●● 4日目(8月10日 金曜) 天神道を通って大網峠越え

朝6時には目が覚めた。窓から差し込む太陽の光線から今日も相当の猛暑が予想される。今日の朝食は7:30からと言われていたのでまだ充分に時間が有る。今日は荷物を整理して一部は宅配便で自宅に送ってしまおうと考えていたので早速荷物の仕分け作業を行った。使った下着類、読み終わった単行本、そして旅の途中で集めたパンフレットなどをビニール袋に詰め込んでガムテープでパッキングを済ます。窓の外から人の声が聞こえたので立ち上がって ガラス窓越しに外を眺めると、ここの女将さんと娘が玄関の前にある駐車場の脇で、今朝咲いた花を見ながら何かを話し合っているようだ。そのうちに女将さんの姿が消えたかと思うとすぐに左から乗用車が出てきて娘さんがその車の助手席に乗った。「そうか、キットこれから娘さんを南小谷の小学校に送って行くのだ。 帰ってくるのには30〜40分は掛かるだろう。朝食が7:30からと言うのもなるほどと頷ける」なんて考えていた。部屋のTVのスイッチを付けると“朝のニュース番組”をやっていて、お盆休みに入る金曜日、帰省ラッシュで東名高速道路の渋滞が始まっている姿を映し出していた。

今日も引き続き塩の道・古道を歩くことになる。不安と期待が交差して複雑な気持ちであるが、「よいしょ」とリュックを担ぐと本やパンフなどの紙類が減った分重量が軽くなっていて楽な気持ちにさせてくれた。風吹荘のご夫婦に御礼を述べて外に出ると、すでに夏の太陽は姫川の白い河原に強い光線を投げ落としていた。河原に沿って暫く下るとすぐに「小谷橋」の手前の三叉路のところに出る。小谷橋を渡った先には大糸線の「北小谷駅」がある。私はこの三叉路を橋を渡らずに左に曲がり北に進路を取る。昨日風吹荘で話題となった北小谷小学校の廃校舎の前を通過する。【道の駅・おたり】を通り上り坂になるが、その道脇に来馬温泉・風吹荘の温泉湯元がありモクモクと白い煙を上げている。その先の山間の中にポツンと建っている【島温泉旅館】が見えてくる。
【姫川の来馬河原】

【廃校となった北小谷小学校】
【島温泉旅館】
ここからの塩の道・古道は「天神道」と呼ばれ、島温泉の宿の脇から裏山に登って行くのだが、島温泉の前の桜並木のアスファルト道路から左に入る天神道入口が余りに細く急傾斜なので心細くなってくる。(8:30)一旦リュックを下ろし登山用ステッキを手に持ち急な登山の準備を行う。 勿論万が一の害虫“ウルル”や藪蚊の対策として電池式虫除け器を腰からぶら下げた。

