続 ふざける菜漬け


【リンク目次】

第1章:うそ大国“日本”

<まえがき>

【1−1】『うそ』の拡散と欺瞞国家の完成

【1−2】本当の『戦後レジームからの脱却』とは

第2章:神の領域に手を突っ込むな

<まえがき>

【2−1】『神の領域に手を突っ込むな』

【2−2】『文明は緑を食い潰す』

【2−3】『もの』から『こころ』へ

<あとがき>


第1章 うそ大国 “日本”

<まえがき>

2020年は「新型コロナウイルス」感染問題が世界中を震撼させた。人類はこれまでの歴史を見ても「コロナウイルス」を撃沈させる術を確立しておらず、ウイルス自ら鎮静してゆくのを静かに待つしか無いのだ。従い今回の「新型コロナ」もいつになったら<コロナ禍>が終わるのか人間には予知出来ないのである。

私達の生活もすでに新しいスタイルに刻々と変化しており、口はマスクで覆われ、外での人との挨拶も直面を避けて斜に構え、また親しい人との会談はなるべく避けて、大声では喋らず、人との距離は少なくとも1〜2m離れ(ソーシャル・ディスタンスの励行)、更には仕事や学校授業も出来る限りリモートで行い、夜の会食には人数制限と時間制限付きで、つまりは「巣ごもり生活」を幅広く奨励されているのである。

そんな世の中、エッセイを書くには恵まれた環境と言えるのかも知れないので、「巣ごもり」の中で心に貯まる鬱憤を晴らそうと思いつくままに書いてみたい。
実は2020年に入って私はすでに2本のエッセイを書いていた。1本目は俳句界に対するドクマ的俳句論として【俳句言いたい放題】を書き、2本目は襲ってきている<コロナ禍>が齎したものとして【新しい時代への入り口】を10月に書き上げた。11月13日の金曜日、私はこの2つのエッセイを友人達に読んで頂こうと添え手紙を書いている最中に「13日の金曜日」という言葉が文中に出てきて、12年前つまり2008(平成20)年6月13日(金)にエッセイ【ふざける菜漬け】を書いた事を思い出していた。懐かしく感じながらそのエッセイを読み返していると、よしそれなら今回のエッセイ第3弾を【続・ふざける菜漬け】という題名にしようと決まった。しかしこのエッセイの完結はいつになるかは分からない。それは「新型コロナウイルス」次第なのだから。

【1−1】『うそ』の拡散と欺瞞国家の完成

2020(令和2)年はコロナウイルス騒ぎでの一年だった。「令和」と言う新元号になって初めての正月早々に我々は「新型コロナウイルス(COVID-19)」に襲われ、それ以降毎日TVニュースで発表される「1日の感染者数」に一喜一憂し、その棒グラブの2つの「山」を乗り切り3つ目の大きな山に挑戦しているが、頂上がどこに有るのか、その先が全く見えない。

11月13日の金曜日、私は<コロナ禍>による「巣ごもり生活」を続けている時に書いた2つのエッセイを友人に読んで頂こうと添え手紙を書いている最中に今日が“13日の金曜日”と知って、12年前につまり2008(平成20)年6月13日(金)にエッセイ【ふざける菜漬け】を書いた事を思い出していた。

この【ふざける菜漬け】は“お経”から始まっていたのだが、そのお経の続きは『変新暑絆 金輪税安 金北災令』となるが『ヘンシンショハン コンリンゼイアン キンボクサイレイ』と読むと何か「お経」らしき響きに聞こえるのが不思議である。これは2008年から昨年2019年の12年間の「今年の漢字」をただ並べたものなのだ。つまり2008年の漢字は「変」で、この年は大きな“変化”の起こった年だった。アメリカでは不人気のブッシュ大統領に変わって、何と黒人のオバマ大統領が誕生した年で、“Change”を合言葉に立ち上がった。11月の大統領選挙の前の9月にはサブプライムローン問題から端を発した「リーマンショック」と呼ばれた金融恐慌がアメリカを襲っていたのだ。その頃日本は「食品偽装問題」で大騒ぎ。日本ハム牛肉偽装/事故米不正転売/中国産うなぎ偽装などの“うそつき事件”が多発していた。
2009年の漢字は「新」で9月自民党の麻生内閣が総辞職して、マンネリ化した自民党政権に嫌気した国民は「民主党に政治をやらせてみるか」という事で鳩山民主党“新”政権が誕生し自民党が野党に下野した。

民主党の政治が始まって2年目の2011年3月11日に未曾有の大災害「東日本大震災」に襲われた。これによって「平和ボケの日本国民」が身近でかけがえのない人との「絆」(2011年の漢字)が如何に大切かを知る事になる。“禍福は糾える縄”の如くこの年の7月「なでしこジャパン」がサッカー・ワールドカップで優勝したのである。がしかし政治の世界では、与党経験の浅い民主党の政治もゴタゴタ続きで国民の失望感から2012年末には自民党が政権を奪取して「第2次安倍内閣」が返り咲くのである。
ここから安倍政権は2020年8月に健康上の理由で退任するまで続き、その期間は何と7年8ヶ月も続き総理大臣としての期間が歴史上で最長記録を作ったのだが、その長期政権の副作用はこれまた歴史に残る様な「欺瞞国家」を作り上げてしまっていたのだ。2013年に返り咲いた安倍政権は「アベノミクス」という看板を掲げて華々しくスタートした。2011年の「東日本大震災」でドン底に引きずり込まされた国民は、長期に亘るデフレ経済から脱出する為に大胆な金融緩和政策を取った「アベノミクス」に一抹の期待を抱いた。すでに「第1次安倍内閣」を経験していた事もあり、民主党の没落により永田町で一匹狼となった自民党・安倍総理は自分のやりたい放題に政治を操ることが出来る環境が生まれ国政の私物化に突っ走ったのだ。 彼が政治家としてやり遂げたい事の一つに、幼少の頃自分を可愛がってくれた祖父である“岸信介”から教わったこと、「日本が真の独立国になる為には独自の憲法が必要」(戦後レジームからの脱却)を実現することに有った。私としてもこの考え方は正しいと思っているのだが、彼の場合はそのやり方に欺瞞があったと考えている。彼は【日本国憲法の改正】を正面から取り組む場合はその条件が余りに厳しく甚だ無理と判断して、何と現憲法の解釈を都合のいいように変えて議案を次から次へと成立させて行った。

