手入れされた花々が美しく咲き誇っていた。この地形そして道に面した旧家から推察してこれこそ三州街道そのものなのかも知れない。暫く行くとこの道は次第に下りになり県道から来ている道との三叉路の所に出た。今度は裏道が上りになり県道からどんどん離れて行ってしまいそうなのでチョット不安になる。丁度その三叉路で小型車の人と自転車の人とが立ち話していたので質問を投げかけた。
「私は塩の道を歩いてこれから小野を通って塩尻に出ようとしているのですが、この道をこのまま更に歩いてゆけば、小野の町に出られますか」と聞くと、「この道は少し先でその県道に吸収されてしまうから、こっちじゃなくて、一旦県道を突っ切って、電車の踏み切りを渡ってすぐの十字路を線路に沿って左に真っ直ぐ歩けば小野に出るよ」と教えてくれた。(8:30)


【右上の旧道へ】
【唐木沢付近で辰野行き電車】

地元の方に小野に出られると聞いたのでその道を辿ることに決めた。景色はガラット変わって、今度は田んぼの脇の道を行くことになったが、さっきの裏道のように上ったり下りたりではなくほとんど平坦なので歩くには楽である。左側は中央本線の線路が走っており、右側は田んぼが広がり、土手には黄色いタンポポで一面覆われていた。誰もいない踏切の信号が突然ポンポンポンと鳴り、暫くしてカラフルに化粧した中央本線、辰野行きが通過してゆく。何とものどかな風景である。道は横川川に沿って右に左にと蛇行しながら「唐木沢」の集落を過ぎ、両サイドの山が次第に迫って来て深い渓谷に入ってゆく感じがする。左手に無人駅「信濃川島駅」が見えてきた。そしてすぐその先で横川川に小野川が流れ込む合流点に達する。ここから今度は小野川に沿って緩やかな上りになる。

空は真っ青なれど、「下雨沢」の集落に入っても人は誰もおらず、物音もせず、何となくもの寂しい気持ちにさせる。小さなバス停小屋の中のベンチで休む。 靴を脱ぎ足先を楽にしてやる。そしてチョコボールを3〜4個食べ、お茶をペットボトルから数口飲む。休憩毎にこんな単調な仕草をこれで何回やってきただろうか。(9:15)道は徐々に高度を上げて左手の視界が急に広がり遠くに大きな集落が見えてくる。あれが小野の町の南端なのだろうか。道は「しだれ栗森林公園」の方面に行く「塩嶺王城パークライン」という自動車道にぶつかる。その角に「富士浅間神社」の鳥居があり、鬱蒼と生い茂る松林の中に石が積まれた「富士塚」が見えた。この鳥居がある三叉路は何か歴史的いわれが有るように思えた。地図によればこの山間の道は「しだれ栗森林公園」の先にある「勝弦峠**」を越えて岡谷の町に下ってゆく。きっと武田信玄が信濃を平定する戦国時代には重要な街道であったのだろうか。

   **【勝弦峠】1545年、武田信玄は高遠城(諏訪頼継)を落城の後、続いて福与城(藤沢頼親)を攻略
       したが、その一方で
信濃守護の「小笠原長時」が頼親救援に出陣して「龍ヶ崎城」に入り、その後
       武田軍
と交戦するが武田側が勝利する。その後信玄更に勢力を拡大し塩尻を攻め小笠原氏の
       城「林城」の近くまで攻めた。しかし1548年信濃の北部を牛耳
っていた村上義清に「上田原の
       戦い」で信玄が敗れると武田の占領地に動揺が走る。そんな情勢下、笠原長時は勢力を持った
       “北信の雄”村上氏と組んで諏訪大社下社に攻め込んで火を放つ。諏訪大社下社に攻め込まれ
       た事を知った武田信玄は兵を挙げ「塩尻峠」、「勝弦峠」の戦いに発展する。武田軍の急襲に
       小笠原軍は敗退、長時も逃げ帰った。これで武田勢はほぼ信濃を制圧したことになる。


