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【文京区境界道をグルリ一周】 ●歩いた地図はここをクリック

平成20年1月27日 日曜の朝、一人「文京区」の境界線をグルリ一周歩いてみようと実行に移した。突然こんな考えが浮かんだ背景には、ここ数日雲一つ無い快晴が続いており天気予報では この日曜も「快晴」と太鼓判を押していたこと、そして正月明けから寒さのためか夜の散歩を全くしておらず、何か足がムズムズと訴えていたように感じ、更には数年前に友人が文京区内周を歩いたという話を聞いており私もいつかトライしてみようと考えていたのを思い出したからである。

7:45AM 日曜の朝なのでまだワイフは寝ていると思われるが、ソ〜〜ット玄関を出る。すばらしい天気だ!自宅からまずは“白山通り”の「西片」交差点に出て白山通りを水道橋方向に南下する。この道は最近になって渋滞で有名になった不名誉な通りなのである。千石交差点(昔の駕籠町)付近から白山下までバイバスが出来たり、白山下から水道橋あたりまで道が拡張されたりした結果、国道17号線を大宮方面から都心に向かう車が白山上から本郷3丁目―御茶ノ水―神田を通過する本来の国道17号線を避けて、白山下―水道橋―神保町―竹橋のルートで都心に出る車が増えた為に最近ではラジオ放送の渋滞情報でもチョクチョク「神保町交差点渋滞状況」が報じられるほど有名な悪路に変身している。

【本郷田町(言問通り)その先が西片交差点】
【白山通り・水道橋方向・左にコンビニが】
しかし日曜の朝は嘘のように静かな白山通りである。途中コンビニで朝食のおむすび2個とお茶ボトルを購入して水道橋交差点を左折し“外堀通り”の「お茶の水坂」を上りはじめて中間点付近の左側にある「元町公園」にて早速朝食を取る。(8:05)公園には日曜の早朝だけに誰もいないようだ。この公園は昭和5年に“震災復興小公園”として開園したそうだが、正面入口が石段で出来ていて階段途中の突き当たりの石壁には“壁泉”が造られていて水がチョロチョロ出るようになっている。そこから左右に石段が延びていてそこを登ると左右同じ大きさの広場に出る。その両方の広場からさらに一段上がるとそこにも広場があり滑り台、砂場などの施設がある3段作りで左右対称に設計されたチョット洒落た造りだが、アールデコ風のデザインを取り入れた公園だそうだ。2段目の広場のベンチにてさっきコンビニで買ったおにぎりを戴く。桜の木々の間から神田川の対岸を走るJR中央線や総武線が見え、飽きの来ない眺めである。桜の木の枝先には蕾みがまだ小さいながらビッシリと付いていた。この「元町公園」も文京区都市計画にて“巨大体育施設”建造の計画があり取り壊しの危機に直面しているという。
【御茶ノ水坂・神田川対岸を総武線が走る】
【元町公園・左右対称の設計】

【江戸名所四十八景: 御茶ノ水夕景】

  歌川広重(二代)画 1860

御茶ノ水坂の下りで正面の橋が水道橋。この角度から「元町公園」は右側に描かれている崖の付近になるだろう。そして対岸に沿って現在は中央線、総武線が走っている。そして玉川上水の懸樋は左手の料理屋の真下辺りに位置するのであろう。

しばらくは神田川に沿って「お茶の水」駅方面に向かって土手沿いの道を歩く。道の左側に順天堂大学、東京医科歯科大学とそれぞれの病院棟が並んでいる。それにしてもなぜ御茶ノ水界隈には大型の総合病院や大学が集まっているのだろうか。どうやらその理由には近代教育の発祥の地と言われる「昌平坂学問所」が江戸時代後期に「湯島聖堂」の地に開設され、そして明治に入って医学校の祖とも言われる「済生学舎」が長谷川泰(1842〜1912)によって中山道沿い(現在の東京ガーデンパレスホテルの所)に設立され多くの医者を輩出したという。そんな時代背景から御茶ノ水近辺には大学、病院が多いのであろう。ところで“御茶ノ水”の名の謂われだが、順天堂病院の敷地付近から名水が湧き出ておりその水を将軍にお茶用として献上したことがその名の起こりだそうである。しかしこの御茶ノ水に「貝塚」が有ることは以外に知られていない。その記念碑が現在東京医科歯科大の御茶ノ水門から中に入った構内の柵の中にあるので見つけずらいのが知られていない理由なのかもしれない。これは昭和27年に地下鉄「丸の内線」建設工事のときに発見されたという。
【正面にお茶の水貝塚の石碑】
【聖橋を真っ直ぐ下る】