「特別秘密保護法成立(2013/12月)」、「集団的自衛権の行使容認を閣議決定(2014/7月)」、そして「安保法制=戦争法成立(2015/9月)」を経て、遂に戦争が始まれば自衛隊を戦場に送り込むことが出来る状態を作り上げたのだ。戦場への派遣に関しては、言葉ではやれ「後方支援」とか「存立危機事態の条件付き」とか言っているが、戦争とはいざ始まってしまえば、定義がどうのこうのなど言っていられないのだ。日本国民が戦場で間違って殺られたとなれば、全国民が「憎し」一色の気持ちを懐き戦わざるを得ない状態にしてしまうのが戦争と言うもの。彼は憲法9条に自衛隊明記が未達のままなので道半ばのような事を言っているが、実は内輪の人にはこっそりと「一応思い通りになった」と満足げに話していると聞く。きっと仏前で“岸おじいちゃん”にもその旨報告していることだろう。
次に彼の凄いのは2012/5月、内閣府に「内閣人事局」を発足させた事である。つまり官僚の人事権を手中に収めようという戦略であるが、これがバッチリと当たりこれ以降官僚たちに「忖度文化」を蔓延させ、2017/2月には「森友学園」や「加計学園」などの諸問題が発生、更には2018年に入ると組織内部での不都合な文書の改ざん・隠蔽が頻繁に行われる様になり、2018/7月には末恐ろしい「カジノ実施法」が成立してしまう。9月に入ると自民党総裁選で彼は三選され権力が益々一極に集中する結果となり公私混同に走らせた結果、2019/11月には「桜を見る会」問題にまで発展していった。 しかし2020年に入ると「新型コロナウイルス蔓延」が世界中を襲い、この感染症対策において彼は政策失敗を重ねてゆく。コロナウイルス君を相手には“安倍一強”勢力は全く通用せず、彼の繰り出す政策「アベノマスク」や「小中高の一斉休校」そして「PCR検査能力を2万件/月にUP」など無謀とも思える政策を独断的に発表し国民の顰蹙を買う結果を重ねて行った。4月に入って<コロナ禍>による国民救済策として安倍政権が「国民への現金給付を世帯に一律30万円」と方針を出すもそれに対して急遽公明党から「全国民へ一律10万円」と方針転換を要請され、公明党の連結政権離脱を恐れた彼はこれをスンナリと受け入れ、遂にこれまでの様な神通力がコロナ禍の下では通じない状況を暴露する結果となり、7月に入ると経済復興を狙って観光需要喚起「GOTOトラベル」を前倒しして実施するという無謀に走り、これが結果としてコロナ感染拡大に結びつき、やることなすことすべてが裏目と出てしまい、8月28日安倍首相が体調を理由に辞任し7年8ヶ月続いた「安倍政権」が遂に幕を閉じたのだ。
安倍政権7年8ヶ月の間で上述の如く「欺瞞に満ちた国」を作り上げてしまったのだ。むしろこの期間に世界に誇れる政策は何一つ作り上げてはおらず、恥ずかしながら日本は“ド三流国”に成り下がってしまったのだ。その“ド三流”の結果をそれぞれ分野別に具体例を挙げて記憶に留めて置くことにしたい。

国の将来に向けて最も大事な【教育】に関しては、例えば経済協力開発機構(OECD)調査では、国からの公的教育機関へ支出額で日本は32カ国中最下位と言う恥ずかしさ、また世界大学ランキングでは1位オックスフォード(英国)、2位スタンフォード(米国)、3位ハーバード(米国)の順で、東京大学は何と北京大学(中国)やシンガポール国立大学より下位の36位に成り下がった。

【経済】に於いては、“アベノミクス第3の矢である『成長戦略』の失策とデフレ・スパイラルから脱出できぬまま消費税の二度に亘るUPによる経済長期低迷、更には原発に頼り続ける『エネルギー戦略』の大失敗、そして『再生エネルギー施策』では世界のスピートより2周遅れとなってしまったのだ。

【外交】に於いては彼の最も得意分野のように見えたが、対ロシアとの北方領土問題、尖閣諸島(中国)や竹島(韓国)の国境問題、更には拉致問題(北朝鮮)、そして慰安婦問題(韓国)などなど隣国との間でこれら諸問題は全く進展しておらず、むしろ後退した感がするのである。 このように過去を振り返ってみれば、1991年の「バブル崩壊」からデフレによる経済不況が続き、更に2008年の世界金融危機(リーマン・ショック)が発生し経済回復の道を失ったまま現在に至っているが、2020年に「新型コロナウイルス」が世界中を襲って来たが、このウイルスとの戦いをチャンスと捉え、私達の持つ過信や錯覚を“御破算に願いまして”、人間として本来あるべき生き方に軌道修正して一人ひとりがストレスの少ない日々の生活が送れるような社会に生まれ変わることを期待したい。  
(2020年11月記)

【1−2】本当の『戦後レジームからの脱却』とは;

日本国憲法の基本原理は「国民主権」と「基本的人権」と「平和主義」と言われるが、この憲法が米国による占領下に於いて米国の手で作られたので、日本人が自分たちで作ったものでは無い限り、日本国憲法上でいう「国民主権」と書かれていても、この「主権」という言葉に日本人としての魂は籠もってはいない。GHQによって統治されていた当時では、我々は隣国のソ連、中国や北朝鮮などから守ってもらう為に米軍の駐留もやむなしと判断せざるを得なかったであろうし、(下図「逆さ地図参照」)一方米国は共産主義諸国から自由主義陣営を守るためのボーダーライン上の日本に駐留は必須と判断して、お互いWIN-WINの関係に有った訳だ。しかし米国の判断で駐留米軍を動かすことは出来るが、米国側に特段メリットがなければ、“日本を守る義務は無い”と言える立場なのである。

そう考えるとやはり日本国民として「自分の国をどのようにして守るか」という事を真剣に考える必要が有るのだが、「憲法問題」とは大変に重たい課題であり、短期間で改憲が出来るものでは無いが、しかし国民一人ひとりがその目標(有るべき姿)に向けて一歩一歩意識を高めて行くことが必要であり、現時点で世界を襲っている<コロナ禍>がその問題に取り組むスタートラインとしてグッドタイミングと考えるが何故か。これまで人間は欲望の赴くままに突っ走り世界中に人種差別、政治的迫害、宗教的迫害そして民族紛争などの問題を引き起こして来ているが、これら諸問題は人間同士のいがみ合いから生まれたものなのだ。

しかし今、人間の力では太刀打ちできない大敵「新型コロナウイルス」が私達を襲ってきているのだ。感染症問題はその沈静化には相当長い年月が掛かってしまう事をこれ迄の歴史が証明しており、またこの災禍の終結がいつになるか人間には全く読めない為に全人類を不安に落とし込んでいるのだが、この時こそこれ迄に人類が作ってきた歪んだ関係を糺してゆくチャンスと私は考える。

そこで私達一人ひとりがこの<コロナ禍>の機に「自分の国は自分で守る」ということはどうゆうことかを考え、次に「そのためには何が必要か」を考え、それを皆で議論を重ねながら、現在のような「従属国家」(米国の植民国家)から抜け出し「独り立ちした国」になった頃、地球上に新しいレジームが生まれているのかも知れない。そこで日本が独り立ちした国になる為のプロセスの一例として私の考えを次に述べてみたい。

現時点で日本の最大関心事は何と言っても「対中国政策」に有ると思う。習近平国家主席が2013年に提唱した巨大経済圏構想「一帯一路」を着々と推進してきているが、もし世界が中国との対応方法を間違えると13世紀にユーラシア大陸に出現した巨大な「モンゴル帝国」の様に今度は漢民族による巨大国家が生まれる恐れがあるのだ。中国には古代漢民族の時代から「中国皇帝が世界の中心」と考えており(華夷思想)、中国共産党は隣接する国々に対してこの思想を受け入れさせて漢人の持つ文化レベルにする事によって差別が無い“愛国心”に満ちた世界国家を実現しようとしているのだ。更に<コロナ禍>においては、中国のような独裁的支配の方がロックダウン対応などすぐ取れるので、感染抑制には民主主義国より有利であり、世界でいち早く経済回復にも成功している結果(2020年10−12月期の実質GDPは前年同期比+6.5%)を見せられると益々先が恐ろしくなってくる。日本経済センターの予測では、中国経済に就いてコロナ危機の前では米中逆転が早くて2050年頃と見ていたがコロナ危機によって2030年頃には逆転かと予測しており皮肉な結果だ。

