俳句言いたい放題

(1)俳句と大衆文化
俳句を始めて10数年になる。2010(平成22)年3月に会社時代の友人7人が集まって句会をスタート、その2ヶ月後に『現代俳句協会』のインターネット句会の会員になり、そして昨年(2019年)にあるNPO法人傘下の句会にも入会したので現在は3つの「句会」をこなしているが、一向に俳句が上手になったとは思えない。その間、種々俳句関連書物を読んでみて、そして句会を重ねて居るうちに、自分だけの勝手な解釈で「ドグマ的俳句論」が出来上がり、他人の句に対して自己中心的な「誹謗中傷的意見」が増えてきているようで不安に感じても居る。そんな訳でこの章に「言いたい放題」と付けた上で、俳句界にて私自身が普段感じてきたことを書き連ねてみたい。

尚、以下文章には歴史上の人物名および現役の人名が出て来るが、敬称を略させて頂く事ご了承願いたい。

俳句を語るにはまずはその誕生と歴史を知る必要がある。この歴史(経緯)を知れば、俳句が“大衆受け”することがよく分かる。俳句の原点は豊臣秀吉の時代の「桃山文化」における「俳諧」の庶民への大流行から始まるのだが、その火付け役が「松永貞徳」で,貞徳は弟子を増やし「貞門風」を確立し、その後江戸時代に入り「西山宗因」を中心に「談林派」が台頭し活躍する。一方貞門派の「北村季吟」に俳諧を学んだ「松尾芭蕉」が「さび」「わび」の句境に至り「蕉風」を完成させて俳諧による真の詩的世界に於ける「不易流行」という理念を作り上げた。「不易流行」とは“新しみを探求した流行こそが、実際は俳諧の不易の本質”だと言う意味だそうで、分かりやすく言い換えれば“永遠に変わらないことを忘れず、新しみや変化も同様に取り入れてゆくこと”だそうである。

明治時代に入ると、時代が大きく変わったのに“俳諧の世界は変わっていない”と不満に感じた「正岡子規」が西洋近代文学の視点から“連歌形式は文学にあらず”と唱え、連歌の句付を廃止して「発句」を「俳句」と改め、これまでの連歌・俳諧は皆で作る句集だから「開かれた文学」であったのに対して、子規は「俳句」を「作者の個性で閉ざした文学」として位置づけした。子規は洋画家「中村不折」の影響を受けて、「俳句も実景を写すことが大事」と主張し「写生俳句」の精神を推し進めた。子規の没後、門人の「河東碧梧桐」が「自由律俳句」を目指して一時的なブームを作るが、行き過ぎであると批判され勢力を失ってゆくが、一方で門人のもう一人「高浜虚子」は子規の思想を継ぎ、俳句を飯のタネにすることに専心し、商魂逞しく同人誌「ホトトギス」に夏目漱石の小説「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」を掲載するなどして大ヒットさせ発行部数を増やし、遂に巨大な「ホトトギス」大王国を築き上げた。

更には虚子が選者となり購読者から俳句を応募させる「雑詠選」を掲載して読者層を増やし、更に「俳句結社」を全国に広げる事に専念し、その各結社の選句結果や広告を「ホトトギス」に掲載させるビジネス・システムを構築して押しも押されぬ地位を築いていったのである。

大正時代に入ると虚子は更に俳句を女性の世界にも押し広げてゆく。ホトトギスの門下から実力ある俳人達が「主宰」となって分家し「家元制」的に「結社」が全国に広がって行き現在では800〜1000の結社が有るという。 そしてインターネットの時代を迎え、ネットを介しての「句会」も盛んとなり、 年々俳句人口も増え続け、今では800万〜1000万人に及ぶと言われる。

考えてみれば人口の1割近くが“俳句をたしなめる人”なのであるから、そしてTV放送でも「俳句番組」が組まれるのは、それなりの視聴率が得られるからで、俳句が「大衆文化」としてしっかりと国民に受け入れられた証である。