【新東京百景: 聖橋】

  逸見享 画 1930〔昭和5年〕

この絵は御茶ノ水橋からの描写であろう。現在でも右土手の上を中央線、橋の向こう側に地下鉄丸の内線が川を横切って走る写真家の狙いスポットとして有名である。この絵の大きなアーチの向こうに見える家並みは昌平坂を下り切ったあたりで今でも川に張り付くように家々が建っていて今も昔も変わりない。橋の上の人物が当時大流行していたお釜帽らしき姿で描かれている

外堀通りは「御茶ノ水橋」の交差点を過ぎたあたりから緩い下りになる。目の前に石で造られたドッシリとした「聖橋(ひじりばし)」が現れる。この橋は千代田区側にある「ニコライ堂」(東京復活大聖堂 昭和2年建造)と文京区側の「湯島聖堂」(1691年 五代将軍綱吉が建立)の両“聖堂”を結ぶ橋としてその名が付いたという。橋の下を潜ると道の左手が湯島聖堂の石塀が現れ歴史の重みを感じる。その理由は、歌川広重が版画絵“名所江戸百景”の中でこの石塀を作品【昌平坂聖堂神田川】(1857)などで描いており、現在までその石塀が全くそのまま残っているからであろう。

【昌平坂聖堂神田川】

  歌川広重 画 1857

手前に少し見えているのが昌平橋。神田川を挟んで対岸に昌平坂と聖堂の塀。雨に濡れる木々が鮮やかな緑色で描かれている。

このなだらかな昌平坂を下って石塀が途切れる角を左への小道に入ると今度は緩い上り坂になっていて、しばらく行くと本郷通り(国道17号線)に突き当たる。そこを左に折れるとすぐ右手前方に「神田明神」の大きな鳥居が見えてくる。地図によればこの神田明神は千代田区の住所になっている。この神社の正面入り口に立っている「随神門」そしてその奥の「本殿」も最近塗り替えられてリフッシュしていた。早朝の神田明神には数人の受験生らしい学生がお願い事をしていた。私も社殿に行き今日の一人歩きの無事をお願いして手を合わせる。(8:30)
【湯島聖堂の石塀に沿って下る】
【神田明神正面・左角が天野屋】

【湯島聖堂の景】

  小林清親 画 1899 〔明治12年〕

左手が湯島聖堂でジグザクに造られた石塀が描かれているが現在もそのままの姿を残している。遠くに眼鏡型の万世橋と神田方面の家並みが見える。坂を歩く女性は文明開化の象徴のアンブレラをさし、土手には電信柱と電線があり明治の和洋混交の様子が見られる。