しかし情報化社会を迎えると、誰もが簡単に情報を発信したり、受信したりする事が出来るので権限が分散化されて行く事となり、地球上に有る隅々の情報が一挙に世界中に広がる環境が出来上がっている。これは大帝国の独裁者が広域に亘って統率して行くには甚だ難しい環境になっているとも言えるのだ。

実に中国では勢力拡大を図っている一方で「香港問題」や「チベット・新疆ウイグル人権問題」そして「台湾問題」など人権侵害問題を引き起こして来ており、更には「東シナ海、南シナ海領有問題」で海上の公道を自分のものにしようとする中国の戦略に対して、勝手な振る舞いは許さじとして日本、米国、オーストラリア、インドが中心となり安全保障、経済協力で連携を強くして行こうと中国包囲網を強化する行動に出ている。特記すべきはこの日米豪印の民主国家4カ国がアジア諸国に新型コロナウイルスワクチン10億回分を2022年末迄に提供するという行動に出ているのである。
特に中国、ロシア、北朝鮮など独裁国家と隣接する日本は、この<コロナ禍> を機会に世界中の自由主義国家を纏め上げる旗振り役となるべきである。そのためには即急に「日本とはどん国にするのか」の国民のコンセンサスを一つにして世界から認められることである。「外から攻められた時、我々はどうやって国を守るのか」、「米国の植民地的立場を続けるのか」、「軍隊を持たずして世界平和の道を先導するのか」などなど国民が議論を重ねて日本の行路を明確にすることだ。複数の大国の間に位置して大国同士の衝突を防ぐ「緩衝国」になる為にはとか、更には世界一安全な国ランキングでは「アイスランド」がいつも一位なのだが(日本は九位)、アイスランドは自国の軍事力を持たず海に囲まれた島国であり我が日本が学ぶところ多々有るのではないか。世界中の「緩衝国」や「中立国」を集めて「新しい国連的組織」を構築できれば大国の非人道的行動を阻止できると信じる。
日本が先頭になって行動できる卑近な一例として、有名無実化してしまった「国際連合」に変わる新たな国際会議組織作りに挑戦する。現在の「国連」は常任理事国が中国、ロシア、フランス、イギリス、米国の5カ国であり、「安全保障理事会」ではその常任理事国が「拒否権」を持っているのである。ところが常任理事国の中に独裁国家(中国、ロシア)と民主主義国家(フランス、イギリス、米国)が居る限り意見が一致するとは思えず世界の安全など保証されるはずは無いのである。
これ迄にも国連の見直し(改革)にいては長い間議論されて来てはいるが、常任理事国のメンバーからして、更には自由主義国家の代表格である米国が「国連」に対して力が入っておらず、現在の機構のままでの国連の改革は難しく、そこで被爆国であり原発事故の体験国である日本が世界の自由諸国(緩衝国や中立国など)を巻き込んで「新しい国連」を立ち上げるよう行動に出てはどうか。これこそ日本にとって本当の『戦後レジームからの脱却』を図る道であり、21世紀の大人的な取り組み姿勢ではないだろうか。                      (2021年12月記)


第2章 神の領域に手を突っ込むな

<まえがき>

第1章を書いてからあっという間に1年が経ってしまった。その1年は思い出したくない悲惨な出来事の連続であった。コロナ騒ぎも3年目に入ってアルファ株、デルタ株に続く第三のオミクロン株が急拡大し第6波に突入で国内感染者数も500万人を超えた。

2月に入ると「北京冬季オリンピック」が閉幕するとすぐにロシアによる「ウクライナ侵攻」が始まり、プーチンは簡単に制圧できるものと高をくくっていたが、ウクライナはNATOを中心に自由主義諸国から資金や兵器弾薬のサポートを得て長期戦となり、現在に至っても人の殺し合いを続けているのだ。7月には第1章で取り上げた「安倍元首相」が選挙応援演説の際に銃撃され突然この世を去った。その犯人逮捕から「旧統一教会問題」が発覚し多くの国会議員が同教会から支援を受けていたとして炙り出された。8月には米国の下院議員を台湾に訪問させるという中国刺激策に出た。これはウクライナにおける「領土戦争」を前例として中国/台湾間の緊張を高める結果となり、9月には英国エリザベス女王がご逝去、そして10月には中国習近平主席が「共産党大会」において3期目の権威確立を成し遂げ、「独裁国家」の長として基盤を固め、「自由主義国家」の代表である米国との間で神経戦を繰り広げている。 一方で私達が住む「地球」が悲鳴を上げている。人間の「自然破壊」が「地球温暖化問題」を引き起こし、その結果世界の各地で、「氷河倒壊による大水害」、「森林大火災」、そして「大型ハリケーン」や「海水位上昇問題」に襲われ、同時に「大地震」や「火山爆発」による巨大災害が重なり食料やエネルギーの争奪戦が弱小国に「難民問題」を引き起こし、世界中が「神のたたり」に襲われている様だ。そんな悲惨な時代の中で、あいも変わらず「ふざける菜!」と叫び続けながらエッセイを書き留めておこう。

【2−1】『神の領域に手を突っ込むな!』

人間様よ、程々にしなさい! 地球を守るならもうこれ以上【神の領域】に手を突っ込んではいけない。

私はこれまで拙著『日本復活私論』などの中で述べて来たが、地球上の万物は「循環型」でなければならないと思っているのだが。その“循環”とは万物は「誕生—成長—成熟—衰退—死/終宴」を繰り返して来ているのだが、この“繰り返し”とは一旦死んでもその後に新たな誕生を迎えることを意味し、これが「循環している」という意味で、私はそれを「万物のサイクル」と呼び、そのサイクル(循環)の内側を「神の領域」と考えるのだ。その【神の領域】とは人間の力ではどうしても制御出来ない領域なのである。しかし人間の欲望は、その【神の領域】の中に入り込んでその中を知ったと錯覚し、そしてその領域を制御しようとするが、残念ながらどんなに足掻いてもその領域を制覇する事はできずに、むしろ「神からの祟り」を受ける結果となるのだ。
私は中学生の頃、マクロの世界とミクロの世界が同じような形をしているのは偶然ではないと考えていたので、その辺から話を始めることにしよう。

(1)マクロとミクロの世界:

話の初めに私達の周りの「マクロの世界」と「ミクロの世界」を見てみよう。

まずは「マクロの世界」だが、左の図はご存知の「太陽系」を表している。誰も太陽系の外に出て「なるほど、こうなっているのか」と見てきた訳では無いが、このような構造をしているはずと各種天体観測や調査で、このような構造であればすべてうまく説明がつく、と人間が割り出した研究結果なのだ。つまり地球はただただ太陽の周りをグルグルと循環しているのだ。そしてこの太陽(恒星)の周りを惑星が回っている状態が最も安定した状態なのである。

しかし人間は地球を回る「月」に上陸しようと、更には太陽を回る地球に一番近い惑星の「火星」に住めないだろうかと「人工衛星」を飛ばして人間の欲望を叶えようとしているが、これが一体人間に取って何の役にたつのだろうか。宇宙飛行士の重装備の姿を見ても、地球の外の宇宙は人間が生きてゆくには過酷な環境で有ることが分かる。にもかかわらず地球に変わる“住める星”を求めているのだろうか。私はそれより地球自身を守るのが先決だと思うのだが。

