<エッセイ> 伊那谷と私(冬編)
2002年は静かにやってきた。今年の冬は寒暖の差が激しいという気象予測だが今年4回目の日曜の朝は ここ伊那谷は真っ白な世界で明けた。窓の外はボタン雪がコンコンと庭に降り注いでいる。冬場は庭の奥の赤松林は葉を落とし我がドミトリー「ここ」から木々の間を通して仙丈ケ岳を中心に南アルプスの山々が垣間見えるのだが、今日は厚い雪雲が低く垂れ込めている。
ベランダのガラス戸を30センチほど開けて室内空気の入れ替えである。すうっと外の冷気が入り込んで来るが その間にラジオ体操、屈伸・腹筋運動などを20分ほど行う。冬はさすがに 毎朝の「畑の運動場」通いは難しくこのように室内体操に切り替えている。それでも運動不足になりがちで それを補うために週末は出来る限り近郊を2〜3時間歩くように努めている。そして「さあ今日はどちらに向けて出発か」と毎回この散歩コースの選定が楽しいのである。 |
よくこの散歩コースに組まれるのが 「ここ」から東に位置する「手良」と言う名の村落を通過するコースである。手良は諏訪地方と高遠を結ぶ街道上に位置し 伊那山脈の山あいに包まれるように昔を残した集落で 藁葺き屋根の母屋、街道筋に建つ土豪の屋敷跡、そして すでにお役御免となり寂れた姿で立っている火の見やぐらなど 一つ一つ昔の発見が楽しいのである。 |
この小さな集落には、真宗寺、松尾神社、貴船神社、大照神社、八幡神社、八幡宮、そして清水寺などが鎮座まし 豪華な名前の社寺ばかりであり何かこの一帯が由緒ある歴史を抱えているのではと興味をそそるのである。さらには地名に 八ツ手、堀の内、垣外(かいと)、大和などがあり これまた不思議な地名である。散歩をしながら「なぜ?」「なぜ?」の連続である。その疑問も地元の人のお話や書物から少しずつだが解明されて行くのがこれまた楽しいのである。 |
この一帯は縄文時代から人が住み着いていたと言う。その証拠として最も有名なのが塩尻の郊外「平出(ひらいで)」から縄文土器、古墳、そして平安時代の高床式住居跡などが発掘されている(平出遺跡)。手良の八幡神社も平安時代の建立とかで、大木の森の中にひっそりとたたずんでいる。薄暗く冷たく静止した空気は歴史の重さを感じると同時に何か不気味さを感じてしまう。また手良の隣に「笠原」と言う集落があるが、平安時代に朝廷に献上する馬を育てる中央政権直轄の牧場「御牧(みまき)」だった事が「吾妻鏡*」などの古文書に書かれていると言う。 *「吾妻鏡」==鎌倉幕府の半公的記録集で1180年(治承4年)の頼朝の 挙兵に始まり1266年(文永3年)の六代将軍宗尊親王の辞任・帰京に終 わる鎌倉時代史。名文であると同時にきわめて難解な書と言われている。 |
さて「不思議な地名」に就いてだが、「上伊那の地名とその由来」(松崎岩夫著 ほおづき書籍刊)により少しずつではあるがクリアになった。その説明によれば、 『地名とは古い時代 いつの間にか発生したもので、現在地名表記に使われている文字は 後世にな ってその発音に対して地名の意味も考えず適当に当て字されたものである。』 との事で、 これまで私は地名の漢字からその地域の歴史を想像していたが、それが違うというのには驚かされた。この解説を2〜3拾ってみよう。 |
<笠原の村落>
『手良の地名の由来は「たいら(平)」から派生したもの。「たいら」−>「てえら」−>「てら」 に変化して 後に文字が使われるようになった時期に「手良」を当て字したもの。ここ付近はこの地域としては確かに広々として平らな地形である。八ツ手の由来は 「やつ」(谷津)あるいは 「やち」(谷地)がもとで 沼地、湿泥地を意味する。「手」は接尾語で所、場所をいう語と考えられ「山の手」の「て」と同類語。確かにこの辺では古代 水が湧き出し湿地帯で農耕が盛んでったと言われてる。垣外(かいと)の由来は、駒ヶ根市の検地帳資料から見ると江戸時代以前には「かいと」の表示は皆無であり 屋敷、集落の外で、山、川沿いの低湿地で日照条件の悪い所でそれまでは放置されていた悪条件の土地も開墾せざるを得なくなった結果として生まれた江戸期以降の新規開拓地だと考えられ、「開戸」「貝渡」「海戸」など種々当て字があり県内にもこの地名が散見される。』 |
以上が学術的な地名の由来説明だが、私は地名の漢字からその村の由来を想像する性質(たち)なので、「手良」という奇妙な地名は もしかすると“この地域は高遠文化が盛んであった時代から 木彫師や「守屋貞治*」に代表される石工が大勢いたことから「手が良い=匠の集まっている地域、それが手良」“なんて勝手に想像していたのだが。 伊那谷での散歩はどんな方向オンチな「来たれもの」(外来人)にも安心してコース取りが出来るのが特徴である。その理由は伊那谷が「雨樋」の形をしているので 予定していた道を失っても「とにかく下に向かえば天竜川に出る」と理解さえしていれば すぐに道の軌道修正がきくのである。つまりこの地域での散歩は全く安全なのだ。 「旅の安全」といえば、この地域には道の角々に「道祖神」が祭られており、中国では「旅の安全を守る神道の守護神として信仰されていたものが、仏教と共に伝わり“無病息災“”縁婚“”豊作“などの願い信仰として流行ったもの」と言われている。しかしそれが何故に道の角に祭られているのだろうか? |
