【遂にその日は来た】
<前編> “コスモスとあじさい”
<その1> 7月3日(日)〜4日(月) 父の命日を前に、母を連れて我一家と弟の光二一家とが長野・善光寺に集結。集合場所はいつも母と墓参の折に立ち寄る善光寺脇の「甘酒茶屋」。いつも母と一緒に墓参に来た時には この茶屋で母の大好きな「おやき」を昼食代わりに食べるのだ。皆で「おやき」を楽しんだ後 我が家の菩提寺「光蓮寺」にて墓参りを済ませ、いつものお決まりのコースとなっている母の実家 寺島家の菩提寺「康楽寺」での墓参もすませた。そして母の希望で母の思い出の地「野沢温泉」で一泊、家族、孫達に囲まれ本当に幸せそうな母の姿が思い出される。 その月の31日(日)母はいつものように町内を一周する朝の散歩に出た。その8時過ぎ、我が家のインターホーンがなり「お宅のおばあちゃんが 大通りに出たところで、しゃがみ込んでいます。どこかで転んだみたいですよ。」 慌てて現場に駆けつける。母は何か気の抜けたように私を見て、しかしなにかホットしている顔をして道路の脇でしゃがんでいた。母の脇で一緒に座って家族の人が来るまで待っていてくれた散歩途中風の親子二人連れにお礼を述べると、二人は「それでは」と言って去っていった。 「お母さん、歩けるかい?」と問いかけると、小さな声で「大丈夫だよ、もう少しここで休んでいれば。」日曜の朝の大通りには人通りは少なくとっても静かだ。 4〜5分して「お母さん、そろそろ歩けるかい?」と聞くと 「うん」と言いながら大きな“あくび”をしている。私はこの“あくび”を見て歩くのは無理だと即断した。 つまり「母は転んで どこか頭を打っているのでは?」と不安がよぎったからである。ぐずぐずしてはいられない。「お母さん おんぶして帰るよ」とフラフラする母を何とか立たせ、私の背にもたれさせた。母は腕で私の首にしっかり抱きつく力も無いようで 普通に背負ったのでは母は後ろにひっくり返りそうで 私は体を地面に平らにして母を背に乗っけるようにして、家まで戻ってきた。「火事場のバカ力」ではないが、よくもあんな力が沸いたものだと、驚きと同時に、このわずか数分間の出来事だが、「今 母が自分の背中の上にいるのだ」という事実が そして母のぬくもりが私の背中に伝わって来ると「母とすごく近いところに居るのだ!」という実感が、なにか私を幸せ感に包み込んでいた。 すぐに救急車を呼んだ。救急車の中から救急隊が病院を捜すも、日曜の朝、整形外科と脳外科の先生が同時に宿直している病院がなかなか見つからない。近場の東京大学病院から始まり、御茶ノ水界隈の病院に汲まなく当たるも、どちらかの医者が不在。5〜6件目に飯田橋の【東京警察病院】に搬送されることになる。自宅の前から救急車が動き出し、ウーウーというサイレンを今日はいつもと違ってその車中から聞いており、救急車の小さな窓のカーテンの隙間からは日曜の閑散とした白山通りの町並みが見えた。母は静かに眠っているようで、外傷も見た限りではひざに軽いすり傷程度で まずは一安心なのだがーーー。 病院に到着すると すぐに骨折の有無はレントゲン、脳のチェックはCTスキャンにての検査を受けて一通りのチェックは午後3時ごろ終わった。 その日は一応危篤状態ではないとの判断により、母はその一夜を緊急棟ベッドにて安静に寝る事にし、明日月曜から詳細チェックに入ることになった。家族も一旦自宅に戻った。 |
