塩の道 最終章 【千国街道 古道に挑む】
第3章を5月2日より4泊5日で長野県・伊那市より信濃大町までの一人行脚をやり遂げてその最終日5月6日、スーパー「あずさ」で松本から自宅に戻る車中でこんな事を考えていた。「いよいよ、残された最終章、切りだった山々を越えて日本海・糸魚川に出る行程は厳しいはずだ。まだ気力的に余力が残っている内に成し遂げてしまった方がいいかも知れない。来年の5月頃まで延ばせば、“よしやってやろう”という気力が残っているか不安だ。よし、出来れば今年の夏休みを利用して敢行してみよう。年を取ってくると1年、1年気力が衰退して行くのは目に見えているのだから。」そんな事を思い巡らせている車窓の外はシトシトと降る雨が諏訪湖の渕の家々をスッポリと靄で覆っていた。 |
7月に入ると早速、最終章決行のための準備に取り掛かる。梅雨明けの天候が安定している時期を予測して8月7日からの5泊6日で予定を組み始める。しかしどうしても南小谷あたりから北小谷の区間がトンネルだらけで、それも長いトンネルで一人歩くには大いに不安である。そして姫川渓谷の先「平岩」付近から最後の難関「大網峠」に入る道がよく分からないのである。そこで【糸魚川歴史民族資料館】には「糸魚川街道・塩の道」に関する詳しい資料があるとの情報を入手して早速手紙を書いてその資料を取り寄せる。その結果、何とか大網峠への道は把握できたが、やはり国道148号線「中土トンネル」、「新外沢トンネル」の部分を姫川に沿ってトンネルを避けて通る道が掴めない。そこでやむを得ず南小谷から北小谷までは大糸線かまたはタクシーにて通過することにして、宿泊地を「木崎湖温泉」、「神城駅前」、「姫川温泉」、「根知・山口」そして「糸魚川」として行程を作り上げそれぞれ民宿に予約を入れて8月7日からの出発に備えた。 |
●● 1日目(8月7日 火曜) 信濃大町「塩の道博物館」から最終章のスタート
新宿7:30発の「あずさ3号」に乗り込む。伊那市に単身赴任していた頃には時々利用していた特急「あずさ」なのにやけに今日は緊張しているような気がする。その理由はそのころは何時も「岡谷」で下車して飯田線に乗り換え「伊那市」まで行っていたのだが、今日は、そのまま岡谷を降りずして松本を通過して信濃大町まで一挙に行けることが初めての体験だからだろうか。それとも途中の駅、「みどり湖」、「北松本」、「豊科」、「穂高」そして「信濃松川」のそれぞれの駅は前回の塩の道・第3章のときに歩いて通過した場所なのでジット車窓から見届けておきたいと思っていたからであろうか。 |
「あずさ」は松本を過ぎると、車窓の右手に「城山公園」の高台が見え、左手が「新橋」で街道の分岐点が懐かしく思い出された。そして10:35ころ「豊科」に到着、すぐ駅の脇に1泊したビジネスホテル「ルートイン安曇野豊科」が見えている。その10分後「あずさ」は「穂高」駅に到着。何と考えてみればこの鉄道での10分間が「一人行脚」の1日を掛けて歩いた距離なのである。そんなことを考えているうちに「あずさ」は静かに信濃大町駅に滑り込んでいた。(11:00) |
信濃大町の駅前は快晴ではあったが、人はまばらで都会育ちの私には寂しく感じてしまう。駅前右手にある公園のベンチにリュックを下ろして、いよいよこれから歩きが始まるのだと身支度を整える。向かいのベンチではウォーキング・スタイルの老夫婦が仲良く休憩を取っている。お二人の前を通過する時に軽く朝の挨拶を交わして、メインストリートを北に向かって歩き始める。最初の目的地は、ほぼ町の中央に位置している【塩の道博物館】である。 |
駅前から北に延びた「市内本通り」は街道沿い特有の古い建屋が散見され、昔は人々の往来が盛んだったのだろうと思わせる風情である。駅前から10分ほど歩くと交差点の角の小さな公園(ポケットパーク)があり、その脇に観光案内板があるようなので道を渡って近づいて見ると、それは「塩の道千国道」に就いての説明板だった。それによればここ大町は日本海側からは塩や魚(特にお正月の鰤)が運び込まれ、長野県側からは麻やタバコが運び出され、それら物資の集散地として大いに栄え、大町から北は険しい山の中を通るため、運送には牛が利用され途中には牛方宿や塩蔵、麻倉が残っている、と書かれていた。スタート早々にこの説明に触れて、これからの一人行脚の行程が不安なようで、一方で興味津々でもあり複雑な気持ちにさせていた。 | |