(2)私のドグマ的俳句論
私が俳句に興味を持ったのは、2001(平成14)年から2年間の長野県・伊那市での単身赴任の時代に遡る。伊那市は南アルプスと中央アルプスにすっぽりと包まれた伊那谷の中にあり、縄文時代から人類が住み着き、考古学的にも興味深い地域で、春から秋まで野草や高山植物の多種の花々が咲き誇り、冬の凍てつく寒さと豊かな温泉のコンビネ−ションなど、とにかく四季を通じて退屈させない最高のエリアなのだ。この地にさすらいの乞食俳人『井上井月(せいげつ)』が居たことを知った。彼の存在を知った切っ掛けは、だだっ広い田畑の遥か遠くにポツンと二本の大きな杉の木が立っていて、ある日散歩でそこを訪ねると、杉の木の根元に卵型のお墓が有り、「俳人・井月の墓」と記されていた。その後は週末になると伊那図書館に通って井月に関連する書物を読み漁った。

<遠く正面の杉の木の所に井月の墓が>

井月は1822(文政5)年に越後・高田藩の武家に生まれ、その後長岡藩・井上家の養子となり、若くして江戸に遊学し俳諧のほかに書道を学び、一旦国に戻って結婚し一子を持つが、どうしても好きな学問を続けたいと再度江戸に単身赴任。井月曰く「独り者の方が江戸では気楽で良い。何か一つを得るということは、何か一つを失うことなのだ」と。しかし1844(弘化元)年に上申地方を襲った地震により長岡城下も多大な被害を受け、その時発生した大火災により家族全員を失い、本当の「独り者」となった。すべてを失った井月は武士で居ることをやめ、諸国行脚の旅に出る。江戸末期1858(安政5)年36歳の井月は伊那に現れ、俳句に志のある人の家々に泊まり歩き、野宿をして伊那谷をさすらい、1887(明治20)年にこの伊那の地「美すず六道原」において65歳の生涯を閉じたという。芭蕉を師と仰ぎ、与謝蕪村の「蕉風に 帰れ」をそのまま引き継ぎ、伊那谷で「蕉風」を教え、酒を愛し、自然を愛し、人には乞食とバカにされながらも自由に生き抜いた姿は羨ましい限りだ。
井月が生涯で作った俳句は千六百余句だそうだが、私が印象に残っている井月の句を10句選んでみた。

  • 何処やらに鶴の声聞く霞かな
  • 降るとまで人には見せて花曇り
  • 春風にまつ間程なき白帆哉
  • 魚寄る藻の下かげや雲の峰
  • 時鳥(ほととぎす)旅なれ衣脱ぐ日かな
  • 乾く間もなく秋ぬれぬ露の袖
  • 駒が根に日和定めて稲の花
  • 落ち栗の座を定めるや窪溜まり
  • 何云わん言の葉もなき寒さかな
  • 初霜の心に鐘を聴く夜かな

井月の俳句を詠み、そして自然豊かな伊那谷を散策すると、いつの間にか自分でも俳句を作り始めていた。私の2年間の伊那単身生活の間に作った初心者としての俳句を5句ほど選んでみた。

  • 雨上がり遠照ぼたんのお辞儀かな
  • 雨激し庫裏に寄り添う鞠アジサイ
  • 赤化粧人なき園の百日紅
  • 岳の雪まだ早いぞと地の黄葉み
  • 畦踏めば水面を揺らす蛙の子
<あじさい寺・深妙寺にて>

伊那に行くには、今でさえ電車やバスでも3時間半を要する地の利の悪い場所で、だからこそ今でも自然美をそのまま残しており、都会育ちの私には別天地のように感じていた。そして流離いながら作句した井月のように、私の句も実際に伊那谷を歩いて作った「写生句」なのである。自前句の一番目のものは、高遠に有るボタン寺「遠照寺」に行った時、2番目のものは、アジサイ寺で有名な「深妙寺」に家族で訪ねた時、そして3番目は「伊那梅園」に咲くサルスベリ、そして次が南アルプスと中央アルプスが見渡せる「鹿嶺高原」山頂に友人をお連れした時、そして最後の句は、井月が住んでいた「美すず六道原」の 田んぼの畦を早朝に歩いている時に詠んだものだ。

