<エッセイ> 「伊那谷と私」
9月に入った最初の日曜日。窓の外の「山法師」の木に真っ赤になった実を小鳥が摘み取っている。その小鳥が食事を止め羽を広げ嘴で繕いをしている。夏の終わりを告げる太陽光線もここではまだ強い。庭の奥に鬱蒼と生える赤松林からは 気持ち元気を失ったように聞こえるせみの鳴き声。今大きなカラスが飛んできて一瞬せみは鳴き止んだ。瞬間の静寂。その木々の間から真っ青な空が見える。 |
<南アルプス: 仙丈ケ岳>
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私は強い太陽光線につられて ベランダにせっせと布団の虫干し。真っ白に光るシーツの上に 真っ赤な赤とんぼが羽を休めている。時々木々を柔らかく揺する風が何とも爽やかである。ここは 何とのどかで平和な時間を提供してくれるのだろうか。
「ここ」とは 我が社の工場がある長野県 伊那市郊外(美すず六道原)であり、私は単身赴任中の身である。我が社ではドミトリーと称しているが 山奥の工場を訪ねて頂いたお客様に宿泊頂く為に用意された施設であり、林に囲まれコテージ風に設計された平屋構造は 一般に連想される社宅とは異にしている。この一室が私の「ここ」である。
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実は 私がまずここで最初に発見したものは 失いかけていた「一人の時間と空間」であった。「観る」「聴く」「書く」「画く」「思う」「想う」は時には一人の方が理想的である。勿論 人間が社会の中で一人で生活して行くことは不可能で 家族、会社、地域、国などの組織を否定するつもりはない。生活を続ける中で「自分一人になって 考える時間を作る」事が如何に大切かに気づいた訳である。高スピードの文明の進化はそのチョッとした時間を一人一人から失わせる負の要因を持っているのではないか。TVの深夜放送、24時間コンビニ、そしてコンピュータが作り出したドッグイヤーベースでの進歩、その結果として それぞれが誰かに追いかけられる様な不安に慄き、それぞれが一人一人の時間を失い、いやむしろ一人になる不安を避けようとしながら生活しているのではなかろうか。 私は「ここ」で 毎朝6時に起き近くの田んぼの畦道を散歩することにしている。 目の前に聳える中央アルプスの山々、畦に咲く小さな花々と虫たち。それぞれが毎朝形を変え 目と心を楽しませてくれる。 ある朝 私は考えた。今朝は何匹の蟻さんを踏み殺しただろうかと。田んぼのアスファルトを張った畦道には 大蟻、中サイズの蟻、小さな蟻が忙しく走り回っている。本当に忙しそうだが、一体すべての蟻さん達はそれぞれ目的を持って行動しているのだろうか。ある蟻さんの上空が急に陰ったかかと思う瞬間、ご臨終である。それを覚悟している蟻さん達は、それでも参らない数だけ子孫を増やしているのだろう。 一匹の蟻さんが餌をせっせと運んでいる。アスファルト道は手際よく餌を引っ張っていたが 草地に入るや 枯れ草に餌が引っかかり二進も三進も行かない。この蟻さんは諦めるだろうか。ジーと観察していると 何と枯れ草の反対側に行って枯れ草と地面との隙間から 引っ張りこんだではないか。驚いた私はその蟻さんの巧みな技に拍手を送った。 しかし 蟻さんにそんな知恵は有るはずが無いと どうしも納得が行かない私。そこで絶妙な解決案が閃いた。蟻さんは何度も何度も餌を引っ張ったが枯れ草に引っかかりピタリ動かないので諦めたのだ。これが「自然の哲理」と知っていて仕事を止めたのだ。そしてまた無作為に歩き始めたら 枯れ草の下に餌を発見したのだ。そこで 枯れ草の下から引っ張り込んだら その餌が上手く枯れ草の下を通過しただけなのだ。 私もこれまで仕事で、ある暗礁に乗り上げ二進も三進も行かない経験があった。知恵のついた人間は その限られた知恵の中で 何とか解決しようともがき悩む。しかし蟻さんは教えてくれた。「一旦その問題を離しなさい。そして原点に戻って考え直せば 妙案が生まれますよ」と。 |