<その2> その翌日から いよいよ8月に入った。今年の夏は異様に暑く感じさせる。 朝9時過ぎ 母の病院に行くと 母が私の顔を見るなり「おはよ!」と言った。母は私をちゃんと認知しており、まずはホットさせる。H主治医が紹介され「これからお母様はMRIなどを使っての精密な検査に入ります」と説明を受け母は寝台車に乗せられて検査室に送られていった。私はその間に母の入院手続きを済ませた。 実は母は1年前に【介護保険支援認定】の面接を受けたが、当然「介護要の資格なし」の(つまり まだしっかりしているの)判定を受けていた。しかし今年に入って「物忘れが激しい」とか「昼間から眠いのですよ」とよく“あくび”をしているし、自分で買い物も、そして食事作りも億劫になったというので、再度【介護保険支援認定】の申請を出して、近所の介護センターでの「いきいきデーホーム」の体験コースを7月28日(木)に参加したばかりだったが、このような事態に急変したので、早速介護センタ−に母の状況を説明し、このコースも一旦キャンセルする事にした。 MRIなどの検査結果が出て 母の病名が決まった。それは【心原性脳梗塞の疑い・心房細動】となっていた。特に暑い夏に起こりやすい病気という。暑いときには自然と汗が出て、水分不足で体内の血液が濃くなりがちになる。そんな時に“心臓不整脈”と重なると、血液中の小さな塊が脳内の毛細血管のどっかで引っかかり、それが脳梗塞現象をもたらす。母は正にその症状であり、今年に入ってからの母の“あくび現象”は、脳内の小さい箇所で小さな脳梗塞現象がポツポツと起きていたような気がする。MRIとCTスキャンの結果から そのような傾向が有り得たことをH主治医も説明していた。入院して4日目、8月4日(水)母の病状も安定してきたので、早速親戚や近い身内に電話連絡を取る。その翌日からは親戚の人々、名古屋からの弟の家族、そして町会や民生委員の方々が引っ切り無しにお見舞いにおとずれた。すぐに飛んできてくれる方々を見ると、本当にありがたいと思うと同時に、このような事態になって始めて母の偉大さが分かった。この時点では 母は右脳側がやられており、左側手足に麻痺が襲っていたが、右手が自由なのであまり不便さを感じなかった。しかし食事をして口の中のものを飲み込む脳からの指令が出る運動系の部分が侵されたようで、食事時 料理は美味しそうに食べるのだが、ゴックンの飲み込みを辛そうにやっていた。 私が今年1月から顧問として勤めている会社は九段上にある。位置的には丁度飯田橋にある母の病院とは靖国神社を挟んで反対側だが、会社から歩いて靖国神社を斜めに突っ切ってゆけば徒歩7分位で着く距離にあり、従って昼と夕方の母の食事時は毎日、毎日病院に通うことが出来たのである。昼と夕方、それぞれわずか1時間くらいの時間ではあったが、母に食事を与えながら、沢山のお話が出来たように思う。昼に病棟に行くと母はナース・センターの中で車椅子の上で看護婦さんの忙しそうな動きを楽しそうに見ている。ベットで寝たままではボケてしまうと、看護婦さんにお願いして そうさせてもらっているのだが。礼儀正しい母だから看護婦さんからも「とっても かわいらしい おばあちゃん!」と人気が高かったようだ。8月8日(月)の週からは簡単なリハビリが始まった。そこで私は神田神保町の本屋に行って 小学生4年生の「漢字ドリル」と「計算ドリル」を買って、母に「これで頭のリハビリをしようね」というと母はかすかに笑みを浮かべた。それから母は退屈な昼間、チョクチョクこのドリルに挑戦していたようだ。 救急車の中でやっと捜した救急病院が、結果的には私の通勤路の途中に位置していたからこそ、こんなにも密着して母の看病が出来たのであり、本当に神様に感謝したい気持ちである。
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<その3> 8月10日(水)このところ毎日強烈に暑い日が続いている。昼休み時間に会社から出て靖国神社を突っ切る。こんもりと生い茂った大木の影に入ると 茹だる様な暑さから逃れてチョット気持ちがいい。しかしこの暑さが蝉を大量発生させているのか、耳をかっ烈くように鳴く“せみ時雨”の中を病院に向かう。母は第2回目のMRIを撮ったが、もう意識がしっかりしているせいか診療中に動いてしまって撮影は失敗したとの報告を受ける。何か元気になっているという状況に喜んでいいのやら、一方「動かないで!」の注意が聞けない幼児のレベルになっちゃたのかと、ちょっとばかり複雑な気持ちである。 