文京区歴史探訪「本郷文士村を探る」で再びガイド役

<櫻木神社の横で記念写真>

10月21日(木)に開催された文京区<歴史探訪まち歩き>でまたまた
ガイド役として参加しました。今回のコースは「本郷三丁目」地下鉄丸の
内線改札口出た所に朝9時に集合で、そこから「かねやす」→「本郷薬
師」→「真光寺跡と十一面観世音菩薩」→「櫻木神社」→「石川啄木旧居
と喜之床」→「真砂中央図書館」→「坪内逍遥旧居跡」→「宮沢賢治旧居
跡」→「旧伊勢屋質店」→「菊富士ホテル跡」→「真砂遺跡」→「本妙
寺跡」→「赤心館跡」→「樋口一葉の桜木の宿」→「法真寺」→「金魚
坂」→「燕楽軒跡」→「見送坂と見返坂」→本郷三丁目へと本郷台をグ
ルリと歩いて参りました。

<本郷薬師堂の前で>

私がガイドをさせて頂く際には、名所旧跡
の所に立っている「説明板」に書かれた内
容は簡単に解説し、むしろその人物や場所
に関係したエピソードを多くお話するよう
に心がけています。なぜなら私のこれ迄の
ガイド経験から聞き手の方々は私の話す
「よもやま話」の方に大変に興味を持って
聞いて頂いている様に感じているからです。
それでは今回の第三回文京歴史講座「本郷
文士村を探る」まち歩きでのガイドの際の
私の「よもやま話」の例を幾つかご紹介致
しましょう。
「かねやす」の前でこの日の最初のガイド
を始め、その次に「本郷薬師堂」前に来て
広いスペースを利用し人通りが激しくない
のでゆっくりと解説を始めました。
『この辺一帯は天台宗・真光寺の広大な境内で江戸時代には「櫻木神社」
が湯島台から移ってきたり、この辺一帯に奇病が流行した時にはこの「薬
師堂」に祈願すると病気が治まったことで有名となり、明治時代にはここ
で月の8,12,22日に「縁日」が開かれ大賑わいだったそうです。今
私達が立っているこの路地の道幅が異常に広いですよね。このスペースが
縁日が開かれていた名残りなのです。この縁日は昭和初期まで続いたそう
で樋口一葉の日記にもその情景が書かれています。ところが昭和20年
3月の「東京大空襲」でこの辺は焼け野原と化したのですが、何と「十一
面観世音菩薩像」とお墓の一部は焼けずに現在もそのままの姿で残ってい
るのです。それではそこへ実際に行ってみましょう。』

<啄木が住んだ「喜之床」>

次に「石川啄木旧居・喜之床」のとこ
ろに来て;
『春日通りの反対側の角に理髪店が見
えますね。あれが「アライ理髪店」で
現在の荒井さんは4代目になるそうで
す。石川啄木が2階に住んだ建屋(左
の写真)は春日通りから2~3軒中に
入っていたのですが、春日通りの道路
拡幅でこのように交差点の角に出てき
ています。「喜之床」の建物は現在は
犬山市の「明治村」に保存されています。
ところで啄木はわずか26年という短い一生でしたが、その最後の4年間
を文京区で過ごしたことになります。そして彼の波乱万丈の生涯の中で喜
之床で過ごした2年2が月が家族と一緒に過ごせた最も平和な時だったよ
うです。』

アライ理髪店の交差点から2つ目の路地を右に折れ「文京ふるさと歴史
館」「真砂中央図書館」の前を通過して暫くゆくと道は急階段にぶち当た
ります。この左角が「坪内逍遥旧居跡」であり逍遥が引越した後は伊予国
の育英事業の寄宿舎「常磐会」になりました。そこでのガイドの中で次の
ような「よもやま話」をしました。;
『逍遥の凄いのは、そこの説明板にあるように「小説神髄」、「当世書生
気質」などを書いた近代文学の創設者ということ以外に、東大生のときか
ら根津遊郭に通い詰めた挙げ句に遊女の「花紫」を妻に迎えるというその
一途なところで、更に私が感心してしまうのは学生の分際でありながらそ
の財力がよく続いたものだという点です。この高台からあの方向になりま
すが、あの辺に同時期に樋口一葉が住んでおりました。彼女がもしこの下
の「炭団坂」を上がってきて逍遥に偶然出会って、「小説の書き方は私が
お教えしましょう」なんて一葉にアプローチしていたら歴史は大きく変わ
っていたかも知れませんね。』

