第4回 『文京を歩くかい』 (テーマ: 文豪を訪ねて)


平成20年6月28日(土)梅雨の最中であったが、うす曇の天気の中実施することが出来た。実は1週間前の6月21日(土)がそもそも予定された日なのだが、明け方は強烈な雨が降っており、7時頃はパラパラ雨に変わってはいたが、一応「来週に延期」と参加者全員にメール発信していた。しかしメールを見たかどうかの不確認者が数人いたので、私は予定の10時には出発場所の巣鴨駅には行ってみることにした。一方、次第に外は明るさを増してきて、早速一本の電話が入る。「来週は予定もあるので参加できそうに無いので、自分ひとりでも歩いてみたい」との連絡。そこで私から「一旦巣鴨駅に10時には行くことにしているので、そこで会いましょう」と言って電話を切る。家を出る9時過ぎには外は薄っすらと薄日がさしかけている。実は私は今回のウオーキング・コースの中で一部道順が不安な箇所が有ったので、今日数人でも集まっていた場合には“今日は予行演習”として歩いてみようと思いながら巣鴨駅に向かった。駅前には参加者が3名集まっていたので予行演習を実施に移した。更に6月24日(火)は真っ青な青空が広がる夏日であったので、21日の予行演習でも一部疑問が残った行程を今度は自転車に乗って再確認しに行った。こんな経緯を重ねていたお蔭で今回は道順には全く不安の無いスタートが出来たのである。

10:00AM 巣鴨駅前に7名集合さっそくスタート。まずは江戸六地蔵尊の一つ【真性寺】にて今回の全員無事完歩をお祈りする。巣鴨の門前町としてはこちらの寺がご本家で、とげぬき地蔵で有名となった【高岩寺】は明治に入って移転して来たそうだ。ところで“とげぬき地蔵”の謂れだが、江戸時代の1713年 田村又四郎という武士の妻が日ごろから地蔵尊を信仰していたが、出産後重い病気に掛かり医者からも見離されていた時、田村の枕元に僧侶が立ち「私の像(かたち)を川に流しなさい」と告げた。目を覚ますと地蔵尊が刻まれた小さな木片が。早速印肉で1万枚の御影を作り一心に祈りつつ流したところ、やがて妻の病は治ったという。

田村が招かれた席でこの不思議な話をしていると、一人の僧侶が是非分けてほしいと言う。出入り先の女中が針を誤って飲んで今も苦しんでいるが医者も手の施しようがないというのである。田村は快く御影を差し出した。僧侶が苦しんでいる女中に御影を飲ませると、女中の吐いたものの中に、何と針が御影に突き刺さって出てきたという。これが「とげぬき地蔵」の謂れだそうだ。(日経BP社【TOKYO STORY】より)

10時チョイト過ぎなのにもうすでにとげぬき地蔵商店街には多くの人で溢れていた。【高岩寺】にて二礼二拍手一礼。小さく「オンロケジンバラ キリクーソワカ」と口ずさむ。国道17号線を渡って【染井霊園】に入る。すでに予行演習を済ませているので、広い墓地の中でスイスイと「高村光雲・光太郎・千恵子」、「岡倉天心」そして「二葉亭四迷」の墓を訪ねる。側の【慈眼寺】に入って「芥川龍之介」、「谷崎潤一郎」、「司馬江漢」の墓を参拝。

西ケ原の「染井銀座」の細い路地を通り抜けて都電「あすかやま」駅の脇に出る。グルリと「飛鳥山」の公園内を歩き【紙の博物館】(入館料300円)に。さらっと20分ほどで回って今度は「本郷通り」を日暮里方面に下ってゆく。「七社神社」−「一里塚」−「平塚神社」−「旧古川庭園」を通過して「女子聖学院」の手前にある蕎麦や【いし月】にて「辛み大根ざる大盛り」にて昼食。全員「うまい!」の一言だが、チャント1800円でした。(12:00)

「田端高台通り」に沿って南下、途中右に折れて田端5丁目5−5【室生犀星旧居跡】、そして【板谷波山旧居跡】を廻り「ポプラ坂」を下って「赤紙仁王通り」に出て少し戻るように【八幡神社】を目指し、その隣の【大龍寺】の墓地に入って「板谷波山」と「正岡子規」の墓を参拝。再び「田端高台通り」に出て田端駅に向かう。すぐ左角に高層ビルが表れる。これがアスカタワーでその中の【田端文士村記念館】(入場無料)に入る。ここでビデオを1本見てから外に出て「東台橋」を渡って再び山手線に沿って西日暮里に向けて南下。西日暮里駅がある「道潅山通り」に出て右折し、谷中七福神通りのところに来て左折。七福神の「青雲寺(恵比寿)」、「修性院(布施)」を経て【富士見坂】を左に上ると「諏訪台通り」に出る。ここを右折してすぐのところに在るスイス・レストランにて「お茶休憩」。