しかし症状が回復に向かっているのか、母はよく喋るようになった。「水田の自転車やのムコさん 元気かなぁ」、「大川のおじさん、口の中に残さないで食べちゃへって言ってますよ」、「およっちゃんが来てくれたよ」、「明日から新聞持ってきてくれるのは大川だよ」。すべて会話に登場する人物は今は亡き人たちだが 過去の人の名前がポンポンと出てくるのである。私から「お母さんを生んだお父さんの名前思い出せる?」と聞くと「熊太郎」と正解をポンと答えたのである。 “水田の自転車や”とは母の実家のまん前にあったお店と聞いている。母は大正9(1920)年生まれの「申年」である。生誕の場所は長野県長野市の中心部、長野駅から市の最大の繁華街「権堂通り」に向かう途中の千歳町で、寺島家4人兄弟の末娘として生まれた。父、熊太郎は当時相当の地元実力者の様で、昭和元(1926)年に近所の「藤森神社」に大きな狛犬を奉納しており、今も藤森神社境内にデーンと睨みを効かしている。 また私が子供のころ、祖母“おつねばあさん”に連れられて寺島家を訪ねたときの記憶では、家の前には、大きな青果市場があった。通りに面した間口はそれほど広くはないが、その奥行きたるやビックリするほど長かった記憶がある。玄関先は「タバコや」になっており、そこから和座敷が2部屋繋がり、その先に幅の広い廊下が奥のほうに伸びていた。丁度中間点に中庭があり小さな池が有ったようにおもう。 廊下の先は「台所」そして「風呂場」に繋がっていたと記憶するが、あまりに奥が深く子供ながら恐ろしくて殆ど行ったことがない。しかし中庭の前にあった「便所」だけは痛烈に記憶に残っている。小さな裸電球が光る暗い便所は、凡そたたみ二畳ほどの広さなのであり、その真ん中にある白い瀬戸物で出来た便器がとっても小さく見えた。そして隅っこの「ちり紙箱」の中には固めの紙が積まれていて手を伸ばしても簡単には届く距離に無かったような記憶がある。 祖母から聞いた話では、昔 家の前の青果市場の敷地内で「相撲巡業」が開催され、その時に寺島の家が相撲さんの宿代わりに利用されたようだ。つまり便所はお相撲さん用に作られていたのである。 母は少女のころは、青果市場にくる若衆から「タバコやの看板娘」として評判だったらしい。そして一番末っ子であった為か父からは溺愛されたようである。
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<その4> 8月11日(木)昼食時間母を訪ねると、何と点滴の管が完全に外されていた。そして看護婦さんから、「今朝は一緒に歩いてトイレにいったのですよ!」と聞かされビックリした。 昼食後、「お母さん、それでは私の前で トイレに歩いて行くのを証明してみて」と催促すると、看護婦さんの助けを借りて廊下の手すりを掴みながらノソリノソリと歩き始めた。その母の後姿を見ると、確かにこれで一気に回復にむかうぞ、と心強い気持ちにさせた。母がトイレに行っている間、枕元にあるノートを開いてみると、「みやはら 志げ子は元気になりました。いつも いつもありがとうございます。御礼を申し上げます。宮原です。」と赤鉛筆での練習書きの文章があった。しかし字は真っ直ぐ縦に書けてはおらず、左右に蛇行しているので、脳に障害を来たしていることが窺える。「頑張れ!お母さん! もうすぐ退院だ!」 そう言えば7月初旬の父の墓参りから戻って数日後、母が「私にはお父さん以外に好きな人がいたのですよ」と話しかけてきた。以前にもそのようなエピソードを母が話しかけてきたことが有ったが、何か真剣に聞く気がしなくて私から、「もし、その人と一緒になっていれば、この私はこの世に存在していないね」なんて返事をすると母は気まずい顔をして、その話の続きは諦めていた。しかしこの時は、何かゆっくり母の恋話を聞こうという気持ちにさせていた。 母が女学生で長野西高等学校(長野県立長野高等女学校)に通っているころから、ほのかに恋心を抱いていたT青年がいたという。