私のアルバム【老年期】その2

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【第3章】翁の境遇 老年期=その2=(67〜74歳)

<功乃介1歳

2011年(平成23年)は静かにやってきました。我が家は新生「功乃介」が加わっているのでこれまでには無かった様な賑やかな正月を迎えました。みんなが順番に功乃介をあやすと、功乃介が笑って応えて来るので、これがまた最高にかわいいので退屈しないのです。順子の作った最高の味の「おせち料理」の数々、苫小牧のお姉さんの送ってくれた「毛ガニ」、そして実おじさんの買って来てくれた「ふぐ」での鍋料理を囲んで、家族みんなで楽しむ事が出来ました。

2月に入ると若い起業家で作った【望走会】のメンバー6人で深雪に包まれた青森県・ランプの宿「青荷温泉」を訪ねました。真っ白な雪に覆われた鄙びた秘湯に浸かり、そして部屋では心ゆくまで地酒に浸りながら熱の入った会話に没頭したことが思い出されます。

3月11日午後2時46分、「東日本大地震」が起きました。私はこの瞬間は東十条のスポーツ・ジムに居りました。いつものルーティンにしているトレーニングコースを終えて「スパ」に行きサウナ部屋に入って腰を下ろした瞬間にグラグラと来たのです。その瞬間、私の頭に「遂に来たか、これだ!」と思い躊躇わずロッカールームに戻り衣服を着て、1時間後には車を運転し自宅に戻っていたのですが、我が家はピアノがずれ、食器棚から飛び出した食器・鍋釜が散乱、床に散らばったレコード盤やCDなど恐ろしい姿でした。

<油絵 3・11>

この「東日本大震災」が天災だけで済むなら何とか対策の目処も立って行くのでしょうが、不幸にして大津波により「福島第一原発」での“炉心冷却システム”が動かなくなる事件を引き起してしまい、政府が「緊急事態宣言」を発表するという、最大に恐ろしい「人災」が降り掛かって来てしまったのです。

この地震後のある日、「Y染色体ハプログループの研究により日本人のルーツが明らかに」と言うインターネット上の記事に巡り会え、日本人は中国人や朝鮮人とは違う極めて人類の起源に近い人種と知り、3・11の被災者の冷静沈着な行動と結びつき『日本復活私論』を書き始めました。

<THDD応援団代表で挨拶>

5月に入ると17日(金)にNPO法人【楽しいひととき出前どころ(以下THDD)】の第1回チャリティ公演が「目黒GTプラザホール」で開催され、小生は応援団を代表して「このような素晴らしい団体がこれからも皆様のお役に立てればと、応援を続けて参ります」と挨拶をさせて貰いました。

16日(月)は早稲田大学構内で行われている異業種勉強会(【セールス・フォース・マネジメント研究会】以下【SFM研究会】)にて3・11に関連して「こころの時代到来か」をテーマに講演をいたしました。 この数日後に【M&M会】の初めての1泊2日の旅「伊那谷探訪」が実施され中央高速バスにて新宿から伊那市まで行き、そこでレンタカーして権平峠/奈良井宿/見晴らしの湯などを巡り割烹「みつはし」で宴会、宿は直ぐ側の「えびすホテル」、費用はすべて込みで@¥25000で済ませました。

<そば道場にて>

6月22日小田急線・経堂にある“そば道場”「寓直庵」にそば打ち修行に参りましたが、昨年から始めて今回が3回目、何とか要領だけは分かってきましたが、最大の苦手が「へそ出し」の段階で、そば粉を練り捏ね上げた後で、三角錐に纏めて行くのですがその頂点に「へそ」を盛ってゆくのが下手なのです。しかし完成品は“10割そば”なので太さはマチマチになのですが味は絶品です。

8月になると九州「RKB毎日放送」から、創立60周年記念として『塩の道から空の道へ』という番組が組まれており是非私に「塩の道」体験の話を聞きたいとの連絡を受けました。このテーマの意味は、そもそも北九州から海岸線を登ってきた安曇族が糸魚川に辿り着き、更に姫川に沿って“塩の道”を辿り安曇野で定住したという伝説と、丁度福岡〜松本間に直行便が飛ぶ事に引っ掛けた内容の番組だそうです。8月末に東京支社にてインタビューが録音されましたが、ラジオ放送は10月だそうで残念ながら関東地方では放送されないので聞けませんが、後でCDを送って頂きました。

この年にゴルフ回数が29回で多分国内での年間プレー回数では私の記録になると思います。因みに12月には、4日に従兄弟の勝さん/正行さんと「日本C.C.」、そして15日に星野さん/畑野さんと「レイクつぶらだ」、更に何と大晦日4日前の28日には二人ともに風邪気味にも関わらず「チェックメイト」でプレーしているのです。

<油絵「ねこ様」>

2012年(平成24年)の正月は二人共風邪気味で明けましたが、息子一家は年末から新潟に行っており、むしろゴロゴロ正月で良かったのかも知れません。1月10日から私が通っている御茶ノ水にある「アトリエ清水」の作品展が「千代田区いきいきプラザ一番町・区民ギャラリー」で開催され、私は作品「夏の日」(ベルトモリゾの模写)、「ねこ様」(創作画)、そして東日本大震災を題材にした「3・11」の3点を出展し多くの方に見に来て頂きました。 今年が14回目の出展となりましたが、油絵の勉強を始めたのが1995年ですから17年も続けてきた事になります。
2月に入ると順子と5日間で九州7県を巡るツアーに参加、その行程は羽田空港→福岡空港→長崎(泊)→市内観光→柳川→阿蘇温泉(泊)→鹿児島・さつまあげ工場→池田湖→霧島温泉(泊)→高千穂峡→阿蘇・瀬の本高原→別府温泉(泊)→由布院→博多→福岡空港→羽田空港とタイトなスケジュールをこなしましたが、結果的に観光バスの全走行距離は1,154kmでした。

