強烈な寒波の後、2月24日の週に入って突然のように「春日和」が訪れた。
そんな陽気になった時、友人から巻紙に書かれた文(ふみ)が届いた。その文の中に「浅草にもウォーキングに最適な場所がありますよ」と【広い浅草ウォーク・ラリー】のパンフレットが一緒に入っていた。2月最後の28日(金)になって、朝からポカポカ陽気に誘い出されるように「よし!広い浅草巡り」を実施に移そうとひとり家を飛び出した。(朝10:20)

ラリーコースの1番目は駒形橋の脇にある「駒形堂」。ここが浅草ラリーのスタート地点としては最も相応しい。なぜなら浅草寺の御本尊である「聖観世音菩薩」が隅田川から発見された聖地で有るからだ。ここから歩きを始めたのが10:50、浅草通りを上野方面に向かい田原町駅を過ぎて左折し二番目の「本法寺」へ。そしてその先に有る3番目の「龍宝寺(鯉寺)」へスタスタと。この寺には1853年に大洪水で死んだ大鯉を葬った立派な「鯉塚」があった。そこから南北に走る「かっぱ橋道具街通り」に出て北進する。松葉小学校の先にある4番目の「矢先稲荷神社」に到着(11:40)、この後は言問通りに出て右折し国際通りとの交差点の所に出て、側の中華飯店に入って昼食。

食後(12:40)国際通りを北進し「鷲神社」の隣にある「酉ノ寺・長國寺」が5番目。ど派手の「鷲神社」に比べ地味でひっそりした「長國寺」が並んでいるその対比が面白い。この後は道が入り組んでいて区立台東病院の側を通っていよいよ蔦屋重三郎(蔦重)が出版業者として活躍した「吉原遊郭地区」に入ってゆく。ここは「新吉原」と呼ばれているが、実は徳川二代将軍「秀忠」の時代に日本橋の人形町付近の“葦(よし)の原”に当時江戸に点在していた遊郭を集め、ここが「元吉原」と呼ばれたそうで、明暦の大火で焼失し、江戸再編の期に浅草裏に移され「新吉原」と呼ばれた。当時の新吉原は四方が畑で囲まれており入口はこれから通る大門の所一箇所のみであった。
次の六番目の目的地は新吉原のメインストリート「仲の町」通り沿いにある「耕書堂(こうしょどう)」と呼ばれる蔦重が開業した本屋さんで、歌麿や写楽、北斎の浮世絵や山東京伝、平賀源内などの本を販売して大成功を収めたと言う。

しかし現在四つ角に建つ「江戸新吉原耕書堂」は来年1月まで期間限定でオープンしているらしいが、店内は人人で大混雑だった。つまりは江戸時代のコンテンツビジネスの風雲児と称され、現在NHK大河ドラマ「べらぼう」で横浜流星が蔦重を演じている。ここから大門跡の地を通り土手通りに出てそのまま直進し、しかしこの辺に来ると道が狭くて正しく歩けているか不安になり、アイホン上の地図を頼りにしながら七番目の「平賀源内墓所」に向けて歩を進めた。
エレキテルなど発明家として著名な源内は1779年に殺傷事件を起し獄死し総泉寺に葬られたが、寺が後に移転して現在は墓のみが残されており、入口の蝶番を開けて墓所に入る様になっていた(13:40)。私が訪ねた時は丁度中から出てくる人がいて門は空いていたが、結局私が施錠してここを後にした。

次の第8番目の「東禅寺」までもアイホン地図だよりで移動したが、ここからは吉野通りに沿って南下するのだが、「東禅寺」到着14:00→9番目:「熱田神社」(14:10)→10番目は蔦重の墓がある「正法寺」(14:20)へと進み、最後の11番目の「今戸神社」には14:30着。若い女性で溢れていたが、ここは縁結びの神様であり「招き猫」の発祥地でもという事からそれも頷ける。しかしそれにしても“インバウンド流行り”なのか日本語ではない会話があちこちから耳に入って来た。ここからは東京で一番低い山(海抜10m)と言われる「待乳山聖天(まつちやましょうでん)」に上り、庭園内の見事な桜を前に写真をパチリ。

待乳山から眼下に見える「隅田公園」に下りて、正面に流れる隅田川の先にデーンと聳えるスカイツリーを左に眺めながら南下、東武浅草線のガードを潜り江戸通りを真っ直ぐ下って「駒形橋」まで、つまりスタート地点まで戻ったのが15:00。
家に戻ってきたのは15:40だったので、家を出てから5時間ほどの旅であったが、歩数計POPOPOでは18986歩と表示されていた。
ご苦労さま。