昭和12(1937)年に同女学校を卒業するが、しかしこの年の7月“日中戦争に突入”、12月に“日本軍南京占領”そして 翌年4月“国家総動員法”が公布され国を挙げて戦争にまっしぐらの時代であった。 一方その頃、東京の宮原家には子供がおらず、養子縁組を考えていたそうだ。まずは富山県の親戚からNおばさんが養子に入り、そしてその婿相手として東京四谷にあった吉川家の次男坊である私の父に白羽の矢を当てていたそうだが、どうしても私の父はNおばさんとは折り合いが付かず その仕掛を作った私の祖母“おつねばあさん”を悩ませていた。そんなある日、私の父に赤紙(召集令状)が届き、おつねばあさんは急遽長野の寺島家にはせ参じて、我が母との縁組を強く望んだそうである。時代が時代で「母の希望」など全く無視されて、親の一方的な決断によって、あっという間に話はつき、昭和17(1942)年11月28日“寺島志げ子”の結婚式が行われたのである。当時の【結婚式諸覚帳】には 次のように記されている。 『11月21日東京より宮原つね子来長、光敏出征の令状持参、志げ子を嫁に是非 と申し込む。当人の意見をと本人も望むとの事。先様事情参酌の上、当人も未だ 支度できざるを以て、金五百円也持参の事。先方より結納として箪笥一重ねの仮 約にて成立。尚本人に見込有り11月の28日 吉日結婚式挙行せらる。 当方より 志げ子、父、母 親戚総代 杉林好祐、兄として 寺島茂吉。 酒肴料 金 弐拾円也 以上 』 この覚書によれば、「母も望んでーー」と書かれてはいるが、この時代「私には好きな人がいるので、承知できません」と言えば、「日本を守るべく兵隊さんになって頑張ろうとしている相手に対して 何と非国民な態度を!」なんて非難される風潮の中、母としても「はい」と答えざるを得なかったのだと理解できる。とすればあの戦争のお陰で 私がこうして存在していることになる。昭和19(1944)年7月16日 長男 誕生。 トイレから戻り下着を替えさせてもらってベッドに横になった母は、気持ちよさそうに眠りについていた。私はそ〜っと病室を後にした。
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<その5> 8月13日(土曜)母が入院して2回目の週末である。12時少し前に母の病室に着くと 母の方から積極的に話しかけてきた。「おはよ。かずちゃん、あの〜〜〜さ、丸い石が繋がった、握るものあったでしょう。あれ持ってきてよ」という。すぐにそれが何だか私には分からない。「お母さん、それ何だよ? わからないよ」というと母は チョト困ったなぁという顔をした。暫く考えた後、「お母さん、まさかそれ“お数珠”のこと? 止めてくれよ。縁起でもない」といって スット聞き流したが、それにはもう一つの理由があった。実は母はベット上で無意識に腕に刺された点滴の管を外そうとして病院側を悩まし、一人でベッドに居る時には手の猿轡を穿かされている状態だったので、そんな状態のときに母に紐状のお数珠を渡して何かトラブルでも起してはという心配から「たとえお数珠でも渡せない」と判断したのである。 このお数珠の件で私は7月中旬に母から聞いた話を思い出していた。この頃は毎朝母の部屋に行き朝の挨拶をしながら母の様態を確認していた。この朝、母は私の顔を見るなり、「昨日の夜、寝ていたら そこの和座敷の窓が開いて、狐さんが行列を作って私の方に来るので、怖くて眠れなかったよ。かずちゃん、今日もし暇が取れたら私を あの【澤蔵司稲荷】に連れて行ってよ。お払いをして貰うから」という。私は「ああ、いいよ。歩くのが大変だろうから車を運転してゆくよ」というと、母はニコット笑って安心した様子だった。この澤蔵司稲荷は母が長年 毎月一日が来ると、早朝に起きて「朝のお勤め」に通っていたのだが、今年6月頃からは、徒歩で10数分の距離だが、自分には無理な距離だと判断して通うのを止めていたのだ。