4月に「オランダ友好協会」主催による立川の昭和記念公園での「春のチューリップ散歩」に参加しました。カラフルなチューリップ群の余りの美しさにそこで撮った写真を無料ソフト「Photo Story」で編集したものをYou Tubeにアップしました。この作品をオランダ友好協会の人が観て、オランダ国の友人に紹介したと言うのですから、インターネント時代による情報発信力とは凄いものですね。

<メンター研修会での配布資料>

6月23日(土)三軒茶屋にある「世田谷ボランティアセンター」にてNPO法人「生まれ育ちとこころを学ぶサンの会」(以下【サンの会】)主催の講演会「大人が大人になる為の授業」にて『日本復活私論』に関してお話する機会を頂きました。8月29日(水)には「産業技術活用センター」主催による王子の「北とぴあ」での「メンター研修会」にてテーマ「メンター活躍の時代到来」に就いてスピーチする機会を頂きました。

<SFM研究会での配布資料>

9月11日(火)には早稲田大学【SFM研究会】にて『日本復活私論』の講演を行いました。9月23日には長野市にある菩提寺「光蓮寺」に順子、弟夫婦にて「帰敬式」に出席して、各自の「法名」を頂きました。私の法名は「釈一寶」で「一番の宝」とは大変に有り難く頂戴致しました。

<千葉大学のゼミでの講義>

11月には2つの講演をこなしました。1つは22日(木)千葉大学内の「比護ゼミ」にて「コンプライアンスに就いて」というテーマで大学院生を対象にお話をしました。2つ目は30日(金)NPO法人「かわさき芸術倶楽部」主催の【かわさき塾】にて『日本復活私論』に関して2時間半の講演の機会を頂きました。参加者が30数名と大盛況で大変に話がいが有りました。今年は講演の多い年だったという印象です。年末が差し迫った12月16日に衆議院選挙と東京都知事選が行われましたが、自民党の圧勝と都知事は石原慎太郎が継続指名した猪瀬直樹の圧勝で何ら新鮮味の無いままに新しい年を迎える結果となりました。

<情報総合研究所での講演資料>

2013年(平成25年)になると早速1月16日(水)「情報総合研究所」主催で築地社会教育会館にて『日本復活私論〜その為のビジネスモデルは〜』をテーマに講演をさせて頂きました。
2月からは専門学校「織田学園」への通勤が始まり、一応月曜/水曜/金曜の週3日ですが、朝7:50に家を出て、南北線で飯田橋へ、次に東西線に乗り換えで中野まで出て、織田学園には8:20頃着きますので、通勤ルートとしては大変に恵まれています。

4月1日(月)は織田学園の「辞令交付式」で教職員の前で織田学園の「教育理念」、「目標」そして「中期ビジョン」に関して15分ほどお話しました。中期ビジョンの骨子は次のようなものでした。

  • 情報開示と透明性を重視して情報の共有化を図る
  • 業界や地域社会に対する「コンプライアンス体制」を整備
  • 情報システム化を図り、事務効率化および情報発信力のUPを図る
  • 地域社会との繋がりを保ち周辺環境の変化を捉えながら今後の展開を図る
  • 校舎の改蔵築や施設・設備の見直し、カリキュラム再考、人材育成、組織活性化を図る
<塩の道:「八方口」から「松川橋」まで歩いている江戸連の方々>

5月25(土)〜26日(日)【江戸連】関係者が主催する「近藤紗織ピアノリサイタルin白馬」に参加して貴重な体験をすることが出来ました。何と東京駅前から白馬までバス旅行なので7時間ほど掛るのですが、その間で「塩の道」に関する解説を頼まれ、2日間バスガイドのように喋りまくりました。そして「塩の道」の「八方口」から「松川橋」までの凡そ1kmを実際に皆さんで歩いてもらったのです。素晴らしく晴れ渡った北アルプスの山々を背景に皆さん大感激でした。

6月から「文京ふるさと歴史館」のボランティアガイドを始めたのですが、最初のガイドは13日の「NHK文化センター」講習生20人を相手にしてのガイドでしたがヒヤヒヤものでした。7月30〜31日(社)東京都専修各種学校協会が主催する「夏季教職員宿泊セミナー」に参加、場所は「湘南国際村センター」(逗子)にて行なわれましたが、この研修で役立ったのは「カウンセリング・マインド」に就いてでした。カウンセリングとは、“相手に「解」を与えるのでは無く、相手が自分で「解」を見つけるガイド役である”という事だそうで、なるほどと思いました。
8月に入ると日本列島は史上最高気温を記録し東京でも36度という時に、ワイフと“ゴルフのはしご”をやってしまったのです。8日(木)「オリンピック・レイクつぶらだ」、11日「ヴィレッジクラブ大子G.C」、15日「かんなみスプリングC.C.」にて弟夫婦と、20日「オリムピックスタッフ足利G.C.」と記録的猛暑の中で4連チャン・ゴルフとは本当にたいしたものです。