しかしある日、「近代・現代俳句理論」に触れ、この理論とは、五七五にこだわらず、そして無季語でも構わないといった主義主張を唱えた「新興俳句運動」が始まりなのだが、戦後になると、「造形俳句」とか「前衛俳句」といわれ現代俳句として詠われていると知って強い憤りを感じた。  
「造形俳句」と言えば、その代表格が「金子兜太」であるが、彼の俳句どれを詠んでも何を言いたいのか素直には理解できないのだ。例えば彼の代表作を5句ほど挙げてみたい。

  • 彎曲し火傷し爆心地のマラソン
  • 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
  • 霧に白鳥白鳥に霧というべきか
  • 暗黒や関東平野に火事一つ
  • 梅咲いて庭中に青鮫が来ている

なんとリズムの悪い、むしろわざと五七五を崩している様にも感じ、兜太がどんな人生を歩み、どんな状況下で作句されたかを知らなければその句の意味が全く分からないような俳句がすばらしい俳句と言えるのだろうか。

さてこの辺から、私の俳句論的な内容になるので、何故私のような俳句に素人な者が「ドグマ的」とか言って勝手に喋れるかに就いて、まずは俳句界の特異性の話から始めたい。
芭蕉の「蕉風の世界」を俳人達で追求している時代は安泰であった様だが、文明開化の明治に入って子規の時代を迎えると、「花鳥風月」の世界を詠むという古典手法に凝り固まった「マンネリ俳句」から脱皮するのだと、子規は「写生俳句」を志向し、子規を継いだ虚子は雑誌「ホトトギス」の理念として「花鳥諷詠」を主張し、俳句界も騒がしくなってくる。そして子規が没すると虚子はビジネス・センスを発揮して「ホトトギス」を大ヒットさせて俳句界における絶対権力を手中に納めるのだが、権力を持つと必ず反対勢力が生まれるのは世の常。そしてホトトギス派を中心に家元制としての「結社」が全国に広がりを持ってゆく。
大正時代に入ると東京駅前に出来たての東洋一の近代ビル「丸ビル」に一介の雑誌社である「ホトトギス」事務所が移転した事は俳句界における最高潮の出来事と言えよう。しかしホトトギス派が力を付ければ付けるほど「アンチ虚子」の動きも広がってくる。その後、昭和の時代に入り日本が軍国体制を強めて行き戦時体制下では作句に対する弾圧も厳しくなり、俳句界も一旦は鎮静する。そして昭和21年に敗戦を迎えると“世の中は変わったのだ”と絵画でいえば抽象画的な作句を志向する「前衛俳句」、「創作俳句」、「造形俳句」と言った俳句が注目される時代となる。
そして昭和36年、【現代俳句協会】の選考基準を巡って団体内の対立が激化し、当時幹事長だった「中村草田男」を中心にしたグループが「有季定形」を掲げて【俳人協会】を設立、またその1年前に「花鳥諷詠」を掲げて「稲畑汀子」が中心に【日本伝統俳句協会】を設立、更に俳句を世界へ広めようと【国際俳句交流協会】や【世界俳句協会】などが設立され現在に至っている。所謂「群雄割拠」の時代と言えよう。