鳥居まで戻ると角に「天野屋」という茶屋がある。天野屋の地下には“麹室”が今でも一部残っているそうだが、創業時はこの室で“どぶろく”を造っていたらしいが、今では甘酒をサービスしている。この天野屋の横道を入るとその裏に「旧中山道」と書かれた表示板が目に入る。地図を見ながら「なるほど! 昔、中山道は斜めにこの辺を通過してさっきの昌平坂を下り、神田川に出て“万世橋”を渡ってまっすぐ“日本橋”に伸びていたのだ」と一人で納得していた。
【神田明神 左の青年は受験生か】
【天野屋の裏に“旧中山道”の表示】
蔵前通りの「清水坂下」の交差点に出て信号を直進「湯島天満宮」方向に向かう「清水坂」を上る。坂の途中に右に入る細道があるがそこを右折すると、すぐ左側に「妻恋神社」がある。この付近一帯は多くのラブホテルが所狭しと立ち並んでいる。
そう!湯島といえば菅原道真公を祀る“学問の神様”の湯島天神もあるが、一方でピンク温泉マーク宿でも有名な所だが、それが何とも頼りがいのある町だなんて勝手なことを考えていた。ビルの谷間にチョコンとある「妻恋神社」も日本武尊(やまとたけるのみこと)と妃の「弟橘姫(おとたちばなひめ)」を祀っているというから何とも驚きである。史書によれば、『日本武尊が東征のときに三浦半島から房総に渡る際に大暴風に会い姫が身を海に投じて海神を鎮め尊の一行を救ったという。その途中湯島の地に滞在したので、郷民が尊の姫を慕われる心を汲んで、尊と姫を祀った』とある。なるほど、学問、男と女、夫と妻、愛、そして“湯の島”なんて頭に浮かべながら急な湯島の「妻恋坂」を下った。
【左側にはり付くような妻恋神社とホテル街】
道はしばらくすると都道452号線に出て、向かい側が「外神田」で千代田区になる。そこを左折して池之端、「上野不忍池」を目指して直進する。不忍池は台東区に入るが、朝の池が見たくて寄ることにする。9:00不忍池に到着、池の水面は朝の太陽をギラギラと反射させて沢山の渡り鳥が羽を休めていた。日が当たっているベンチを見つけてリユックを下ろし2回目の休憩を取る。池から突き出た木杭一本一本の上に一羽ずつ“カモメ”が止まって休んでいる。カモメは首を自分の羽の中に埋め込んで寝ているようだが、風の向きに合わせて体をわずかに右に左に振っているが、それは最も風の抵抗が無い方向に自然と体の向きを合わせているのだろうが、まさしく“風見鶏”の姿だ。
【朝の不忍池・桜木に小さな蕾が】
【カゴメの“風見鶏”姿】

5分間の休憩の後、“不忍通り”に出て、そこを突っ切り「無縁坂」の手前を右折してしばらく行くと“東京大学”の「池之端門」を通過、「東淵寺」の先を斜め右に入る。この付近は寺町で「正慶寺」、「妙顕寺」の裏側を抜けて「七倉稲荷神社」のところに出ると直進は東大・浅野地区の敷地に入る門柱がありそこを通り抜けることにする。この道は左が文京区で右が台東区「池之端2丁目」になる境目になっている。

実はこの浅野地区内に弥生式土器の発掘現場があることを聞いていたので今回そこに寄ってみる計画だ。暫く行くと左手に「東京大学情報基盤共同利用係情報利用室」と長ったらしい看板が掛かった入口があり、両側には東京大学・工学部の校舎が聳え立っている。こんなキャンバスの中に遺跡が有るのだろうかと不安になってくるが、途中でガードマンらしき人が歩いて来たので「この辺に“弥生2丁目遺跡”があると聞いて探しているのですがご存知ですか」と尋ねると、「あ〜〜、あれね。こちらですよ」と案内してくれた。工学部第9校舎の右奥の小高い小山のような所に解説版が建っていた。もし一人で探していたら見つからないかも知れないほど敷地の裏側にポツンと有ったので、偶然ガードマンに会えたのがラッキーとしか言いようがない。

実は弥生式土器の“第一発掘の現場”が未だ特定出来ていないのが事実という。私はこれまで東京大学農学部の東側、言問通りに面した付近と思っていたが、現在はどうやらこの弥生2丁目遺跡が第一発掘現場の本命らしい。どこが第一の発掘現場なのかには諸説あるらしいが、この浅野地区内で根津小学校の生徒が土器を発掘した明治17年ころはこの敷地が警視庁の“射的場”となっていて【立ち入り禁止地域】だったので、一方で当時農学部の敷地は東京府の精神科病院用地として立ち入り可だったので、そこを発掘現場と【嘘の報告】をしていたと言う説が現在では最も信憑性が高いと言われている。