<高井戸で功乃介と>

10月14日「体育の日」に“一度やってみたい”と思っていた「神田川ひとり歩き」を実行に移しました。8:10にJR吉祥寺駅に到着、コンビニで食料などを購入し、8:20井の頭公園にて朝食を摂り、8:30いよいよ神田川に沿って歩き出し三鷹台駅前→久我山稲荷神社→玉川上水→高井戸橋、ここで息子と孫の功乃介を呼び出して「高井戸」の前で記念写真。下高井戸・八幡神社→水道通り→井の頭通り→和泉熊野神社→貴船社→環七通り→方南橋に出て前半戦を終了、丸の内線・方南町駅から自宅に戻りました。

<中野ブロードウェー商店街を針供養デモ>

11月13日、6月から治療してきた入れ歯が完成して装着されましたが、生まれて初めての体験です。これから大切な毎日の入れ歯クリーニング作業が日常業務として生まれました。
12月に入ると【ここや会】による京都での紅葉を楽しむ忘年会が開催され、ジックリと京都の紅葉を楽しむことが出来ました。そして6日(金)織田学園・きもの校による「針供養」で中野ブロードウェイを大型の豆腐に針を指してデモ行進したのは私に取ってもいい思い出となりました。

大晦日の東京新聞朝刊の社説に「日本人らしさを」と言う記事が載っていましたが、その”まえがき”のところで『安倍首相が“日本を取り戻そう”というが、それよりも“日本人らしさを取り戻そう”と言いたい。そんな事を思った1年でもありました』と書かれており、これは私の『日本復活私論』を後押しする様な内容であり、チョットだけホットして新年を迎えられそうです。

<花奈加1歳>

2014年(平成26年)は天候も快晴続きで穏やかに始まりました。早速5日には何時ものゴルフ仲間と一緒にチェックメイトC.C.にて「初ゴルフ」が出来ましたが、新年早々に真っ白な富士山を見ながらのプレーは最高でした。1月15日に息子の第2子「花奈加」の誕生となり、本当に目出度い年の始まりとなりました。

2月には再び【サンの会】の主催により「世田谷ボランティアセンター」にて『日本復活私論-Part II-』の講演の機会を頂きました。2月28日(土)は一日中雪が振り、家の前の「石坂」も真っ白に雪化粧しました。積雪は26cmで20年ぶりの大雪となりました。

<田町町会での「日本復活私論」講演>

6月28日(土)に小中学校の同期会【まにまに会】が「古希の集い」と銘打って渋谷の中華飯店で行われ、38名が参加され懐かしく楽しいひと時でありました。
7月27日(日)は田町町会の人たちに『日本復活私論』を聴いて頂く機会を頂きました。場所は清和公園の前にある「本郷第四集会室」で28人の参加者でした。
そして7月29日(火)に行われた第45回「例の会コンペ」で私のこれまでで最高のスコア86(41/45)が出て優勝したのです。この影の立役者が今年6月に購入した“赤色ヘッド・ドライバー”にあると思っているのですが。兎に角この赤色が「広島カープ」の新ヘルメット・カラーにそっくりだったので、アメ横の二木ゴルフ・ショップで見つけて一発購入したものでした。このドライバーが私にピッタリと吸い付くようでナイスショットが出るようになったのでこの歳にもなってゴルフが一段と楽しくなった様に感じました。と思っていたのですが、8月30日「千葉廣済堂CC」で多分自分のこれまでで最悪のスコア125(67/58)を叩くのですから、スポーツとは難しいものだと実感させられました。

<功乃介の運動会>

10月12日(日)孫・功乃介(4歳)の運動会の応援に「久我山幼稚園」まで行きましたが、2子の花奈加はまだ1歳で母の乳から離れませんが、花奈加がジジババの家に来てゴロリして居眠りしている姿に一句、

まろび寝の赤子に口づけ秋近かし <翆敏>

<SFM研究会での講演>

11月13日(木)には早稲田大学・【SFM研究会】にて『日本復活私論-Part II-』に関する講演をさせて頂きました。これで『日本復活私論』に関する講演は2012年6月の第1回目から今回で合計7回の機会を与えて頂き、“昨今の閉塞感の強い日本社会に対して本来の日本人気質を取り戻そう”という叫びを多くの方に聴いて頂き大変に嬉しく思いました。

10月頃からワイフと「今度の年末年始は外で迎えようか」という話が持ち上がり、どうせ行くならゴルフが出来る場所、と言うことで房総白浜方面の宿を探そうとネット検索をやっていますと、何と大晦日から正月に掛けてゴルフがセットになっている旅行パックが見つかり、それには温泉まで付いているというので、シメシメと直ちに大人二名でネット予約を入れました。暫くしてパンフレットが送られて来ましたが、何と予約したのは「南紀白浜」だった事が判明してビックリでしたが、“慌てることはない、行ってしまえ!”という結論に達し、12月31日(水)朝6:00、愛車チェルシーで片道660kmのドライブが敢行されたのです。

<法隆寺にて>

数日前に作っておいた工程表は、6:00(自宅発)→7:00(海老名SA)→9:00(遠州森町PA)→10:30(亀山スマートIC)→12:00(法隆寺IC)→法隆寺にて昼食→14:00(松原JCT)→15:00(紀の川SA)→16:00(南紀田辺)→16:30(白浜リゾートホテル)となっていましたが、その通り午後4時半にホテルにチェックイン。 温泉に浸かった後でレストランでの和洋懐石を二人で楽しみましたが、周りを見渡せば同じように食事を摂っているカップルは他に2組居られました。ところで私達は大晦日に外泊するのはシンガポール駐在時のオーストラリア旅行以来になりますが、お陰様で今年はホテルでの贅沢な年越しとなりました。