急斜面の山道をどれだけ歩いただろうか。杉やブナの林の中を道は右に左と曲がりながら一挙に高度を上げようとしているようだが、木々が太陽光線を遮ってくれているので、空気が涼しく感じられるのがせめての救いであった。暫くすると道は緩やかな登りに変わり、「唐沢の石仏」を過ぎると視界の利かない峠に差しかかり、道幅が急に広くなるがその道の脇にはベンチが置かれていた。そこが「城の越」でベンチの後ろ側に「三峰様」と書かれた標識が立っていた。地図を見ながら現在位置を確認し、ここで今日最初の休憩を取ることにする。(9:00)
【天神道への入口】
【天神道「唐沢の石仏」】
【城の越と三峰様の標識】
10分ほどの休憩を取った後、天神道を歩き始める。暫く平坦な道が続いているが、次第に雑草が生い茂り始め道幅が細くなるので段々と不安になってくる。しかし車の通った後の轍のような所には雑草の伸びが低いので何とか先に進むことが出来る。進むに従って雑草は私の背丈以上となり完全に先が見えなくなり、自分の手で草を押し分けて前に進む状態となった。しかし道がいつも日影になっている山陰に入ると雑草が余り成長しない為か、しっかりと道の姿が現れそして轍も見えるのだ。これが私を更に先へ先へと進めてしまう。何回目かの草を押し分け進んでいた時、突然目の前に黒い穴のような姿が立ち塞がってギョッとする。それは大木が生い茂って太陽光を遮っている場所なので真っ黒に見えたのだ。そしてその真っ暗な林の寸前で道は途絶えている。しかし生い茂った雑草の一部分が誰かに踏まれて倒れがかっておりV字に口を開けていて、これは最近誰かが通った証拠なのだと判断した。
【城の越の先でピョコンと「立山」が後ろに】
【こんな草道を進んで大丈夫か?】
【本当にここが街道なのか?】
【正面左の黒いV字の部分に入り込む】
そのV字の部分を滑るようにして真っ暗な杉林の中に入り込むと、そこは足元一面にシダ植物類が覆っていた。そこから窪みに沿って下って行くと右側に高さ2mほどの黒ずんだ石垣が現れる。何故こんな山奥に人の手で作られたと思われる石垣があるのか不思議だった。そこからさて次はどちらに行ったらよいのか分からない。それでも“道らしい線”に沿って少しずつ進んでゆくが途中で道らしさを失う。この線は違ったと判断し、少し戻って途中からもう一つの道らしい線に沿って進む。倒れて腐りかかっている大木を潜り抜け、これが道かと首をかしげるような崖を登り上に出るとまた道らしさを失ってしまう。そんな時、前方に赤いテープが巻いてある木が目に入った瞬間、「おや? やっぱりこれは古道なのかも知れない」と思った。それはあの「地蔵峠」を越えるとき(塩の道・第2章)の経験から「道に逸れないように地元の人が要所にテープを巻いてくれているのだ」と思い出したからだ。ちょっと勇気が出て来てそちらに向かって歩き出す。
【木に赤いテープが!!】
しかしまた暫く進むと道らしい線が消えてしまう。この“道らしい線”とはもしかすると大雨が降った時に川のように流れる雨水が作り出す線ではないのかと考え始める。周りを見渡しても次の赤いテープが巻かれた木が見つからない。もう次の手が全く打てないで立ちすくんでしまった。薄暗い大きな杉林の中で道を失い一人になってしまったのだ。どうする? どうしたらいい? ふっとポケットに入っている携帯電話を掴んで取り出す。わずかな期待を込めて開くと、無常にも「圏外」のサインが出ていた。すると尚一層“ひとりボッチ”になってしまったという実感が襲って来て不安と恐怖で今にも泣き出しそうになる。

慌てず自分の感に頼って一歩一歩今来た道らしき線を戻ることにする。しかしいざ戻ろうと向きを変えると来たときの景色とは全く違った風景が眼前に広がっている。「確かにこの枯れ木の倒れ方には記憶あり」とか「この崖を登ったときこの木を掴んだはずだ」とか記憶と感に頼りながら移動しているのだが、これは本当にさっき通った道なのだろうか。

「神さま 助けてください」と祈りながら先に進む。必死に歩きながら「記憶と感は本当に正しいのだろうか?」、「まさか同じ所をグルグル回っているのではないだろうか?」と言った不安が頭を掠める。時計を見ながら「まだまだ日没までは十二分に時間があるのだから、何とかなるさ」と自分に言い聞かせる。いざ冷静になって来ると「これが所謂 遭難の状態なんだな」などと第三者の立場から見ている自分がいた。すると、ず〜〜っと先の方に黒い壁が見えるでは有りませんか。「おっ! あれは石垣に間違いない!」そしてその斜め上の雑草の生い茂る中に白く光るV字の草の切れ目が見えた。助かった!!

