今から33年前、つまり1986年(昭和61年)に私が初めて早稲田大学・異業種勉強会にて講演をさせて頂いたテーマが「外から観た日本」で、1978年(昭和53年)から5年間シカゴでの駐在経験を通して感じた事をお話させて頂きました。その後1992年(平成4年)から4年弱シンガポールに駐在に出ましたので、その時の体験を加筆して「外から観た日本=回顧編=」を書き上げ、私の初刊本「伊那谷と私」(2004年4月発刊)に掲載致しました。これを読み返してみますと、何とも15年も前に書いた内容とは思えず、違った意味で何か新鮮さを感じましたので、ここに「外から観た日本=復刻版=」として”令和元年”(2019年)の新HP上に掲載することにしました。是非皆さんにも15年前を思い出しながら懐かしく読んで頂ければ幸甚に存じます。
<目次>
[1]アパートは日当たりの悪い部屋の方が人気が高い!
[2]若い時に一戸立ち、年老いたらアパート住まい
[3]シンガポールは 大きなデズニーランド遊園地だ!
[4]アメリカ人は 何と合理的ケチなのだろう
[5]子供の教育の違い、佐久間のドロップと金太郎飴
[6]結婚披露宴は2時間遅れでスタートとは本当?
[7]日本は世界でリーダーになれないのか?
私が社会人となって8年目の昭和53(1978)年6月からおよそ5年間シカゴにて駐在生活を体験し日本に戻って数年後の昭和61(1986)年1月にある異業種勉強会の席で『外から観た日本』をテーマに講演する機会に恵まれた。
先日の初春の暖かい日差しが差し込む日曜日、私の机の周りを久々に整理整頓していた時、その講演した時の書類が出てきて余りの懐かしさに見入ってしまたのだ。
私は商社マン人生の中で海外駐在は第1回目がシカゴ、2回目は平成4(1992)年から4年弱 シンガポールにて駐在をしておりこの2都市での経験がある。 商社マンの間でよく話しに出る「海外駐在憧れの地」は「さ行の5都市」と言われる。この“憧れ”とは家族帯同で駐在するのに 生活面、教育面、治安面、自然環境面、そして勿論ビジネス面から理想的な場所ということであろうが、それは サンフランシスコ、シカゴ、シドニー、シンガポール そして ストックホルム と言われる。その5都市の内の2都市にて駐在が体験出来たのだから幸せ者なのだろう。
今から20数年前のシカゴ駐在初体験の書類に見入っているうちに、2回目の駐在地である大型ディズニーランド的「シンガポール」での思い出や それらの地にての異国生活での驚きの体験談、そしてそれらの時代と現状との対比を絡めながら『外から観た日本』の改訂版を書きたくなってきた。
【1】アパートは日当たりの悪い部屋の方が人気が高い!
さて外から観た“日本”を語る前に、国外に出て日本とは全く価値観が違うのだと発見した体験談からお話を始めることにしよう。
昭和53(1978)年6月にシカゴに赴任する。この頃日本円が凄いスピードで対ドル為替を強めており、月中に1ドル 240円を割り月末には175円台にまでにドル安が進行していた。シカゴ転勤前に生活費として日本円をドルにして換金して持ち込んだのだが、たった数日の差で損したという記憶が残っている。当然米国は慌てて11月に入り「緊急ドル防衛策」を発表し為替相場に介入を強めて行く。
当時はまだ商社でも家族の呼び寄せは夫の赴任の半年後と決められており、その半年の間に呼び寄せ家族の為に住居の確保をするのである。実は我家には8ヶ月前に誕生した長男がいたので例え夫の赴任と同時に家族帯同が出来たとしても飛行機での移動が困難であり、当時のルールは我家にはピッタリであったのだ。さて私はアパート探しの条件として①幼児がいるので広い庭があり日当たりのよい部屋があること ②同じ会社の駐在員宅が密集していない地区 ③出来ればオヘア エアポートに近い地区 の3条件を満たすアパート探しに入った。5つほどの物件を回って最後にアーリントン・ハイツ地区のアパートに決めたのであるが家賃は 月250ドル(当時換算で約6万円)であった。間取りは、20畳ほどのリビング・ダイニング、2ベッドルーム、キッチン、そして2バスルームと3人家族にはゆったりとした生活空間であった。地下には交換用タイヤ、雪用スコップなどの物入れ倉庫(2畳ほどの広さ)付きである。
