9月11日(日曜)に【江戸連】9月講として『感染症の歴史と江戸時代の施策』をテーマにお話の機会を頂きました。会場は「東京ウイメンズプラザ第一会議室」でしたが、同時にZOOM配信されました。その時に使用したパワーポイントのスライド資料の一部分を使用して、どんな話の内容だったかをここに掲載し概要を説明致します。
医者でも医療関係者でもない私が何故にこのように大反れたテーマを取り上げたか、皆さんも大いに疑問に感じられると思います。その切っ掛けになったのが、実は令和2年10月にエッセイ【新しい時代への入口】(左のスライド)を書いておりまして、その時から「感染症」には大変に興味を持っており、「よし、それなら自分なりに感染症について更に調べて皆さんに報告してみよう」というのが要因となっています。
それではこれから本日のお話に入ってまいります。「感染症」は「伝染病」ともいますから「病気」なので、まずは「病気の定義」そして「病気の分類」からお浚いしてみましょう。
それでは「感染症」にはどんなものがあるか、大まかに分類してみましょう。下のスライドにある表で上から下に行くほどサイズが小さくなります。「寄生虫」は1mm位ですから「光学顕微鏡」でも見られますが、「細菌」は3μm(ミクロンは1mmの1000の1)「ウイルス」は10nm(ナノは1
mmの10万分の1)ですから完全に「電子顕微鏡」の世界です。
それでは次に「感染症の歴史」について見てまいりましょう。
「病原性微生物」(病原体)は10億年前に生まれた【菌類】が最古。一方で人類は500万年前にアフリカ大陸で誕生。すなわち病原性微生物の方が大先輩なのである。人類が誕生した時から「感染症」は有ったのだ。人類は「文明」を起こすが、「感染症」によりその文明は壊され、それを繰り返して現在に至っているのだ。
10万年前、人類はアフリカを飛び出して(出アフリカ)全世界に広がったが、病原体はピッタリと人類にくっついて移動するので「感染症」も同じルートで拡散しているのだ。人類の移動とピロリ菌の拡散でそのルートを比べてみよう。
それでは古代から(次のスライド)近世〜現代まで(2段目のスライド)の「感染症」の歴史を大まかに見てみよう。
次に歴史上の「人類の大量死」の点から「感染症」を捉えてみよう。何と「戦争」や「ホロコースト」より感染症による死者の方が多いのである。
それでは「日本人」と「感染症」の関連について考察してみよう。つぎのスライドをご覧ください。
人類が作ってきた文明が大都市を作り狭いところに密集し、自然の循環を狂わせ、戦争の繰り返しで難民を増やし、つまりは皮肉な事であるが「病原性微生物」にとっては繁殖しやすい環境にしてしまっているのだ。特に日本人は衛生状態を高めることに神経質過ぎてはいないか。花粉症やアトピー、喘息など、本来人間が自力で対応する「抵抗力」や「免疫力」が低下してしまいそのような病を作っているのでは無いのか。日本発明の「お尻洗浄器」でキレイ、キレイと喜んでいて大丈夫なのか?本来外敵から守る細菌まで絶滅させてしまった結果、お尻に有害な細菌が繁殖してしまう恐れは全く無いと言えるのか。
ここで中間の【休憩】に入りますが、この休憩時間で「あなたは縄文人?それとも弥生人? おトイレの鏡でご確認をしてみて下さい」と問い掛けて休憩に入りました。
さてさて後半に入りますが、休憩中の問がけについて、「もし縄文系なら、血液の病気にご注意を!」そして「弥生系なら呼吸器系の病気にご注意を!」ということになります。
私達は「新型コロナウイルス」に襲われた結果聞き慣れなかったことば「パンデミック」がよく聞かれました。そこで「感染症の感染規模」について、そして「感染症に対する日本国の特徴」について纏めてみます。
上述の「日本国の特徴」のすべてが「感染症」の源である寄生虫、細菌やウイルスに取っては最も嫌いな地形であり環境そして国民性なのです。これがいわゆる日本国が米国や欧州のようにロックダウンせずに済んだ「ファクターX」なのも知れませんね。それでは江戸時代の話に移りましょう。
大都市「江戸」が崩壊せずに済んだ理由については後でお話するとして、とにかく265年間の江戸時代は多種の「感染症」に襲われていたのですが、その時代には治療法などなく、民衆はただただ「神」にすがったのです。上の絵は源為朝が疱瘡神と戦っている図ですが、為朝は八丈島に島流しにあいましたが、八丈島には全く疱瘡が流行しなかったという伝説から描かれたものだそうです。また疱瘡神は「赤色」や「犬」を苦手としているという伝承があったそうです。
疱瘡/麻疹/水疱瘡は子供の内に軽く済ませておけば、大人になっても罹らずにすむと言うことで子供の時の役目ということで「御役三病」と言われました。左図(巨像)は両国で行われた象さんの見世物を宣伝する錦絵で、このショーを見れば疱瘡も軽症で済むと宣伝し客引きをしていたそうです。
右図は「種痘」を打っている姿で、右のすでに疱瘡に罹った患者のかさぶたを取り、それを左の子供の腕に打っているのです。
この2枚の絵は安政5年(1858)、江戸でコレラが大流行して死者が2万8千人も出た頃のもの。左図は湯呑を口にしている男から黒い影が漂い出ているのがコレラで、細かい字は飲み薬「芳香散」や湿布薬「芥子泥(からしでい)」の作り方が書かれている。右図は火葬場で順番待ちしている棺の山を「仮名垣魯文」が描いたもの。貧しい人々は菰に包んでやむを得ず品川沖に「水葬」されたという。
これが100万都市「江戸」が感染症によって【都市崩壊】を起こさずに済んだ理由なのである。補足説明すると;【御触書集成】の通達内容は「病人は罹ってから35日は仕事に出てはならず。病状の経過を観察せよ」というもので、大名、幕人はこれを守った。【持続化給付金】では「御救米」は一人当たり1日米2合で10日分、「御給金」としては一人当たり銭一貫五百文を「銭」で支給(約38000円)でこの事業を仕切っていたのは「町会所」の「名主」で庶民に届くスピードは現在より早かったそうだ。
当時は「感染症」は「神の仕業」と信じられており、治療には医者より、占い師や祈祷師が重宝され「厄除け」の「お守り」が神社や観光地の工芸品として売られていた。
さて最後の章「新型コロナウイルスと今後」についてお話しましょう。
私のエッセイ【新しい時代への入口】は上記の棒グラフの①波〜②波の終わった2020年の10月に書かれたものなのです。この棒グラフの流れから見ても、”ほんの入口”の時に書いたのですが、是非皆さんにもう一度お読み頂きたいと思います。これについては最後のスライドでご案内させて頂きます。
以上で江戸連・9月講のスピーチの骨子の説明を終わります。
<完>