またある朝、畦の脇の草の中から一本だけスーと伸びたキクイモ(キク科)の花が「今朝咲いたばかりよ。」と話し掛けるように顔を私に向けている。このまま通り過ぎると花はそのまま私を追いかけるように顔の向きを変えるのではと感じ 立ち止まった。燃えるようなダイダイ色をした花びらはピンと伸びていて力強い生命を感じ、私は花に顔を近づけて ソーと息を吹きかけた。その瞬間 花と会話したという喜びが私の心の中に広がり 少しひんやりした草息の匂いのしみ込んだ空気を体全体に吸い込みたいという衝動にかられ 胸いっぱいの深呼吸をした。私の毎朝行くこの「畑の運動場」を紹介しょう。この地域は諏訪湖から流れ出る天竜川沿いに出来た日本一の河岸段丘の上にある。この段丘が発達した背景には日本の屋根である南アルプスと中央アルプスが上昇運動をし いくつもの断層を作り その落ち込んだ窪みには天竜川が流れ込んでいる。私の「畑の運動場」は天竜川の東に位置していて 正面には中央アルプスの権兵衛峠、右に経ヶ岳、左に木曾駒ケ岳の霊峰が聳えている。 |
<正面に権兵峠を望む畑の運動場>
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後ろを振り返れば 南アルプスの仙丈ケ岳が控えている。「畑の運動場」の広さは コの字に三方向がスッポリ松林で包まれており 一方だけが なだらかに天竜川に向かって段々と傾斜しているパノラマ舞台であり 横幅およそ500メートル 縦がなだらかな傾斜で1キロメートルほど続いているだろうか。 その先は一段下がって林に繋がっている。この広さは 何とも心地よい空間で 朝一人で歩いていると 自分のためにこの空間は用意されているのだ という錯覚に陥る。時々 遠くのほうで農家の方が仕事をしていることも有るが、はるか遠くなので 殆ど一人舞台の空間なのだ。 春の早朝、田んぼで田植えが始まった頃、この「畑の運動場」の上空はるか高い所を ひばりが 気が狂ったかの様に長い時間囀る光景は 「なんで あのように小さい体にあのようなエネルギーが蓄えられているのか」という疑問を与える一方で その日の活力を与えてくれている。これは二日酔いの朝などの妙薬になっている。 先ほどまで 力強く差し込んでいた太陽の光が 一瞬陰った。きっと秋の雲の動きは早く 太陽を横切ったのだろう。布団の上に泊まっていた赤とんぼが数匹に増えていてその内の一匹が 突然スーと急上昇したかと思うと 旋回してまた布団の上に着地し羽をハの字に折って休みの体勢を取っている。 |
1943(昭和18)年、この地 伊那には別の「赤とんぼ」が飛んでいた事を知った。 1937(昭和12)年夏から日中戦争の戦火が拡大し「日中全面戦争」となるなかで、「国家総動員法」が制定され、天皇陛下の命によりとして 「ここ」のすぐ近く六道原に隠匿飛行場「陸軍伊那飛行場」が作られたそうだ。この地が選ばれた理由に 山間の中で敵にきづかれない場所、伊那の河岸段丘の部分があたかも航空母艦の船首がそびえ立っているように見え そのような空母に発着陸する想定で訓練するには最適の場所と判断された為という。 |
1943(昭和18)年末には、学生の徴兵制度延期が停止され、徴兵年齢も19歳に1年引き下げられ この年の12月 第一回学徒出陣が行われたそうである。日本の未来を背負うために学ぶ学生たちが、学業半ばで戦地に送り込まれ、次々と命を失ってゆくことになったそうだ。民需産業の設備を壊し、その金属を兵器の生産にまわすなど 食料をはじめ生活物資もいちじるしく不足する事態となり、政府は言論を統制し このような事実を国民には知らせず 日本精神を強調し国民の戦意をかきたてたと言う。 この時 「国を守る」を一途に志願してきた若き青年達が「特攻隊員」訓練生としてこの陸軍伊那飛行場にもいたそうである。凍りつくような寒さの中での訓練、物資不足の中で作られた貧弱な練習機、その日の風向きによって ある時は南の空へ、また時には北の空へと飛び立ち 伊那谷の上で連帯飛行、トンボ返りと、遠くからは あたかも「赤とんぼ」に見えたそうである。 