そんなアパート探しの最中に早速“異文化による価値の違い”を発見したのである。アパートの管理事務所に行き「東向きで日当たりの良い庭のある1階の部屋を探しています。」と訪ねると、どこの管理事務所もニコニコしながら、よいお客が来たぞと早速部屋に案内するのである。不思議である。当の本人は そんな好都合の部屋は満杯で空いている部屋は無かろう、と不安を抱きながらの作業だったのだが、全く問題は無いようで希望の物件はゴロゴロ有りそうなのだ。ある管理事務所で案内をしてくれた中年の女性が言うことには、「北側の部屋はすべて埋まっているのですが、東、南向きの部屋には まだ空きがありますよ。すでに日本の家族の方々が数家族住んでおりますが、皆さん東か南向きの部屋を希望されます。どうしてでしょうね?」
冗談じゃあ無い。私から、なぜアメリカ人は日の当たらない北向きを好むのか聞きたい位である。しかしこの疑問は暫く経ってから「なるほど」と納得するのである。
その疑問を解く解説はちょっと後回しにして、ここで私のアパート探し3条件に就いて説明を加えておきたいと思う。①は1歳になる息子の為に 土地の広大なアメリカなのだから自由奔放に動き回れる庭が欲しい。そしてその庭で時々友人を集めて“バーベキューパーティ”をやりたい。②はアメリカに来て同じ会社の家族がある地域に集まってしまうと 小さな日本社会を形成してしまい 家族生活と会社生活が混ざり合わさる結果となりワイフにも気疲れをさせてしまうので避けたほうが良いと先輩からアドバイスを受けていた。そして③は仕事上 全米を飛び回るのは飛行機を使うので、出張から疲れて帰って来てエアポートから自宅まで近ければ近いほど都合がいいと考えていたからである。
お陰様でこの3条件で決めたア―リントンハイツでの住み心地は申し分なかった。建物はレンガ2階建のタウンハウス型で庭の真ん中に噴水つき池があり それをロの字型に建物が囲っており、池の周りは真っ青な芝生に覆われポツンと小山が配置され 子供が飛び回るのには最高であろう。このロの字型の一角に息子と同じ1歳前後のお嬢ちゃんがいるイタリア系のご家族がおられ、子供を介して家族付き合いが出来たのも楽しい経験であった。家族が赴任してきた1978年の冬は 米国中西部は記録的な大雪に見舞われ、自宅のベランダの前に巨大な「かまくら」を作ったのだ。これには近所の皆さんがビックリされていた姿が思い出される。
シカゴの最高の時期は6月、からからに晴れ渡った日が続き、丁度その頃日本が梅雨に入っているので、天国と地獄の差のように感じていた。6月のある夕方、仕事を終えダウンタウンから車(ビュイック社のリーガル)で40分掛けてハイウエイを家路に急いでいる時だった。この頃はもう日が長く夜8時頃まで明るいのだが ハイウエイの途中で急に雲が出て真っ暗になったかと思うやいなや ザーーと大粒の雨が嵐のように降り始めた。そして真っ黒な雲間からキラリと閃光が走り 暫く後に耳を掻っ裂くような雷鳴。これが大陸性気候の特徴の一つ「スコール」である。しかしこの嵐も30~40分でサット去ってゆきアパートの駐車場に着いた頃には雨は上がっていた。自宅玄関に向かう途中の庭には雨上がりの芝草から蒸れ上がる湿気がムンムンしていたが、その中に源氏ボタルと思われる大型のホタルが大量に乱舞している光景は今でも忘れられない。自分の手で目の前のホタルを掃き退けるようにして前に進みながら玄関に辿り着くのである。このホタル大量発生も中庭の真ん中に池があるための自然現象なのだろうか。