【富士浅間神社の富士塚】
【小野公園の見晴台とトイレ小屋】
この辻を左折10分も歩くと「小野公園」に到着、一番奥の見晴らしの効く高台にでるとあずま屋とラッキーにもトイレがあった。ここで一休み。遥か彼方に小野の町並みが見え、その先に「霧訪山」がくっきりと見えている。あずま屋のベンチに寝転んで思い巡らす。「きっと方向的あの霧訪山の向こう側に中山道(木曽路)が走っていて、その街道との合流点がこれから行く“塩尻”なのだ」と。
10分ほどの休憩の後、暫く歩くと中央本線「小野駅」の裏側を通過する。新しく作られた駅舎に対して駅の裏側は広い荒地のままになっており、その中央に一台の軽自動車がポツンと捨てられている姿は何とも裏悲しい気持ちにさせる。一人歩きながら「美しい地球で誰がこんな事を平気でするのだろうか。必ずしや地球の神様が怒っていずれ人類に対して大きなバチを与えるだろう」なんて独り言が出る。そのまま線路と平行に走る道を進むと、電車の踏切を渡って三州街道に出た。これから小野神社までは車の多い国道を歩かねばならない。
【小野駅の裏側の荒地に廃車が1台】

自分の横を猛スピードで通過してゆく自動車に気を取られながら緩やかな上りを歩いてゆくと先方にこんもりと大木に覆われた森が見えてきた。そこが「矢彦神社**」でありその隣に仲良く「小野神社**」がピッタリくっ付く様に建っていた。(10:30)真っ先に不思議に思ったのが、何故このような立派な二社がピッタリ並んで建っているのかである。立看板の説明でほぼ推測は出来た。きっとそれぞれが建立された時代が違っていること、そしてその建立目的が違うことが理由になっているのではなかろうか。また二社の拝殿の前にはみごとな御柱が数多く立っていた。

   **【矢彦神社と小野神社】矢彦神社は天武天皇の時代(674年)に建立、鎌倉時代に木曽義仲が宮材を
       木曽山林
から伐り出し社殿を造営、以後徳川時代に至るまで武田信玄、勝頼はじめ徳川幕府の崇
       敬を厚く受けた。
小野神社は崇仁天皇の時代に祭神が奉納されたとあるが、1180年木曽義仲が
       倶利伽藍峠の戦いで勝利
したお礼に社殿を再建したとある。この両神社を合わせて“小野南北大
       明神”と称され信濃の二ノ宮とし
て崇敬を集めた。1591年に松本藩と飯田藩の藩境争いを豊臣
       秀吉が裁定した折、小野神社は筑摩郡
(現在の塩尻市)に、矢彦神社を伊那郡(現在の上伊那
       郡)に属するようにした。7年毎だが諏訪大社より
1年遅れの5月に“御柱祭“が盛大に挙行され、
       昔から「人を見るなら諏訪御柱、綺羅を見るなら小野御
柱」と言われるほど、きらびやかさ、勇壮さ
       では諏訪を凌ぐと言われる。


【矢彦神社】
【小野神社】

街道は「古町」を過ぎ単調な真っ直ぐな道が続いているが、上下一車線の街道なので、スレスレに通過する自動車に気を配らねばならない。暫く行くとポツンとセブンイレブンが見えてくる。11時になるので、あのコンビニでパンと牛乳でも買って軽い食事を取ることにした。コンビニの駐車場の隅っこに腰を下ろしてクリーム・パンをかじる。甘くて美味い。さて歩き始める前にトイレでも拝借しようかと店内に入ると、何と5〜6人の女性がトイレの前で並んでいた。街道にポツンとあるコンビニなので、ドライブ中の人々が利用していたのだろうが、その列に並んで待つ勇気は持っていなかった。「よし、それなら 暫く歩けばガソリンスタンドは有るだろう。そこで拝借しよう」と考えて歩きを始めた。