<薄っすらと雪の上でゴルフ>

2015年(平成27年)の正月は南紀白浜で迎えました。今回の旅の最大の目的は、ワイフがおせち料理造りから開放してあげる事にありますが、ホテルから出された元旦の朝食にでたお節料理も見事でしたが、やはりワイフのお節には叶いません。いよいよ9:06スタートの“元旦ゴルフ”に向かいますが、風が強く雲の動きが激しかったのですが薄日が差している中で1番ホールを終えたところで何と“ぼたん雪”が突然にボタボタと降り始めたのです。

30分ほど休憩を取り、雪も上がったので何とか18ホールを回り切りました。この旅に出る前から正月の天候は日本海側、東北、北海道を中心に幅広く“大雪注意予報”が出ていたのですが、まさか南紀に来て雪を見るとは驚きでした。2日目のゴルフも風は強いものの青空の下で18ホール回れました。問題は3日の天候も荒れ気味で、かつ大渋滞が予想され帰路の660kmも大いに不安でした。案の定、天理を通過して登り坂に入ると道の両側に薄っすらと雪が有るではありませんか。峠の頂上付近では完全に雪が降っており、スタッドレスでは無く普通のタイヤで来てしまった事が悔やまれます。何とか雪の不安を乗り切ったかと思うと岡崎辺りから東名高速道路は大渋滞。ノロノロと富士山の脇を通り我が家に到着したのは午後8時過ぎで、何と14時間のドライブだったのです。

4月にワイフが“C型肝炎の予防新薬”を使って治療を行う事として28日から4泊5日で虎ノ門病院・川崎分室に入院をしました。退院後は1年間に渡って毎月虎ノ門病院に行って体調変化をチェック受けることになります。GWは好天続きだったので、5月4日「みどりの日」に「神田川ひとり歩き」の後半(方南町〜隅田川まで)を歩いてみる事にしました。

<神田川は隅田川へ>

午前8時40分、方南橋から歩き始めるとすぐに「善福寺川」との合流点に出ますが、この辺は川がコンクリートで固められており味も素っ気も有りません。この後は中野坂上→上落合→高田馬場→曙橋→新江戸川公園→関口芭蕉庵→江戸川橋→飯田橋→御茶ノ水(昼食)→秋葉原→浅草橋→柳橋と歩いてきて神田川は隅田川に流れ込みます。両国橋の袂に出ると目の前に「スカイツリー」がデ〜ンと雄大な姿を見せています。これで井の頭公園の池から流れ出し、最後に隅田川へ流れ込む「神田川」のおよそ20kmに亘るひとり歩きは終わりですが、時計を見ると丁度午後2時を指しておりました。

<手児奈霊神堂>

6月1日(月)、いつも月の1日は朝6:00から「沢蔵司稲荷」で開かれる「大護摩」に参加した後、天候が良かったので東国万葉の道『手児奈伝説』の地を訪ねました。昔々の神話の時代、市川真間に絶世の美女「手児奈姫」が居て全国の男性から結婚を迫られ、「心はいくらでも与えられるが、体は一つ。どなたか一人と結婚すれば他の人に不幸を与える」と嘆かれ、真間の入江に日が沈むのと一緒に海に入って行ってしまった、という伝説があり、私はその伝説を辿るウォーキングに出掛けたのです。 京成電鉄「真間」駅から市川真間ゆかりの文学者たちを紹介している「文学の道」を歩き真間川に突き当たって間もなく「手児奈霊神堂」に到着、そ こから「下総国分寺、国分尼寺跡」を訪ね「じゅん菜公園」から北総線「北国分」駅に出て午後2時には我が家に戻りました。

<丸亀・偕行社ホール>

6月20〜22日、2泊3日でNPO法人【THDD】の主催で、四国・丸亀の偕行社ホールにてピアニスト田村真穂さんのコンサートが行われ、栗林公園、金毘羅さん、金丸座、丸亀城、そして丸亀うどん等を楽しみました。この旅で讃岐の7つの富士山や「空海」が丸亀出身であることを知りました。

<カブト虫用手製カゴ>

7月には我が家で「カブト虫騒動」が有りました。購読している新聞の配達所が「カブト虫プレセント」企画を毎年行っており、孫が二人いるのでオスメスの2ペアを貰って来ましたが、息子家族が取りに来るまでワイフが菓子の空箱を工夫して虫かごを作ったのです。しかし息子から2ペア一緒にすると喧嘩し合うので分けた方がいいと言い出し、2つ虫かごを用意する事になったのです。2つ目は洗面器の上に台所で使う「排水口用水きりネット」を被せたもので作りましたが、事件は夜中の10時頃に起きたのです。 TVを観ていたワイフの「ぎゃ〜〜!」という叫び声にビックリして飛んで行くと「眼の前をデカイ虫が飛んでいったのよ」という。ピ〜ンと来て洗面器の虫かごを覗くとメスが居ないのです。二人で一生懸命に探すと、台所の隅に居りました。翌朝2つの虫かごを覗くと今度は菓子箱で作った虫かごからはやりメスが脱走していたのです。数時間後にワイフが「ゴキブリほいほい」に嵌っているカブト虫を発見したのです。すごいのはこの後のワイフ行動です。焼き鳥に使う串を使ってカブト虫の足の一本一本を剥がしてやったのです。虫嫌いのワイフがその様な沈着冷静な行動を取れるとは、本当に女性はいざとなった時には予想を絶する力を発揮するものだと感心させられた事件でした。