【東京大学・浅野地区入口】
【弥生式土器 弥生2丁目遺跡】
弥生2丁目遺跡を見た後、再び元の台東区との境目の細道に戻り左に折れて「忠網寺」、「休昌院」そして「妙極寺」の裏側を通り、この細道はやがて“言問道り”の「弥生坂」の途中に出た。言問通りを右折し、不忍通りと交差する「根津一丁目」の交差点を突っ切り、しばらく直進した最初の十字路を左折する。この道が左・文京区で右・台東区の境目の道である。この道は昔「藍染川」が流れていたのだが、あまりに氾濫の多い川だったので大正時代に暗渠工事が始まり、今では道路に姿を変えている。しかし「千駄木2丁目」付近にくると道は一段と細くなりクネクネと右に左にと曲がっており昔の川の流れを思い起こす風情が残っている。面白いことにこの“あいそめ川”の名の起こりに多くの説があるらしい。“染井(豊島区)の長池から西ヶ原をと通って流れ込んでいたから”とか、“川筋に藍染屋があり、川の色が藍色をしていたから”、また“根津神社の門前の遊郭の遊女とはじめて会うから”「あいそめ川」と言ったなど諸説があるようだ。ず〜〜っとこの藍染川が流れていたと思われる道に沿って北進する。この道は“不忍通り”とほとんど並行に走っているが、千駄木の町に入るとこの道は左・文京区、右・荒川区の境目となる。 やがて「千駄木4丁目19番地」に来て、路地を左に折れて“不忍通り”に出る。しばらく行くと「動坂下」の交差点に出てそこを直進。時計を見るとそろそろ10時になる。「よし、この辺で10時のお茶休憩としよう。」
【藍染川の面影を残す路地】
【昔のたたずまいの染物屋】

交差点をわたってチョット行った左側におあつらえ向きな喫茶店があった。“モーニング・サービス 550円”と看板が出ており早速ガラスドアを開けて中に入ると、暖かな空気とプ〜〜ンと匂うコーヒーの香りが迎えてくれた。10分もするとトレイにトースト、野菜サラダ、それにテザート的な一口ゼリーとコーヒーが載ったセットが運ばれて来る。公園での朝食から2時間しか経っていないが、やはり歩き通しのせいか十分食欲があり、おいしく戴いた。約40分の休憩の後 再び不忍通りを北西方向に歩きを進める。この辺は左・文京区・本駒込一帯で、右は田端の町で北区となっている。進行左手のビルの奥に何と昔懐かしい“都電”の姿が目に入った。
【藍染川はあちらの路地に入ってゆく】
そのビルは「文京区勤労福祉会館」と書かれており、その奥に「神明都電車庫跡公園」が有ったのだ。この付近から右折して細道に入り不忍通りからしばし離れることになる。「本駒込5丁目 54番地」で左に細道を入り「神明北公園」の脇を通って再び不忍通りに出て本郷通りとの交差点「上富士前」を目指す。
【喫茶店の内部 暖かだった】
【向こうに懐かしい都電の姿】
上富士前交差点を右に折れてJR駒込駅方向に歩きを進める。 地下鉄南北線・駒込駅入口のところに来ると左側に「六義園(りくぎえん)」の裏門が顔を出す。この六義園は川越藩主の柳沢吉保(五代将軍綱吉の寵臣)が造った典型的な“大名庭園”である。この庭園の正門入口を入ったすぐのところには大きな“しだれ桜”の老木があり、シーズンには沢山の“はとバス”が立ち寄るほど有名である。駒込駅の手前を斜め北方向に入り山手線の線路に突き当たって左折する。この山手線路際の地点が文京区エリアの最北端になる。しばらく山手線に沿って巣鴨駅方面に向かって斜めに南下する。
【六義園の裏門】
【文京区の最北端・右下、山手線が走る】
「本駒込6丁目20番地」のところで十字路を左折して南西に進路を取り、六義園の裏側角の十字路を今度は右折、しばらく直進すると、太い自動車道路“白山通り”に出る。白山通りの信号を渡って直進し2本目の十字路を右折し北西に進路をとる。「千石4丁目28番地」の十字路を左折してしばらく細い路地が入り組んだ住宅街を通過する。この道が右・「南大塚」の豊島区にあたり、左が文京区の境目になっている。トイレに寄りたい感じがしてきたので、地図を取り出し最も近場の公園を探す。近くに「文京宮下公園」が有るのを確認、「巣鴨大鳥神社」の脇を通って公園に出た。(11:10)用を済ませて公園の北側の道を西に向かって歩きを再開。
【巣鴨大鳥神社】
【江戸橋通りの標識】
この道は暫く行くと“江戸橋通り”にぶち当たりそこを左折して、すぐに細い路地を今度は右折して「東洋女子高校」の校舎に沿って歩く。この辺は白山台地の上で大塚方面の低地が見下ろせる場所である。この辺の路地は狭いが大きな敷地の家々が多く屋敷町の雰囲気がする。「千石3丁目18番地」の十字路を右折すると【この道は行き止まりです】の標識が目に入るが歩行者は抜けられるだろうと直進する。確かに突き当たりは急階段となっていて車では通れない。急な階段を一挙におりて「氷川下」に出るが、ここが大塚駅方面から来ている“千川通り”との交叉点である。
【突き当たり正面の氷川下に出る急階段】
千川は水源が豊島区長崎にあったそうで、大塚を通り現在の“プラタナス大通り(千川通り)”を南東方向に下り「小石川植物園」(昔は“小石川御殿”と言われ5代将軍綱吉の別邸)の脇を通り「小石川1丁目(昔の柳町)」のところで緩やかに右に曲がり「こんにゃく閻魔(源覚寺)」の前を経て「富坂下」を突っ切り「小石川後楽園(水戸藩上屋敷)」の中を通り“外堀通り”の「仙台橋」の下から神田川に注いでいたと言う。古くから別名“小石川”とも呼ばれ小石が多く小川が幾筋にも流れていた湿地帯で川に沿った低地一帯が田んぼで一面覆われていたと言う。昭和の初めまではこの川でドジョウを捕ったり、ホタルを追って“氷川田んぼ”に落ちたという話が伝わっているほどのどかな田園であったそうだ。しかし洪水の害が多かったため昭和9年に暗渠工事が行われ上を道路にしたという。