次に「ミクロの世界」だが、下の図は「原子」を表しており、原子核の周りを電子が回転している姿である。原子のサイズは凡そ1億分の1cmで、中心にある「原子核」は約1兆分の1cmであり、その原子核は「陽子」と「中性子」とそれらを結びつける働きをもつ「中間子」などで構成されている。「核分裂性物質(ウラン235、プルトニウム239など)」の原子核に中性子を当てると核が2つ(まれに3つ)の原子核に分裂する現象を「核分裂」という。この核分裂のときに巨大なエネルギーを放出するのだが、このエネルギーを利用しようと考えたのが「原子力発電」であり「原子爆弾」なのである。

「原子爆弾」により放出される放射能の恐ろしさは1945年8月、太平洋戦争の際に米国による広島/長崎への原子爆弾投下で私達日本人は経験して来ており、更に「原子力発電」に関しては2011年3月11日の「東日本大震災」に於いて「福島第一原発」で「原子炉」が破裂して放射能を撒き散らすという大事故を起し、あれから10年以上過ぎた今現在でも放射能の危険から回避出来ていない状態が続いているのだ。この放射能から完全に回避で出来るのには100年以上の年月が掛かると言われているのだが、何とも次世代に大変な“負の遺産”を残してしまった事になる。 上の類似した2つの図を眺めるとそこには共通の特徴があるように思う。無限に大きな物の仕組み(宇宙)と、その正反対のとてつもなく極小の世界の仕組み(原子)は実は同じ仕掛けであり、この仕掛けは神様が作ったものだけに“最も安定した状態”であり人間が踏み込んではいけない“神様だけの領域”なのだ。この安定した領域に踏み込んで来たものには必ず神からの“しっぺ返し(祟り)”を受けねばならないのだ。

(2)『人はなぜ宇宙へ飛び立つのか』の“ふざける菜”!

2023年(令和5年)に入ってこのエッセイを書き始めたのだが、4月の後半に入ると「神様を怒らすような出来事」が目立ち始めた。まずは「マクロの世界」での出来事から話を始めよう。
宇宙ベンチャーの「アイスペース(ispace)社」が日本初の月面着陸船の打あげに失敗した、というニュースが舞い込んできた。実は私はその結果にほくそ笑んでいたのだが。

あの北朝鮮ですら金がない無いと言いながら嫌がらせのミサイルをジャンジャン打ち上げていると言うご時世に何という無様な結果であろうか。この打上げ目的が、何と誰でも宇宙に行けるようにする為の足がかりを作るためと言うが、何と貧弱でお目出度い発想であろうか。同じ様な考えでTwitterのCEOであるイーロン・マスクが「スペースX社」を立ち上げたが、その目的も「宇宙産業」で金儲けをしようとする魂胆なのである。同じように、日本でも宇宙産業を狙ってベンチャー企業「アストロスケール社」も地球の周回軌道に漂うスペースデブリ(宇宙ゴミ)の除去を目指した衛星を開発し宇宙に打ち上げることを目標にしている。全くふざけた話で、まずは宇宙に「ゴミ」を捨てないことが最優先にされるべきではないか。こんなことを商売にしているといずれ「デブリ除去衛星」の群れを除去するための新たな衛星を飛ばせばならない結果にはしないか。そんな余計な「デブリ」を考える前に、目の前にある福島第一原発の原子炉1号機、2号機そして3号機の床底に溶け落ちた核燃料「デブリ」を取り出す為の技術開発に力を入れる方が理にかなってはいないか。次に「ミクロの世界」に於いて【神の領域】への手突っ込み事件を見てみよう。

(3)『原発存廃で独は「廃」で日本は「存」の不思議』
国会で「GX脱炭素電源法案」(GX=グリーントランスフォーメーション)が審議されているが、岸田首相は脱炭素の要請とエネルギーの安定供給を理由に「原発を最大限活用する」と180度の方向転換を図り、我々国民に対して「裏切り行為」に出ている。

「原発」を目立たぬようにエネルギー関連法案の中にまぎれ込ませて、これ迄の原子炉等規制法(以下“炉規法”)と電気事業法で原発の運転期間を「原則40年、最長60年」とされていたものを、炉規法からこの規定を削除し、「一定の条件下で60年使用可」に条件を変えようとしている。更に原子力基本法の改正案として「国の責務として、原子力発電を電源の選択肢の一つとして活用することによる電気の安定供給の確保に資する」と尤もらしき理由を添えて裏切り行為に出ている訳だ。東京新聞ではこの脱炭素電源法案に絡めた「目くらまし方針変更」を【フクシマ忘却宣言】と称していた。
一方でドイツでは福島原発事故直後に当時のメルケル政権が【脱原発宣言】を行い、17基の原発稼働炉を徐々に停止し続けて、今年の4月14日遂にすべての原発を停止したと発表した。ドイツはロシアによるウクライナ侵攻により天然ガスの供給を停止されるという危機を抱えながらも、一旦決定した【脱原発宣言】を諦めること無くやり遂げている一方で、原発により実際に大被害を受けた日本が原発の使用期限を延長してまで使用するという【フクシマ忘却宣言】に出ているのだ。日本政府の愚劣さ無能さには何とも恥ずかしさが募るばかりである。
さてそれでは「原発」が何故ミクロの世界で【神の領域】に手を突っ込んでしまって、とんでもない結果を生んでいるのかの話に移ろう。

(4)人類が作った放射性元素「プルトニウム」の恐怖
地球上のすべての物質は最も基礎的な粒子「原子」で出来ている。つまりそれ以上に分割する事が出来ない最小の粒で、原子が2つ以上結びついた粒子を「分子」と呼び、分子は物質の性質を示す最小単位であると学校で教わった。この最も均衡の取れた状態の「原子」の中心にある「原子核」に向かって「中性子」をぶつけると、それが2つに分かれ(核分裂)、その時に巨大な「熱エネルギー」を発散することを知った人類はこのエネルギーを活用しようと研究を重ねて「原子爆弾」や「原子力発電」の開発に至った。ところが最も安定している状態の原子に中性子を当ててぶち壊すと、その結果生命を死に追いやる「放射能」を放出し人体に致命的な危害を齎すのだ。具体的に一例で説明すると「原子炉」の中でウラン燃料を「核分裂」させると、強烈な「放射能」を持つ「プルトニウム」が生まれるのだ。プルトニウム(pu)は人間が作ったつまり人工の元素であり、プルトニウムのスプーン一杯分が東京都民の致死量に相当するそうで、またプルトニウムの放射能力が半減するまでに掛かる期間(半減期)は何と2万4千年と言われており、言い方を変えれば「プルトニウムは殺人元素」と言えよう。それに対して日本政府はこのプルトニウムを資源として有効活用する方針を打ち立てているのだ。