さて米国人は何故に北向きアパートを好むかの理由だが、米国それもシカゴ付近は強烈な大陸性気候であり太陽の日差しが驚くほど強い。米国は土地が豊かであるから太陽下で日光浴をしたければ自宅から庭なりプールサイドに出てビーチパラソルの下で長椅子に寝そべって太陽光を楽しめばよい。一方部屋の中には大型の絨毯や、木製家具、そして厚めのカーテンと金額の張る家財道具があるが、これらは直射日光を嫌う。さてこれでなぜ北向きのアパートを好むかの理由がお分かり頂けたと思う。
日本ではそもそも海洋性気候で太陽の日差しもマイルドであり、ビルとビルに挟まれた手狭な住居空間であるから、どちらかと言えば 住まいの部屋にはさんさんと差し込む太陽を求めて 東や南向きアパートを好むのであろう。日米で全く正反対の好みとは驚きであった。
【2】若い時に一戸立ち、年老いたらアパート住まい
米国アパート事情の話が出たついでに、もう一つ米国と日本とでは全く違う年齢別住居事情をご紹介しよう。米国では押並べて若い世代の内に一戸立ち住居に住み、退職して老後の生活を迎えて 温暖な地 マイアミやラスベガス郊外に移りアパート住まいを希望する人が多いのだ。日本では若い内に一戸立ちなどは とても資金的に無理でありアパート住まいで過ごし、中年過ぎて資金が出来てやっと自分の家が持てるというプロセス。これも全く日米 逆の現象と言えよう。勿論これには土地事情や、市場価格事情などの違いがあるにせよ、やはり価値感の違いが根底に有るように思う。米国人に年老いてアパートに入りたい理由を聞くと、「年を取ってまで、やれ庭の芝刈りや落ち葉掃除、冬の雪かき、家の壁のペンキ塗りを続けるのは勘弁して欲しい。暖かい地域で のんびり住みたいのだ」と説明する。一方、ある日本人が曰く「私はやっとの事で自分の夢が実現出来ました。今年の始めに定年退職しまして その時の退職金で郊外に一戸立ちを購入出来ました。これまでは仕事一筋の生活でしたが、これからは庭いじりや園芸に時間を費やし楽しい人生を送って行こうと思います」と。
ところで米国住宅事情を語ったついでに住宅事情では天国といわれるシンガポール事情をご紹介しよう。シンガポールは東南アジアの南の果てマレー半島の突端に虫様突起(盲腸)のようにポツンとぶら下がった淡路島サイズの島国。人口約300万人の大統領制議会民主主義国家であり、実は政府が力を持った統制国家である。国土が狭いことから すでに島全土の開発計画がきちっと出来上がっており、住宅に関しても政府機関の住宅開発庁(HDB=Housing Development Board)が高層公営住宅を計画的に建設し国民に提供している。現在シンガポリアンの90%以上がこの公営住宅に住んでいる。国は家族構成に従って適切なサイズの住宅を提供するようにしている。例えば若いカップルが結婚する際には、政府に申請することで、タイミングを優先して新居を提供してくれるシステムになっているようだ。勿論これは国民から不満が起こらないように国側が配慮しているのだろうが、こんな恵まれたシステム下では シンガポリアンにとって一生 住宅問題の悩みなど無いのである。そこでシンガポリアンに「貴方の夢は何ですか?」と問い掛けると「一に自家用車を持つこと、そして二に 海外旅行をすることです」と答える。シンガポールは小さな島国、一生の内に一度は海外に出てみたいという夢を抱くのは理解できる。ちなみに海外旅行の一番人気は 2月の「札幌雪祭り」だそうだ。何となく理解できる。
シンガポールでは自動車の購入価格はビックリするほど高い。その理由は狭い国土に自由に自動車を海外から輸入したらシンガポール島が自動車の重みで海中に沈んでしまう(?)からである。そこで政府は膨大な輸入税を掛け、各年に廃車台数に見合う新車許可台数を設定し 入札制にしてセリに掛けて落札させる方式を取っており、価格はおのずと上昇してしまう事になる。シンガポールでの自動車価格はそれぞれ生産国の価格の3倍以上とも言われており一番人気のベンツで 2000~3000万円というから日本ではほぼマンション価格に匹敵するのだ。