【猫又橋 氷川田圃】

  伊藤晴雨 画 1928 〔明治41年〕

現在の小石川5丁目付近で千川に掛かっている猫又橋を描いたもの。右手高台が白山台地でこの絵の道の右先に「簸川神社」がある。ということはこの場所は現在の「ひかわした」バス停留所付近であろうか。猫又とは「徒然草」にも登場する怪獣だそうで、昔話に「大塚付近に愚かな少年僧がいて巣鴨での法事の帰りの夕暮れ時にすすきやかるかやの生い茂る中を白い獣が襲ってくるので すわ狸かと慌てて逃げて千川にはまった」と。

千川通りを左に少し下って「東京厚生病院」の所で右路地に入る。この付近が「大塚4丁目」で細いクネクネした緩やかな上りの路地をほぼ西へ西へと進路を取る。道をジグザグに歩きながら「都立大塚看護専門学校」そして「都立監察医務院」の脇を通過して「都立大塚病院」を左に見てその斜め前にある「大塚公園」に11:45到着。
【大塚公園の噴水】

この辺に来てどうも左足のくるぶしと両足の小指に痛みを感じ始めている。実は今日の一人歩きにはもう一つの目的があったのだ。昨年6月に塩の道・一人行脚・最終章(信濃大町から糸魚川まで)を実行するために思い切って高額の“トレッキング靴”を購入していたが、どうも私の足に合わず8月7日から11日にかけて実施した塩の道・一人行脚には不安だったのでこの靴を使わずこれまで愛用のスニーカーを使った。そこで高い金を出して買ったトレッキング靴の使用テストを何時はしておかなければと考えていたので、今日の“文京区境界線一周歩き”はこの靴のテストの日でもあったのだ。万が一途中で痛みが出てもいつでも、どこからでも簡単に自宅に戻れるからである。しかし案の定、足に痛みが出始めたのである。大塚公園内の「大塚子育地蔵」のある小山の上のベンチに腰を下ろし靴を脱ぎ足のマッサージを始める。そばで誰かがフルートの練習をしていて、そのすばらしい音色を楽しみならの一休み。下に見える運動広場では父親とその子供がキャッチボールをしているなごやかな情景が見えている。足の痛みを抑えようと今度は靴紐をゆるく締めてベンチから立ち上がる。(12:00)