もっと恐ろしいことに日本政府はこの殺人元素プルトニウムを使って発電しながら、それに並立して消費した以上のプルトニウムを生み出す『核燃料サイクル計画』を真面目顔で取り組んでいるのだ。更に最悪なことにプルトニウムを核兵器に使用できない日本国は苦し紛れに原発でプルトニウムを燃やすという『プルサーマル計画』を考えたのだが、この計画も破綻しもはや先の見通しが全く立っていない。これらの無理やりな計画は残念ながら絶対に実現出来ない計画だと私は考えている。その理由は、神様は人類にたった100年の生命しか与えたなかったのに、全く規模の違う「世界」、つまり『巨大な宇宙』そして『極小の原子』は【神の領域】であり私達人類が相手に出来る相手(領域)では無いにも関わらず手を突っ込んでいる訳で、どうあがいても最終的な目的を達成することが出来ず、寧ろ神からの「しっぺ返し」を受けてしまうのである。
現実とはかけ離れた神の領域をこれまでに人類は「別の表現」で辻褄合わせをしてきたのだ。例えば宇宙が余りに広いために、人類が生活で使う単位と辻褄を合わせるために「光年」という途方も無い巨大な単位を作り出し、また仏教の世界では「劫」という時間単位で夢想の世界(時間)表現をして来ているのだと思う。ちなみに1光年とは光が1年間に進む距離だそうで、光は1秒間に地球を7周半すると言うのだから、光年とは全く現実離れした距離という事になる。また仏教上の「劫」とは横幅40里、高さも40里、奥行きも40里という大きな岩石があったとして(勿論富士山より大きい)、その岩のそばを羽衣に身をまとった天女が百年あるいは千年に一度通りかかった時に羽衣の袖がサットその大岩に触れ、これを何度も繰り返すと岩が擦り減り、この岩石が摩滅してしまうまでに要する時間を「一劫」と言うのだそうだ。気の遠くなるような話でどんな長さなのか全く想像すらつかない。
人は単に好奇心や金儲けのため、つまりは自分たちの「欲望」を叶えるために未知なところを何でも知ろうとして【神の領域】にまで手を突っ込んでしまうのだろうが、一見どんなに素敵に見える技術でも【神の領域】に手を突っ込んでしまった技術は必ず人類に対して神がとんでもない危害(つまり「しっぺ返し」)を与えるので、突っ込んでしまった我々は覚悟せねばならない。

【2−1】で私は「地球を守るなら、もうこれ以上【神の領域】に手を突っ込んではいけない」と主張して来たが、その【神の領域】に突っ込んでいる「手」とは一体何者なのか? こんな事を考えるとどうしても頭に浮かぶのが私のバイブル的書物【人類究極の選択】(岸根卓郎著 東洋経済新報社)である。

この著書は1995(平成7)年に発刊されたものであるが、私はこの本を15年後の2010年に神保町の古本屋で偶然見付けたのだが、今や私のバイブル的存在である事を考えるとこの偶然の巡り合わせに感謝せねばならない。

この本の「はしがき」の部分を読んだだけでこの本の中身に大いに興味を抱かせ、およそ600ページに及ぶ内容を夢中で読み10日間で読み切ってしまった。そこで「はしがき」に書かれた私にとって刺激的で印象に残る部分の一部をここに書き出してみたい。

『自然対決型自然破壊型の現代西洋物質文明と、それを支える現代科学技術がこのまま拡大発展し、現代世代が豊かになればなるほど、未来世代には乏しい資源と悪い環境しか残されず、人類はそのうち生存不可能になる。』

 『20世紀は工業化と都市化が同時並行的に進行した時代で、工業化され画一化された近代都市は、機能的ではあるが、地域の伝統文化を消し去り、環境負荷を大きくし、いわゆる都市砂漠を世界各地に出現させたばかりか、人間関係をも荒廃させ、冷たい社会を形成している。』

つまり著者岸根氏は『文明の前に森林があり、文明の後に砂漠が残る』と主張し、【神の領域】に手を突っ込んできたのは、何と【文明】だったのだと指摘している。私の考えも全く同感で、私なりに近代文明によって人類が滅びゆく姿をここで追ってみたい。

(1)「産業革命」と「環境破壊」
「文明」とは【新小辞林】(三省堂)によれば『世の中が開け進んで、精神上、物質上の生活が豊かに便利になる事』と書かれているが、今から5000年程前に金属器、都市、文字などを備えた社会がエジプトやメソポタミア、インド、そして中国の各地域に生まれ、これを歴史上では「世界四大文明の誕生」と表現している。

所で「世界四大文明」の後ヨーロッパやアメリカ大陸で各種民族による文明は起きていたが、歴史上で「文明」が大転換を図ったのは、18世紀に入ってイギリスで起きた生活方式の大変革「産業革命」であった。イギリスにおける綿製品の需要拡大はこれまでの手作業では間に合わないために大量に製品が作れる機械が次々に発明され、また石炭を燃料とする「蒸気機関」も発明・改良され紡績機や織機などの動力として利用された。それまでの「馬車」が「蒸気機関車」に代わり真っ黒な煙を

上げて町中を走り、織物工場や製鉄工場の煙突からの真っ黒な煙が空を覆った。これが人類によって作り出された「機械」による「環境破壊」の始まりなのだ。しかしイギリスで始まった「産業革命」は19世紀後半になるとフランス、ドイツ、アメリカへと広がっていった。

(2)地球危機にやっと気付いた人類そしてIPCCとCOP
産業革命により工場が増え、それにより工場労働者も増えて都市人口が急増し、都市中心に消費市場も拡大し続け、工場は「大量生産体制」で需要に対応し、また都市では「大量廃棄」が始まった。20世紀に入ると工場を持つ「資本家」は効率的な利潤を得ようとし、工場で働く「労働者」は正当な賃金を得て働きがいのある生活をエンジョイする「資本主義体制」が確立されていった。しかし市場規模が大

きくなればなるほど、資本家は大きな利潤を得ようと工場労働者に対して過酷な労働条件を強いて且つ低賃金で働かせる傾向となり、社会的立場が弱い労働者は団結して「労働組合」を結成し資本家と対立を高めていった。そんな形で工業化社会が発展し続け20世紀後半になると、科学者達がこの急激な文明の発展形態が地球環境を破壊しているのではと気づき始め、1988年、気候変動に関する研究グループとしてIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change:政府間パネル)が設立され、1992年には国連加盟国(197カ国)が「国連気候変動枠組条約」を締結し、「温室効果ガス削減計画」や「排出量の実績公表」を義務化して毎年「気候変動に関する国際会議(COP:締約国会議)」を開催して各国の進捗状況を監視する体制を設けている。
IPCCの最新の報告書(2023/3/20発表)では『世界の平均気温は産業革命前からすでに1.1度上昇しており、2030年には1.5度に達する可能性が高い。この1.5度以下に気温上昇を抑えるためには、2030年までに世界全体で温室効果ガスを60%削減する必要が有る』と指摘している。一方昨年末エジプトで開催されたCOP27 (2022/11/6開催)では、気温上昇による「損失と損害」が議論され、特に発展途上国からは先進国に対して「損失と損害」に対して資金支援の要請が出された。この結果次回COP28において「新基金の創設」に就いて協議される事になっている。

しかし人類は今襲てきている「地球環境の危機」に対処すべく、上述のようにIPCCで警告を出しCOPで規制を作り上げて来てはいるものの残念ながら目標の達成は難しいのではと私は考えている。その理由には先進国と発展途上国の間でバランスの取れたルール作りが難しい事と、それ以上に大きな理由として、人間様が何とかIPCCやCOPなど国際会議を設けて真面目に議論を重ねている一方で、人間様はウクライナ戦争などあちこちで戦争や内乱を越して町々を廃墟と化し、更には人間様には制御不能な(しかし人間様が作ってしまった)「気候変動」によって大洪水や干ばつそして山火事が多発し、これら予測できない要因で「地球の温暖化」が加速されてしまうので、それら理由から2030年には世界の平均気温の上昇が1.5度を上回ってしまうのではと多いに不安になって来る。