【ポケットパークの観光案内板】
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ポケットパークの交差点から対角線状に反対側を少し入ったところに最初の目的地【塩の道博物館】があった。その建物は昔のままの大きな母屋造りで、玄関の中に一歩足を踏み入れた瞬間、江戸時代にタイムスリップした感じがして驚く。それは床が土間となっていて室内は薄暗く、外の気温とは全く違うヒンヤリした空気が覆っており、別世界に入り込んだ錯覚に引きずり込まれたせいであろう。しかし館内には全く人の気配は無い。大きな声で「ごめんください! もし〜〜」と奥に向かって叫ぶと、遠くの方から女性の声で、「は〜〜ぃ。そこで靴を脱いで上がって、奥の部屋でまずはビデオを見てください」と言う。言われた通り靴を脱ぎ下駄箱に置くと、そこには大人の靴と子供サイズの靴が2ペアずつすでに置かれていた。と言うことはすでに来客がこの館の中に居るということか? しかしそれらしい物音は一切しない。そして言われたとおり帳場の左手にある暗い居間に入って大きな液晶TVのビデオスイッチを入れると塩の道博物館の紹介が始まった。 |
【塩の道博物館】
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【塩の道博物館の正面】
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この博物館の建屋は江戸時代に庄屋であり塩問屋であった平林家の母屋そのものを展示場にしているそうで、母屋は110坪の建坪の2階建てであり、その母屋に2つの蔵が繋がっておりその広さに驚く。ビデオを見た後、「順路」の矢印サインに従ってまずは母屋の2階に上がった。昔のままの間取りを残しており、薄暗い部屋部屋には当時の生活必需品が所狭しとビッシリ展示されている。そして部屋と部屋を結ぶ廊下にまで塩の道で活躍したボッカや牛方の身支度、当時使われた道具類や什器類が展示されていた。細い階段を下りて1階に出るとそこは“織機”が置かれた部屋でその先に小さな中庭があり軟らかい陽の光が差し込んでいる。 |
【廊下の展示品】
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【織機の部屋から中庭を】
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そこから一旦外に出て細長い大きな塩蔵に沿って敷かれているスノコの上を歩いて蔵の中を見学するようになっている。その長い蔵は手前から文庫蔵、漬物倉、塩蔵と仕切られていて一番奥の塩蔵では「ニガリダメ」装置が再現されており昔の人の知恵を見せ付けられた。そこから二つ目の蔵に繋がっている雁木(がんぎ)の下の渡り廊下を進んで中に入ってその豪華絢爛さに驚く。そこは【流鏑馬(やぶさめ)会館】になっており、近くの「若一王子神社」の夏祭りの際の流鏑馬神事に関する資料が一堂に展示されていた。ここの流鏑馬は800年の歴史を持ち、京都・加茂神社、鎌倉・鶴岡八幡宮と共に古き伝統を伝え、大町の流鏑馬は馬上の射手が“少年”という珍しい様式を守り続けているのが特徴だそうだ。大町では7月27日から3日間「八坂神社」の前夜祭から始まり市内6台の山車が各町をお囃子に合わせて練り歩き、最後の29日に王子神社境内で少年達の流鏑馬が行われそこに山車が集まって来て祭りは最高潮に達すると解説されていたが、その特徴がバッチリ理解できるような展示構成になっていた。この展示場の一番奥のソファに子供連れの家族が居たが、博物館入口の下駄箱で見た靴の持ち主たちをここで発見したことになる。 |
【少年流鏑馬】