ここ伊那市は 東京からJRなら中央線で新宿から特急「あずさ」に乗り岡谷で飯田線に乗り換えおよそ3時間半、新宿から「中央高速バス」で駒ヶ根市行きを利用しても3時間半の まさしく本州の僻地と言えようが、私にはあの時代にこの地に飛行場が有った事が大変な驚きであった。私が詳しく陸軍伊那飛行場の事を知ることが出来たのは 当地の高校の先生が この地の貴重な体験が将来に生きる人々の平和に役立てばと 生徒に自主ゼミと称して陸軍伊那飛行場について調査させ 発表した内容を本にまとめた書「伊那谷の青い空に」(久保田 誼 著 銀河書房)を手にすることが出来たからである。 この本の中には 特攻隊員として伊那の飛行場で訓練を受けた人々の経験談も載っており、その中で私に強烈な印象を与えたお話を一つ紹介してみたい。 『Mさんは昭和19年10月 陸軍伊那飛行場に訓練生として配属された。伊那の印象は 「兎に角寒いところ」だったが、練習のない日曜日に外に出れば近所の人は家へ上げてくれてもてなてくれた。下駄スケートをはき付近の子供たちと氷上を滑った思い出。料理屋でたらふく食べた休日。郷里から、はるばると母親が伊那のMさんを訪ねたのは、厳しい信州の冬が飛行場を凍てつかせている頃だった。瀬戸内海に面した温暖な広島から、列車を乗り継いだ不 自由な旅路の果てに、成人まもないわが子との「別れ」が待っていた。 激寒の20年2月、窓をすべて遮蔽した軍用列車でMさんは九州に向かう。それから朝鮮に送られ 生きて返れるあてのない特攻隊配属となる。Mさんが 郷里広島に「新型爆弾」が投下されたことを知ったのは8月10日 特攻出撃命令が下った後だった。「・・・・私も すぐに行きます」 伊那に「別れ」にきた母を送った時の さみしそうな母の後ろ姿が瞼にうかぶと、Mさんは 心の中でそうつぶやいた。しかし いつまでたっても発進命令は出ない。そして8月15日飛行訓練中止。翌16日 敗戦が告げられ Mさんたちの運命は死の面前で転換し 生へと向かった。「死地に向かう私を送るために訪ねてきた母が逝き、送られたはずの自分が残った・・・」 あの日の母のさみしそうな後ろ姿が忘れられない。』 |
いつの間にか 外の太陽光も弱くなったように感じる。あわてて布団を取りにベランダにでる。ガラス戸の音に驚いたか「山法師」に留まっていた鳥たちが一斉に飛び散った。
遅い昼食の用意をしながらTVのスイッチを入れる。「今日は防災訓練の日 9月2日 日本の各地で防災の訓練が行われています。飯島町(飯田市の隣の町)でも直下型地震が襲った想定で町全体で防災訓練を行いました。」とのローカルニュース。それで外の拡声器の声が 農協組合連絡網のスピーカーからの この地域での防災訓練に関連した放送であろうと想像がついた。 直下型地震!こののどかで平和な伊那谷は、実は日本で最大の地層の割れ目「中央構造線」の脇に位置している。中央構造線とは恐竜時代頃(2億年前)から有った日本列島を縦断する大断層(九州熊本から大分の脇を通り四国佐田岬から四国山脈の北側を横に走り紀伊半島の和歌山市を通過し伊勢から渥美半島を抜けて北東に向きを変え伊那山地と明石山脈の間を抜ける断層)であり日本列島を縦に割った「フォッサマグナ」に茅野市付近で繋がっている。フォッサマグナとは日本列島を縦に割った断層で 幅を持った大地の割れ目(大地溝帯)で西のふちは日本海側の糸魚川から大町・松本・岡谷を通り静岡県・御前崎に至る350km、東のふちは はっきりしないらしいが新潟県柏崎から千葉の銚子を結ぶ線にあたると言われている。2億年前には この大地溝帯は海の下(フォッサマグナの海)で なんと東京都も海の下だったかと思うと驚きである。その後長い年月を経て中央構造線の西側が隆起を繰り返し 日本最高峰の北アルプス、中央アルプスを創り上げた訳で 従ってアルプスの山々や、戸隠の山などから貝の化石が発見されている。 まだまだこの地殻変動の活動が止んだ訳ではなく脈々とアルプスの山々が空に向かって伸びているとすれば こののどかな伊那谷も「いずれ 直下型地震に襲われるかも」を誰も否定は出来ないだろう。「くわばら!くわばら!」 |