今から思えば、もうこの頃すでに小さな形で脳に変化が起きていたのかも知れない。 8月14日(日)昼の食事時に病院を訪ねる。看護婦さんが「今朝からチョット容態が変で朝食も殆ど食べなかったのですよ」という。そしていつもならこの時間は車椅子に乗ってドリルを使って字を書いたり計算をしたりしているはずなのに、母はベットで横になって眠っていた。今日は日曜日なので、もし母に容態に急変が起きても主治医のH先生は病院にはいない。しかし午後3時過ぎ、町会の老人会の仲間がお見舞いに来て頂いた頃には、母は元気を取り戻していた。 8月15日(月)会社は盆休みだったのだが、それを知らずにいつものように通勤した。 今日は終戦記念日にあたる為、靖国神社周りには早朝から大勢の参拝客が揃い始め、それを機動隊が包み込むように警戒していた。誰も居ない会社を早々に引き上げ病院に向かうことにする。病院1階にある売店に寄って新聞朝刊を買う。【今日は 終戦60年目】という記事を母に見せたい為だ。病室に入って驚いた。母の髪型が変わっていたのだ。丁度そのとき看護婦さんが昼食を運んできて、「今朝MRI診断を受けた後でお母様は“お風呂”に入ったのですよ。そして気分を変えましょうと髪型もかえてみたのですよ」と説明してくれた。母はおよそ一ヶ月ぶりにお風呂に入ったことになるが、髪やそして体全体を洗ってもらってサッパリしたようで気持ち良さそうな顔をしていた。看護婦さんに結ってもらった髪型は毛を真ん中から左右に分けたスタイルで、とってもかわいらしい母に変身していたのだ。「お母さん、今日はとってもかわいいよ!」と言うと「ニッコリ」と笑った。この笑顔は 入院してから初めて見せた本当に心からの喜こびの表現であったように思う。 |
<その6> 8月16日(火)いつものように昼食時に会社から病院に向かう。突っ切る靖国神社の境内には人影は少なく、昨日の「終戦記念日」の喧騒が嘘のようだ。しかし真夏の「せみ時雨」だけはすごい勢いだった。今年も暑い日が続いている。母の顔を見るなり、「母さん、外はすごく暑いよ。こんな時には病院に居るほうが、涼しくてず〜〜っと過ごしやすいよ」というと、母は「そうかね。外は暑いかね。へぇ〜〜〜」と言っていた。昼食が始まる前に温かいタオルで顔を拭いてあげると、気持ち良さそうにする。母は食べ物を飲み込むのが辛いので、食事は流動食的に作られているが、味付けはいいようだ。母は「おいしい。あんたも食べなさい」なんて言いながら人の世話をやいている。 いつものように食事が終わると、看護婦さんに車椅子を引いて貰って、1階にある「リハビリセンター」に向かう。わたしもそのタイミングに合わせて会社に戻ることになる。 一人飯田橋の病院から早稲田通りを九段上に向かって富士見の坂を上がっているとき、ビルの合間の小さな空間にコスモスが咲いていた。コスモスを見た瞬間、丁度1年前 ひょんな切っ掛けで母と二人だけで出来た思い出の旅が思い出された。 あれは昨年(2004)の夏の出来事だった。 母といつものように父の命日(7月7日)を前に7月3日(土曜)日帰りで長野の光蓮寺に墓参に行く事になっていた。しかし週中に会社の役員の合同合宿が同じこの週末に長野県・伊那工場にて開催する事が急遽決定され、そのとき常任監査役であった私にも是非出席されたしの要請を受けた。しかし土曜は母と墓参をしており全く不可能と返事したのだが、日曜だけでもよいので是非出席願いたいと懇願され、母を土曜日の墓参の後、一人で東京に返すのも不安に思い「お母さん、墓参りの後、私と一緒に伊那に行きましょうか」と打診すると、「行ってもいいですよ!」の返事。これが何と、母と二人での一泊二日の旅となり、そして“とんでもない長い長い電車の旅”に遭遇させてくれたのである。 墓参りを無事に済ませ、いつものように長野・善光寺を参拝し、本殿の脇にある休処「甘酒茶屋」にて母の大好きな「おやき」を昼食代わりにほおばる。母は墓参りに来るたびに、この「甘酒茶屋」に寄り「おやき」を食べるので店の人には顔なじみなのだ。