20分休憩の後、諏訪台通りを進むと「谷中銀座通り」と交差する左角が【経王寺】でこの本殿の大きな瓦屋根の弓状の反りが何とも言えない。この寺の隣の「佃煮や」で、そしてその対面の「谷中せんべい」で皆さんお土産を買っていた。これから「谷中霊園」に入ってその中央辺りの【五重塔跡地】にて小休憩。この後電車の線路方向に下り「芋坂」を下ってJRの線路を跨ぐ小さな橋を渡る。この下には山手線、京浜東北線、常磐線、東北本線、高崎線そして私鉄の京成電鉄、更には地面の下を新幹線が走っているのである。

この線路を渡りきってすぐの所に江戸時代からの「羽二重団子や」がある。江戸の昔はこの辺は日暮の里、呉竹の根岸の里として小天地で、花に鶯、音無川の流れに河鹿、眼には遥かに荒川の風光にも恵まれて明治大正までの粋で風雅な住宅地であったそうな。(羽二重団子のパンフより)しかし現在は電車の騒音とピンクホテルのけばけばしいサインに包まれていて残念ながら全く雰囲気を異にしている。

その雰囲気の中にひっそりと【子規庵】(入場料500円)があった。子規が住んでいた頃と変わりなく庭は維持・保存されており、書斎部屋の出窓の上の糸瓜(へちま)の棚が子規の往時を思い起こさせる。明治35年9月18日 子規は妹の津と門弟の河東碧梧桐に体を支えられながら筆を持つと画板を貼った唐紙の中央に、

      糸瓜咲いて 痰のつまりし 佛かな

と咳き込み苦しみながら、そして碧梧桐が何度か筆に墨をついでやりながら何とか書き上げる。そして痰が切れずに苦しそうに筆を投げる。痰が切れると再び筆を持ち2句目、

      痰一斗 糸瓜の水も 間に合わず

を一挙に書き、更に間をおいて 少し斜めに3句目、

      をととひの へちまの水も 取らざりき

を書いて筆を投げ捨てた。筆は穂先のほうから白い寝床に落ちて少しばかり墨のあとをつけた。その間 子規は終始無言であったという。その翌19日午前1時頃永遠の眠りについた。享年34歳11ヶ月。(子規庵保存会「正岡子規絶筆三句碑文」より)

静かに子規庵の裏木戸から外に出で1本先の路地にある落語家・故林家三平師匠の屋敷の前を通過する。(14:20)

「尾久橋通り」に出て交差点を突っ切り真西に歩を取る。「根岸4丁目」から「柳通り」を通り次に「金杉通り」を突っ切り、その次に国道4号線「昭和通り」を横断し、最後に「三ノ輪」から南下している太い「国際通り」の【鷲(おおとり)神社】のところに突きあたる。この西方向にほぼ真っ直ぐ来た道順が4日前に自転車で確認しておいた「竜泉3丁目」に出る最も近道だったのである。国際通りを北上し次に目指すは竜泉3丁目18−4の【一葉記念館】(入館料300円)である。ここをジックリ見るには2〜3時間は必要だが今回は30分にてサラット一葉の生涯をおさらいする。

一葉の生涯はタッタの24年8ヶ月と短いのだが、4つの時代に分けられるという。@幼少の頃から学校の成績はトップクラスであったが母多喜の反対で進学を断念し、父の手づるで中嶋歌子の歌塾「萩の舎」に通った時代、Aそして長兄と父則義の死後、女戸主として家計を背負い、お金を稼ぐには小説家がいいと「半井(なからい)桃水」の指導を受けていた時代で本郷菊坂在住。Bしかし桃水との仲が噂され桃水の隠れ屋に通えなくなり、この龍泉寺町に移って荒物駄菓子店を始めて「たけくらべ」を書いた“塵の中での闘い”の時代。Cしかし龍泉寺町の店は経営不振で廃業に追い込まれ、やはり小説のみで生計を立てようと本郷丸山福山町(現在の西片)に転居して“一葉文学”として花開いた時代、と駆け巡るがその全てがわずか24年間での出来事だったのである。死後になって大きく世間から評価された所を思うと、なぜか印象派画家の巨匠ゴッポの生涯とダブらせながら一葉記念館を後にする。(15:30)

一葉会館を出て左に歩くと、この付近は「吉原地区」でビルの入口には客呼び込みの黒服のお兄さん達が立っていて異様な雰囲気。この辺の喫茶店もコーヒーとは書いてはあるが、すべてがピンク色で表現されていて何か目的が喫茶だけではないようにも思えるのだが。しばらく行くと三ノ輪から下りて来ている「土手通り」に出てそこを南下する。「地方橋」の交差点を渡って斜め左に入るとすぐに【山下掘公園】がある。この細長く続く公園に沿って真っ直ぐ南下するとやがて右に【待乳山(まつちやま)聖天】が現れる。(16:00)ここで10分の休憩の後、「言問通り」に出てそこを突っ切り更に南下、浅草雷門の脇を通って真っ直ぐ本日の打ち上げの会場である蔵前の串焼きや【串乃輔】へ。土曜は休みのところを私たちの為にオープン、貸切り状態でグイットやる生ビールのうまさ、そのあとは美味しい料理に芋焼酎の一升瓶をかかえての楽しいひと時でした。20:00散会。 

全行程 27600歩、およそ17Kmでした。

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