本日(6月15日)は「空海」の誕生日。そのためか先日NHK・BSの「新日本風土記」で「空海の旅」をやっていた。私は偶然だが先月に司馬遼太郎の小説【空海の風景・上/下】を丁度読み上げていた。
歴史上の人物を題材に小説やエッセイを書く際に、よくその主人公と対比する人物を取り上げて興味高く書いて行く手法もある。私もエッセイを書く時にそんな手をよく使ってきたように思う。例えば、俳人「井上井月」を書く時の「松尾芭蕉」、新宿・落合にアトリエを構えていた二人の画家「佐伯祐三」と「中村彝」、あるいは作家「森鴎外」と「夏目漱石」などなど。司馬遼太郎の【空海の風景】でも、主人公「空海」に対して「最澄」と比較しながら書き綴っている。これを読んで私は学校で習った「空海」や「最澄」とは違って何か生々しく人間らしい二人を感じ取ることが出来た。そこでブログの題名を『空海VS最澄』としてみたが、私が感じた点を書き出してみよう。
「最澄」は若くして官僧に上り詰めているが、「空海」は30歳を過ぎても無名の僧である。二人して同時に遣唐使として唐に渡るが、最澄は「天台宗」の完成の為に唐の「天台山」を訪ねるのが目的で、一方空海はまだ確立していない「浄土密教」を学ぶためにその聖地「長安」を訪ねるのが目的であった。海外留学するには当時でも相当の経費が掛かったが、最澄は天皇や皇太子から庇護を受けていたので国家が経費負担をしていたが、空海の場合はすべて自前で調達せねばならず、讃岐佐伯氏や律令官人の氏族を廻って寄進を得たという。最澄は近江(滋賀県)生まれで、京都をベースに比叡山・延暦寺を創建、空海は四国・讃岐(香川県)生まれで奈良仏教派であり高野山・金剛峯寺を創建。
【空海の背景・下巻】に入ると、天台宗の体系に密教を上手に引き込もうとする最澄に対して、真言密教を作り上げたと自負する空海との葛藤が生々しく物語られている。最澄があえて自分から空海に「灌頂(かんじょう)」(真言宗の戒律を受けること)を乞い、更には自分の跡継ぎと決めていた僧「泰範」を密教の修行の為に空海のところ(高雄山寺)に送り込むが結果的に泰範に裏切られてしまうシーンには迫力を感じる。
今回この本を読んで、私の日本史の「平安仏教」の部分が多少味付けされた感じだ。私の考えだが、日本史/世界史とは各自が各様に編纂していると思っている。そもそも史実とはその時代に権力を持っていた者たちが書き残しているものであって、その時代の真実かどうかは疑問である。だから「明智光秀がどうだ」とか「忠臣蔵で赤穂藩と浅野藩のどちらが悪いのか?」には正解など無く、それぞれの考えでいいのだ。次の世代に読まれる「現代史」では今の「欺瞞国家・日本」がどのように表現されているのだろうか。
話は完全に横道にそれてしまったが、今でも「弘法様」とか「お大師さん」と呼ばれる「空海」は私達の心の中に生きており、今日も四国では大勢の「お遍路さん」が歩かれているが、一緒になって歩いてくださっている(同行二人)お大師さんの今日は誕生日なのだ。