ようこそ 2004年 作品ページへ!

2004(平成16)年は 申年、私にとっては【還暦の年】でございました。この年も10月 巨大地震が新潟豪雪地帯を襲い(新潟県中越地震)

この復旧作業は雪解けの4〜5月以降から。しかしアメリカではイチローが84年ぶりに大リーグのシスラー記録を塗り替える【最多安打258本】を達成!

私はそんな年、どう言う訳か 【レトロ風】な絵を描いておりました。

その12月24日 クリスマスイブの日に会社を定年退職、10年続いた油絵の勉強が さあこれから家族に【粗大ゴミ】と言われないよう生活できるだろうか。

作品タイトル: 自画像 『還暦を前に』

製作年月日: 2003年12月12日〜2004年4月6日

サイズ: F6

自画像の2作目。早速このHPのトップページに掲載しました。
名古屋在住の弟を訪ねての夜、彼の行きつけのクラブにて記念写真。
その写真を油絵にしてみました。1999年春にも自画像「40歳代」を描いていますが、その後20年ちゃんと成長できたのか顔はどのように物語るのでしょう.

作品タイトル: 『都電 霞町 停留所』 (昭和36年)

製作年月日: 2004年4月6日 〜 2004年12月27日

サイズ: F8

自然保護の面から都電文化が最近見直されているという。私たち子供の頃は都電が生活の一部にしっかりと根ざしていた。都電停留所を降りた目の前に軒を並べて八百屋、魚屋、本屋などがあった。その人間らしい構図が懐かしい。そこで【都電の歴史】という本を引っ張り出して眺めていたら、この霞町の写真に引き付けられたのだ。子供の頃 この2つ先の停留所で降りて親類の家に訪ねた記憶がある。周りは藪だらけで 夜、狸が出ると聞かされたものだ。今は夜の蝶が徘徊すると聞いている。白黒写真を色付けするのが難しい。あの時代 省線電車は濃いあずき色であり 都電はくすんだ緑色だったように記憶しているが、とにかく原色のものはなく、何もかもくすんだ色だったように思う。そんな感じが表現できたであろうか。

<付記>今は霞町の名前は残っておらず、この交差点を「西麻布」と呼んでいます。この絵の都電7番は「青山一丁目」方面から霞坂を下って来て品川方面に向かいます。停留所の前のベーカリーや八百屋の場所は 現在石垣の上に家が建っており『権八』という和風居酒屋に変身しておりました。2002年2月18日 ブッシュ大統領が訪日した際に小泉首相が夕食に案内した店であります。都電の後方が「青山墓地」であり、そして都電の進行方向 次の停留所が「赤十字病院下」、そしてその次が「広尾」で現在の地下鉄「日比谷線」の広尾駅です。

◎2005年清水アトリエ展出展

◎2008年文京区役所いきいきクラブ作品展示

◎2008年11月〜2009年3月 河野歯科医院にて展示

作品タイトル: 『かのひとの祈り』

 製作年月日: 2003年12月9日 〜 2004年12月27日

 サイズ: SM (23 X 16 センチ)

私の母が詩を作っては筆で書き残し、時々私の所に持ってきて説教する。
”幸せは忍耐の枝に咲く”
に引き付けられて、この詩に合った絵を描いてみたいと素材を探した。ある日古い「NHK俳句教室」の雑誌の中にポックリを履いたお嬢ちゃんとその母の白黒写真が目に止まった。神社の前でかがみ込んだ母と子供。その母の部分のみを「おみくじ」を木に巻きつけている姿に表現した。 
“何かを祈り、じっと耐えている姿”に描いてみたかった。

<追記>2005年「アトリエ清水1月展」(1月9〜15日)には上の「都電霞町停留所」とこの 「かのひとの祈り」の2作品を展示。この会場となっている【いきいきプラザ】は千代田区の文化センター多目的ビルだが 7階に11世帯のお年寄りが住んでいると言う。そこに住む大正15年生まれの女性が 私の会場当番の日(10日)の夕方6時ごろ油絵会場に姿を現した。正月明けの3連休の最後の日の夕方、もう会場のある1階ロビーには誰もいない静寂な夜の出来事である。私は 会場受付の席で、終了時間の7時までは あと1時間と思いながら一人本を読んでいると、この女性がゆっくりゆっくりと各作品を見て周り、1周したところで 私が 「すみませんが ご記帳をお願いします」というと、 「もう一度 見ていいですか?」 と言う。すぐに「勿論です。どうぞ何回でもごゆっくりご覧ください」と返した。するとその女性は『かのひとの祈り』の前で 気のせいか他の作品よりも長い時間立ち止まっているように感じた。ご記帳いただいている時に 「あの〜〜〜〜ぉ、あの女性の絵を描いたのは私です」とずうずうしく言ってしまったのだ。 するとその女性が、「あの絵をみてヒヤットしたのです。“忍耐”という字が私の目に飛び込んで来たのです。私はもう年で目が良くないのですが、どうしてあの字だけがクッキリと見えたのでしょう?私は “一に忍耐、二に忍耐、三に忍耐、四にこれ人生”で生きてきました。 だから飛び込んで来たのでしょう」 と。それから終了時間が来るまで 私の母と同世代のその女性のお話を母とオーバーラップさせながら聞いておりました。退屈であったはずの最後の1時間はとっても充実した時間になりました。

◎2005年清水アトリエ展出展

◎2008年10月〜 伊那市小料理屋『みつはし』にて展示中

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