また暫くは山道の雑草を手でより分けながら戻ることになる。早くあの恐ろしい暗闇から遠ざかりたい気持ちは自然と歩くスピードを早めている。車の轍がしっかり見える辺に来ると本当に助かったと実感した。「城の越」に戻ってきたのが9:40頃だったが、さすればあの悪夢のような出来事はおよそ30分間だった事になるが、私には何時間も費やしたように感じていた。ガイドブックによれば「城の越」の名の由来は昔「三峰様」の尾根沿いの上部の小高い丘に“山城”があった為と書かれていたが、あの石垣はその名残だったのだろうか。

「城の越」に戻ってそこに立っている道標をよく見ると矢印が左下の方向に折れ曲がって表示されていて、つまり真っ直ぐでは無く道の右にある細い道を降りて行け、という事だったのである。杉や唐松の木々で暗くなっている林道を下って行くと、道は緩やかに右にカーブを切るがそこに“千国街道”の道標が立っていて一安心。暫く道に沿って先に進むと上り坂となり今度は緩やかに左にカーブを切る。と、その時 道を横切るように数本の大きな枯れ枝が置かれていた。「おや? このサインは この道では有りませんよ」と知らせてくれているのだろうか。どう考えてもこの枯れ枝が置かれた姿は自然に出来たものでは無く、人為的な行為と思われる。もう一度先ほどの“道標”のところまで戻ることにする。道標のところに来て矢印サインを見てまたビックリ。何と右に行く矢印サインが90度直角に下に折れた矢印だったのである。ということは、ここで道を右に入れという事だろうが、右に入るところが見当たらない。恐る恐るこの辺だろうと当たりをつけて草をより分けて入ろうと試みるが、1歩、2歩と入ると踏み倒した草がスッと起き上がって自分の後ろ側をすぐに塞いでしまう。3歩、4歩と入ってしまうと、今度は元に戻ろうとした時、正しく戻れるか不安になって来る。「もう、だめだ!」と諦めて今度は夢中になって“道標”までもどろうと背丈以上はある草の中でもがく。なんとか道標のところに出てホットしたが、遂に「ここまでで今回は天神道を諦めよう」と決心して城の越まで戻り、そこから今朝登って来た「島温泉」まで一挙に下り、そこからタクシーを呼んで大糸線「平岩」駅まで出てしまおうと決めた。

【城の越・右下に降りてゆくのが正しい】
【この地点で右に入る所が見当たらない】

島温泉の脇まで下りてきて、タクシーを呼んでもらおうと温泉宿の玄関を開ける。「すませ〜〜んが」と大声を出すと奥から宿の女将さんと思われる方が不思議そうな顔をして出てくる。そこで「この先の天神道を今朝上がったのですが、途中城の越のところで道に迷いまして諦めて戻ってきました。ここからタクシーで平岩まで行きたいのですがタクシーを呼んで頂けますか」とお願いすると、「いいですよ。だけどタクシーが来るまで15〜20分はかかるかねぇ。車がくるまでここで休んでゆきなさい。今、お茶を用意するから」と言う。そのご親切に甘えてお茶を頂きながらさっき起きたハプニングを話すと、「そうですか、よく【塩の道を守る会】の人たちが草を刈ったり、道標を立てたりしているのですが、道に迷いましたか。きっと梅雨が明けると草が急激な早さで成長してしまうので道を塞いでしまっていたのかも知れないね」と言う。

更に続けてゾ〜〜ットする話を聞かされた。「あれは10数年も前になるかなぁ、もっと前になるかも、ここに泊まっていた一人客が、朝早くこの裏山を登って平岩に出ると言って発たれたのだが、それから数日して彼の奥さんからここに電話が掛かってきたのだわ。まだ主人が帰ってこないので、そちらに泊まっていたはずなので何か事情を知っているかと電話してきたのだわ。それから大騒ぎとなって捜索隊が出て今日貴方が道を失ったと言う付近から捜索が始まったさ。そう、あれも夏の出来事だったね。何日も探したが見つからず、しばらく経って全く予想もつかない場所、国道の上に雪を避ける為の庇が作られているが、その庇の上に転落している死体が見つかったのさ。しかし何であんな方向に行ってしまっていたのか、地元の人たちが首を傾げていたよ」と言う。