街道と平行して走る中央本線がトンネルに入るチョイト前の左側に喫茶店があり入り口に“営業中”の札が下がっていた。「しめた! ここでトイレ・タイムとしよう」とドアを開けるとプ〜〜ンとあのコーヒーの香りがして生き返った感じだ。美味しいブレンドを戴きながらマスターにこの先の道について問い掛けた。すると次のようなグッド・アドバイスを戴く。「この道を暫く行くと“善知鳥**(うとう)峠”になります。そこには大きな“分水嶺”の看板がありますから、すぐに分かります。そこを通過すると今度は下り坂になりますが、暫く行くと左に“小松食堂”があります。その少し先に石灰岩を掘っている会社がありますから、そこの敷地の中に入って石灰を掘っている現場を突っ切ると右に下ってゆく道に出ますから、そこを下ると近道で“みどり湖駅”に出ます。国道を行くとクネクネと遠回りして行くので相当時間が掛かるので歩きには不向きでしょう。」

   **【善知鳥とはどんな鳥?】この字を“うとう”と読むとは全く知らなかった。恥ずかしながら旅に出る前
       は“ぜんちどり”と勝
手に読んでいたが。調べると“中型の海鳥で非常に個性が強く親子の愛
       情が深い鳥で保護鳥”とのこと。何故“うとう”と呼ぶかには沢山の伝承があるが、最も信憑性
       が有りそうな伝説は、“烏頭(うとう)中納言藤原安方朝臣という貴族が流罪となり、さすらい
       歩いて辿り着いた「外が浜」(青森県)なる地で亡くなった。その亡霊は見た事もない鳥となって
       海に群がり磯に沢山鳴いていたのを、その君の名を取ってこの鳥を「うとう」と呼び、その霊を祭
       って「うとう大明神」と唱えたと言われている”。しかしそれがどうして三街道の「うとう峠」に結びつ
       くのかは更なる調査が必要。


【小野神社休憩・正面右の白い木が御柱】
【善知鳥峠と分水嶺】
アドバイス通りに歩くと、店を出て10分もしないうちに「分水嶺」の看板が見えてきた。ここが「善知鳥峠」でそこには「分水嶺公園」があったが、全く人気無く寂しい公園である。公園の看板には、ここを境に北側に降った雨は犀川、千曲川、信濃川を経て日本海に流れ出し、南側は小野川、横川川、天竜川を経て太平洋に流れ出すと書かれていた。暫く下ると、小松食堂が現れ、それを通過して石灰を掘っている会社の所に到着。その会社は休日だけあって、全く誰もいない。喫茶店のマスターの話通りにその会社の敷地内に入ったが、何となく人の敷地に黙って進入しているのが気持ち悪く不安になって来る。正面の高台に掘削現場がありそうなので、そこに向けて急な坂を登る。このあまりにも急な登りは相当に呼吸を乱したが、登りきったところに大型ブルト−ザがデーンと道を塞ぐように横向きに停まっていた。きっと「進入禁止」の意味なのだろう。ここで諦めては近道でみどり湖駅に行けないと勇気を絞って掘削現場に突入した。と、そこに現れたのは大きなすり鉢型の地獄絵だったのである。
【地獄の入口にブルが】

【灰色の世界(地獄の入口)】
【襲い掛かってくる切断斜面】
どうやら私が現れた場所はすり鉢の斜面の中間位の所で、四方は灰色の切りだった切断斜面、そして私が立っている所は陸上競技のフィールド・トラックのように大きく弧を描いて一周で300メートルは有るだろうか。緑の木々が生い茂っていた山をほじくり石と砂の地肌を曝け出した水も緑も無い無味乾燥の世界、これが地獄の姿なのだろうか。丁度真反対側にV字型に切れ込んだところが有りそこからはチラッと緑の葉を付けた木々が見え、地獄から抜け出る口ではないかと思った。「きっと、あそこから右に下りて行く道があるのだろう」と推理して、ギラギラと照りつける太陽光線のもと、一人恐る恐る対岸に向けて山の縁にそって歩きは始めた。このすり鉢の中は相当に温度が上がっているように体が感じている。灼熱の太陽の下で頭がクラクラしてくるが、このまま足を滑らしては直角に切れ込んだ絶壁を40〜50メートル下の底に落ちてしまうので緊張が走る。どこを見ても灰色と黄褐色で、きっと“地獄”とはこんな姿なのだろうかと瞬間思った程である。真反対のV字に開けた所に到達して汗がドット噴出したのだ。そこには下る道など全く無く唯の山の斜面が顔を出しているだけだったのだ。兎に角安全には安全をと考えて元の原点、会社の入り口まで戻ることにした。このようにして今来た同じ地獄道を戻るのが、目標を失った迷子のようで、岩間から突然怪物が現れるのではなどと余計なことを考えてしまい、それはそれは恐ろしい体験をさせて頂いた。