縁台の前の木に飛んでくる鳩やすずめなど鳥達の動きを話題にしながらの、のんびりした時間なのだ。 「母さん、今日はいつもと違って、伊那行きの電車が3時過ぎだから随分と時間があるよ。どうしますか」と聞くが、母はもう足も弱っているので、長歩きは無理だしこれといった妙案があるわけでもない。「そうだ。母さん 名古屋の光二にでも電話を入れてみよう」 ということで携帯電話にて弟を呼び出す。「今、かずちゃんと墓参りで長野に来ていますよ。善光寺の脇でお昼を取っているの。あなたの病気は良くなりましたか」といった内容の話をしていた。弟は半年ほど前に泌尿器系を患い入院騒ぎで、今年の1月には母を連れて名古屋を訪ねていたのだが、その後も母は弟の病の回復を心配していたようだ。電話で殆ど普通の生活に戻っているとの説明に母も「ホット」した顔をしていた。「さあ、出発だ」と二人して縁台から立ち上がった。 電車の時間調整にと、そばにある【東山魁夷美術館】に寄り、そこからタクシーで長野駅まで。長野駅15:15発 飯田行きの【快速みすず】に乗り込む。乗客はまばらで二人してボックス席にゆったりと座る。これから松本、岡谷を経由して「伊那市」には17:50着のおよそ2時間半の電車による旅の始まりである。母は電車やバスによる旅が大好きで、その理由は車窓に流れる景色を眺めて思いにふけるのが好きなようで、この辺は私も全く母譲りなのだ。ベルが鳴り終わると電車は静かに動き出し、二人は横に流れてゆく窓の外のシーンをジーット見つめていた。 電車は長野を出ると次は【篠ノ井】。母が「何年か前には、この駅で降りて大川さんを訪ねたことがあるけれど、大川のつやさんは今どうしているかねぇ」。電車は信越本線から篠ノ井線に入り【姨捨】を通過して【聖高原】に向かう。この付近は遠くに上山田・戸倉温泉郷が見渡せ、その先に千曲川が流れている眺めのよいところである。母が「あなたが子供のころ、よくおばあちゃんに連れられて長野に来ていたのですが、あるときあそこの戸倉温泉の【ねずみや】という旅館に泊まったのですよ。覚えていますか」というが、「残念ながら記憶にないね」と答える。多分5〜6歳のころの話だと思うが、旅館など覚えているはずがない。続けて母が「あの戸倉の向こうの山斜面が更埴市で“杏の産地”ですよ」という。「さすが、長野生まれのお母さんは よく知っているね」。電車は【明科】、【田沢】を通過、松本市が近いためか、このあたりから乗客の乗り降りが増えているように感じる。電車と平行して流れている川は“犀川(さいがわ)”なのだろうか。4時半頃やっと【松本】に到着。「お母さんは 松本城に来たことある?」と聞くと、「2回 来たかねぇ〜」という返事。本当に母は旅好きで日本全国、殆どの観光地には行っているのではなかろうか。 電車は中央本線に入り次は【塩尻】。「お母さん、“塩の道”って知っている?」と問いかけた。「あの、川中島の戦いで上杉謙信が武田信玄に塩を与えた時、塩が運ばれた街道だろう」という。「お見事! 正解。ところで塩の道とは 北塩のルートと南塩ルートと2つあってお母さんの言う街道とは北塩ルートなんだ。日本海に面した糸魚川から千国街道を南に下って、ここ塩尻までが北塩ルート。だから塩の最終地=お尻の地“塩尻”と言うのさ」とひと講釈を始めた。「南塩ルートとは静岡県・御前崎から始まり、掛川、秋葉大社、飯田、駒ヶ根、伊那、辰野を通って塩尻までを言うのさ。この2つのルートの全長は350キロあるらしい」と説明すると、母は「ふう〜ん」と感心した様子。電車は次の【岡谷】まで中央東線を走る。長野を出ておよそ1時間半が過ぎている。目的の【伊那市】までは後1時間ほどである。 |