つまりは俳句界の特異性とは、虚子の出現により俳句がビジネスライクに捉えられ、虚子亡き後はホトトギス教的な「中央集権的組織」はなくなり、戦後はそれぞれの主義主張をもったグループが分裂独立して行き、それぞれのグループから更に「何々派」とか言って主宰を中心にした結社が分家して行き、それらは「同人誌」などを独自に発刊しながら、その様な小規模な結社が各地に広がった「寄り合い型」集団が現在の俳句界なのである。その様に俳句界そのものが、バラバラと拡散すると共に「季語なし」「五七五ならず」の自由句が闊歩する様になると、俳句の分からない外の分野から批判の声が上がる。例えば文学者「桑原武夫」による「現代俳句は第二芸術だ」という小論文すら出て来てしまうのだが、それに対して「寄り合い型」である俳句界からの反論はない。私は桑原論に組するものでは無いが、この様な状況下なのでここで私もドグマ的俳句論をこの機会にぶちかましてみたい。

私は『俳句とは五七五の定形で、かつ「季語」を持ったものでなくてはならない』というのを絶対ルールとすべきだと思っている。五七五とは昔からリズミカルな音調でス〜ット心に入って来るリズムなのだ。これをまず守らねばならない。そして俳句は四季の変化や、それによる心の変化を詠むのであって、俳句の源である「連歌での発句」の精神を失ってはならない。つまりは芭蕉が説いた俳諧理念「不易流行」をきちっと守ってゆこうという事が私の主張だ。「造形俳句」のように「不易」の精神を犯し、単に「流行」に溺れるような俳句は俳句では無いと指摘したい。一つ例をあげて解説したい。
2015年から東京新聞が平和運動として始めた企画「平和の俳句」と題して、「金子兜太」と作家「いとうせいこう」の両氏が選者となって読者から俳句を募集したのだが、ここで選ばれた句が何故に秀句なのか私には理解が出来ないのだ。例えば;

  • 「沖縄の怒り」ではない 私の怒り
  • 電車で居眠りが出来る国がすき
  • 赤ちゃんを抱けば無茶苦茶平和かな

これらが選句されて堂々と新聞紙上に発表されるのだ。これではどんなに俳句が分からない人にも「何で?」という疑問が湧くだろう。この様に少なくとも俳諧理念から外れた新しいルール、つまり「季語なしで自由字数句」の「現代俳句」に対しては「俳句」のジャンルから外して、新しいジャンル名(例えば「不定形句」とか「短詩」とか)にしてはどうだろう。

私は伊那単身赴任が解けて東京に戻って来たある日、上述の様な「現代俳句」を目の前にして俳句への興味を喪失し、全く俳句を作らなくなった。
しかし2010年になって、あるNPO法人主催の「市民公開講座:高城修三氏による連の楽しみ」を受講して、違った角度からの俳句の面白さを改めて知った。高城氏によると、『俳句の源は連歌、俳諧である。連歌の面白さは“発句(5・7・5)”から次の人が“脇(7・7)”を詠い、次の人が“第三(5・7・5)”を詠み、つぎに“四句(7・7)”、“五句(5・7・5)〜と順々に詠い繋げて最後の”挙句“まで続けるのだが、これが繋がって一つの物語が生まれる。
これが【連】の楽しみで、みんなで作る句集なので連歌は「開かれた文学」である。しかし正岡子規が連歌の付句を廃止して発句を俳句と改め、「作者の個性で閉ざされた文学」とした。発句のみの俳句は「季語」と「切れ字」で面白みを表現する文学となった。と言うことは、(5)+(7・5)あるいは(5・7)+(5)と「切れ字」で分けて、その2つを上手に結び付けるのがワザだ』と教わった。
そして同じ頃、インターネット上で『芭蕉の【あらび】と【かるみ】について』と言う記事に巡り合った。その記事によれば、芭蕉も晩年になると『風雅の精神とは離れた「荒びたる」つまり洗練されていない粗野である句でも、また「軽い」俗っぽい句でも、高雅な句では表現出来ない詩情が表現される事がある』と言い出したという。そして芭蕉の晩年は、どちらかと言えば凝った句作りはせず、格調高く見える句で実際は陳腐な句を避けるようにしたそうだ。