信濃路をたどるとどこでも行き逢う道祖神、その石に刻まれた年代をみると 殆どが徳川中期から明治初期に集中しており この百年間に大変なブームが有った事がうかがえると言う。この頃は江戸文化が花と咲き天下泰平をうたわれた時代だが 歴史を裏からのぞくと実はやりきれない暗い時代であったようだ。飢きん、悪病、百姓一揆が合いつぎ、子供はバタバタ死んでいった。泣き叫んでも神様も仏様も何にもしてくれない。そんな時 現れたのが「道祖神」であった。民衆が誰の指図も受けずに このような愛の形をうんだのである。だから社殿もいらない。お経も要らない。ただ道端にたって人々の心をとらえ、笑いを取り戻してくれたのである。とにかく一時代は道祖神が村の中心となり 祭りも集会もその広場で行われ「嫁さがし」から「子供のひきつけ」まで何でも困ったことをお願いしたそうである。 一見華々しかったような20世紀後半、実はエイズ、ヤコブ病そして狂牛病などなど人類が自から破滅の病を作り出し、21世紀を迎えてもテロ戦争など無作為な殺人を仕掛け、ますます大人はモラルを失い続け、更に自信までも失い、日本経済ですら いつまでもデフレ・スパイラルから脱しきれないで喘いでいるのだが、一層のこと「平成道祖神」が生まれてくれないだろうか。(ア〜〜メン) さきほどから こんこんと降っていた雪は 少し小降りになったようだ。屋根から垂れ下がっている数本の「つらら」から雫がポツリと落ちた。外の気温が少し上がり始めているようだ。奥の赤松林では 木の上に溜まった雪が自重に耐えられず、塊となって落下しどさっと音をたて地面で雪煙をあげている。
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『理不尽さが詰まった世間に、しかしその世間に甘えて生きている自分に ああ有りがたや、雪がこうして我(世の塵)を隠してくれる』と乞食俳人「井上井月(せいげつ)」が詠った俳句である。 手良の集落から「ここ」に戻ってくる途中、六道原の稲田の中央にポツンと「井上井月の墓」がある。しかしすぐ近くを高遠に抜ける村道が走っており 車の量が多い為に井月の墓は私の散歩ルートからは外され気味なのだが、畑の中に2本の大きな杉の木が空高く伸び その根元に卵型の井月の墓が在り、遠くからでもその杉を望むことが出来るのでいつも散歩途中での位置確認の目印となってくれる。 |
井月は1822年(文政5年)越後・高田藩の武家に生まれ 後 長岡藩・井上家の養子となり 若くして江戸に遊学し俳諧のほか書道を学び 一旦国に戻って結婚し一子を持つが どうしても好きな学問を続けたいと再度江戸に単身赴任。井月曰く「独り者の方が江戸では気楽で良い。何か一つを得ると言うことは、何か一つを失うことなのだ」と。しかし1844年(弘化元年)上信越地方を襲った地 |
震により長岡城下も多大な被害を受け その時発生した大火災により 井月は 妻も、娘も、叔母も、義父も、義母も一瞬にして失い 本当の「独り者」となった。 すべてを失った井月は武士でいることをやめ、諸国行脚の旅にでる。江戸末期1858年(安政5年)36歳の井月は伊那に現れ、俳句に志のある人の家々を泊まり歩いたり野宿をして伊那谷をさすらい、1887年(明治20年)にこの美すず六道原にて65歳の生涯を閉じたという。芭蕉を師と仰ぎ、与謝蕪村の「蕉風に帰れ」をそのまま引き継ぎ伊那谷でその蕉風を教え、酒を愛し、自然を愛し、人には乞食と馬鹿にされながら しかし自由に生き抜いたことは 羨ましい限りである。
用のなき雪のただ降る余寒かな (井月)
この正月休みの時「井上井月伝説」(江宮隆之著 河出書房新社)を読んでいたのだが、偶然にもNHKドラマで西田敏行が演ずる「一茶」(田辺聖子原作)を放映していた。 井月は「来たれもの」であったが、一茶は純粋な信州人であり、1763年(宝暦13年)北信濃・柏原村(現在の信濃町)の中百姓の家に生まれ 3歳にして母を失い、15歳の時 江戸に奉公に出される。 我と来て 遊べや親のない雀 (一茶)
当時の貧しい農村での“口減らし”の目的が有ったのかも知れない。それは松尾芭蕉が5ヶ月の漂白の旅「奥の細道」に旅立った1689年(元禄2年)から90年が経っており、そして井上井月が伊那に現れる80年前の出来事である。一茶・井月の共通点は 地方から中央(江戸)に出て、俳諧の道(蕉風)を学び、後に地方に戻って貧乏俳人として俳句の道を広め 共に65歳で人生のドラマに幕を下ろしたという点であろうか。 |
しかし私にはこの俳人二人に大きな相違点を感じるのである。俳諧の世界に入る過程にも大きな違いが有るようで、一茶は冷たく放り出された家族を見返してやろうという俗人的な心因がそうさせたのではと感じるが、井月の場合は青年時代の純粋に学問へ傾ける情熱が その世界にのめり込ませたのではと思う。井月は不幸にも22歳にして家族を失い もうこれで何も失うものがないと一人俳諧の世界に埋没するのだが、一茶の人生は違っていた。江戸に出て 美麗な富豪の女性をスポンサーにし、40歳を過ぎると時々故郷に戻り財産を半分よこせと遺産相続問題に取り組み、50歳で故郷に戻り28歳の嫁をもらい、精力剤を愛用しながら子作りに励むも すべて育たず、結局 結婚3回、3回目は65歳の時で33歳の子連れ妻との結婚だが同年暮れに他界、遺腹の娘は翌年誕生。いや早何とも壮絶な、そして忙しかった人生ではなかろうか?
