文京歴史探訪まち歩き「湯島の地を歩く」

<湯島聖堂・大成殿>

文京区老人クラブ連合(文高連)主催の「歴史探訪まち歩き」も回を重ねて今回が5回目になります。文高連の教養部が毎月行っている「教養講座」で10月18日(火)に町田菊男氏による『江戸名所図で楽しむ湯島』の講演が有りましたが、そのお話に出てくる湯島の名所を「ウォーキング」しようという企画でした。今回の行程はJR御茶ノ水駅前に9:30AM集合で、「湯島聖堂」→「神田明神」→「妻恋神社」→「霊雲寺」→「湯島天神」→「麟祥院」でおよそ2時間のウォークです。

この行程が凄いのは歴史上で大いに影響を残した大人物の関連地を辿ると言うところでしょう。「孔子」の湯島聖堂に始まり、「大国主尊」や「平将門」の神田明神、「大和武尊」の妻恋神社、そして「菅原道真」の湯島天神、最後に「春日局」の麟祥院となります。

<屋根の天辺の「鴟尾」>

それら大人物の話を交えながらガイドをすると、当然時間が足りなくなりますので、それらの詳細は後でパンフレットを読んで貰うとして、私は例のようにその地に因んだ裏話(雑話)に重点を置いてお話させて頂きました。

その雑話の2~3例をここでご紹介しましょう。
湯島聖堂に入って孔子像としては世界最大サイズと言われる立像の前を通過し「大成殿」の前に来て皆さんに大成殿の屋根を見て頂きました。大成殿はこれまで3回ほど火災に会って消失したそうですが、昭和10年に火に強い「鉄筋コンクリート」で造られました。そして更に屋根の上には奇怪な動物たちの園となっています。

<屋根の四隅に「鬼龍子」が>

これを造ったのは帝国大学出身の建築家「伊東忠太」氏でこの大成殿を造るときに自分の趣味の奇獣、霊獣造りを生かして屋根にそれらを配置したのです。屋根の天辺両サイドに鯱(しゃちほこ)のように立っているのが「鴟尾(しび)」と言われ、頭が龍でしっぽが魚の尾の形をしていて空に向かって跳ね上げているのです。これは「魚神」といわれ火災から大成殿を守っているそうです。屋根の四隅に奇妙な怪獣が今にも襲いかかって来そうな姿勢を取っていますが、この奇獣を「鬼龍子(きりゅうし)」と呼ぶそうです。これら奇獣たちは夜に大成殿のガードマン役をしていると言われています。

<孔子の「宥座之器」>

さて皆さん、上を見て首がだるくなったでしょうから、次はこちらの下をご覧くだい。

このへんちくりんな器械は一体何でしょうか? これは「宥座之器(ゆうざのき)」と呼びますが、そこに有る柄杓で鍋に水を入れてみてくだい。横向いていた鍋が次第に立ってきますが、真っ直ぐに立った時が適量な状態です。それから更に水を注いで行きますと、鍋は突然にひっくり返り注いだ水が一瞬にして全部こぼれてしまいます。
つまりは何事もほどほどにという「中庸の精神」を教えているもので、孔子は「いっぱいに満ちて覆(くつがえ)らないものはない」と「慢心」や「無理」を戒めているのだそうです。

次に「神田明神」に来てまずは「随神門」を潜ってすぐ左にある新しく出来た「文化交流館」を紹介し、特にここの地下にある「トイレ」に行ってみてその豪華さをご体験下さいとお勧めしました。びっくりする美しさです。

<「銭形平次」の碑、右が「八五郎」の碑>

そしてその後で本殿の外右側にある「銭形平次碑」の前に来てガイドを始めました。

なぜここに銭形平次碑が有るかと申しますと、「野村胡堂」作『銭形平次捕物帖』の主人公平次の住まいが「明神下」に設定されていますが、これは野村胡堂の友人が明神下に住んでいたのが切っ掛けだそうです。その友人が大いに感激してこの記念碑を建てたそうです。この碑の右側枠の外に小さな碑が寄り添うようにありますが、これは平次の子分の「八五郎(通称ガラッパチ)」の碑です。ところで「銭形平次」といえば、「寛永通宝の投げ銭」を使って事件を解決して行くストーリーですが、これには野村胡堂が文藝春秋社から「捕物帖のようなものを書いてくれ」と頼まれ、その時に通りかかった建設現場で見かけた「銭高組」の看板にヒントを得て「銭形」を題名に取り入れ、さらには銭の紋章から「投げ銭」を思いついたそうです。その「銭形平次捕物帖」は昭和41年にテレビの1時間番組が放映され「大川橋蔵」が主演で、何と何と888話が放映され、そのロングランは「ギネスブック」に認定されております。

<左に「湯島天神」の鳥居、右にレンガ塀>

その後は「妻恋神社」~「霊雲寺」を経て「湯島天神」に来たところで、天神さまの鳥居を潜る手前でこんなガイドを始めたのです。

こちらをご覧ください。ここに古いレンガ塀が残されていますが、これは明治7年に三菱財閥の創始者「岩崎弥太郎」が「大阪商会」を大阪から東京に移した時に最初に屋敷を構えた場所で、このレンガ塀はその屋敷の境だったのです。明治15年に不忍池のそばの池之端の地に屋敷を移しますが、それが現在の「旧岩崎庭園」です。湯島天神の鳥居の右一角が「天神花街」という遊郭でしたが、区内の最大規模だった花街は「池之端花街」といわれ、湯島天神の花街は2番目でしたが、岩崎家のお屋敷はどちらも「花街」に近かったと言えましょう。ところで当時花街のご贔屓には帝大の学生さん達も入っていたそうです。

<「奇縁氷人石」の前でガイド>

それでは「岩崎家の屋敷」の輪郭をご理解頂くために、「これから私有地に入りますので、静かに歩いて下さい」と皆さんに注意を促しビルの裏手にお連れして、未だ残っている「レンガ塀」の姿を見て頂きました。皆さん、「初めて見た!」と大喜びされて居られました。

この後、本殿の左側にある、江戸時代に「尋ね人」や「迷子探し」「恋人探し」の為の掲示板の役目を果たしていた「奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)」のところで、「この石柱の右側側面が『たずぬるかた』用で、その反対側が『おしふるかた』用となっていてお互いに情報交換をしていたのですが、現代のSNSのような働きをしていたのですね」とお話しました。

この後「春日局」の「麟祥院」を訪ね、ここで皆さんと集合写真を撮って11時半ころ散会となりました。

ご苦労さまでした。

(尚、湯島聖堂での写真はインターネット上に掲載のものを利用させて頂きました。)

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