「能楽」の世界でも、一度名人の位に達した者が、その位置には満足せず、あえて俗な表現、掟破りの芸風を示すことを【蘭位(らんい)=たけたる位】と言うそうで、一度高雅な表現を身に着けた者が、それに満足せず自己を否定して、もう一度世俗の世界に帰ってゆくという意味が込められているそうだ。

私の場合は、そんな蘭位には全く関係は無いが、春を迎えると晴れ渡った青空、暖かな風、路地に咲く花々、そして野辺山の新緑と昆虫や鳥たちの活動など、俳句の舞台が広がって来る。そこで私の「ボケ除け」対策として、再び俳句作りに挑戦してみようという事になった。そして少しでも【蕉風の世界】に近づけたらこんな嬉しいことはない。これからも【蕉風の流儀】を私の作句の道標として携えて行こう。



蕉風の流儀】  『幽玄閑寂』
哀感を余情で表し 
  その繊細な心を 
    日常的な言の葉に託し
飾りやおごりを削いだ、
   枯淡な味わいとともに、
    静寂の美しさを表現する


(3)季語と歳時記に就いて
私のドグマ的俳句論は「有季定形」を基本ルールとしているが、「五七五の中に必ず季語を」というその「季語」も永い歴史を持っている。日本の詩歌は奈良時代の「万葉集」に始まるが、「季語」として成立するのは平安時代後期になってからで、150の季語が月別に分類され『能因歌枕』として纏め上げられたのが始まりという。鎌倉時代に「連歌」が流行すると、複数の参加者の間で連想の範囲を限定する必要から季語が必須のものとされた。江戸時代になって「俳諧」が成立すると季語がどんどん増えて行き、曲亭馬琴の『俳諧歳時記』では2600の季語が集められたという。近代以降も季語は増え続け現代の「歳時記」では5000を超える数になっているという。しかし現在は公式に季語を認定する機関は存在しない。

さて季語はその成り立ちによって三種類に分けられるという。その一つは『真実の季語』で自然界の真実そして生活や歴史上の行事に従った季語、例えば「雪」は冬、「梅の花」は春という具合に、そして生活や歴史上の行事の例として〇〇忌とか、「花祭り」の春、「パリ祭」の夏、「中元」の秋、「納豆汁」の冬など。そして二つ目は『指示の季語』といい、事物の上に季節を表す語を付けている言葉で、例えば「春の雨」「夏の山」「秋風」など。そして三つ目は『約束の季語』というのが有り、伝統的な美意識に基づく約束事として季節がきまっているもの、例えば「月」は秋、「蛙」は春、「虫」は秋、そして「氷」は冬の如きである。

現在の「歳時記」に記載されている季語は5000以上有ると言われるが、その中にはすでに死語になっているものが有る。それも特に『事実の季語』の中の「生活」や「行事」に分類される季語に多い。その例を春の季語の中で殆ど死語なっているものを抜き出してみた。「釣釜」「厩出し」「車組む」「麦踏」「磯竈(いそかまど)」「鞦韆(しうせん)」「雉笛(きじぶえ)」「出替(でがわり)」「曲水」「雁風呂」「島原太夫道中」「遍路」「亀鳴く」「髢草(かもじぐさ)」などなど。これらの季語が絶滅したと言いたいのでは無く、これらの季語を使って今から作る俳句はもはや不自然だと言うことだ。また「遍路」は“春の季語”と決めつけでは無く季語から外した方が都合いい。さもなければ秋に四国八十八ヶ所巡礼した者には「遍路」の俳句が作れないではないか。

「歳時記」を見やすくするために、これらの使われない「季語」を「旧季語」とか言って別分類にして纏めることを提案したい。そして新しい時代に合った季語をどんどん追加していったらどうであろうか。別に“季語認定機関”があるわけではないので、発刊する著者が独自に選んで新季語として記載したらいい。芭蕉も『去来抄』の中で、『季節(季語)の一つも探り出したらんは、後世によき賜物となり』と季語の発掘を推奨していたではないか。