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【流鏑馬の衣装陳列】
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流鏑馬会館を出て渡り廊下を戻ってくると、出口に向かう途中に売店・休憩所があり管理人のおばさんが待っていた。「どうぞ、休んでいってください」と話し相手が欲しかったかのように早速お茶を入れて椅子に座るよう勧めてくれた。そこで入館料を支払い勧められたお茶をすすりながら「私は塩の道を静岡県から一人で歩いています。しかしここの塩の道博物館のスケールの大きさには驚きました」と感想を述べると、管理人のおばさんは気分を良くしたのか「“おやき”お好きですか」と聞いてきたので「大好物です」と答えると、それではとお手製の温かい“おやき”をご馳走してくれた。丁度お昼が近いのでグッドタイミング、お茶と味がマッチして何度もお茶のお代わりをする。暫くおばさんと塩の道談義をしていると、「これから貴方が行く白馬村には“塩の道研究”で有名な田中先生が居られて、ほらそこに先生の本が有るでしょう」とお土産品が載っている台の上を指差した。その本を取り上げて中身を見ると、何と私が欲しい欲しいと思っていた塩の道“古道”を詳細に地図入りで説明しているガイドブックだったのである。題名は【塩の道・千国街道 古道案内=歩く人のために=】(編集発行 白馬小谷研究社 田中元二)で早速購入した。 |
昼過ぎ、おやきのお陰でチョットお腹も落ち着いたところで博物館の外に出た。予定ではこの後、青龍寺―大澤寺―弾誓寺を通って「若一王子神社」となっていたが、余りに細い道が入り組んでいるので、早速道を間違えたらしくたどり着いたのが「竈(かまど)神社」であった。一休憩の後、神社の脇の国道147号線(千国街道)を北に進み3つ目の信号の所に出る。ここから国道は147号から148号線と番号が変わるが、この交差点を渡って斜め北東に入る小道を行くと「若一王子神社」の正面にぶつかる。真っ赤な鳥居の脇に三重塔がありその先が社殿になっている。今は誰も居らず寂しい限りだが、わずか10日前の7月27日から3日間はこのだだっ広い広場に山車が集まってきて人の群があふれ返って賑やかだったのだろうと想像していた。 |
【竈神社】
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【若一王子神社】
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再び国道に出て北に向かう。「借馬」付近に来るとドライブイン風の日本蕎麦屋がありチョット遅めの昼食“とろろ蕎麦”を食す。真夏の太陽の下、アスファルトの国道をただひたすら歩いてきた後の冷たい蕎麦はスルスルと喉を通過する。「うまい!」。30分ほどの休憩の後またまたギンギンギラギラの国道に出て北に向かう。国道の左に平行して走る道にはまだ藁葺き屋根の大きな庄屋の姿が見られ、そして道脇には大きな杉の木が立っているのを見ると、どうもあちらが旧道のように思えたのでそれに沿って歩くことにする。国道の右には大糸線が平行して走っており、暫くすると“信濃木崎”の駅を通過し、国道と千国街道との分かれ道のところに至る。その角に木崎の「三橋観音堂」があった。観音堂の杜の木陰で一休み。その瞬間電車の音が聞こえたと同時に、こんもりした木々の中に突然カラフルな特急“あずさ”が姿を見せた。静かに休んでいるその瞬間のハプニングにビックリさせられると同時に、キット自分が乗ってきた“あずさ”が終着駅「南小谷」から丁度折り返して来ている時間だな、なんて考えていた。 |
【三橋観音堂】
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【観音堂の脇を特急あずさ】