シンガポール島は東西に約40Km、南北に約20Kmの小さな島であり 島の北東に位置する所に世界一整備された「チャンギ国際飛行場」がある。世界一の整備とは、搭乗客が飛行機を降りて入国審査を済ませ税関を通りバッゲージクレームにて荷物をピックアップして外にでるまでを最短7分で出来きるよう政府指令が出てこれに挑戦している。一歩飛行場から出て車で海岸線の高速道路を使ってダウンタウンに向かう途中は 道の回りには真っ赤に咲いたブーゲンビリア、そして塵、ゴミ一つ舞っていない綺麗に清掃された幅広い道路を 車が一方向に静かに流れている姿、見上げると突き抜けるような夏の青い空。私はいつもチャンギの飛行場から車で市内に入ってくる時 ここシンガポールは島全体が美しくレイアウトされた、安全な遊園地“巨大なディズニーランド”だとつくづく思うのである。
そんな素晴らしい環境を維持して行く為にはそれなりの努力と管理がなされているのである。ご承知のようにシンガポールへの麻薬の持ち込みは見つかれば即 死刑である。またご承知のように公共の場ではタバコ禁止、チューインガムのポイ捨て禁止であり、ガムは何処にも販売されていないので、貴重品かもしれない。しかし誰も噛んでいない中で一人ガムを噛むにはチットばかり勇気が必要であろう。早朝4時ころ、黄色の蛍光色のユニフォームを着た団体がハイウェーや公道で箒を持って清掃している姿に出くわす。これは交通違反やタバコ違反での受刑者が朝の奉仕をしているのだが、統制国家だからこそ こんな大型ディズニーランドを上手に運営出来ているのかも知れない。
さて話を変えて もしあなたが5千円で購入したラジカセが故障し、修理を頼もうと秋葉原に出かけてある量販店で尋ねると「修理代金は およそ3~4千円で修理期間に2~3週間掛かります。このモデルの後継機は更に機能がアップされて6千円ですので 新品への切り替えをお薦めします。」と言われ、あなたならどうされますか?
日本人なら8割がた新品を袋に下げて店を出ることでしょう。アメリカは違います。8割がたのアメリカ人は新品にするには更に2~3千円余計に掛かるではないか、ラジカセに余計な機能はいらぬので修理で充分と判断するのです。私の友人でシカゴ在の日本人のS氏は これで大成功を収められたのです。
S氏は埼玉の上尾にラジカセの工場を経営する会社の三男坊でシカゴ在の米国支社の社長をされておられたが、日本エレクトロニクス産業の輸出急成長に本社側は乗り切れず途中で頓挫し倒産に陥ってしまうが、残された米国支社は当時シカゴ最大のデパート「シアーズロバック」に日立、松下、ソニーなどから輸出されて来たラジカセ、カラーTV,VTRなどの製品の修理業務を一手に引き受ける事業を始められたのだ。S氏は毎日ライトバンをシアーズタワーに走らせ、その日 修理の為にお客から戻って来た製品を車一杯に持ち帰り、4~5人の技術者に修理させた後、そこから各お客に返送するのが仕事である。
当時1台の修理代金が平均15ドル位で 1台からの上がりは高々数ドルであった。しかし“塵も積もれば山“のごとく、合理的ケチ人間のアメリカ人を相手に S氏は今では 300人ほどの修理マンを抱えた大企業に変身している。
合理的ケチについてシカゴ駐在生活の中で発見した幾つかの事例をご紹介しよう。
私と一緒に仕事をしていたアメリカ人のセールスマンH氏(私より10歳ほど年上)と各地に商談のため出張に出た時の出来事。レストランにて夕食を共に取った後で、彼が会計の為にレジの所に行きます。すると彼は領収書の内容をジックリと1件1件詳細にチェックをしています。時々内容に不明点が発見されると彼が私に向かって「ハイ、KAZ。 あなたは○○○を注文したっけ?」なんて聞いて来ます。所がすでに食べ終わった私には○○○が どの料理だったか正確には分からず「食べたよ」なんて無責任に返事していました。一事が万事このようですから、アメリカ人は本当にしっかり者であり、日本人の場合は、そんな行動は貧乏臭いとか、黙ってサインをする見栄っ張りなのか なかなか日本人には親しめない行動とは思いませんか?