【採掘場から抜け出て下りの山道】
【ホットする上西条神社】
会社の入り口に戻り、よく見ると一段下の所にも採掘場があり、そこの側を通過すると確かに山を下ってゆく道が見つかった。ホット胸を撫で下ろしその細い山道を下り始めたが、たった一人で草木の生い茂った小道を歩くのが何とも薄気味悪かった。小道の左側に沢が流れているが、その付近でザワザワと音がすると「ビック!」とさせられてしまうのだ。早くこの薄気味悪さから抜け出たい為か、それとも余りに急な下り坂のせいなのか、歩くスピードが段々と速くなっていった。道の傾斜が緩やかになると周りに民家が現れ、左山すその林の中から子供の遊ぶ声がしてホットする。そこには古い神社があり「強清水」と書かれた木柱が立っていた。「上西条神社」の鳥居を潜って奥に入ると、今下りてきた山から清水が流れ出ていて、その脇の小川で子供たちが水遊びをしている。鳥居の側に真っ赤な花を一杯に付けた一本の“ハナモモ”の木が私を静かに歓迎してくれているようだ。地獄体験と薄気味悪い急斜面を通過後、ホットする桃源郷に辿り着いたことになり、まさに「苦あれば楽あり」である。
「上西条」の住宅街を抜けると、中央東線の
「みどり湖」駅に出てくる。(12:40)駅前には
何も無く寂しい限りだが、一軒だけ【三州街
道】という名の食堂を見つけた。名前が気に入
ったので早速そこでランチタイムを取ることに
決めた。ドアを開けると店のご夫婦と思わ
れる方がテレビを見ていて他に客は誰もい
ない。“たまごうどん”を注文する。注文する
やいなや、お茶と漬物が出されご主人が
「今日はどこを歩いて来られたかね」という
質問から対話が始まった。私は「昨日、伊
那市から歩き始め辰野で一泊、今日は辰
野から歩いて来ています」と説明すると大い
に興味を示され話は弾んだ。
【みどり湖駅に岡谷から電車が到着】

私から「これから松本まで歩くのですが、国道を避けて行ける道は無いでしょうか」と質問を投げると、「ありますよ。この道を真っ直ぐ行くと、国道153号線(三州街道)に出るから、そ
こを左にわずか数十メートル行ったところに“タバコ屋”が右側に在るので、その脇の細い路地を入って兎に角その道に沿ってどこまでも行きなさい。そうすると松本に出ますから。この道は【五千石街道**】と言って松本に向かってず〜〜っと下りだから歩きも楽だよ。私が子供の頃よく自転車でこの街道を使って松本へ行ったもんだよ。ここから自転車で30分も掛からなかったよ」 と歩く者にとっては心強い道案内であった。

   **【五千石街道】現在の県道63号線「松本塩尻線」で諏訪高島藩の領土を松本から塩尻の間を縦断
       していた街道。松本城下から東山山麓の村々を通り 塩尻で中山道と合流し諏訪へ通じる道と
       して利用された。もっぱら領内の年貢や物資を
運ぶための道として利用され旅人の往来は少なかっ
       たと言われている。1617年,“大阪夏の陣”で功績を納めた藩主に国替えが行われ、その時5千
       石が幕府から諏訪高島藩に与えられたという。