<油絵:「菊坂下道 路地裏>

9月に入ると2年半前に書き始めていた油絵でキャンバス・サイズA8の作品【菊坂下道・路地裏】をやっと完成したのです。油絵には“完成”というのは無いのですが、ここで止めようと決めた訳です。10月には両目の「白内障手術」をやりました。お陰様で順調に手術は行われ、視界が明るくなり何か世界観が変わったようにも感じました。

11月末から「忘年会」が始まりますが、その初っ端は11月30日【KAN7の会】だったのですが、思い切って贅沢をしてみようと私の企画で神楽坂の「加賀」で一献を傾けたのですが、芸者の玉子を呼んで古典的雰囲気で奇声を挙げました。

23日(水)は息子一家とクリスマスパーテーで孫たちとケーキを楽しみました。


例年日本漢字検定協会が発表する「今年の漢字」が何と「安」と聞いて「本当かよ?」と驚きました。何故なら「安」の意味は「やすらか」、「値段がやすい」、「たやすい」とか「たのしむ」と言った意味ですが、そんな1年ではありませんでした。 「安」が選ばれた理由が「安全保障関連法で国民が国の平“安”を考えた年」、「テロ事件や異常気象で不“安”な年」そして「建築偽装事件による暮らしの“安”全が揺らいだ年」だからだそうです。それでは“安では無かった年”という意味では無いか。それを“安”とは「ふざける菜!」 東京新聞によれば、今年の最もふさわしい漢字は「恥」だそうで全く同感です。

2016年(平成28年)は三が日もポカポカ陽気が続き二人で静かな正月を迎えました。昨年の正月は「白浜違い」で遠く南紀白浜までのドライブとなり、まさかの雪の中でのゴルフを楽しんだのですが、それと比較して尚更「のんびり正月」と感じたようです。1月8日チェックメイトC.C.での“初打ち”でしたが、私は何と昨年1年間でも出なかった80台の89を出し、ワイフが最終18番でノーズロをしてオリンピックで5点を取り合計11点でトップ、私も7点を出し夫婦で勝ち得点となり、今年は夫婦して“良いゴルフ年”としたいものです。

<櫻木神社で豆まき:「福は内!」>

2月3日(水)は節分の日で、今年は“申年”で私が歳男に当たるので、桜木神社において「豆まき」をさせて頂いたのです。この習慣は室町時代になって豆を撒いて悪魔を追い払う儀式として民間に定着したそうですが、20人ほど集まった子どもたちに境内から「炒ったマメ」、「駄菓子」や「みかん」を“福は内!”と言ってばら撒くのですが、私にとって人生初めての体験だけに大変に興奮しました。

4月23日(土)には「田町みのり会」の“西片台地のウォーキング”を行いました。歩いた後で本郷第4集会室にて真砂町の老舗・うな重の「鮒兼」から出前を取って食するという贅沢な企画に人気が集まり参加者は17名と盛況でした。昼食を前に私の方から西片に住んでいた「夏目漱石と文京区の繋がり」に関して簡単にお話をしました。漱石は新宿牛込の生まれですが、東大の学生の時に小石川に下宿し文京区との関連が始まりますが、その後愛媛県・松山で英語の教師、熊本にて第五高等学校講師を経て、明治29年に貴族院書記官の娘「鏡子」と結婚、その後文部省から英語留学が命ぜられ英国に単身赴任し、2年後帰国し東大の英文科講師となり、作家活動は西片に引っ越して来てから注力するのですが、胃潰瘍から糖尿病を併発し大正5年に49歳で他界、短い生涯でありました。

6月12日(日)親戚の飛山勝さんの畑に息子一家で芋掘りに行きました。孫たちは土と戯れ大喜び。やらかい土の中で硬いものに触れた感じ。お芋はどうやって土の中に居るのかを体で知る。そして土の中から蟻やオケラやいろいろな虫の幼虫がゴソゴソ出てくるのを興味深く観察しているようだ。小さな生き物と人間との共生していることを学んでくれると嬉しい。
8月5日〜21日はブラジル・リオデジャネイロにてオリパラが開催され日本はメダル51個(金:12,銀:8,銅:21)とこれまでの記録を作ったそうです。メダルに貢献した競技は競泳/7個,柔道/12個、レスリング/7個でした。

11月6〜7日早稲田大学・異業種勉強会【SFM研究会】が今年40周年を迎えたことで、記 念旅行として北茨木・うぐいす谷温泉「竹の葉」を訪ねました。参加者は15名で途中「袋田の滝」を経由して五浦海岸のそばの旅荘「竹の葉」でゆっくり静養を楽しみました。そして12〜13日は町会の【金曜会】で北陸新幹線が「金沢」まで乗り上げるという事で、その新幹線で金沢まで行き、ひがし茶屋、主計町(かずえまち)茶屋から「山中温泉」に出て渓谷沿いの紅葉に包まれた「ゆげ街道」を散策し、ホテル「花紫」にて泊、翌日は「東尋坊」まで出て、帰りも金沢から北陸新幹線にて戻ってきました。