(3)「文明の大転換」は実現可能か?
現在我々がエンジョイしている(と思っている)「物質文明」は“緑”をつまりは“森林”を食い潰して成長を遂げてきているのだが、一旦潰してしまった森林をもとに戻すには何百年も掛かってしまう。ブラジルのアマゾン川流域の広大な森林は農地や工場団地に切り替わり、インドネシアでは先進国向け建築用材木の輸出や印刷用紙製造の為に熱帯雨林が大量に伐採されており、世界中で毎年日本の国土面積の凡そ半分の森林が無くなり、更にその半分は砂漠化して草も生えない荒地となっていると言う。もっと我々の身近な例でみてみよう。
それは現在裁判沙汰になっている「神宮外苑再開発案件」である。この開発案件はそもそも「2020東京オリンピック」の開催決定(2013年9月)から裏情報が飛び交った曰く付きイベントだったのだが、五輪の総合会場「国立競技場」の建て替え地として「神宮外苑再開発案件」が進められて来た。今取りざたされている裁判は開発の残りの部分で“神宮外苑の1000本の樹木が切られる事”に地元住民が中心となり反対運動を起こし再開発の見直しを求めて訴えているのである。

何と“神宮の地”(これこそ【神の領域】)に手を突っ込んで100年以上の歳月を掛けて育って来た東京のオアシス「神宮の森」を食い潰してコンクリート・ジャングルに変えようとしているのだ。この開発の許可をする長(小池百合子都知事)は、作家坂本龍一氏からの訴えに対して、「都庁に訴えるよりも事業申請者(住友商事、伊藤忠、日本スポーツ振興センター、明治神宮)に対して交渉してください」と責任転嫁のような返答をしているが、全く開いた口が塞がらない。
この様な森林の破壊は砂漠化やコンクリート・ジャングル化を引き起こし結果的に“生物の食物連鎖”を崩してしまい、それにより気候変動を齎し熱波現象や山火事を引き起こすという悪循環に嵌まり込んでいるのだ。 COPが掲げた“2030年までに平均気温上昇を1.5度以下に抑える為、温室効果ガスを60%削減する”という目標が、上述のような対応で大丈夫なのだろうか。そして更にこの目標達成の為に“新しい産業”に注力しようと;

  • 電気自動車の増加とガソリン自動車の生産/販売停止
  • 石炭火力発電所の閉鎖
  • 再生可能エネルギー(太陽光、風力、地熱などによる発電)への投資強化

などを挙げているが、現在の「物質文明」の基でこれらの対応を取ったとしてもあとわずか7年で気温上昇を1.5度以下に収める目標が達成できると考えているのだろうか。
「文明の大転換をする」と言うことは、現在の20世紀型「西洋物質文明」から180度考え方を変えて、“物質文明では無い文明”言い換えれば「非物質文明」に向かって取り組んで行くことが本当の「大転換」と言えるのではないのか。

(4)「非物質文明」とは一体どんな文明?

20世紀に花咲いた「物質文明」とはウイキペディアによれば、『富や科学技術、巨大建築や兵器の水準のみ高く、個々の成員および共同体全体が精神的に墜落している状態を批判的に指す。特に近代欧米型の文明を批判する時に用いられる言葉』と書かれており、この【2−2】の頭で述べた岸辺卓郎氏の主張である『現代世代が豊かになればなるほど、未来世代には乏しい資源と悪い環境しか残されず、人類はそのうち生存不能になる』を考えると、何としてでも既存の文明を変換せねば人類滅亡の道を突っ走る事になる。そうならない為の次の文明、言い換えれば「非物質文明」と言うのは、『我々の生活が豊かになることを追求するのでは無く、未来に向かって如何にして環境と調和する社会を実現するかを考え、そして少ない資源消費や環境負荷に重心を置き環境保全の為には “不便さを受け入れる寛容さ”、更に皆がそのような姿勢を取ることに生活美意識を持つような新しい価値観を持った社会』と言うことになろうか。これをもっと端的に表現すると、21世紀は「循環・均衡型」の社会にせねばならないと言う事ではなかろうか。
「循環型」とは、【2−1】の始めで述べた“グルグルと循環しているマクロの世界”や、“グルグル回転しているミクロの世界”のように最も安定した状態の中で「誕生—成長—成熟—衰退—死/終焉」を繰り返している状態を言う。
そして「均衡型」とはエネルギーの流入量は必ずエネルギーの流出量に等しいという【エネルギー保存の法則】から外れる事なく均衡が保たれている状態をいう。この均衡現象は「食物連鎖」の流れの中でも見ることが出来よう。
それでは今からでも地球を救える道は有るのだろうか。20世紀の文明を「西洋物質文明」と表現されるのだから、地球を救うヒントが“西洋”とは反対側、つまり“東洋”に何かが有るのでは無かろうか。
私は2005(平成17)年の早稲田大学での異業種勉強会で【21世紀はこころの時代】というテーマで講演させて頂いた際にこんな事を言っていた。

『文明というのは「大地」と「人間」の係わり合いの中で誕生し発展してきたものと言われます。ところが近代文明は「大地」を忘れ去り、大地が醸し出す「風土性」を忘却して暴走を続けているようです。資本主義のもと、人は【欲望の奴隷】と化し、合理性の追求とか言って【楽】を求め、道徳は腐り切ってしまいました。これは欧米型の考えで「人間」と「大地」を別物に捉え、人間が自然を支配して生きて行けるという判断、つまり【人間中心主義】に走り、これが遂に行き詰まっているのです。』 
更にこんなことも言っておりました。
『日本人はコメを主食としタンパク質を魚に求めるのです。稲作は弥生時代に日本に入って普及したそうですが、その時ヤギやヒツジなどの家畜は入れなかったそうです。その理由は、家畜が森を食い潰すと考えていたからです。つまり【森の文化】を発展させたのは【日本文化】と言えましょう。』     
そして自然環境に最も優しい【日本文化】を実現していたのが265年も続いた「江戸時代」なのだ。「江戸の社会」は主に太陽エネルギーを使い、完全なる循環型社会を形成していたのだ。その講演で使った資料の中で「循環型社会」の説明に使った資料の中の一つ【着物の一生】の図を再度ここに掲載し、皆さんにじっくりと「着物」の流れをご覧頂きたい。