【大塚子育地蔵】
【公園でフルートの練習】
“春日通り”を一旦JR大塚駅に出るように北に向かい地下鉄・丸の内線「新大塚駅」の所に来るが、そこは池袋方面と大塚方面との分岐「大塚5丁目」の所で、左側の池袋方面に向かう春日通りを少しだけ進み、「大塚6丁目9番地」のところで路地を左に入る。
自動車では通れないほどの細道がクネクネと続き方角を失いそうで、ただただ電信柱上の町名・地番表示を頼りに豊島区側の「東池袋5丁目」に入らないように注意しながら境界の道を選びながら歩き進む。やがて「首都高速5号池袋線」の高架下の自動車道路に出るがこの道は池袋東口正面から真っ直ぐ伸びている都道435号線で護国寺の前で直進する“不忍通り”と右折する“音羽通り”に繋がっている。この付近は江戸時代「護国寺」を中心に大きな寺町で周りに墓地が広がっていたと思われる。この道の向こう側は豊島区になるが「雑司が谷霊園」が控え、こちら側には護国寺の裏側にあたるが「豊島岡墓地」となっている。その豊島岡墓地に沿って暫く緩い坂を下って行くのだが、下り道になると何となく靴連れのような足の痛みが気にかかる。一旦護国寺に寄って足休めに休憩を取る事にする。(12:30)
【大塚6丁目付近の細い路地】
護国寺の「仁王門」を入ったすぐの右側に縁台が置かれた休憩場所がある。縁台に座り早速トレッキング靴を脱ぎ左右交互にくるぶしと指先の部分をマッサージしてやる。いつもここに来て感心するのがここからの眺めで、正面の石段とその上に構えている「不老門」とその周りの松とツツジの木々とのバランス取れた構図が何ともスバラシイのである。護国寺は5代将軍綱吉が生母“桂昌院”の願いによって建立した社寺で、その後将軍家の祈願寺となり相当に権威のある寺であったそうだ。聞いた話だが、江戸時代の町名は江戸城を中心に近い所から1丁目、2丁目と番号が付いたそうだが、この護国寺の周りだけは護国寺を中心に1丁目、2丁目と順番が付いていたという。10分ほどの休憩の後、「よし、途中のドラッグストアでバンドエイドを買って対処しよう」と元気付けて縁台を立ち上がる。
【護国寺・不老門の手前の縁台にて】
【不老門と松とツツジのアンサンブル】

【新撰東京名所図会 護国寺】

  山本松谷 画 1906 〔明治39年〕

音羽通りから見た護国寺で境内全体の配置や建物の姿が良く分かる。手前が「仁王門」で階段を上った正面に「本堂」がありいずれも元禄期〜(1688〜1704)の建物という。このころはまだ階段の上に「不老門」は無く、昭和13年になってから建立されたそうで、天狗や牛若丸で有名な京都・鞍馬山の山門を模したものだそうだ。

一旦仁王門の外に出てさっき通ってきた「護国寺西」の三叉路まで戻りそこを今度は直進して緩やかな「清戸坂」を上ると“目白通り”に突き当たる。ここの信号をそのまま渡って少し右に進んですぐに左に入ると急な下り坂になる。眼前に視界が開けて新宿の高層ビル群が見えている。坂の名前が「富士見坂」とあるので昔はきっとここから富士山が眺められたのだろう。「日本女子大学付属豊明小学校」の前を通過すると道幅の狭い商店街になっている。運良く小さなドラッグストアが有ったので“バンドエイド”を購入し、そこから数分歩いた右側の小さな公園のベンチで靴擦れ対策を施した。両足の小指、そしてくるぶしの上にバンドエイドをはり気分一新「さあ!もう一息!」と立ち上がった。この小道は暫く行くと「目白台1丁目13番地」のところで東に方向を変える。道の右側は「高田1丁目」で豊島区であり、少し行くと小さな十字路に出るが、その左側に狭い土地に貼り付くように「豊川稲荷神社」があった。その十字路を直進してすぐに「新江戸川公園」の入口が現れる。この敷地は熊本の細川家の下屋敷だったそうだが、最終的には昭和50年に文京区に移管され、そばに「江戸川公園」がすでに有った事より「新」と付けたそうだ。この新公園に入らず脇道を真っ直ぐ歩くと“神田川”の脇に出る。目の前に神田川を跨ぐ「駒塚橋」が見えていて、その左側の崖の中腹に「水神社」がある。
【富士見坂から遠く新宿摩天楼を】
【豊川稲荷神社】
【新江戸川公園の入口】
【水(すい)神社・右に胸突坂】
この“水神”の謂れは江戸時代に遡る。このそばに「大洗堰(おおあらいせき)」という堰があり、この堰で神田川の水位を上げて水を横に引き出し、現在の“巻石通り”に沿って水道橋の所まで通水し、そこから木製の懸樋で神田川を跨ぎ(水道橋)内濠内の大名屋敷や日本橋方面の町屋に給水していたという(神田上水)。この背景には、徳川家康が江戸に入って最初に驚いたのが水の悪さで、「大久保主水」に命じて井の頭池(武蔵野市)、善福寺池(杉並区)、妙正寺池(杉並区)から水を集めて目白台下の関口で水を取り入れる神田上水を造らせたという。その大事な「関口水門」を守る神としてこの地に水神社を置き水神を祀ったという。