伊那谷の物騒な話をしましたが、伊那市の自慢話を一つ。これが自慢と言えるか疑問だが、日本で飲み屋の数の人口比は大阪に続く第2位だそうだ。昭和30年代に 「こひがん桜」で有名な高遠城址の脇に高遠ダム、次にその隣の長谷村に美和ダムが連続して造られ その時全国から大勢の労働者が集まり、夜の光を求めて天竜川脇の伊那市歓楽街に繰り出てきたらしい。 飯田線伊那市駅から隣の伊那北駅まで 線路に並行してはしる路地の両側は飲み屋が密集して軒を並べており 今もその面影は十分に残している。私も単身赴任の身、時々訪れる小料理屋がある。ここのお上は朗らかで気風がよく「伊那の前は深川にいたよ。」が口癖で その頃活躍した話にはいつも力が感じられて心地いい。 この店は週末土・日曜もオープンしており単身赴任者連中には救いの場所でもある。 お上さんの性格の良さは地元の旦那連中にも人気が有るようで いつも常連客で賑わっている。6〜7人が座れるカウンターの上には季節に合わせた山菜ベースの手料理が5〜6種 大型のお皿に盛られており これが格別の味を提供してくれる。カウンターの左奥には いつも常連の旦那衆(信州人)が座り 私ども異国人(単身赴任組)は右手の入口に近い所を定席としている。 |
「信州人」に関しては なんやかんやと批判されたり揶揄されたりすることが多いと聞く。 山岳地帯のわずかの平らな空間に住処を構えた集団、地勢的にも経済的にも貧しい地域だが 西と東を結ぶ街道が山間を縦横に走る要地に位置しており昔から情報だけはどんどん入ってきたようだ。江戸時代にも信州には11もの藩があったそうで明治に入り廃藩置県を繰り返し 藩が12県となり 北信部分が「長野県」南信部分が「筑摩県」の2県に統合され 明治9年現在の「長野県」が生まれたという。 そのような歴史の背景か 長野県民は1つに纏まれず今でも北信と南信の間では「南北戦争」が繰り広げられているという。県庁所在地論争(長野市にあり)、飛行場建設論争(松本市にあり)、国立大学論争(長野市、松本市に学部別に置き長野大学とは言わす 今もって信州大学と呼ぶ)を重ねてきているが、最近の話としては1998年冬季オリンピックが長野市で開催され、長野市は松本市に冬のスポーツの華であるアルペンおよびジャンプの競技場を渡す気の使いよう。しかし松本市民は盛り上がらず他人事のようにオリンピックを捉えていた。南北は仲が悪いのに ところが一歩県外に出ると一つに纏まり 長野県人が集まる場所では 必ず「信濃の国」の歌を唄うのである。こんな不思議な国だからこそ外からも人気が無く批判され易いのだろうか。 戦国時代 南信は甲斐の武田信玄の支配下で 一方越後の上杉謙信が天下盗りを狙い北信に進入 信州を舞台に一進一退の攻防を繰り広げていた頃、越後の人々が信州人を批判して 次のように「信州七不思議」を言っていたそうで有名な話だそうだ。 『よき仏(善光寺のこと)あれど 信ぜず。 山多けれども 生木をたく。 田畑少なけれども 大飯を食らう。 水清けれど 顔を洗わず。 茶の木なくして 大茶を好む。 海なけれど 塩辛きを好む。 論多くして 事進まず。』(参考:「不思議の国の信州人」丸山一昭・岩中祥史 共著 KKベストセラーズ) という酷な内容ではあるが、信州人の生真面目さ、プライドの高さ、器用さ、そして勤勉さによる努力で 痩せた山間の土地に農業(くだものと近郊農業)を興し、精密機械産業(時計、カメラからIT産業)を発展させ、今では 「住みたい県」の全国アンケートで第2位(第1位は富山県)にランクされ 人々の考え方も変わって来ているようだ。
気が付くと外はトップリ日が暮れ ガラス戸には ノートブックPCに向かう私の姿が写っている。さあこれから夕食の支度の事を考えねばならない。それとも一層のこと 例の小料理屋に行ってしまおうか。 「ここ」での生活が私に「一人の時間と空間」を与えてくれている事に感謝しつつ ノートブックPCの電源を切った。<完> |