こんな事を考えていた時に、今ではテレビで活躍の夏井いつき著『絶滅寸前季語辞典』(筑摩書房)という文庫本が有ることを知った。早速読んでみたが、どうやら殆ど現在の「歳時記」からはすでに外れているが『大歳時記』(講談社)と『大辞典』(小学館)には未だ載っている季語を「絶滅寸前季語」として取り上げ解説している。彼女の考えは『絶滅寸前季語を私達が読んでみて、ひょっとすれば古い革袋に新しい酒を注ぐような新鮮な俳句が飛び出さないとも限らないから、もし自分で絶滅寸前季語を使った俳句が作れたら、少なくともその季語は自分とともに生き残ることが出来るはず』と考え「絶滅寸前季語保存委員会」を設立してその委員長を務めているという。そして彼女自身が自分で言っているが、「これはお笑いの世界だ」と。一例として、その本の中にある絶滅寸前の季語「蚕飼(こがい)」に就いての解説とその季語を使った彼女の俳句を見てみよう。
『一つの季語が衰え始めると、それに付随し関連するさまざまな季語も一気に消滅へと動き出す。蚕を飼わなくなると「蚕屋」「飼屋」など飼育場所は不要となり、そこで使われていた「蚕棚」「蚕卵紙」などの道具類も廃棄される。そして蚕に食べさせるための桑の畑も俄然減るため「桑摘」「桑解く」という農作業の季語も衰退する。だからと言って諦めてはいけない。私達俳人には、想像力という強靭な翼がある。見たことが有るかのような虚構を構築できてこその表現者であるのだ。たぶん。 
 ・蚕飼とは何ぞ転職情報誌 <夏井いつき> 』 と解説している。

私には彼女の考えには全くついて行けない。俳句とはそんなものなのだろうか? 彼女が出演しているテレビの俳句番組を観ても何となくそんな考えに至ることが推察できるのだ。つまり1枚の写真を出演者達に見せて俳句を作らせそれを彼女が講評するわけだが、どうも“虚構の表現力”を競わせているようだし、そして彼女が“もっとも俳句らしい構造と言い回し”を指導して行く番組構成だが、このやり方で「俳句の精神」が初心者に正しく伝わって行くのだろうか?

それにしてもその文庫本は、彼女の性格が陽気なのか、歯切れ良いストレートな言い回しで絶滅寸前季語を解説しており、読んで退屈はさせなかった。そんなユーモアの有る彼女の名前「夏井いつき」が、もし「夏木いつな」だったら“上から読んでも、下から読んでも”型で面白かったのではなんて考えていたが、これは全く俳句には関係ない“お笑いの世界”(冗談)でした。

(4)言いたい放題まとめ
いろいろな俳句関連の書物を読んでみたが、殆どの入門書では、『俳句は簡単に誰でも出来るから難しく考えるな』と書いてあるが、だからと言って字数に制限なしというのは行き過ぎであろう。ある入門書では『5・7・5ではなく例えば7・5・5になっても、これを「句またがり」といって、作者の言おうとする想いが溢れ出て、致し方なく変化してしまったのだと考えましょう』と説明している。しかし私に言わせれば、サッカーをやっていてルールの知らない一人が入っただけで全くプレーが面白くなくなるのと同じで、俳人とは、『言おうとする想いを何とか5・7・5のリズムの中に収めようとする創作努力が俳句作りというもの』では無いのかと言いたい。