またまたチョット話は横道に反れますが、そのH氏から教わったユーモアたっぷりなマナーのお話。二人で地方に出張している時に、仕事を終えて予約してあったホテルに戻り さて二人して夕食に出ようとするが 二人に取って初めて訪れた地なのでどこに美味しいレストランがあるかは全く情報を持ち合わせていない。その場合のホテル受付に行って尋ねる際のマナーを教わった。
「ハロー。今晩は! 所でこの町で 2番目に美味しいレストランは何処ですか?」
と問い合わせると、受付嬢がニコニコ笑いながら丁寧に市内のレストラン案内と道順を教えてくれるのである。何故かお分かりでしょうか??
「この町で一番美味しいレストランを教えてくれませんか?」
と聞いてしまうと、
「旦那様、それは目の前にあるでは有りませんか!」
とホテル内のレストランを紹介されてしまうから。
それではもう一つ、地方に出張して文化の違いを感じた体験談を紹介しよう。
仕事を終えてさあシカゴに帰ろうとニューヨーク州シラキュース市のエアポートでの出来事でした。搭乗ゲートにて簡易な機上食バナナとヨーグルトとビスケットの入ったビニール袋を手にゲート待合室にてボーディング時間を待っていました。いよいよボーディング時間が迫って来た時、スピーカーから、
「飛行機にエンジントラブルが発生し、ご搭乗時間が暫く遅れる予定です。」
との簡単な説明。一瞬30~40人の搭乗者がざわついたが、すぐに静かになった。しかしその後 待てど暮らせど次の案内が無く痺れを切らしてカウンターに状況を聞きに行く。
「済みませんが、搭乗は何時頃になりそうですか?」
と聞くと、なんとその返事は、
「それは飛行機に聞いてくれ。おれは知らない。」
私は 余計なことを聞いてしまったと反省気味にちょっと赤面して また元の席に戻り 回りを見渡すと、皆さん黙ったまんまで雑誌を読む人、貰ったビニール袋からバナナをかじっている人、目をつむって寝たふりをしている人、さまざまなれど、きっと日本なら こんな時“さらし”を巻いたお兄さんが登場して、
「おい! どないなっているんや? 早く乗せんかい!」
と単刀直入な質問を投げて これから一体どうなるのか不安な空気に包まれている空間に括を入れているだろうな、なんて考えている私でした。
それではもう一つの“合理的ケチ”のサンプル。アメリカではよく人を家に呼んでのパーティが催されます。やれ結婚記念日だ、誰それの誕生日だと理由をつけて知人友人が一同に会すのですが、食事には紙皿、紙コップ、紙ナプキンが使用されます。駐在生活の当初は「はは~~ん。アメリカ人は あの食器棚に飾ってある綺麗な食器を使ってパーティの際中に もし割られでもしたら大損だから紙食器を使うのだな。」と思っていたのだが、実は暫く経って本当の合理的理由が分かったのです。
彼らの場合のパーティとは 10~20人と大勢を呼ぶケースが多く その場合に磁器製食器などを使用していると、その準備や後片付けなどでワイフが折角パーティに集まった招待客と一緒にエンジョイ出来ないので、ポイ捨ての紙食器を使用しているのだそうです。なるほど非常に合理的だ。
シカゴに駐在して3年目、我息子が3歳になりキンダーガーテン(幼稚園)に通うようになり、そんなある日、親が学校に呼ばれ親子面談のような機会がありました。その時、先生が我息子の学校生活状況を説明してくれるのですが、「KENは絵を描くのが好きで 乗り物の絵がとても上手だ。」とか兎に角“良い点”しか説明しないのです。最初はアメリカの先生は“煽てることしか言わず、足りないところを指摘してはくれないのだ”なんて勝手に思い込んでいたのです。
しばらく経ってから、日米では教育の仕方に大きな違いが有る事に気づきました。分かり易く中学生のレベルでの例で説明しましょう。例えば国語、数学、社会、理科、英語の5教科の成績が5段階方式で 3 / 5 / 3 / 2 / 2 だったとしましょう。アメリカなら先生は「数学が得意だから ドンドン伸ばせ」とアドバイスするでしょう。日本の教育なら「理科、英語が皆より遅れているので もっと頑張ってまずはこの2教科を“3”にしましょう」なんてアドバイス受けるのではないでしょうか。
つまりアメリカ教育は “その子の優れたところを更に引き伸ばす”ことに重点をおき、日本教育の場合は“すべての学問で平均点以上に持ってゆく”事に目標を置いているのでしょう。 結果としてアメリカでは“個性豊かな人間”が大勢育ち、一方日本では“皆ほぼ同じ顔を持った平均人間”が大勢を占める、つまり「佐久間のドロップ」と「金太郎飴」の違いと言えましょうか。どちらが正しいという解答はないのですが、佐久間のドロップの方が飽きが来ず長持ちしそうですが 貴方はどちらがお好きですか?