35分の昼食休憩の後、食堂のご主人の案内通りの道を歩く。10分も歩くと国道153号線に出た。左手前方にタバコ屋が見えた。この国道を直進すればJR塩尻駅に出るのだが、タバコ屋の側に行って驚く。わき道とは幅2メートル程の路地で、これではうっかり見落としてしまいそう。ちょっとばかり不安になったので、路地を数十メートル入ったところの民家の玄関先で花の手入れをしていた方に、「この道は五千石街道でしょうか」と訊ねると、ニアニア笑いながら「そうですよ。もう少し先に行けば道幅は広くなりますよ」との説明。不安顔の私を見てニアニアされたその理由が分かった。それはキットこれまでも多くの旅人から余りの道の狭さに同じような質問を受けていたからであろう。道が広くなった後も確かに道は緩やかな下りが続いており歩きは本当に快調である。「長畝(ながうね)」を通過、国道20号線を潜って道は二手に分かれるが左の道を選ぶ。ちょっと足の先に違和感があったので、田んぼの土手の所で一休みして、足の先をマッサージ。(14:00)

暫く歩いていると右前方に赤い大きな屋根が見えて来るが、近づくと「風林火山」の旗が目に入った。赤い屋根はお寺の本堂であり、「松林寺」という名の寺であった。本堂の右手奥に昔のままのものと思われる拝殿が残されており歴史を感じる。手元の地図によれば、この奥が「熊井城址」となっており、きっと地元豪族のこの城も松本を攻めて来た武田軍により落城したのであろう。この後「五千石街道」は長野自動車道の下をくぐり、すぐに自動車道と平行に走る「大沢川」の橋を渡ると、そこが「宮村」でこの付近を「五千石」と呼んでおり、丁度塩尻と松本を結ぶ街道の中間点に位置している。


【松林寺の赤い屋根(風林火山の旗)】
【松林寺の由緒ありそうな拝殿】

この街道は松本盆地の東のはずれ、高ボッチ山(1665m)の裾野に沿って北に向かっているのだが、そろそろ休憩を取ろうかと考えていると丁度目の前に小さなバス停の小屋が目に入った。待合小屋に入ってリックを下ろす。(14:50)ここでもいつもの行動、チョコボールとペットボトル水、そして足先のマッサージ。こうして体に無理が来ないように、足に痛みが出ないようにと、労りながらの自分への挑戦でもある。一人リックを下ろしての休憩する時、“バス待合小屋”は最適な場所である。通り過ぎる人々が、何とも現実離れした一人歩きと見られるのでは無く、単にバスを待っている人だと見てくれるからである。

3時のおやつ休憩は終わった。これから2時間位で松本に着くだろうか。自分の疲労度と日の傾き度合いはチョットばかり不安も走る。元気を出して「さあ! 出発」。すぐに街道の右手に「無量寺」が現れ、さらに20分後には「大宮八幡宮」に到着。鬱蒼と生茂った杉の大木は歴史の長さを物語っているようだ。神社境内の広場に来ると、法事が終わった後なのであろうか、お酒が入って良い気分で仲間と大声で話し合っている長老グループとすれ違う。「こんにちは」とすれ違いがしらに挨拶を交わした。相手は私の一人歩きの姿を見て何を思っているのだろうか。大木の森に入ったせいだろうか、全体が暗くなったようで何か陽が更に傾いてしまったように感じる。まだまだ松本は遠いのに。


【無量寺入口】
【大宮八幡宮の杜】

街道は「内田」に入る。ここから塩尻市が終わり松本市に入ったのだ。進行方向左手は視界が広がり松本盆地がくっきりと見える。光線の関係か、遠くの方を飛行機が小さく黒い鳥のように見えて、静かに下降してゆく。あの辺が「松本空港」の位置になるのだろう。しかし街道のこの辺は緩やかに上りが続いている。昼食を取った食堂のご主人が「ず〜〜っと松本まで下りで歩くには楽だよ」と言ったではないかと恨んでみても後の祭り。暫く行くと街道の左手に史跡「御高札場」と書かれた説明板が現れる。“高札場”とは江戸時代の“掲示板”のようなもので当時皆がニュースを読む所だったとすると、相当に人の往来が有ったのだろうが、今の姿からは信じられない。

更に歩きを進めると今度は右手に気になる白い柱が立っている。それは“丁石”で「右“牛伏寺(ごふくじ)**”に二十二丁」と書かれていた。懐かしい“丁石”の思い出。そう、あれは2年前【塩の道・一人行脚 第一幕】で「秋葉神社」を訪ねたとき、下から山頂の大社まで丁石が置かれており、大社が五十丁目になっていたことを思い出していた。それにしても“牛が伏せる寺”とは妙な名前である。