<宮沢賢治旧居跡で>

炭団坂を下って菊坂下道に出て
右折してすぐに「宮沢賢治旧居
跡」そして下道を「樋口一葉旧
居」のそばを掠めて「菊坂通
り」の「伊勢屋質店」に出まし
た。質店の建屋は5年程前に取
り壊しか移転かで揉めていまし
たが、結局は近在の「跡見学園
女子大学」が取得し、現在もそ
のままの形で保存管理されてい
ます。更に菊坂通りを直進し
「菊富士ホテル」の建っていた敷地前を通過します。現在この地にオルガ
ノ(株)が建っています。その前を通過し「本妙寺坂」通りとの十字路で
右折し坂の途中にある「男女平等センター」にてトイレ休憩を取りました。

<真砂遺跡の解説を>

昭和59年に「男女平等センタ
ー」ビルの建設作業に入った際
に数々の遺跡/遺物が発見さ
れ、その中に1万8千年位前に
使われたと思われる「黒曜石
の矢じり」が発見されたこと
は驚きです。そしてこの場所
が「真砂遺跡」と名付けられ
たのです。
本妙寺坂を下り先程の十字路を
直進し今度は坂を上り本郷台町
側に入ります。
先程の菊富士ホテル跡地を今度はこの高台から眺め下ろす場所に来ると、
そこに記念碑が建っていて、そこには菊富士ホテルの常連客名として宇野
浩二、尾崎士郎、宇野千代、竹久夢二、月形龍之介など有名人の名が列挙
されています。そこで私は次のような「よもやま話」をしました。
『そこに書いてある「宇野千代」は、当時菊坂に入る左角に有った西洋レ
ストラン「燕楽軒」でウエートレスをしていたのですが、余りにべっぴん
だったとかで、そこ来る学者や文人と親しくなり、チョクチョクこのホテ
ルを愛用していたのでは、なんて考えてしまうのです。そんなことを推測
する理由に、そこに書いてある「尾崎士郎」に千代は一目惚れして2番目
の夫とはすぐに離婚して尾崎士郎と結婚してしまうのですから。次の4番
目の夫は「北原武夫」で彼と一緒にファッション雑誌「スタイル」を創刊
するのです。
とにかく彼女は小説家であり、着物デザイナーであり、そして実業家でも
あり、彼女が言うには「結婚離婚や付き合いを繰り返す度に家を建て替
え、数えてみれば11軒建てた勘定になる」と豪語しているのですから、
相当に仕事熱心な一方で、可愛らしくて男性から好かれる大変に魅力の
ある女性だったのでしょうね。』

この後、菊富士ホテルの裏側に有った「赤心館跡」の前を通りますが、こ
こは石川啄木が22歳の時に上京し、「金田一京助」の援助を受けて止宿
した所です。
この後は「落第横丁」を通過して本郷通りに出て東大赤門の正面の向かい
に有る「法真寺」を訪ねました。この法真寺に入る路地を右折して中程の
左側に駐車場が有りますが、そこに樋口一葉が4歳~9歳の幼少期を過ご
した「桜木の宿」が建っていたのです。その駐車場で私からガイドをさせ
て頂きましたが、その中での「よもやま話」を次にお話して今回の歴史探
訪の概要説明の終わりと致します。
『一葉は明治9年(4歳)からここに5年ほど住んでいたのですが、彼女
の短い人生でここでの生活が最も幸せな時代だったようです。15歳のと
き兄を亡くし、17歳で可愛がってくれた父を亡くしてし男手を失ってし
まい、18歳になって先程の菊坂下道に引っ越して来た頃は彼女が女手一
人で一家を支えねばならず苦しい生活が続きました。

19歳になった一葉は苦しい生
活の中で「伊勢屋質店」通いで
何とかやり繰りしている時代
に、金儲けには小説を書けばい
いと考え、「半井桃水」の指導
を受けるのですが、一葉は次第
に桃水に恋心が芽生え段々と夢
中になって行きます。30歳を
超えた桃水は一葉を相手にせず、
彼女は悶々とた日々を過ごすのです。
私の考えでは、ハンサムな桃水が女性に不自由する訳でもなく、一葉と結
婚すれば貧困一家を抱き抱える事になると考え一葉とは一線を超えなかっ
たのではと思うのですがどうでしょう。
21歳になった一葉は苦しい恋から逃避しようと「下谷竜泉寺町」に引っ
越して雑貨の店を開くのですが失敗し、再び文京区の円山福山町に戻って
きて小説家に没頭し「幸田露伴」や「森鴎外」の目に止まって評判となり
一葉の家には「上田敏」「島崎藤村」「泉鏡花」などが集まって来て、
「文学サロン」の様に賑わったそうです。しかし長年の疲労から肺結核に
侵され24歳でこの地で生涯を終えるという何とも波乱万丈な人生で有り
ましたが、たったの24年の人生でありながら、5000円札の顔になる
のですからスケールの大きい女性であったと言えますね。もう一つ一葉の
凄いのはたったの24年の間に14~15回も引越しをしているのです
が、これは遊牧民を除けばギネス対象になるような世界的な記録なので
は無いでしょうか。』

以上

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