これはシンガポール駐在時の体験談。着任して2年目、シンガポール人社員の結婚披露宴に招待された時の出来事である。シンガポールでは大型の中華料理飯店を貸し切って披露宴をするケースが多いが、それにも理由があるようだ。
シンガポールでの結婚披露宴は何時に始まり何時に終わるかはその時次第なのである。従って時間で借りるホテルの宴会場より借りる時間に融通が利く中華飯店の方が都合がいい訳である。この時間にルーズな習慣は中国文化に起因しているようだ。シンガポール人口の76%が中国人であるが(マレー人 15%、インド、パキスタン人 7%、 其の他 2%)、国語はマレー語、しかし英語が官庁用語として使われ殆どの人が中国語訛りの英語を流暢に話し“シングリッシュ(Singlish)”と言われる位に立派な英語圏である。
ある日、シンガポール人社員から真っ赤な色の「結婚披露宴招待状」を頂いた。そこには“開宴時間: 7:30 PM Sharp ”と書かれていた。この”Sharp”とは“鋭い”という意味だから“緩慢でない”とすれば“時間厳守”という事だろうと解釈して30分ほど前に会場に入った。会場は大きな丸テーブルが12個ほどレイアウトされていて200名以上の大パーティの様相を呈していたが その時点で集まっている人は数人しかいない。てっきり日時を間違えたかと、慌てて会場を出てレストラン側の人に「これこれの人の結婚披露宴はこの会場ですか?」と尋ねると、その通りだと返事が帰ってくる。納得出来ぬままその会場に戻り20人以上は座れる大型丸テーブルにチョコンと一人座ってジットしていた。先ほど数人だった隅っこの丸テーブルに人が10数人に増え、何とカラオケを始めているではないか。中国語と英語の歌を歌っているようだ。「そうか。これから始まる披露宴のプログラムの中に友人代表で歌でも唄う余興があり その事前練習でもしているのかな?」なんて勝手に推測していた。すでに時間は8:30になろうとしていた。
ポツポツと人が集まりザワザワとし始め宴会場らしい雰囲気が出てきた頃、「やぁ~~!」と会社の仲間が入って来るではないか。そうしている内に殆どの丸テーブルに人が埋まったがまだ料理らしい料理が出てこない。9時を廻って暫くすると急に拍手が起こり 会場がにわかに騒がしくなったかなと感じているとほぼ同時にテーブルの上に中華料理が運ばれて来たのである。それは私が席に着いてから2時間以上も経ってからの出来事である。私はすでにその時点でタイガー・ビールと簡単な“おつまみ”(醤油汁に赤唐辛子を漬けたもの)でほろ酔い気分になっていた。会社の仲間同士と中華料理を食べながら たわいの無い話をしているが、司会の挨拶は無いし 今何が進行しているのか全く分からぬまま時間が過ぎ、そうしている内に会社の仲間が「料理のコースも終わったし そろそろ帰ろうか?」と私に話し掛けて来た。時計は10時30分を指していた。 私も「いや~ぁ、 何がなんだか分からない内に3時間半も経ってしまった。帰ろう!帰ろう!」と一目散に会場を後にしたのです。
後日シンガポリアンの友人に結婚披露宴での私の疑問を尋ねてみた。
「何故 チャント時間通りに宴会は始まらないの?」
「これ中国人の悪い習慣なのだよね。政府からも国民には“正しいマナーを”なんて指導が出ているが 永い間の習慣はなかなか替えられないね。特にこの習慣も“長老”に関係しているからなお更だよ。」
「長老に関係している?? それどうゆう事?」
「結婚式には その家族や親戚あるいは住んでいる村や町の中から関係の深い長老が“主賓”に選ばれるのだ。そしてその主賓が会場に到着するまで宴会は始まらないのだ。それまでは 若者達は皆で集まってカラオケとか歓談とかを自由に楽しむのだよ。」