【御高札場】
【牛伏寺への丁石】

   **【牛伏寺(ごふくじ)】聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置したのが始
       まりという。寺名は755年、唐からもたらされた大般若経600巻を善光寺に奉納する途中、経典を
       運んでいた2頭の牛が倒れたことから「牛伏寺」の名が付いたという。古くから修験道の寺として有名
       で厄除け観音として信仰を集めている。平安時代の作である木造「十一面観音」は重要文化財で
       ご開帳は33年に一度で、次のご開帳は平成29年。

太陽光線が随分と西に傾きかけたせいなのか、左手に南松本の町が霞んで見えている。そろそろ次の休憩を取ろうと思いながら歩きを進めると右手に「農業生物資源研究所」なる看板が目に入り、そこが広い高台の庭のようになっていた。「しめた! ここは最高の休憩場所になると、鎖が掛けられている入り口を跨いでその敷地内に入る。休日なので誰もいない。そこでリックを下ろし、靴を脱いで大の字になって寝そべる。誰もいないこの空間、足元の先に霞んで南松本の町が遠く見える。足は多少オーバーワークと悲鳴を上げていたが、気分は最高である。

【高台の休憩場所(遠く南松本が見える)】
【こんな格好で足を休め天を仰ぐ】
10分ほどの休憩の後、また暫く行くと右側に現れたのが、「蓮華寺」「埴原城」への入り口の案内であった。この辺一帯を「中山」と言うが、街道から遥か彼方の松本市の中心部を見ようにも目の前に「中山(836m)」が邪魔して残念ながら「松本城」の姿は見えない。足が段々と重たくなり歩くスピードが落ちたように感じる。バカ尾根のように長い長い下りが続いている。バス停「地蔵前」に来ると真っ赤に塗られた「弥生の石仏」があった。無理は禁物と足を労り休憩を取る。「このバカ尾根はどこまで続くのだろうか。陽がある内に松本に入れるのだろうか」 と不安が襲ってくる。(17:00)

【蓮華寺・埴原城の入口】
【弥生の石仏】
休憩の後 バカ尾根をおよそ1時間も歩いただろうか。松本市の郊外に入って来た様で交通量も増え信号機も増えてきた。「薄川」の袂に出て来て「筑摩橋」を渡るとき、地元の方に松本駅に出る近道を聞く。すると西の方向を指しながら「あの辺に背の高いビルが見えるでしょう。あの辺が駅前ですから、あのビル群を目標にこの川に沿って行かれたらいいですよ」と教わり新興建売住宅の街を歩いてゆく。いよいよ家々も密集しはじめ段々と市の中心部に近づいているのを感じて元気付く。しかしその瞬間、見てはいけない物を見てしまう。薄川の土手伝いに歩いていると空き家になった土地にゴミが捨てられ廃墟と化した姿。智恵が備わっているはずの人間がなぜこのような姿を作り出し放置出来るのであろうか。長い距離を苦労しながら足で歩いてきた私には「松本とは汚い町なのだろうか」とさえ思えてしまう。

【松本市の入口に廃墟が】
【松本平に神の光が射し込む】
18:30 やっとのことで松本駅前のビジネスホテルに到着。事前にインターネットで予約を入れていたホテルだが、これがまた一日歩き通してきた私にはピッタリのサービス・プラン【湯の華銭湯 瑞祥】付きなのだ。温泉銭湯“瑞祥”へはタクシーで送り迎えしてくれるのだ。ホテルから車で西へ10分位の所にあり、戸倉上山田温泉の湯を車で運んできている純天然温泉だそうだ。ゆっくり大きな湯船で一日の疲れを癒した。8時過ぎホテルに戻り、裏手にある寿司屋で遅い夕食を取る。祭日とあって客はいない。温泉に入った後のにぎり鮨と日本酒熱燗の組み合わせが実に美味かった。今日の全歩行距離は32.5Kmで自分の記録を更新したことになる。


                    3日目へ            TOPへ