ひとりサイクリング第5弾『新宿・落合を巡る』

新宿区の最北端に「落合」という地がる。この地名は神田川と妙正寺川が落ち合うところから、そう呼ばれるようになったそうだ。江戸時代は近郊農業を営む農村だったが、明治になっても武蔵野の面影を残し、のどかな田園と閑静な住宅が広がった地域だったので、過密化が進む都心を離れ静かな地を求め、そして魅力ある風景を求めて多くの文化人が移り住み、大きな『文化村』となったと言う。大正時代に入ってこの地に西武鉄道が引かれ『目白文化村』と銘打って高級分譲住宅として売り出されたという。つい先日『本郷文士村』のガイドしたばかりでもあり、無性に目白文化村に惹き付けられ、早速インターネットで情報を集め、我が高級自転車ロールスロイス(コーダブルーム社製Rail700)で5回目になる「ひとりサイクリング」を企画した。

11月17日(水)9:30AMに我が家を出発、コースとしては、自宅(文京区・西片)→(目白通り)→JR目白駅前→下落合→【中村彝(つね)アトリエ記念館】→聖母病院前→【佐伯祐三アトリエ記念館】→中落合公園→(中井通り)→西武線・中井駅北口→【林芙美子記念館】→(新目白通り)→氷川神社→高戸橋交差点→(明治通り)→馬場口交差点→(早稲田通り)→穴八幡→(漱石山房通り)→【漱石山房記念館】→鶴巻町→江戸川橋→自宅というルートを辿る。
落合地域の3つの記念館に加え、帰路途中に通過する早稲田にある夏目漱石の記念館にも寄るので4つの記念館を回わるので、つまりは画家の二人と小説家の二人の記念館巡りと言うことになる。

<佐伯祐三【コンドリヌ】の模写>

私も趣味で油絵を描くが、佐伯祐三の画風が好きで、2001年頃に彼の作品「コルドリヌ(靴屋)」(右の写真)と「リュクサンプール公園」を模写しているが、私は彼の作品から”思い切ってナイフを使って塗り込む技法”を真似てみたことを思い出す。
画家「中村彝」に就いては、今回始めてその名を知ったのだが、今も残されている【中村彝アトリエ】を訪ねて、そしてその前の庭に出て周りを眺めると、こじんまりと纏まった空間がフット中村彝の生きていた時代にスリップしてゆく様に感じた。庭の隅に植わっていた金木犀の大木が歴史を物語る様で印象的だった。

<佐伯祐三のアトリエ>

次に訪れた【佐伯祐三のアトリエ】は彝のより一回り大きく母屋の部分は取り壊して庭園にしており、ゆったりとした空間は武蔵野の雰囲気を語り掛けているようで心が落ちつく。中村彝は佐伯祐三より11歳年上であり、近所にアトリエを持つ間柄ながら直接二人同士は会ってはいないらしいが、祐三は彝を尊敬していたという。二人共に結核に侵されていてそれが元で彝が37歳、祐三が30歳の若さでこの世を去る。二人の大きな違いは、彝は17歳にして肺結核にかかり、病床生活のもとでアトリエで絵を描き続け殆ど外に出た事がなく、一方祐三の方は23歳になって落合にアトリエを作った後、創作活動にフランス・パリに渡るが4年後健康を害して一旦帰国、その2年後再びパリに向うが1年も経たずして持病の結核と精神病でパリにて30歳にして急逝してしまうのだが、祐三はこのアトリエにわずか4年余りしか住んでいなかったのだ。そんな二人の違いを考えながら次の「林芙美子記念館」に向かった。

<林芙美子記念館の庭から>

聖母病院前の所に戻ってそこを南下し(新目白通り)に出て右折して最初の信号を左折し(中井通り)に入る。暫くくねくねとした道を行き(山手通り)の下を潜ると右手が高台になっていて左手の妙正寺川に向かって崖状になっている所謂「落合崖線」に沿って走ることになる。この落合崖線には「一の坂」から「八の坂」まで有って、その内の「四の坂」の所を右に入るとすぐに【林芙美子記念館】は有った。こんもりと木々に覆われた中に数寄屋造りの日本家屋が記念館になっていたが、家屋の南側に広がっている「お庭」が素晴らしい。林芙美子は昭和16年(1941)からの10年間をここで執筆活動に励んだというが、過労で心臓病を悪化させここで急逝したが47年の短い生涯であった。私の子供の頃を思い出せるような日本建築で内部の日本間の造りや間取構成をもっとじっくりと見てみたいと思ったが、時間が許さず次の「漱石山房記念館」に向けてペダルを漕ぎ早稲田を目指した。

地下鉄早稲田駅前付近に出ると丁度昼休み時間と重なり道は人で溢れていたが、特に早稲田大学キャンバスから流れ出る若い学生連中が屯して歩いている姿には圧倒されそうになる。早稲田駅前交差点を直進し次の信号を斜め右に入る(漱石山房通り)を進むと左手に【漱石山房記念館】が現れた。

<漱石山房記念館>

この記念館は近代的2階建てビル(地下1階)で、この記念館名に「漱石山房」が付いているのは、漱石が晩年(40歳)になって文京区・西片町から引越してこの地に住み着き、週一回木曜日に「木曜会」が開かれ若い文学者が大勢集まる文学サロンとなっていたが、この和洋折衷の平屋建ての館を仲間が「漱石山房」と呼んでいた事に由来するという。漱石がここに引越してきた頃から胃病に苦しみ9年後の大正5年(1916)胃潰瘍をこじらせ12月9日に他界する(49歳)。昭和20年(1945)の東京空襲により漱石山房の建物は焼失してしまったが、現在の記念館は平成29年9月に新宿区が漱石の本格的な記念館として建設したのもので、展示室以外に漱石作品の閲覧のみの図書館やブックカフェ、そして一般にも利用できる「講座室」などの設備があり、ゆっくりと漱石を楽しむ空間が用意されている。展示室では木曜会に集まった門下生の特別展なども時折開催されるようで、今回は漱石の永遠の弟子・生誕140周年記念と銘打って「森田草平」展が開かれていた。一通り館内を回遊すると時計は午後1時半を過ぎていた。

今回の「ひとりサイクリング」で新宿区の中にも「落合」という大正・昭和の面影を残している素晴らしい一角が有ることを知った。何とこの落合地区には60名以上の文学者や芸術家が足跡を残しているそうで、改めて「落合文士村」を探りにサイクリングで行ってみたいと思った。


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