「何で主賓がそんなに遅れて入場するのですか? 皆に失礼でしょう。」
「これも中国の慣習かな。長老は偉いから皆が集まって 今か今かと待たせ痺れを切らしたころ、皆から注目を一杯に受けながらゆっくりと入場して来るのだ。」
「日本の結婚披露宴では司会者が進行役をするが、ここでは司会を設けないのですか?」
「一般的には無いね。だって元々宴会を時間で区切って進行して行く習慣が無いから。参加者は帰りたい時に勝手に帰ればいい。会場から最後の一人がいなくなるまで宴会は続いているんだよ。最後に残ったグループが家路に戻るのは翌朝になるのがここでは普通だよ。」
それではもう一つ、シンガポールでの結婚披露宴での驚き体験をご披露しよう。
私に東京から出張者が来る日 シンガポリアンの友人に電話したのだ。
「今日午後、東京から出張者が来るので、前に紹介してくれたシンガポールNO.1の中華料理店に付き合ってもらえませんか? 前にご馳走になった あの美味しい中華料理の品名を覚えてないので是非同席して欲しいのだが。」と言った趣旨の電話だった。
すると
「ごめん。今日は会社の社員の結婚式があり、夜は結婚披露宴なんだ。申し訳ないけど無理だな。それよりMr.ミヤハラ、結婚披露宴に来いよ。」なんて言い出した。そこで、
「だから今夜は東京からの客がいると言ったでしょう。それに全く知らない人が突然 結婚披露宴に出席するのは失礼でしょう。」と応えると、
「東京から来るあなたの友達と一緒に出たらいいよ。そこで一緒に中華料理を楽しめば目的が果たせるでしょう」と言う。私には理解出来ない。人をからかっているのではとさえ疑いたくなる。しかし東京から来る出張者は“好奇心旺盛タイプ”の人間であることを知っていたので、「OK。そうさせてもらいましょう」と返事をしたのだ。
早速 日本のお祝儀袋にあたる紅包(アンパオ)という袋を買ってきて S$40(吉事には偶数の金額が習慣で凶事には奇数の金額)を入れた袋を出張者の分と2つ用意して会場に向かった。出張者もシンガポールに到着直後に結婚披露宴に参加するなど信じられないという顔をしていたが、根っからの探究心旺盛な性格で すでに組まれていたスケジュールに喜んで同意してくれた。しかしその出張者が、
「ところで 礼服と白のネクタイを持ち合わせていないぜ。こんな普通の背広でいいのか?」と不安顔になった。そこで、
「中国人社会では 吉事の際は黒とか紺の礼服は避け、男性は普通のフォーマル服に明るいカラーのネクタイでOKなので
今日の君の服装は全く問題が無い」と説明すると出張者はニコット顔をほころばせた。
会場に着いて 友人の案内に従って会場入口から入ってすぐの大型丸テーブルに座らされた。相当数ある大型丸テーブルは殆ど100%席が埋まっているようだが、このテーブルだけは一つ起きに空席があるような埋まり具合だ。そしてそこに座っている人々が何か初対面同士の様で会話が弾んでいない。暫くすると友人が近づいて来てしゃべり始めた。
「このテーブルは本日の特別ゲストに用意されたものです。この機会に皆さんは縁有ってこの席に座っています。これを機会に皆さんお友達になりましょう。それでは紹介します」と言ってお互いを紹介し始めたのだ。この時紹介された方とは その後何度か一緒にゴルフをする機会が生れたのでした。
海外生活での驚きの体験を書き綴って来たが、次から次へと文化の違いが思い出され はっと気づくとすでに相当の紙面を割いてしまったようだ。このままでは表題の『外から観た日本』に関して充分に触れていないのではと ご指摘を受けてしまいそうだ。
■ 日本が輸出黒字で 何処が悪い!