冗談じゃない! 私は彼が何でとんでもない方向に行ってしまったか、その理由がよく分かる。その地を知らぬ者一人が山の中で道を失うとパニック状態になるのだ。私のように数十分で元の場所に出られたから良かったが、これが“記憶と感”が全く狂っていたら正しいと思いながら全く違う方向に進んでしまうのだ。背丈のある雑草を掻き分け、そして腐って倒れている木々を避けながら1時間、3時間、5時間と時間が経ってば平常心など全く無くなり、多分“焦り”だけが頭を襲っていると思う。そんな時にアスファルトの上を高速で走る車のゴムタイヤの擦れる音が耳に入れば、誰だって夢中でその音源に向かって全力で突き進むことになるだろう。だって生きる道がその先にありそうだから。しかし彼の場合は、その先には真下に国道が走っている絶壁が待ちかまえていたのだろう。

女将さんの話に今自分が体験してきたことをダブラせて、“生”と“死”は本当に紙一重であるとつくづく思っている時、呼んでいたタクシーが玄関前に到着。女将さんに「ご馳走になりました。そんな訳で“天神道”は通り抜けていませんので、来年でもタイミングをみて再度挑戦してみます。その時には島温泉に泊めてもらいますので、よろしく」と挨拶をしてタクシーに乗り込んだ。タクシーは「塩坂トンネル」、「湯原トンネル」、「大所トンネル」を通ると15分ほどで大糸線「平岩」駅前に到着。四方高い山に囲まれた姫川渓谷の底の部分に平岩の村落があり、駅前にはたった一軒の雑貨屋が店を開けていた。そこで昼食の食料でも買おうかとガラス戸を開けて中に入ると、そこのご主人は耳が遠いらしく会話が難しいと判断しすぐに出て、駅舎の中の待合室でリュックを下ろす。

駅舎に地元の若い男性が二人いたので、「ここから大網まで行くバスがあると思うのですが乗り場はどこにありますか?」と聞くと、駅前を右へ少し下ったところに十字路があり、その右角にあるとの説明してくれたが、男性二人の内の一人が「案内しましょう」と私を連れて行ってくれた。しかしバスは1日に3本しかなく次のバスは12時過ぎだった。これではどうしようもないのでまたタクシーを使わねばと考えながら駅舎に戻り一休憩を取る。
すると駅員室の中で用事を済ませたのか、さっきバス停留所まで案内してくれた男性が出てきて、「俺、これから大網の先まで帰るから乗せてってあげるよ」と言ってくれた。これはラッキーである。早速「お願いします」といって車の助手席に座らせて頂く。「駅員の方ですか?」と聞くと、同級生が駅員をしており今朝届けるものが有って丁度さっき届けに来ていたのだと説明されていたが、それにしても私にとっては余りにもグッドタイミングであったことに驚く。目の前に大きな岩山(だるま岩)が忽然と現れ、自動車道は険しい渓谷からクネクネと蛇行しながら上へ上へと高度を上げてゆく。
【大網諏訪社と「大網峠越え」道標】

地図によれば上りきった付近が「大網」の集落であり、「大網諏訪社」が在るはずである。そこで降ろしていただくことになっているが、彼は大網諏訪社を知らないという。やがて道が平坦になり民家が増えて来るとすぐに神社があり私の目に道標が目に入ったので、ここでお礼を述べて車を降りる。(10:50)
平岩駅前では昼食を買いそびれているので、この大網の集落に入ったら買おうと考えていたが、回りを見渡してもそれらしい店は全く見当たらない。これでは昼飯抜きで「大網峠越え」となってしまう。大丈夫だろうか。 諏訪社の前の道を挟んで反対側の三叉路の角のところにある“大網峠越え”の道標を過ぎて少し行くと左側に【JA大網】のお店があった。おコメ、味噌、醤油、長靴、洗濯石鹸、そして購入者の名前が貼ってある牛乳、野菜、魚、肉など生活の必需品が置いてあったが、その奥にパンがあった。助かった! さっそく菓子パン2ケ、チーズ1パック、チョコレートを買う。名前の貼ってない牛乳が丁度1パック残っていたのでそれも買って、レジの脇の椅子を借りてそこで昼食を取ってしまうことにする。冷たくひえた牛乳が喉を通過してはらわたに広がる。そしてクリームパンに噛り付く。もしかすると今日は昼食抜きかと覚悟した矢先に、こんな美味しい食事が取れるなんてと感謝の気持ちで一杯となる。店の方とお話しながら食事していると、近所の方がポツポツと買い物に入ってきて、私がチョッコリ座って食事している姿に驚く。そしてその後事情を知って皆さん大笑いする。この大網集落には50世帯ほどしか残っていないそうだが、村人に取ってここが大事な“情報交換の場”であることが良く分かる。トイレも拝借しすべて万端整って大網峠に向けて出発する。(11:10)
【大網峠登りの入口は墓地】
【街道がマレットゴルフ場に】