それでは何故「自由律俳句」というものが流行ってきたのか? 私の邪推だが、あの終戦直後、世の中が大きく変わろうとしている時、やれ「花鳥風月」とか「花鳥諷詠」とか言って、自分の気持を五七五のたった17音に納めることは何とも「旧式だ」として抽象画的「創作俳句」や「造形俳句」が新派として登場したのであろう。これも当時の若者達のエネルギーの発散法としてやむを得ない行動だったのかも知れない。しかしこれは俳句ルールを犯すもので、どうしてもその殻を破りたいと思うなら、新しいジャンルを堂々と作れば良かったのだ。現在でもこの辺が明確ではない為に、「自由律俳句」がウロチョロしていて甚だ不快である。例えば纏めて17音あるなら5・7・5の順番はどうでも構わないとする上述の「句またがり」の理屈や、7・7・5とか5・7・7と言った19音構成も堂々と闊歩している。字数(音数)を指で数えて作句しているようで“見苦しい”、ではなく“詠みづらい”ではないか。例を挙げてみよう。

  • 母の手に英霊ふるへをり鉄路 <高屋窓秋>
  • 世界病むを語りつつ林檎裸となる <中村草田男>
  • ただ見る起き伏し枯野の起き伏し <山口誓子>
  • 蟻よバラを登りつめても陽が遠い <篠原鳳作>
  • ふつつかな魚のまちがひそらを泳ぎ <渡邊白泉>

次に「一句に季語は原則1個」のルールに就いてだが、俳句とはたった17音の中で季節による自然美の中での想いを表現するのであるから、その短い中に2つの季語を使うだけでも無理が有るのでは無いのか。2つの違う季節の季語を使うことを「季違い」といい、同じ季節の季語を2つ以上使うことを「季重なり」と言うそうだが、これらは避けた方は無難であろう。しかし上述の「季語は原則一個」と“原則”と書き加えている理由だが、それは季語が無くても誰が詠んでも句全体で明らかに季節を表現している場合には「歳時記」に載っている「季語」を使ってなくてもそれは立派な俳句と言えると思うので、“原則一個”とした。

ところで前出の本『絶滅寸前季語辞典』を読んでいたらビックリしたことに、17音以上の「季語」が掲載されていたのだ。その中で一番長いのが「童貞聖マリア無原罪の御孕(おんやど)りの祝日」(仲冬)で、なんと25音もある。これ以外にも長い季語(以下これを「多音季語」と呼ぶ)として次の様な多音季語が掲載され解説されていた。

  • 狼(おおかみ)獣(けもの)を祭る(晩秋)=11音=
  • 鵲(かささぎ)初めて巣くう(晩冬)=11音=
  • 獺(かわうそ)魚を祭る(初春)=11音=
  • 雀(すずめ)大水(うみ)に入り蛤(はまぐり)となる(晩秋)=15音=
  • 田(でん)鼠化(そか)して鶉(うずら)となる(晩春)=12音=
  • 腐草(ふそう)蛍となる(晩夏)=9音=
  • 糸瓜(へちま)の水取る(仲秋)=8音=
  • ままこのしりぬぐい(初秋)=9音=
  • 藻に住む虫の音に泣く(三秋)=11音=

これらの多音季語を知らされて「有季定形」主義者の私にとっては「まさか、そんなバカな!」と息の根を止められるような瞬間だった。これらの多音季語が載っていたのは『大歳時記』つまり正式名『カラー版新日本大歳時記全五巻』だそうで、またこれらの多音季語の殆どが「七十二候」であると説明されていたので、そこで私にはピンと来たのだ。

私達は1年間を春夏秋冬の「四季」に寄り添って生きているのだ。つまり私達日本人は繊細な感覚の持ち主だから、四季折々の変化に沿って豊かな文化を生み出していると言える。暑い夏、寒い冬と言った皮膚感覚だけでなく、花鳥風月を愛でるなどして季節の風情を大切にしながら生活しているのだ。その日々の季節的変化を言葉で書き記すために古人は、三日間を「候」と名付け、その候5つ(つまり15日間=半月)を「節気」と名付けたので一年では「二十四節気」となり、それぞれの期間がどんな「気候」なのか「言語」で表現したものなので「季語(季節を表す語)」と呼んだ。従って「候」や「節気」も季語扱いとなる。「俳諧」の時代からこれら多音季語も使われていたのだが、その後江戸後期になって生まれた定形型「五七五俳句」に対しては、これら多音季語は向いていないと理解すべきである。