<SFM研究会40周年記念>

12月2日は【SFM研究会】の40周年記念祝賀会を池袋「グレースバリ」にて開催し、小生が司会役をこなしました。イベントとして「木津かおり(三味線、民謡)+佐藤錦水(尺八)」、「藤間信子 日本舞踊」、「三条アンナのジャズ」そして「田村真穂のピアノ」と盛り沢山で皆さんも大満足の感想を述べていました。12月19日に【ITECメンター・メンティ交流会】にて私がテーマ「中小企業の商社との付き合い方」に就いて講演を致しました。
織田学園が来年70周年を迎える事より、まずは受付のある第8校舎(きもの校)のデザイン一新が必須と考え、理事長、常務理事を説得して来年1月から加藤将巳氏にデザインをお願いし来年の新入生が来る3月末までに完成を予定しました。その為の事務局の仮引越しが21日(水)に行われました。26日には【第52会 例の会ゴルフコンペ】が「オリムピック・つぶらだ」で開催、順子が準優勝を勝ち取っていました。

2017年(平成29年)今年も息子一家は年末から新潟嫁の実家に行っており、大晦日の沢蔵司稲荷での大護摩に参加して年越しを行い、元旦の夜はウォーキングを兼ねて順子と「白山神社」にて初詣。2日には暇に任せて次のような「思弁的思惟(知的直観)」による大予言を書いていました。
 ・「北朝鮮」が滅びるのは何と「白頭山」の大噴火
 ・自動車メーカーは「自動運転技術」の深追いでダメになる
 ・10年以内に日本は「ソフトパワー大国」として世界から注目される
 ・「寄り合い型社会」となって「会社」や「学校」の形を変えてしまう

5日はチェックメイトで新春初ゴルフでしたが、去年は初ゴルフで89という好成績だったので今年もと挑戦しましたが最後の2ホールでくずれ92に終わりましたが、私の実力からすれば上出来であり、ことしも良いスコアで回りたいものです。

2月には思いがけない行動が2つありました。まず4日(土)には丁度お読み上げた本、原丈人著『国富論』の「あとがき」のところで著者の父の手作り模型電車が日本一のジオラマの中を走っていると書かれており、即座に「よし、横浜まで訪ねてみよう」となりワイフを誘って出掛けました。そして横浜・中華街に出ると丁度「春節まつり」で爆竹、太鼓で大騒ぎの中、二人でおいしい中華料理を楽しみました。

もう一つは12日(土)に三階温水器の修理が入る事になっていたのですが、部品が入らずという事で突然延期され、それでは週末が自由になると言うことで、すぐに北茨木の旅荘「竹の葉」に連絡をとり12日(日)泊が、取れて思いがけず順子と二人での北茨城へのドライブとなったのです。20日(月)に開かれた「紅楼会」(句会)でこれまでの私にとっての最高得点記録(9点)が取れたのです。その句とは;
 ・雪吊りや四方に張りてゆるぎなし (3点)
 ・寺巡り暮れゆく庭に帰り花 (3点)
 ・古本を売りし別れに夕時雨 (2点)
 ・百八つ鐘の音数え札納め  (1点)

3月に入ると息子一家が「高井戸」から2階に引越してきました。息子自身で昨年の10月頃より2階の室内レイアウトを4人家族向きに変更したのですが、金を余りかけずに上手に業者を使ってレイアウト変更したものだと感心しました。また我々親に取っても、昨今の大災害が起きがちな時代には息子家族がすぐ側に居ることは助かります。

5月27日(土)から孫“功乃介”との勉強を始めました。これを孫は「ジジ勉」と呼んでいます。これからは原則毎週土曜午前9:30から1〜2時間の勉強を続けます。

7月3日(月)「例の会」ゴルフコンペが「オリムピック・レイクつぶらだC.C.」で開かれ順子が優勝で私が準優勝となり、更に31日(月)にはチェックメイトC.Cでハーフ40を出してしまいました。上がってみれば何と85という私に取って記録的スコアだったのです。そして1ヶ月後の8月23日には同じコース、同じメンバー(鈴木さん、山田嬢)で88が出たのです。今年は“ハッピー・ゴルフ・イヤー”なのかも知れません。

<奥山田温泉にて>

今年は父の27回忌、母の13回忌にあたる年なので、8月20日に名古屋の弟一家と菩提寺「光蓮寺」への墓参りを行いましたが、栄恩寺の宮本住職も参加してくれました。これも母の力なのかも知れません。この時点での“宮原一家”とは、私の東京組が、順子、健一、千春、功乃介、花奈加の6人、名古屋組は光二、豊子、路子、綺空の4人で計10人に、函館在ということで今回参加出来なかった光二の次女裕代で合計11名となります。法事の後は皆で奥山田温泉で一泊し、孫たちと硫黄の露天風呂を楽しみました。

9月7日(木)従兄弟の吉川勝さん、正行さんに「順子のおもてなし料理」を楽しんでもらおうと順子が腕を奮ったのです。オードブルから始まりスープ、白ワインとスモークサーモン、そしてサラダ、ステーキ、ガーリックトースト、最後に自家製チーズケーキのデザートまでのフルコースでした。28日(木)には「織田学園創立70周年記念式典」が「中野ZEROホール」にて開催され、その後「祝賀会」が「中野サンプラザ・コスモホール」に移動して挙行されました。
9月21日付けの「東京新聞」に「年金:振替加算が支払われたかチェックせよ」の記事を読み、特に配偶者が年上の場合には要注意と書かれていたので、10月5日に千石にある「文京年金事務所」を訪れ尋ねたところ、振替加算がなされていない事が確認され、未払い期間から算出すると、なんと補填額およそ80万円になるという。思いがけないワイフへのボーナスとなりました。
10月18日(土)には【北園高校8組クラス会】が久々に新宿ライオンで開催し、出席者は15名でした。その翌日は【田町みのり会】の誕生会で、毎年11月の誕生会には「落語会」となっていて花伝亭長太楼(大滝さん)の出演を頂き、今回で11回目になります。