上の図をご覧いただくと一枚の着物が形を変えて利用されている姿(如何にエネルギーを無駄に消費していないか)がお分かり頂けよう。着物は左下の分かれ道の所で、江戸時代は「使い切り社会」を右に歩み循環(サイクル)を形成するが、現代は循環せず着物はそのまま「使い捨て社会」に突入、はい!サヨナラ(廃棄)です。この【着物の一生】サイクルをジックリと2回ほど順を追って回ってみて欲しい。何かを感じないだろうか。私達の毎日の生活と比較して何かに気づいて欲しいのだが。
現在では小学校4年生の社会科の授業で【環境の3R】 を学んでいる。この3RとはReduce(ものを大切にしてゴミを減らす)、Reuse(使えるものは繰り返して使う)、そしてRecycle(ゴミを再び利用する)だが、上図のサイクルはこの3Rがビッシリと取り込まれている。当然地球の自然環境に対して優しいサイクルなのである。ちなみに【2−1】(4)で示した図「核燃料サイクル」は全く正反対の自然環境破壊の仮想サイクルでありこの世では実現不可能なのである。
私達の日々の生活では、余りに「便利さ」「楽さ」に重心を置いてしまい、自分にとって合理的で身勝手な生活に慣れ過ぎてはいないか。例えば「プラスチック製品」の氾濫、台所や洗濯場に有る「合成化学洗剤」の数々、安価だとして身につけてしまう石油から生まれた「化学繊維」などこれらは非循環型製品であり環境汚染を促進させる物質なのである。私達がすぐにも出来る行動とは、毎日の生活の中でこれら非循環型製品の使用を減らし環境に優しい製品に切り替えてゆく努力が必要なのである。
講演で使用したもう一つの資料図【江戸時代の職業】を下記に掲載する。これをジックリ眺めながら自然に優しい仕事とは、を考え直してみる事も大事だと思う。

この絵から感じる取る事は、エネルギーはまずは機械に頼る前に「人力」を考えること、どうしても機械に頼る場合は、その使われる燃料の種類は地球に優しいかを考える事である。こうして考えて来ると「非物質文明」のヒントは“東洋”の「江戸時代」に有るようだ。

1865年世界漫遊に旅立っていたハインリッヒ・シュリーマン(ドイツ人)が日本に立ち寄り旅行記『シナと日本』を執筆、その中で日本の文化や文明に触れている一節をここに書き出してみよう。
『ヨーロッパでは、食器戸棚、婦人用衣装ダンスや男性用の洋服ダンス、ヘッドボードにテーブル、椅子、それにもろもろの最小限必要とされる家具類の豪華さを、隣人たちと競い合う。だから多少とも広い住宅、幾人もの召使い、調度品を揃えるための資産が必要だし、年間の莫大な出費がどうしても必要となる。ヨーロッパの結婚難は家具調度を競おうとするためであり、その為の出費がかさむからである。ヨーロッパでは、そうした出費に堪えるほど裕福な者でなければ、結婚など考えない。
ところが日本に来て私は、ヨーロッパで必要不可欠だとみなされていたものの大部分は、もともとあったものでは無く、文明がつくりだしたものであることに気がついた。寝室を満たしている豪華な家具調度など、ちっとも必要でないし、それらが便利だと思うのはただ慣れ親しんでいるからにすぎないこと、それらぬきでも十分やっていけるのだと分かったのである。もし正座に慣れたら、つまり椅子やテーブル、長椅子、あるいはベッドとして、この美しいゴザを用いることに慣れる事ができたら、今と同じくらい快適に生活出来るだろう。』

『もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人は極めて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は工芸品において蒸気機関を使わずに達する事のできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上に行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きが出来る。』

(『シュリーマン旅行記 清国・日本』石井和子訳 講談社学術文庫より)

(5)「物質文明」と「精神文明」

「物質文明」とは俗説的な文明の分類だそうで、その対義語は「精神文明」と言うそうだ。とすればシュリーマンの観察から「江戸の社会」は精神度の高い文明だったのかも知れない。「精神文明」とはウイキペディアによれば『個々の成員および共同体全体の精神、すなわち道徳、宗教の水準を高めることを目的とする文明』と書いてある。しかし「精神文明」において“物質”が無いわけではないので、例えばシュリーマンの江戸文化の解析でも質素な生活の中にも“ゴザ”という物質は有った訳で、江戸の社会は“物質面”よりも“精神面”に重心を置いた文明であったと言うことであろう。

産業革命の変遷を見ると、18世紀に起きた産業革命は「蒸気機関」の開発による動力源の刷新でこれを「第一次産業革命」と呼び、19世紀に入ると石油燃料を用いた重工業の機械化や電気を利用した大量生産が行われこれが「第二次産業革命」に当たり、更に20世紀に入ると原子力エネルギーの活用とコンピュータの導入による自動化が盛んとなりこれを「第三次産業革命」と言い、この様に段階を踏んで進化して来たのだが、これら一連の産業革命はその都度新たに開発された機械やエネルギー、すなわち“物質”によって便利で豊かな社会が構築されて来たのだ。しかしその「物質文明」は皮肉にも地球を破壊し続けて来ていた訳で、この人類破滅の道程から脱出すべく私達は可及的速やかに「精神文明」へ軸足を移せねばならない。    

【2−3】「もの」から「こころ」へ
このエッセイを書き始めて早半年も過ぎて、TVのニュースでは毎日の様に各地で記録的猛暑に襲われていると報道している。ちなみに7月10日の関東地方の最高気温は栃木県佐野市で38.3℃、東京都心で36.5℃となり各地で35℃以上となり例年を5〜6℃上回る猛暑日だった。ここ数年は夏を迎える度に気温上昇の為に「熱中症」に注意と大騒ぎをしてきたが、どうも地球上で気温上昇現象が加速度的に襲って来ているように思う。北極の氷の凍解、ヨーロッパ・アルプスの永久凍土の凍解、そして沖縄のサンゴ礁の死滅、東京湾に熱帯魚の群生、そして気仙沼港でのサンマの不漁などなど、明らかに地球温暖化による生態系の異常が目立って来ている。それぞれの異常現象は生物の食物連鎖を崩し、更には氷や凍土の融解によってこれまでは厚い氷の層に閉じ込められていた未知の細菌やウイルスが大気中に放出される恐れさえ有るのだ。
技術開発は金目になる「便利さ」や「楽さ」を求める開発に注力し(マネー資本主義)、人間が地球を支配するという考え(人間至上主義)の元で無我夢中で突っ走ってきた20世紀だったが、これにブレーキを掛けるには、つまりこれまでの「物質文明」にオサラバするには、私達一人ひとりがこれまでの価値観を見直して「精神面」に重心を置いて「これからを生きるために価値が有るもの」を追求してゆく社会にして行かねばならぬと考える。 人間が「物質文明」の基で作ってしまった自然破壊物質をこれから壊して元に戻す事などは不可能である以上、私達一人ひとりがその様な地球自然を壊すような物を日常生活において減らしてゆくことで、地球環境をこれ以上に悪化させる事を止めることであろう。

その為にはまず私達の「価値観の大転換」を図る事だ。この地球は人間だけのものでは無いこと、そして人間は一人だけでは生きて行けず他のものの助けを受けながら生きているのだ。とすればこれからの開発などは、それが地球にそして他の生き物に害にはならぬかをまず判断し、害になりそうなものは極力開発を止めることである。 つまりは「環境調和型の社会」を作ってゆくことで、これまでのような自分中心では無く、「ひとさまの為に」(利他主義)という精神を“こころ”の中心に置くと言うことだ。これまでの利益追求型「物質」中心の社会から比較すると、全く地味で面白くない社会と思いがちだが、実はこの考えが最も地球に優しい生き方であり、私達にとってストレスが少ないのである。
卑近な例で述べると、もう止めることは出来ないが「リニア新幹線」は本当はいらないのだ。これによる人間が得る便利さと、地球(森林伐採や地下にトンネルを掘って地下水の流れを止めてしまう事など)や他生物に与えている害(野生動物の獣道を勝手に遮断してしまう事など)を比較するとこの開発はどうすべきだったかハッキリと答えは出ている。そして「海洋プラスチックごみ汚染」に就いても手遅れながら、これから増やさないように私達一人ひとりがプラスチック製品に対して厳しい目を持って使用量を減らして行けば「もの」中心の世界から「こころ」中心の生活に変える努力を自らしていることになる。