民家の間を抜けて村の外れに差し掛かると道は民家の裏を通り、次第に狭い上り坂となるが墓地の脇を通過して完全な山道に入った。すると道の所々にゴルフ場のグリーン上の旗のような物が立っている。なるほど、街道そのものが【マレットゴルフ】**の競技場となっているのだ。その内に道の右手に石像物群が一列に並んでおり、左手にはマレットゴルフの玉が崖下に落ちないように緑色のネットが張られていて、なんとも滑稽な塩の道・古道の姿である。暫くすると右手にマレットゴルフ場に鎮座ましている「芝原の六地蔵」がご登場となるが、赤帽子を被った地蔵さんの豊かな表情を見ていると、なんとも滑稽に感じてしまう。次第に道は細くなり完全な山道となった。

   **【マレットゴルフ】1980年頃 長野県体育センターで考案されたスポーツ競技で、ゲートボール用具
       を使用し直径15〜16cmのホールの中にボールを入れるまでの打数を競うもの。ゴルフのルール
       に類似しており、1ラ
ウンド18ホールが基本。ゴルフのような感覚で自然の中で経費を掛けずに
       楽しめないだろうかの発想で生まれたスポーツで、山の斜面や山道、河原など自然のままのアン
       ジュレーションをそのまま生かしたコース設計と
なっている。現在愛好家は全国で約10万人。


【芝原の石仏群とマレットゴルフコース】
【芝原の六地蔵の表情が面白い】
暫く進むと大きな沢に出っくわす。沢の下の方に木で作られた渡しの橋が見えた。「あれが塩の道だな」と判断してしばし沢伝いに橋まで下りてゆく。木橋を渡るとまたまた山道の登りとなる。その登りの手前に「塩の道はこちらよ」と導いているかのように小さな表示板が目に入って一安心。細い山道をただひたすらに歩く、歩く。
【沢の下流に木橋が見えた】
【木橋を渡って遥か先に道標が見えた】
もし上から降りて来る人がいても簡単にはすれ違うことが出来ないほどの狭い道幅なのだ。だが多分今この塩の道を歩いている人はいないと思われるので、すれ違う心配は無いはずだが。水が流れる音が次第に大きくなって来るので、沢が近づいて来たなと考えていたその瞬間、鬱蒼と生い茂った木々の中に忽然と「横川の吊橋」が現れ“ドキッ”とさせる。
【突然「横川の吊橋」が現れる】
【渡る前に一応構造をチェック】
吊橋に近づいて、渡って大丈夫なのかと足場やロープの掛け具合をチェックする。この吊橋は断崖絶壁の両岸を繋いでおり、橋の上から谷底を覗くとその谷の深さに驚き、そして吊橋の上を歩くリズムに合わせてユラユラと揺れるので冷や汗ものだった。

【吊橋の上から谷底を】
【牛の水のみ用の穴】

吊橋を渡り切ると道は沢に沿って急激な登りとなる。所々では道が沢の中に入り込み大小の岩を踏み越えながらの登りとなり呼吸は乱れ、汗が滝のように流れ落ちる。沢の水で手拭を濡らしそのまま頭から垂らすように被り野球帽で手拭が飛んで行かないように押さえる。顔にギラギラ差し込む太陽が、濡れた手拭から気化熱を奪ってくれて、涼しく感じて気持ちがいい。さっきから頭の周りをブ〜〜ン、ブ〜〜ンと飛び回っている“ウルル”と思われる大群が気になり始める。昨日の経験から手で撥ね退けようとすればするほど群れが大きくなるのを知っているので知らん振りする事にする。しかし昨日経験したような襟の中から入り込んできそうな瞬間は無いので助かる。もしかするとユラユラ揺れている手拭のお陰で余り顔や首に近づいてこないのだろうか。ひょっとすると“ウルル対策”には、このように手拭を頭から垂らすのが一番なのかも知れない。