【東京名所四十八景 関口大洗堰】

  昇斎一景 画 1871 〔明治4年〕

画面左端に大洗堰が描かれている。堰と岸は石積みで固められており、明治時代初期の様子がうかがえる。右上隅に目白不動が描かれているが、現在この高台は「椿山荘」の敷地となっている。

実は昭和40年(1965)までは神田川は“江戸川”と呼ばれていたそうで、江戸時代は“御留川”と呼ばれ禁猟の川だったそうだ。なんとこの神田上水工事の時にあの俳人“松尾芭蕉(1644〜94)がこの工事を手伝いこの地に3年間住み、その後日本橋、深川へ移ったそうだ。その名残が水神社のすぐ隣に「関口の芭蕉庵」として残っている。
【江戸川公園内の“大洗堰”のあった場所】
【関口の芭蕉庵】

【新撰東京名所図会 目白台下駒塚橋辺の景】

  山本松谷 画 1907〔明治40年〕

左が芭蕉庵で中央を流れるのが神田川。当時は芭蕉庵と川との段差もさほど無く、川で野菜を洗う姿が描かれている。駒塚橋が先のほうに小さく描かれているがこの時代は木橋で、現在はこれより少し上流に鋼製の橋が掛けられ川面も深く遠くなっている。

駒塚橋を渡って真っ直ぐ歩くと“新目白通り”に出る。そこを左折して「江戸川橋」方面に向けて直進する。この道の右側が「早稲田鶴巻町」で新宿区である。時計を見ると午後1時を過ぎていた。そろそろ昼食をと考えて歩いていると“徳島特製濃いスープ・ラーメン”の幟を上げて元気よさそうな店が現れたので、そこにス〜〜ト吸い込まれるように入った。(13:10)20分で昼食を済ませ新目白通りを江戸川橋に向かって歩き始める。チョット左に入ると神田川に沿って走っている遊歩道がある。この辺は両サイドに染井吉野の桜の木がビッシリと植わっており春の桜の満開時期には大勢の人を集める所である。江戸川橋の交差点に出て一旦左折して「江戸川公園」の入口のところで小休憩を取る。足の痛みをかばう為か短かい間隔で休憩を取っているような気がする。(13:50)
【新目白通り・左手にラーメン屋の旗】
【桜の名所・江戸川公園を大滝橋より】
多分これが最後の休憩だろうと自分に言い聞かせて立ち上がる。江戸川橋の交差点に戻ってそこを直進して“江戸川橋通り”の左側を数ブロック歩いてすぐに左に入る。 暫く直進して「関口1丁目16番地」のところで左折して神田川に並行に走っている“目白通り”に出る。出た所が「石切橋」の袂である。この橋は江戸時代ではこの付近で最も幅の広い大橋で(長さ15m、幅5mの木橋)、かつてこの橋の周辺に石工が多く住んでいたことよりその名が付いたそうだ。石切橋の上から川下を眺めると丁度川の“清掃船”が上ってくる。昔はこの辺の川の左右には沢山の桜木で覆われ江戸の屈指の“桜の名所”だったそうだ。しかし洪水の害があって、大正時代末期に護岸工事がなされて桜木はすべて切られて、それ以来その面影を全く失ってしまった。
【石切橋より大曲方面を・桜名所の面影なし】
【小桜橋の老桜木と凸版ビル】

【新撰東京名所図会 江戸川の夜桜】

  山本松谷 画 1906〔明治39年〕

江戸川はかつて東京屈指の桜の名所であった。明治17年頃から植えられ始め明治39年には石切橋〜大曲間に241本有ったらしい。「中之橋」あたりが最も美しく、桜見物や船遊びをする人で賑わったという。今はこの地に凸版印刷の高いビルが建っている。