老らくや生き残りても同じ秋 (一茶)
外に目をやると、もう完全に雪は上がっているようだ。さっきまで真っ白くフカフカ綿のように見えていた庭先の雪も いまはしっとりと湿った絨毯のようで 雪雲の合間から差し込む太陽光で光っている。外は相当気温が上がっていると思える。しかし冬の午後は短い。もうすぐに暗くなり気温がガラリと変わりさっきまで光って見えていた雪の面はツルツル滑る氷面に豹変するのだろう。 |
ここで伊那市の自慢を披露しよう。ここ伊那市はわずか人口6万人強の静かな小都市ではあるが いち早く最先端技術に注目して その実験場として取り組んで来ている事はあまり知られていない。昨今ではインターネット、ブロードバンド時代、ADSLサービス、そして電子決済などの言葉はめずらしいものではなくなって来ているが、1996(平成8)年に市としては全国に先駆けて地域商業活性化を目指して「いーなちゃんICカード」プロジェクトをスタートさせ、1999(平成11)年には国内最大規模の「ADSL実験」を始めている。
「いーなちゃんカード」は 買い物ポイント機能にキャッシュ機能、クレジット機能を付加したICカードで郊外大型店に対抗するために地元商店街の有力なる手段として企画されたもので、さらにバス料金や駐車場料金・公共料金支払いにも利用でき「生活カード」にしようと目論んでいるのだが。しかし買い物客の流れは大型駐車場を抱えている郊外大型店に取られ気味で期待通りの普及には至っていないように見える。 |
21世紀に入ってのIT業界のキーワードは「ブロードバンド」だった。ブロードバンドとは直訳すれば「広帯域通信」だが 要はインターネットを介して大量のデータを(映画や音楽など)を家庭まで運ぶための通信形態を言う。その手段には家庭まで@新たに光ケーブルを引く方法(FTTH)、ACATVの同軸ケーブルを利用する方法、そしてBすでに有る電話線を利用するADSL方式 と大まかには3種類の方式がある。それぞれの方式には一長一短がある訳だが 伊那市がBを選択したのには理由がある。
伊那市が着目したのは一般の電話線ではなく、すでに全国的には知名度も低く、存在感すら薄れかかった「有線放送電話網」だったのである。本来であれば消える宿命にあった通信インフラが一躍先端技術によって生き返るかも知れないという点から特に注目されたプロジェクトであった。伊那市有線放送農業共同組合がこの「ADSL実験」を開始するに当たり 市民の理解を得ようと用意した「趣旨書」の中に非常に興味ある説明文があった。
今はまだこの二つのプロジェクトは採算の取れる事業には至っていないようだが、いずれ二つはインターネットの世界で一体となった新しいサービスを生み出し地域イントラネット* 整備事業として成功することに期待したい。すでに今 家庭に画像を配信し、見たいときに見たいものを勝手に選択出来て、料金を電子決済で済ます「ビデオ・オン・ディマンド サービス」の実験にも入っており プロジェクトの成功の日は近いかも知れない。 目を窓の外にやると すでに真っ暗闇で 奥の赤松林の先にある小道を横に走って行く軽自動車のヘッドライトが見えた。ゆっくり走っているようだが きっと凍りついた小道を踏み外さないように 細心の注意を払っての運転だろう。室内の電灯を付けると 今まで見えていた真っ暗闇のスクリーンは 急に室内のシーンに変わり自分の姿が映し出されている。 ゆっくりと立ち上がり そのスクリーンにカーテンを閉めた。 <完> |