クネクネと曲がる山道をただひたすら登ってゆく。沢が滝のようになっている脇をこれで何度横切ったことだろう。何度目かの小滝を通過すると道はグルリと回ってその滝の上に出たが、そこが「牛の水飲み場」という場所であった。滝の上の岩盤上に直径30cm、深さ20cmほどの穴が数箇所掘られていて、これは牛が水を飲み易いように作られたものとの説明板が立っていた。しかし本当にこんなに険しい細い登り道を牛は通っていたのだろうか。この急な登り傾斜と岩がゴロゴロしていて足場の不規則な構造の細道を牛が黙って歩くとは全く信じられないのだが。ここで牛と同じように私も休憩を取ることにした。(12:00)

【ブナ林の登り】
【不気味な形で絡み付いている根】
この急な上りを登りきった付近から道はなだらかな斜面に変わり、「炭焼き小屋跡」、「住居跡」の地を通過してしばらく進むと、道は白い幹と薄緑の葉が映えて美しい“ブナ林”の世界に入っていった。道が平らになり左に回りこむようにカーブしていたが、そのカーブを曲がりきるとそこが「大網峠」だった。(13:30)全然視界も利かない何の変哲もない峠であったが、同じ場所に3種類の“道標”が並んで立っているのが、何となくユーモラスに感じた。そこで一つの道標にリュックを置き、最も古い道標に“登山用ステッキ”を立て掛けてスナップ写真に収めた。
10分ほどの休憩の後、いよいよ今日最後の行程に入るが、これからは殆ど下り道を行くので気分的には楽であった。早速目の前に現れたのはブナの木々の間からエメラルド・グリーンの水面を持つ神秘的な「角間池」であった。池の脇の急な下り坂を降りきったところに大きな石の“道標”が立っていた。そこには“右、松本街道 大網、左、中谷道 横川”と縦に彫られているのがはっきりと読める。この道標が1818年(文化文政の時代)に糸魚川の禅宗の寺“蓮台寺”の「羅漢和尚」によって街道の安全を守るために作られたものらしいが、それからズ〜〜ット190年間もここに立ち続けている訳だが、この周りの景色は殆ど変わっていないが、変わったのはこの街道を往来する牛は皆無となり、人は極端に減ってしまったことかも知れない。
【大網峠】
【角間池が木々の間に見えた】
【神秘的な角間池】

【文化文政の時代の道標】
【これから下りてゆく根知盆地方向】
雑草がボウボウに生えた山道を下って行くと、草が水分を含んでいる為にズボンと靴をビショビショにする。すでに靴の中まで水気が入ってきて気持ちが悪い。ズルッと滑りそうな斜面に注意を払いながら下りてくると目の前に「白池」が現れる。白池の手前で道は急に広場のように広がりそこに「白池諏訪社」の白い祠がポツンと鎮座ましていた。
【鬱蒼と生える雑草の中を】
【白池と白池諏訪社の祠】
この付近は昔から“信越国境紛争”の地点であったそうで、今でも5万分の1の地図にはこの辺の県境線は載っていないと言う。白池の直ぐ側に「ボッカ茶屋の礎石」があった。更に下って行くと次は「日向(ひなた)茶屋」跡地に出る。ここでズボンと靴を乾かそうと休憩を取る。(14:30)茶屋の前の芝生の上で靴を抜いて大の字になって空を仰ぐ。