2015年9月に国連で開かれたサミットで「誰ひとり取り残さないことを目指し、先進国と途上国が一丸となって2030年までに達成すべき目標として17のゴールを設定し、これをSDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)と称して世界に向けて発表された。しかしその中身が余りに抽象的な表現が多く、内容が細かすぎて個人として何をすればよいか理解しずらい。しかし世界中の国々や企業がこの目標に沿って進化して行こうと努力しているのは事実だが、この様なやりかたではスピード感が無く、今私達に差し迫っている地球環境破壊を食い止めて持続可能な社会になるとは思えないのだ。

いよいよこのエッセイの精神「神の領域に手を突っ込むな」のお話の締めに入りたい。
私達はこれまでずうっとアメリカの「アングロサクソン系資本主義」に染まり「過剰な技術信仰」や「人間至上主義」に振り回され、神の領域に手を突っ込んだ様な新技術に何ら抵抗を感じず、その結果として遂に地球は“暑い球”に変わってしまったのだ。 しかし私達はこのまま手をこまねいて人類滅亡の時を待つのでは余りにも辛く、何とか神の領域内で我ら一人ひとりが実感を持って地球上の「気候変動問題」を自分の問題として認識し、日々の生活態度を少しずつでも変革しながら生き長らえてゆく思考を持つ方が体にストレスを与えないで済むはずだ。
私達は毎日のようにスーパーやコンビニに行って物を買っているのだが、これからは“世の中が良くなる事を考えて買ったり使ったりする消費者”を目指そうではないか。つまり今までの様に“合理的で安かろう”で物を買うのではなく、“地球環境を配慮された製品であるか”をまずチェックしてから、例え多少価格が高くなっても環境に優しい商品の方が価値あると判断して購入する消費感覚を持とうではないか。
製品や包装や飲食店の看板などに地球環境に配慮されたもので有ることを表示する為の「環境ラベル」というのが有る。「環境ラベル」とは、製品やサービスが生まれてから廃棄されるまでに、環境への負担軽減にどの様に役立つかを表すマークである。世界にはこの「環境ラベル」は現在100種を超えるそうだが、その代表的なものを下記に示す。

地球に優しい自分になるために、物を購入する際には、その商品の裏側に記載されている製造メーカー名表示の付近に「環境対策に関する宣言」とか「環境ラベル」が表示されているかをチェックして購入を判断するとか、また新商品紹介のパンフレットなどに「環境に関連した取り組み姿勢」が表示されているかを確認してその新商品を購入するように注意を払って行くことで自然破壊するような物質を地球上から減らす行動をとっていることになるのだ。 これからは消費する姿勢を改め、更に最低限に必要とする範囲内での消費に努め、あくせく働くことを止め、他人との比較をすることを止め、のんびりと生きて行こうではないか。その「のんびり感」にひたる分だけ人類破滅のタイミングを先に伸ばして行く事になるのだから。

<あとがき>

このエッセイ【続・ふざける菜漬け】を書き始めたのが2021(令和3)年ですから2年前になります。2年前と言えばコロナ騒ぎで1年伸びて遂に開催に踏み切った「東京オリンピック2020」や自民党・岸田内閣のスタートした年、そして喜ばしいニュースとしてアメリカ大リーグで大谷翔平選手がサラッと年間MVPを取得した年でもありました。
しかしその後の2年間の世界情勢を見ても、あちこちで超大型の自然災害(大洪水、山火事、食料危機など)が多発し、更には周期的に襲って来る大型地震や火山爆発によって地球危機は度を増しており、いずれ先進国においてはネットワーク社会の崩壊や、後進国における食糧難など起こる可能性のある大惨事を考え合わせると、IPCCが出している目標「2030年までに温室効果ガスを60%削減」は風前の灯のようで、「ロシア・ウクライナ戦争」に加え現在世界中を更に不安に戦かせている「イスラエル・パレスチナ戦争」の成り行きを見れば、むしろ地球の気候変動が益々悪化の方向に加速しているのではないかと不安になってしまいます。
今年2023年に入って、早稲田大学の異業種勉強会から、ZOOMによる講演依頼を頂き、丁度このエッセイを書いている最中でもありましたので、「神の領域に手を突っ込むな」をテ−マに9月25日にスピーチをさせて頂きました。 
テーマの表題に「神」の言葉が入っている事、そして世界中が不安定な情勢に襲われている事から、今回のお話が皆さんに「一体どんな内容の話だろうか?」と関心を高めたようです。
ロシアのプーチンとウクライナ、中国の習近平と一帯一路、そして米国のバイデンとイスラエルと言った関係を考えると、つまり世界のリーダーと言われる者たちが私利私欲で行動を取っている姿を見せつけられ、いずれ私達の「物質文明」は行き着くところに行ってしまう、すなわち物質文明の崩壊の道を辿る事になるのではと思っています。 最終的にはほんの一握りの人類が、地球上の変化にラッキーにも対応出来て生残る事になるのだろう。そして残った小さな集合体は完全なる「精神文明」を形作っているのだろう。きっとその集合体の社会はその時の地球環境と調和した生活を続けているのでしょう。

ダーウインが言った名言『最も強いものが生き残るわけではなく、最も賢いものが生き延びるわけでもない。唯一生き残れるのは、変化出来るものである』を、これから起こるだろうと推察される「物質文明」から「精神文明」への移行の過程に準えて次のような表現に代えてこのエッセイの閉めと致します。

『最も強いものが生き残るわけではなく、最も賢いものが生き延びるわけでもない。唯一生き残れるのは、地球の変化にラッキーにも対応できた一握りの集団のみである。』

<完>

続 ふざける菜漬け” への1件のフィードバック

  1. 小冊子をお送りした方々からのメールが届いています。群馬県在住の方からのメールです。
    1.うそ大国日本
    まったく同意見です。私は議員とはバカがなる商売ではなかろうかと思っています。
    言って良いことと悪いことがわかっていない。 自分、自派の利益のことしか考えない。
    災害が有った時ミュージシャン等が無料コンサート、奉仕、寄付などすること多いが
    政治家が寄付した話なんて聴いたことない。
    日本人は4種類の他民族国家だと思っていますが、大和民族による沖縄民族へのイジメは
    いまだに続いている。沖縄における米軍基地は大きな面積を占めトラブルも多い。
    早く従属国家からの脱却をしたいものです。

    2.神の領域に手を突っ込むな
    途中まで読んでいて、え!これ江戸時代と同じじゃないと思い先を読みすすめると
    やはり江戸時代のSDGsが出てきてうれしかったです。
    藩の圧制からの起こした島原の乱を除くと、平和が実に260年も続いた江戸時代と
    比べると今の政治は情けない。
    今日、ジムでランニングマシーンでウオーキングしていたらTVで 東北の漁師が川上
      に植林しているのを見ました。牡蠣がまったく取れなかったのが植林したことで植物性プラン
      クトンが海の流れるようになり牡蠣がとれるようになった。
    いまでは植林は年中行事になっているとのこと。
    この非物質文明化を読んで私も家庭菜園を無農薬とし、採れたものはほとんど食べて、食べられ
      ない部分は田舎からもらってきた玄米からの米ぬかを使って発酵させ畑に戻すというこをして
      います。 2013-12-14 記

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