<その7> 電車は【岡谷】駅からスイッチバックして飯田線に入った。次の【辰野】駅を過ぎると急に視野が広がり中央アルプスと南アルプスに挟まれた広い盆地「伊那谷」に入る。太陽は中央アルプス・木曽駒が岳の上に移動しており、もうしばらくすると西の空が真っ赤に染まり、反対側の南アルプス・仙丈ケ岳が銀色に姿を変えるのである。 母は楽しそうに車窓からの山の稜線を眺めている。「お母さん、あまりに長い電車の旅でずいぶん疲れたでしょう」と話しかけると、「私は 外の景色を見るのが好きなので、全然苦になりませんよ。よく町会の旅行にバスで出かけた時など、交差点でバスと平行して止まっている車のナンバープレートを見て、あれ!この車は○○県から来ているのだ、なんて思いながら眺めていると楽しいもんですよ。バス旅行をしながら、車中でグウグウ寝ている人がいますが、もったいない話で理解できませんね」なんて言う。 電車は静かにローカルな小さな駅【伊那市】に予定通り17:50に到着。もう足元もおぼつかなくなって来た母になんと酷な電車の旅をさせてしまったのかと反省ぎみに駅の階段をゆっくりと上る。夕食は私が単身赴任時代によく利用した駅の側の小料理屋「みつはし」に行く。「みつはし」のマスターは、私が母を連れて突然現れたのでビックリ。いつもはもう一軒の店に出ている女将さんもラッキーにもこの日は「みつはし」に出ており、二人してビックリ仰天。「みつはし」の入り口には大きなアジサイの花が私たち二人を出迎えていた。美味しい料理と歓談を楽しんでいるとき、母が「玄関の大きなアジサイがとてもきれいですね。アジサイのあの薄い紫色がなんともいえませんね。あそこまで育てるのにはお世話が大変でしょうね」と女将さんに言う。我々の座っている席から大きなガラス窓を通してその薄紫のアジサイがライトアップされて見えている。楽しいひと時はアットいう間に時間がたち、8時近くに「母も今日は疲れたと思うので」と立ち上がる。会計を済ませて小料理屋を出るとき、女将さんが話題となったあのアジサイを切って紙に包んで母に「おみやげです」と言って渡した。母はお礼の言葉を述べアジサイを胸に抱えてタクシーに乗った。今日の宿泊場所は、私が単身赴任のとき寝泊りしていた会社の寮(ドミトリー)である。 翌日の早朝、母と近くの六道原の田んぼのあぜ道を散歩する。仙丈ケ岳から上った朝日がまぶしい。あぜ道にはたくさんの花々が咲き、母も花が大好きなので、本当に幸せそうな顔をしていた。可憐なコスモスに囲まれて母のスナップ写真をパチリ。午前中、私は会社の会議に出席、その間母はドミトリーの私の部屋でのんびりとしていた。たった一人ぼっちにされたこの数時間の間、一体母はどんなことを思い巡らせていたのだろうか。 昼過ぎ、私は会議を途中で抜けて、予定していたスケジュールで帰京することになる。中央高速バスにて伊那市より新宿まで、これまた3時間半の長時間の旅である。ドミトリーを去るとき、ちょっとぐったりしているアジサイを見て私が、「これ もう無理かな〜〜〜ぁ。処分していいですか」と母に問うと、「いいえ、折角ですから、私が持って帰りましょう」と言い、また母はアジサイを胸に抱えてタクシーに乗り込んだ。バスでの3時間半も母と二人で たくさんの話が出来た。夕方6時、新宿バスターミナルに到着、夕食はターミナルに近い行きつけの寿司屋でと歩いて行ってみると、今日は日曜でクローズ。ついていない。母を長時間歩かせられないと、近場でどこか食事処を探さなくてはならない。日曜の夕方のせいか適当な場所が見つからず、なんと「広島風お好み焼き」の店に滑り込む。その店はカウンターのみのチェーン店のようで、母とゆっくり旅の疲れを癒す雰囲気には程遠く、こんな時には場違いでは?と思うようなレストランであった。それでも母は「ここでいいよ。ここにしましょ!」と言って背丈の高い丸い回転椅子によいしょと腰掛けた。母は長野名物の「おやき」や“うどんこ”にニラを合えて作る「ニラせんべい」などが好物なので、お好み焼きも“うどんこ”ベースなので、きっと「食べてみようか」と興味が沸いたのかも知れない。 翌日、母のところに寄ると、母が「伊那の小料理屋の電話番号を教えてください」という。 