■ ウサギ小屋と言われながら、働き蜂の日本サラリーマン兵
■ 日本発のファミコンは米国家庭に団欒(家族の会話)を提供
■ 日本は先端技術に創意工夫や独創性を養い独自の技術を磨け
と言った内容だったが、18年も経った現在では世界情勢も変わり、高度情報化、循環型社会などと環境も大きく変わっており、当時の講演内容をここで回顧しても全く面白くない。但し上記の4番目のテーマ“独自の技術を磨け”に関してはノーベル賞受賞者“江崎玲於奈”氏が1985年12月、日本経済新聞社の“客員論説委員”としてニューヨーク在であった時に『ニューヨーク発』として書き送った新聞記事を参考にして話しをさせて頂いたのだが、18年経った今でも残念ながら殆ど変わっておらず 我日本は独創性で遅れを取り続けているのでは無かろうか。
この江崎氏の記事の中で日本人にはこの独創性を育むには大きな障害があると書いている。
それは“日本人はとかく集団志向が強いこと、そして狭い空間、複雑な人間関係の中で生きて行かねばならない”ことが障害であると。私も当時の海外生活を通して外から見る日本は本当に(地形的にではなく)小さな国だなと感じていた。米国のTVニュースにおいて日本が出てくることはめったに無い。つまり世界のリーダー国と思われていないから関心がなく、ニュースに取り上げる値打ちすら無いと言う事であろう。丁度日本において、例えばカンボジア国で起きている出来事を ニュースバリューが無いとして TVニュースで報道しないのと同じ事だろう。
私の言うリーダーとは、巨大なる軍事力を持った国とか、巨大な外資を抱え込んだ経済大国を指しているのでは無く、ありのままの姿を世界に示して、自然体の日本の精神でもって他国と協調する姿、これこそ本当のリーダーと言いたい。そうなれない日本の卑近な例が、たった今も存在するではないか。それはイラクへの自衛隊派遣に見る事が出来よう。この自衛隊を何ゆえに米国の影で派遣せねばならないのか。なぜ堂々と“日本の独自の判断で、人道的精神に基づき戦争で破壊されたイラクを救済する為に救援隊(自衛隊)を送り込むのだ”と世界に発信出来ないのか。
私は日本が世界でリーダーシップが取れない最大の壁が“日本語”に有るのではと思っている。最近『この国のかたち』(司馬遼太郎著、文春文庫)を読んで、日本がいつまで経っても小国に終わる原因の一つが分ったような気がした。その一節には「日本はそもそも思想は他国から取り入れるものと考え、日本史上 鎌倉時代ころから律令国家として“かたち”をなし明治維新を迎えるまで鎖国状態を続け、その間 室町時代に能、茶道、書院造り、行儀作法そして日本庭園など日本文化の源流が完成した」と書かれている。この日本語をベースに長期鎖国状態で育まれた純粋日本文化は そう簡単には外アジア諸国とも、ましてや欧米諸国とはマージ出来ないのではなかろうか。やはり日本は孤独なアジアの一つの島国なのであろうか。
最後に、今から18年前に江崎氏がニューヨークから島国“日本”に書き送った新聞記事の中で述べている“(日本が)独創的業績をあげるために しては「いけない」5か条をここに掲載して この回顧録を閉じることとしたい。
(1)従来からの行き掛かりにとらわれ過ぎてはいけない。
さもなければ飛躍の機会を見失う。
(2)他人の影響を受け過ぎてはいけない。
(3)無用なものはすべて捨てなければいけない。
(4)闘うことを避けてはいけない。その為には独立精神と勇気が必要。
(5)安心感、満足感にひたってはいけない。
<<完>>