しかし『絶滅寸前季語辞典』の著者は25文字季語を使ってわざわざ次のような俳句(?)を作っているのだが、これは冗談としか言いようがない。

  • 童貞聖母マリア無原罪の御孕りの祝日日和とはなれり <夏井いつき>

この日本一長い「多音季語」を使った句はどこを探しても彼女のこの句のみなのだ(キット)。とすれば、彼女の主張『俳人には想像力という翼がある。見たことが有るかのような虚構を構築出来てこそ表現者である。もし万が一、私にそんな俳句が詠めたとすれば、少なくとも私が生きている間、その季語は私とともに生き残ることが出来る』と言っていた通りに実現した事になるので、この何を言っているか分からない“短文句”が俳句として今後も活字として残ってゆくのである。これが本当の俳句文化なのかだろうかとはなはだ悲しくなって来ると同時に誠に残念なことだ。

ところでこの多音季語を使っていた有名俳人の一人に「正岡子規」が居る。子規は1902(明治35)年9月19日の深夜に荒川区・根岸の「子規庵」にて結核で亡くなるが、その前日の午前に庭に垂れ下がる糸瓜を眺めながら詠んだ次の3句が絶句となった。

  • 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
  • 痰一斗糸瓜の水も間に合わず
  • をととひのへちまの水も取らざりき

さて最後に現代に於ける「歳時記」の立ち位置に就いて述べてみたい。
そもそも「歳時記」は「歳事記」とも書き春夏秋冬の事物や年中行事などをまとめた書物だが、江戸後期になって主として俳諧・俳句の季語を集めて分類し、季語ごとの解説と例句を加えた書物を指すようになった。1875(明治5)年12月に「太陽歴」が採用となり、旧暦と新暦がほぼ1ヶ月ずれている事から歳時記の内容に大きな混乱をもたらした。江戸時代の正月が新暦では「立春」の頃にあたるので、正月の季語が「春の部」に当たってしまい、その不都合から歳時記には【新年】の部が生まれたとのこと。

新暦をベースに四季を区分けした「歳時記」の殆どが、気象庁の予報用語に準じて、春=3〜5月、夏=6〜8月、秋=9〜11月、冬=12〜2月としているが、一部の歳時記では、春=2〜4月、夏=5〜7月、秋=8〜10月、冬11〜1月としており、時期の統一性に欠けるのもやむを得ないと思う。また昨今の地球温暖化問題によって日本が亜熱帯気候の中に入り込み、1年を通じて四季の移り変わりのタイミングが不規則になって来ている。更に日本は南北に長い列島であり、北海道と沖縄では季節のタイミングが大きくずれている。従って「沖縄版歳時記」のようにその地域用の歳時記が発刊されているという。その様な事情から考えると、「歳時記」は季語を知る参考書として活用しながら、自分の住んでいる地域の季節に適した季語を使って作句して行けばいいと思う。

以上グダグダと「ドグマ的俳句論」を述べてきたが、結論として「俳句は基本ルール“有季定形”を守って行こう」に尽きると思う。そんな訳で私は原則として自分で見て、体験して感じたことをそのまま俳句にしている。つまり空想でとか、あるいは創造して作句はしない様に心がけている。

これからも現在参加している3つの句会を通して俳句作りが益々楽しくなるよう自分なりに研鑽を重ねて行きたいと思っている。最後に自分の気に入っている自作の5句を記載して「ドグマ的俳句論」を閉じることにしたい。

  • うらめしやござを濡らせる花の雨
  • 夏の朝屋根がゆらゆら露天風呂
  • 畦に寝る仕事納めの案山子かな
  • 雪吊りや四方に張りてゆるぎなし
  • 口喧嘩ひとり悔やんで日向ぼこ

<完>

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