今年もこんな言葉を使う様なタイミングとなってしまいました。いよいよ2025年(令和7年)も終わろうとしているのです。しかしこんなご時世でも年の瀬を迎えてこの言葉を使えるのですから私の現状に感謝しなければならないのでしょう。世の中を見渡せば、人類の終末期を思わせる様な天災や人災が地球上を襲っている中で、この1年も私にとってお陰様で平穏無事で生きて来られたと言うのですから。

10月から11月は高齢者クラブのイベントが盛り沢山で目の回る忙しさでしたが(上の写真は11月の芸能大会)、12月に入ると自分の時間が取れる様になり、こんな事をしんみりと考えてしまうのです。そして毎日毎日、朝起きてから夜寝るまでの行動が当たり前の様にして過ごして来たことに深く感謝せねばならないと気付かされるのです。何となれば80歳を超えた私なのに、若い頃の時代とさほど変わらぬ様に自動車を乗り回し、自転車で買い物に出掛け、そして高齢者仲間を誘ってウォーキングに飛び出し、更にはこうして時には机に向かってエッセイをポロポロと書き綴るなど、あの多忙な行動に振り回されていた日々を振り返ってみれば、自分なりに充実した時間を過せて来られたと言う事で、何とも幸せな気分にさせるのです。

とは言うものの私も人間ですから、当然悩みや不安、不満などが無いわけではないので、いやむしろ毎日の生活の中では、幸せにさせてくれている基礎となっている「当たり前の事」には気づかずに、忙しく行動している時には、むしろ不満や不安にスッポリと包まれていた様にも感じるのです。つまりはスケジュールに追われる様に無我夢中で走って来てそれらをやり終えてホットする時間を得た時に、「無事に今ここに居る」と感じる時「幸せな気分」にさせてくれるのだと思うのです。
ところで、普段は気が付かないが「幸せにしてくれている当たり前の事」とは一体何なのでしょうか。それは、五臓六腑(五臓=肺/心/肝/脾/腎の五つの臓器、六腑=大腸/小腸/胃/胆嚢/膵臓/膀胱。東洋医学で言う「六腑」の内の今は無き「三焦」を外し「膵臓」を入れてます)がしっかりと機能してくれている状態のことを指しますが、もしそのどれかに異常が発生した場合には病気ではないかと不安になり殆どのケースでは病院に駆け込むのでしょう。
そう言えば養老孟司氏が著【バカの壁】の中で、人間の行動は一次方程式 y=ax で表されると書いています。つまり「五感から入力される刺激:x」が、脳に伝わり「現実の重み:a」が掛け合わさって「運動系から出力:y」となるそうです。ここで言う「現実の重み」とは、「現実をどれだけ実感を伴って受け止められるかの度合い」だそうで、つまりは①体験としての迫力 ②痛みや苦労の実感 ③命や生活に関わる切実さ ④自分の体と五感で感じた現実の濃さ、等と言った「現世界のリアリティの強さ」のことだそうです。aが「+」の場合(+a)とは「現実を前向きに受け止め」て建設的・成長的な行動を意味し、(-a)は「現実を否定的に受け止め」破壊的・退行的あるいは停止的な行動を意味するとしています。そしてa=0は「無関心」、a=∞(無限大)は「原理主義」と説明しています。
とすれば上述の「当たり前の事」は①~④の全てに該当しないですから「現実の重み」は全く無い訳で、つまりはa=0 で出力=0となり、意識の無いところで行われている動作という事になるのでしょう。なるほど。

私は暇になるとこんなつまらない事に思い耽っているのかと思われそうですが、実はそうでも無いのです。ちゃんと「現実の重み」を(+a)にさせる事を沢山見つけ出して行動しているのです。そのほんの一例を音楽の世界でご紹介します。
最近気に入って聞いている音楽でセルゲィ グリシュク(Sergey Grischuk)の曲に痺れているのす。彼の曲は何故か私の心にグサリと入り込んで巨大な(+a)となるのです。彼はウクライナの出身ですが、こんな美しい曲を作るのですね。今のウクライナが戦場と化している姿を思うと、これらの曲と結びつかないのです。曲と一緒に流れる美しい動画は7~8分ものですが、それを繰り返して流されますが、そんな事にはあまり気にならず、私はそのシーンの中に引き摺り込まされてしまうのです。まずはどんな曲なのか下の画面の矢印をクリックして、ジックリと聴いてみて下さい。
このDVDは1時間もあるのですが、途中で聴くのを諦めましたか?
それではもう一つグリシュクのDVDで、来年の干支は「午年」ですので、馬を使った動画のDVDを紹介しますので、もしも、もしもですよ、時間がございましたらこの曲も聴いてみてください。
いかがでしたか? もしも、もしもですよ、曲を聴いて何か感じた事が有りましたら、ご感想をお聞かせ頂ければ嬉しいです。
それでは皆さん、良いお年をお迎えください。
以上