【ボッカ茶屋の礎石】
【日向茶屋の跡地】
10分ほどの休憩の後、ダラダラと下る山道を登山用ステッキを上手に使いながら下りてゆく。宿が近づきホットした瞬間に捻挫をしてしまうという話をよく聞いていたので、ここは慎重に歩を進める。途中からアスファルトの道になり道の端に車のタイヤの後が残っている所から判断すると、この辺は下から車で上がってくることが出来そうだ。地図で調べると、この辺の道は“古代杉運搬用の道路”と書かれている。道が大きく左の曲がるその角に大きな一本杉が立っていた。その一本杉の下に「大塞(おおざい)の神」と言われる石像があった。そこは見晴台のように視界が広がっていてこれから下りてゆく「根知・山口」方面がクッキリと見えている。
【大塞の神】
【大塞の神の所から根知盆地を望む】
とその瞬間、生い茂った雑草の中から動物が飛び出してきた。ビックリした私は無意識のうちに登山用ステッキをその動物に向けて身を構えた。よく目を凝らして見ると、それはどうやら“柴犬”のようだ。しかし目と目が合ってしまい、柴犬の方も牙をむき出して唸り出した。「ヤバイ!!」。犬のほうは斜め下を向きながら上目使いに「ウ〜〜〜、ウ〜〜〜〜」と唸り声を上げている。私もしっかりと犬の目から目を離さずにらみ付けていた。これは人に飼われていた犬が山に逃げ出し野生化してしまっているのでは、と不安が募ってくる。するとその時、道の下の方から犬の名前を呼ぶ声がした。それを聞いた犬はその瞬間に飛び跳ねて私を襲って来た。私の周りを吼えながらぐるぐると回りだす。きっと異常事態を飼い主に知らせているのかも知れない。私は登山用ステッキで頭を叩き潰してやろうと真剣になってそのタイミングを見計る。その動作は更に犬を興奮させてブルブル口を震わせ私に襲いかかるタイミングを見計らっているようだ。私は大声で「殴り殺していいですか!」と下から上がってくる飼い主に叫んでいた。山道をビックリして登ってくる飼い主が大声で「噛ませんから、何もしないで立っていてください」と返してくるが、このまま何もしないで犬の攻撃を受けるわけには行かない。

【犬の飼い主の別荘 後ろは「駒ケ岳」】
【飼い主と柴犬】

暫くすると飼い主が現れ、まずは私にピッタリ寄り添うようにして、犬に対して静まるように言いつけるが、興奮しきった犬は私と飼い主の周りを吼えながらグルグルと回っている。すると飼い主が私のステッキを取り上げ、それから犬に飛びつくようにして犬の首輪を掴んで抱え込んだ。しばし飼い主と犬はうずくまっているが、次第に犬の「ウ〜〜〜、ウ〜〜〜」という唸り声が小さくなって行った。それから飼い主が持っていた引き綱を犬の首輪に嵌めて、その引き綱の先を近くの木にくくり付けた。これで犬の攻撃は避けることが出来て一安心。それから飼い主と座り込んで暫くお話を続けた。「こうやって二人で仲良く話している姿を見て犬は敵ではないと判断するから、もう心配はありませんよ」と飼い主が言う。しかしこれが飼い主のいる犬でよかったが、これがもし猪とか熊だったらどうしていたであろうか。

飼い主の方は糸魚川に住んでいる方で、この下に別荘があり週末に上がってきては畑の世話をしているそうだ。いつも畑仕事が終わると犬の散歩に出てこの山道を途中まで登り、誰もいない辺りに来ると犬を自由にしてやろうと引き綱を外してやるのだが、まさか山から人が降りてくるとはとビックリしたそうである。是非別荘によって水でも飲んで行きなさいと勧められ、これも何かのご縁かと寄らせて頂く事にする。日陰になっている別荘のテラスで、しっかりと冷えた缶の「野菜ジューズ」をご馳走になりながら、この別荘はおよそ2年を掛けて何から何まで自分で作り上げたのだというお話を伺う。 もう一息の行程を残しているので、長居は無用とご馳走になったお礼を述べて立ち上がる。玄関先に繋がれていた柴犬が目を斜に構えて私を見ながら「さっきは驚かして悪かったな」と言っているようだった。(15:50)