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木崎湖の町なかに入るも全く人気が無く寂しい限りである。(14:00)密集した民家の間のくねくねした道を歩いていると、色あせた温泉旅館の案内看板、店を閉めているお土産屋などが目に付くが今が真夏のど真ん中とは思えない静けさである。暫く行くと急に視界が広がり「木崎湖」が姿を現した。それにしても静かだ。人は居るのだろうか?第1日目の宿はここ木崎湖温泉郷に取ってあるが、まだ時間があるので湖畔の「仁科城址」、「仁科神社」を訪ねる。木崎湖の南側に半島状にとび出た湖岸段丘を利用して中世の豪族“仁科氏”により作られた城で仁科氏滅亡の後、小笠原氏が北方の上杉氏に備えるための城として維持してきたが、徳川幕府の一国一城令により廃城となり、その城の主郭跡に仁科神社が建てられ仁科氏を祀っているという。 |
【木崎湖】
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【仁科神社】
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いよいよ第1日目の宿泊地「木崎温泉郷」に向かう。それは今来た湖畔の道から1本内側に入った旅館や民宿、ペンションが軒を並べている道を戻るように暫く南に下る。木崎温泉の湯元の脇に「福衆堂」があり、その向かい側に民宿【やまく館】があった。今日は第1日目で半日歩きでもあり行程は楽目に設定してあるのだが、それにしても14:30到着はチェックインタイムには早すぎたので、民宿にリュックを預かってもらって、近所の日帰り温泉【ゆ〜ぶる木崎湖】に行き初日の疲れを取ることにする。泉質は“単純泉”。 |
【福衆堂、その左先に「やまく館」】
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【民宿「やまく館」正面】
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午後4時、やまく館に戻り、6時からの夕食時間までまだ充分に時間がある。大町の「塩の道博物館」で購入した古道ガイドブックを参考に、出発前に作ってきた行程表を見直すことにした。家で作ってきた行程では南小谷から北小谷間の最も姫川渓谷の険しい所はトンネルだらけの自動車道しか道が無く、身の危険から大糸線か最悪はタクシーで通過する計画になっていたが、“太平洋側から日本海側までの塩の道を一人歩き切る”という大目標を崩してしまうようで納得できぬままの今回の旅出となっていた。そこに初日思いがけず素晴らしいガイドブックが手に入り食い入りように地図を調べた。よく見ると姫川に沿って山の中を縫うように走る塩の道“古道”を通れば突っ切れそうだと判断が付いた。そのためには明日と明後日の宿地を変更せねばならない。まず明日は一挙に「白馬八方口」まで行き、そして明後日は北小谷のそばの「来馬(くるま)温泉」泊と決めた。早速民宿から“イエローページ電話帳”を借りてきて、まずは明日の宿として大糸線白馬駅近くの民宿を調べて予約を入れると同時にすでに予約を入れていた「神城」の民宿をキャンセルした。この一連の手続きを民宿の部屋から一人で出来てしまう“携帯電話の便利さ”を改めて実感することが出来た。 |
夕食は1階の大広間で取ったが、この時お膳の上の配膳の姿で今日の泊り客の状態を知ることが出来るのだ。私の左手のお膳には女性の一人旅が、右手には仕事で来ているような男性二人がすでに食事を取っている。そして向かい側のお膳には4〜5人分の食事が用意されているが未だ席に付いていないが、多分北アルプスからの下山組の到着が遅れているのだろう。食事を取っている最中にひょんな事から話し掛けるチャンスが生まれるのだが、隣の女性はただひたすらモクモクと食事しているだけで話し掛けるタイミングが生まれない。と言うより私の方から話し掛けたいという欲望が生まれなかったと言うのが正しいかもしれない。誰とも会話無く食事を済ませて部屋に戻る。明日は楽しみの一つ、「仁科三湖」の湖畔に沿って千国古道の歩きが待っている。TVをうつらうつら観ている内に眠りに落ちていた。 万歩計表示 14257歩 9Km。 |