<七五三を乃木神社にて>

11月20日(月)は花奈加の七五三参りで「乃木神社」を詣でました。着物姿の花奈加は大変に可愛らしく、7歳になった時にはどんなに変わっているのか楽しみです。
大晦日に「2017年はどんなとしだった?」という題名でメールを発信していました。その内容骨子は、『息子家族が3月17日に我が家の2階に引越して来ましたが、ババが孫を相手するのは疲れるので控え気味にと言いながら、実は一番面倒見がいいので孫からは好かれているのです。この1年は株式市場は記録的高値で閉まり、就職状況は人手不足で売り手市場だと言われ、好景気の様相といいますが、私にはピンときません。私が感ずるに好景気は大企業の一部や金融市場に限られた分野に金が集中しているだけで、人口比率の高い低所得者にはむしろ収入が減って居る現状がこころ寂しくさせるのだろうか。そして政治の貧困がそれに輪を掛けているように思えてならない』と書いていました。

今年最後の読書は中谷巌著【資本主義以降の世界】でこの本の出版日が2012年2月となっていましたので、その同時期に私は『日本復活私論』を書いていた事になります。中谷氏は近い将来に“文明の転換”により世の中が変わるといい、その主導を取るのが日本だと主張しているのです。彼は3・11「東日本大震災」の時の被災者の行動を観てそのように感じたと言うのですが、私の考えとほぼ同じなのです。私の考えとは、縄文人の血を引く日本人が地球を救うのだ、と『日本復活私論』で主張しているのですが、同じことを考えている人が居ると思うと将来が楽しく見えてくるのです。

2018年(平成30年)もワイフと二人で静かな正月を迎えました。息子一家は昨年末に購入した「アウディA6」で新潟に行っているので、ワイフには年末を多忙にさせる「お節料理」造りから開放してあげようと、初めての試みでしたがお節料理を外注してみました。三が日は殆どTVスポーツ観戦でいわゆる「寝正月」でした。16日(火)、織田学園の運営会議にてこの3月末で「管理本部長」を退職する旨報告しました。

4月に入ってすぐに織田学園卒業祝いとして家族6人で北茨木・旅荘「竹の葉」にドライブをしましたが、息子が趣味で購入したドローンを使って往路途中で「小貝浜海岸」の砂浜でのシ ーンを撮影しましたが、海の沖の方から海岸で戯れる家族の姿を観られるのは、あたかも鳥になったような気分にさせてくれます。そして宿では大広間「萬両」で家族全員が一緒に寝るのは最高に楽しいひと時でした。

<隅田川沿いでの流鏑馬>

21日(土)は友人から招待券を頂き「浅草流鏑馬」を見に行く機会がありました。生まれて初めての体験ですが、やはり馬上から弓を撃って的を射止める瞬間は大変に迫力がありました。
実は織田学園のお手伝いをそろそろ辞めようと考えた理由の一つに「まだやりたい事をできる内に」というのが有りました。その「やりたい事」とは、「ひとり旅」として2007年に【塩の道】を歩き次に2010年に【鯖街道】を歩いた後、友人に「次は?」と聞かれ【酒街道】と言ってしまったのですが、その後2011年3月に「東日本大震災」が起き一旦お蔵入りとなっており、あれから7年経ったのでそろそろ【酒街道】の旅を実施したいと密かに考えていたのです。 

インターネットで【酒街道】を検索してもそんな都合のいい街道などありません。しかし「黄金酒街道」という名が引っ掛かり、それは気仙沼から一関までの国道284号線に名付けられたもので、その間にある4つの酒蔵が一緒になってブランド『黄金酒街道』の日本酒を販売している事が分かりました。
地図上で一関から真横に目を運ぶと何と日本海側に“酒の田んぼ”と書く「酒田市」が有るではありませんか。これで我が【酒街道】とは、宮城県・気仙沼から山形県・酒田市までと決めました。距離にして凡そ275km、沿線上に酒蔵が20ほどあります。これを“歩く”となると十数日は掛かってしまうので、これは家族の許可が下りないだろうと“自転車”を検討しました。自転車であれば4泊5日で行けそうだと推測出来たので、今回は“ひとりサイクリング”に決定しました。そして実行の日を6月19日(火)〜23日(金) 決定しました。

しかし3・11の後気仙沼は回復しているのか不安であり、また現地の自転車用の道路事情がどんなものか事前にチェックしてこうと、4月26日(木)から1泊2日で一関と気仙沼を訪ねました。その結果、気仙沼はまだまだ海岸端は区画整理作業が大規模に行われており、大津波の爪痕は残っているものの、町中は平常の生活に戻っており、これならば私の「酒街道」ひとりサイクリングも実行に移せると判断致しました。

<輪行袋をヤマト配送センターへ>

またタイミングよく5月21日(月)〜23日(水)に「文京区高齢者クラブ」による“最上川舟下りと出羽三山・羽黒山参拝”という研修旅行に参加していたので、【酒街道】後半部分の最上川沿いの道路事情は事前に知ることが出来ました。24日(木)には秋葉原のサイクル・ショップにて“クロス・バイク”「コーダブルーム・Rail700 (重量:9.4kg、変速:27段)」を購入し、ショップの店長から、“車輪の組み立て方”や“パンクの際のチーブ交換の仕方”、更に“輪行用袋へのパッキングの仕方”などを教わり、自分で何度と無く練習を重ねました。
6月14日(木)久々に「オリンピック・レイクつぶらだC.C.」でゴルフをプレーした後、4 時過ぎに帰宅してからクロス・バイクを近所のヤマト宅配便・事務所に持ち込み「輪行」の手配を済ませました。自転車が一足先に気仙沼に向いました。