電話の目的は、持ち帰ったアジサイが仏壇の前の花瓶にさすと、今朝見違えるように元気に咲いているので、これを女将さんに伝えたいという。確かに仏壇の前にあの薄紫の大きなアジサイがピンと元気を取り戻しこちらに顔を向けていた。電話を受けた女将さんとは、その暖かい心持がお互いに通じ合い、二人して受話器を持ちながら涙したという。 <その8> 8月16日 午後3時過ぎワイフから会社に電話があり、「病院のH先生から電話があり、今日の3時過ぎにお母様の様態が急変して現在 酸素マスクをはめ点滴も始めたそうです。今は完全に意識が無いそうです。今日の夕方H先生が別の手術を終えた後でお話してくれるそうなので5時30分に病院で会いましょう」と言った内容だった。会社が退けて病院に向かう。母が入院した直後にH主治医が我々に説明してくれた“脳梗塞の場合のこの後の危機”の話を思い出していた。 H主治医の説明では、「脳梗塞の場合、脳内で血管が詰まって脳細胞に血液が行かなくなるとその細胞は死んでしまうが、その後その脳細胞が膨張して脳内の気圧を高め最後には血管破裂を起してしまう危険、そしてもう一つの危機は、再度脳内の大きな血管を詰まらせて新たに脳梗塞を発生させる危険とが有るので、充分に注意が必要です。血管破裂で血液が滲み出てもすぐ固める為に点滴で“血液の凝結剤”を投入するが、一方で新たなる脳梗塞を避けるためには”血液をサラサラにする薬“を使いますが、全く作用の正反対の薬を上手に使い分けて行かねばなりません。まだまだ安心は出来ません」といった説明だったが、今母はどちらの症状に陥ってしまったのであろうか。 夕方5時を過ぎると病院の受付ロビーには人がまばらである。しかしエレベータのそばにあるテレビの前では数人が夏の高校野球を見ているようだ。病室に入るとすでにワイフは来ていた。母は口に酸素マスクが嵌められ、腕に刺された数本のチューブからは黄色の液体が点滴されていた。「お母さん、一敏だよ。聞こえるかい?」と母の耳の側で問いかけるが、眠っているようで返事がない。すると看護婦さんが、「今日の午後 リハビリから帰って来てベットに横になろうとした時に、スーット意識が遠くなったように倒れ掛かったのですぐにH先生を呼んだのですが。それから直ちにMRI検査に入りました。その結果をH先生が説明に来る予定です」という。母の呼吸音がやけに大きく聞きえるが気のせいだろうか。 しばらくするとH主治医がMRIのフィルムが入った大型茶封筒を小脇に抱えて病室に入ってきた。先生はMRIとCTスキャンのフィルムを見せながら説明に入った。今日撮ったMRIのフィルムを見せられてビックリしてワイフと顔を見合わせた。これまで見てきた母の脳の部分のフィルムでは、まだ生きている左脳の部分ははっきりと真っ白に写っていたが、今日のMRIの結果はその左脳の部分も右脳と同じように形を消していた。つまり血液が行かなくなり脳の部分の真っ白い影が写っていないのだ。確かに左脳に繋がっている大動脈が途中でプッツンと止まっていてその先に脳の形が写っていないのだ。その切れた部分が今回血管が詰まって血液が止まってしまった箇所なのだ。つまり“脳梗塞の再発”が起きてしまったことになる。早速H主治医に詰問した。「ということは、先生。母はもう二度としゃべれる状態には戻らないのですね。もう母は誰だかも認知できない状態が続くということですね。つまり“植物人間状態”になるということでしょう?」多少気が動転しているせいか、私は一方的に質問を鉄砲玉のように発していた。 H主治医との話の最後は「それでは 暫くは状態の成り行きを見守りましょう」ということで我々夫婦は一旦家に戻ることにする。戻る途中でまずは名古屋在の弟のところにこの急変を携帯電話で伝える。病院の外に出ると、町のネオンが煌々と輝きムットした空気が首の周りに巻きついてくる感じだ。今日は何と長い一日だっただろう。母が今日の昼食時に話しかけてきた「あんたも食べなさい」が母との最後の会話になってしまうのだろうか。 <前編 終わり> |