暫く畑の中の道を下ると民家がポツポツと現れてきて「山口」の村落に入った。【塩の道資料館】のところに出るが、すでに閉館となっていて入口には鍵が架かっていた。そこから少し下ったところで道は県道に突き当たるが、その角に今日の民宿【蛇橋屋】があった。(16:10)まだ夕食には時間があるので、この集落の中に有る【塩の道温泉・美人の湯】に行って夕食前に汗を流すことにする。蛇橋屋から歩いて5分ほどの所にその温泉はあったが、そこは【糸魚川シーサイドバレー スキー場】の一角で冬場はスキー客で相当賑わうのであろうが、この夏の時期はビックリするほど閑散としていて人の気配が殆どない。しかしそんな環境が今の私には最高なのである。だ〜れも居ない大きな湯船に、たった一人、大きなガラス越しに稲田の青々とした姿を眺めながら今日の疲れを癒す。泉質はナトリウム・炭酸水素塩。
【塩の道のキューブ型道標】

【山口・塩の道資料館】
【正面左奥の建屋が民宿「蛇橋屋」】

蛇橋屋に戻り下着や持ち物の整理をしている内に夕食の時間となった。泊り客は私一人のようで、広い客間に食事が用意されていて、この部屋だけが冷房で冷やされていて気持ちがいい。この客間には大きな仏壇があり、鴨居の所には先代、先々代と思われる方々の写真が額に入って掛けられており、その隣には何かで貰った賞状が並んで掛けられている。

ビールを飲みながら料理に箸を入れていると、民宿の女将さんが、火を通した温かい料理を運んできて私の脇に座って話を始める。「今日はどこから来ましたね?」、 「そうかね、静岡県から塩の道を歩いているかね。」、「ウルルには襲われなかったかね?」、「今は害虫のウルルを退治しなくなって、逆に毎年ウルルの発生度合いを観察してどれだけ自然が保たれているかの指標にしいるのだよ」、「あんたが襲われた犬をよく知っているよ。あれは上のSさんちの犬だよ」と次から次にと話は止まらない。

そこで私から「“蛇橋屋”とは非常に興味高い名前ですが何か謂れが有るのですか?」と質問を投げた。すると、「爺さんから聞いた話ですがね。昔大久保に2匹の大蛇がいましてね。ある日 突然に子供が居なくなって、それは大蛇が飲んでしまったのだという噂が立った。ある晴れた日、積み重ねた薪の上で大蛇が日向ぼっこをしていた。子を失って怒っていた親は薪に火をつけて大蛇を焼いてしまったのだ。そして焼いた大蛇の骨で玄関先の橋を作ったと言う。それが“蛇橋屋”の起こりだと聞かされてきた。」

更に話は今日歩いてきた「角間池」や「白池」に関する“昔話”に及んだ。「白池に住む大蛇が逃げて角間池へ、そしてそれから野尻湖まで逃げていった。その時の涙の一つ一つが点々と池となって残っているという。私が子供の頃、野尻湖に遠足に行った時には絶対に“根知の大久保から来ました”とは言うな!と親から注意されました。その訳は“大久保から来た”と言うと大蛇が暴れて天候が悪くなるからだと教わりました。」そこで私が、「大久保に2匹いた大蛇の1匹が焼かれてしまったその悲しみで、もう1匹の大蛇が白池に逃げ込み、それから角間池へ、そして野尻湖へと“悲しみの逃避行”が始まったのですね。と言うことは、蛇橋屋さんがあの美しい白池や神秘的な角間池の“生みの親”という事ですね」と言って二人で大笑いをする。

話好きな女将さんと話をしていると時間の経つのも忘れ、気が付くとすでに8時を過ぎていたので慌てて席を立った。部屋に戻ると布団が引いてあり、その脇で扇風機がブルンブルンと音を立てて回っている。布団の上に大の字になって今日の長い一日を思い出していた。朝端から天神道で遭難しかけ、横川の沢登りでは害虫ウルルの大群に襲われ、そして白池からの下り道で柴犬と一戦を交え、本当に災難の多い一日だったなぁと思い出している内に深い眠りに落ちて行った。

25,464歩、15.78Km。

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