更に神田川に沿って文京区側を南下すると、「小桜橋」の交差点の所に出る。交差点の角に一本の桜の老木が立っていて昔の桜の名所の面影を残している。その老木の真後ろに巨大なブルー色の「凸版印刷」ビルがデ〜〜ンと建っているのが何か今昔を対比しているかの様で印象的である。凸版ビルを通過すると、川は右に急カーブを切って「飯田橋」方向に向きを変える。ここから飯田橋の交差点までは、神田川の上を首都高速・池袋線が走っていて神田川の川面をいつも暗くし、その下を走る目白通りには車があふれており、歩く者に取っては無味乾燥の全く魅力のない風景である。早くこの一角を抜けたいと歩く速さも自然と高まる。
【大曲と高速道路(飯田橋側から)】
【飯田橋の六叉路・6本分かりますか?】

【昼の東京 飯田橋】

  吉田遠志 画 1939〔昭和14年〕

手前から外堀からの流れ(現在は埋め立てられている)、一方神田川が突き当たりの左から流れてきて合流し、右の水道橋方向に流れて行く合流地点を描いている。つまり現在では左岸が新宿区で右岸が千代田区、そして突き当たりが文京区になる。とすると現在は左岸の手前にJR飯田橋駅、正面には首都高速道路の高架が見えていることになる。

飯田橋の巨大なる六叉路に出て左折し“外堀通り”を水道橋交差点に向けて歩く。後楽園ドームホテルを通過し水道橋の交差点に達した所で文京区の境界線をグルリと一周した事になる。さあ後は自宅まで白山通りを北上するだけである。(14:30)
【現在の水道橋】
【水道橋交差点から後楽遊園地を】

【東都名所 御茶ノ水の図】

  歌川広重 画 1832

懸樋を中央に大きく描き、その橋の下の先のほうに小さく水道橋が描かれている。懸樋の右上に周りの景観を売り物にした料理屋があり、これが文京区側になる。

後楽園遊園地の脇を通過して今朝歩いたとは逆向きに白山通りを北上して自宅到着14:45、出発してから帰宅まで7時間、昼食や途中休憩の時間を差し引けば実際に歩いていた時間は6時間弱というところだろうか。万歩計によれば、33,780歩 24kmとなっていた。

文京区地区は武蔵野台地の東端に位置していて、太古の時代、海岸線は台地と谷がギザギザに入り組んでいるリアス式海岸であったという。従って文京区には坂が115もあり東京都内に502坂あるというのだから2割は文京区内に有ることになる。我が家が在る「本郷田町」付近は旧水戸藩中屋敷(現在の東大農学部)と旧加賀藩上屋敷(現在の東大)に有った“湧き水”が流れ出て“言問通り”の所を通って現在の西片交差点の付近で千川(小石川)に合流していたという。今日はその湧き水が流れ込んでいた谷地から出発して“神田上水”が通っていた水道橋の所を横に曲がって【本郷台地】を上り、湯島の妻恋の急坂を下り、不忍池に出て西ヶ原方面から流れている藍染川の低地を上流に向かって上ったのだ。「六義園」のそばから【白山台地】に入り“巣鴨とげぬき地蔵”(豊島区)のそばを掠めて千川の湿地帯に下りてゆく。千川の低地を突っ切って今度は【小石川台地】へジグザグと細い路地を上り、上りあがったところに“大塚公園”があった。それから横に歩いて【小日向(こひなた)台地】に入り “鶴巻川”の流れていた低地を緩やか下り護国寺に出て休憩。そこから西に“清戸坂”を上って【目白台地】の上に出て新宿摩天楼を眺めながら「富士見坂」を下りたのだ。そして芭蕉庵の脇から神田川に沿って大曲を大きく曲がると、人類の造った“地球環境そして自然美景の破壊的建造物”である首都高速道路に沿ってその下の道を飯田橋まで下って来たことになるのだ。今日は5つの【台地】を“上っては下りて”を繰り返して文京区の境界道を一周して来たことになる。自分の故郷がまだまだ地形的にも、歴史的にも多いに魅力的で、今日はそれを体で再認識することが出来て大変に幸せな気持ちにさせてくれた楽しい一日ウォーキングだった。

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   <参考>文京区名所の画は『版になった風景』(文京区教育委員会発行)より転写。 

<完> 

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