<スタート地・酒蔵「角星」の前で>

実行の日、19日(火)午前中に気仙沼に新幹線および大船渡線で移動し、午後からサイクリングをスタートさせて気仙沼〜一関を無事にこなしましたが、2日目は一関〜鳴子峡〜川渡温泉の行程で、走行距離は71kmと一番長いのですが、朝から宿に着くまで大雨で大変でしたが、やっとの事で辿り着いた川渡温泉の宿「ゆさ」にある露天風呂でじっくりと体を休める事が出来ました。

3日目は本州の背骨である奥羽山脈を突っ切って「新庄」までしたが天候は朝から曇り空でしたが全く雨の心配はなく無事に一日行程をこなし、そして4日目は朝から快晴で、最上川に沿って「鶴岡」までの行程でしたが、庄内平野に入ると、悪風「清川だし」と言われる強風に襲われ閉口しました。5日目の最終日は鶴岡から大山経由で酒田までの半日コースですが、お陰様で全行程を無事に終え、予定通りの列車に乗って帰宅する事が出来ました。

8月18日(土)には田町町会でアレンジしてくれた「夏の夕べ大人の勉強会」で私の【酒街道】体験をお話する機会を頂きました。
9月に入ると順子が腰の痛みが激しく立っていることが辛い状態となり、白山下整体院、山ノ内外科そして寺田医院から紹介された茗荷谷の斉藤整形外科などを回ってみたが、一向に痛みは和らぐことはないのでかわいそうで、何とかならぬものかと悩みました。ところで【酒街道】ひとりサイクリング用として新規購入した「クロス・バイク」も一回だけの使用で終わりでは勿体無いとワイフからも指摘され考えた挙げくに、数ヶ月おきに「日帰り一人サイクリング」に挑戦しようと、その第一回目として7日(金)に「江戸五色不動尊」めぐりを実施しました。朝5時過ぎに目黒まで下り、「目黒不動」/龍泉寺→三軒茶屋/教学院の「目青不動」→「目白不動」/金乗寺→本駒込/南谷寺の「目赤不動」そして最後は三ノ輪/永久寺の「黄目地蔵」と回って帰宅が午後1時過ぎでした。

<油絵【塩の道・千国街道】が掛かったお店>

10月2日(火)孫の功乃介と二人で東西線・葛西駅に隣接している「地下鉄博物館」に行ってきました。帰りに近所のラーメン屋で昼食を摂りましたが、孫と二人だけで外出する大変に貴重な体験でした。14日(木)には私の油絵の最大サイズ(F30)の2作品の内の一つ【塩の道・千国街道】がSFM研究会メンバーのS氏が経営している東西線・妙典駅前の焼肉店「城」に展示されることになり、私の手から離れて行きました。
また11月23〜24日に「文京シビックセンター」で開催された『いきいきシニアの集い』に油絵【考古楽(アンバランスとバランス)】を出展しました。この絵は2002年に描いたものですが、その後一度も他人の目に触れずじまいでしたが、思い切って出展しました。

油絵【考古楽(アンバランスとバランス)】

この絵は古代に栄えたキプロス島の港コウリアンで発掘された一組の男女と子供の遺骨で3人は抱き合っていました。紀元365年にこの集落を襲った地震で一瞬にして地中に葬られ発見されるのを待っていたのです。私はこの絵に動きを与える為に、子供の部分を産まれたての赤子に表現し、更に足に絡みつく大蛇を、そして左上に土地に隠れた「デビル」を描き加えました。この絵をどんな四角い額に入れても引き立たず、そこで額は四角でなくとも良いと判断して、角材、ベニア、粘土でアンバランスな額を作り、それにこの絵を入れたら、何とバランスを取ったのです。

12月3日(月)ワイフと王子のゴルフ練習場に行ってみました。何とかクラブも振れるので、これなら来春からゴルフを再開出来そうです。そして6日(木)の「サンメンバーズ」で開催された「例の会ゴルフコンペ」ではワイフは欠場でしたが、私がラッキーにも優勝出来ました。17日(月)には日本橋・水天宮の「みつはし」にワイフと行けたので、徐々に彼女の足腰は回復している様なので一安心です。そしてこの年末は息子一家が居ると言うことで皆に食べさせ様とワイフも「お節料理」造りに励むことができて、お陰様で大晦日は皆一同に介し賑やかに年越しが出来ました。

来年は日本でのラグビー「ワールドカップ」が、そして再来年は「東京オリパラ」が開催され、お祭り気分で年月は経っていってしまうのでしょうね。

私は還暦を迎えた2004年から2010年までの6年間を「老年期」=前編=として2014年4月に書き上げHPに掲載しました。今年は2019年ですでに9年目に入っているので、2011年からの自分史を書いて置いた方がいいと考えました。そこで「老年期・前編」の表現を「老年期・その1」に変更し、今回2011年〜2018年の8年間の自分史を「老年期・その2」として書き上げました。これであれば「その3」、「その4」と書き足して行けるわけです。但し「その時になっても、書ける力が残っていれば」という話ですが・・・・・

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