=はじめに=
只今未曽有の大惨事が世界中を襲っている。毎日の世界ニュースを観ていても世界中の人間が全く同じ災禍に直面しているのだ。「新型コロナウイルス蔓延による悲劇」そして「局所的に襲ってくる大雨による大水害」、「大旱魃による山火事」などなどが各国を襲っており、この地球単位でとんでもないことが起きている事は神からの啓示ではないだろうか。コロナ禍において「巣ごもり生活」を強いられ毎日不安なストレス生活の中にあって、この「神からの啓示」に関して常日頃から思っていた考えを書き綴る事によって、毎日の蟄居生活から生まれるストレスから開放されれば嬉しいのだが。(2020年8月16日記)
1)世界が一瞬にして大禍に直面
2020(令和2)年はとんでもない出来事で始まった。それは1月20日に横浜港を出港したクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」の乗客で、1月25日香港で下船した80歳代の男性が「新型コロナウイルス」に感染した事が2月1日に判明し、2月3日に再度横浜港に入港し乗船者3713人に対する検疫が実施されたのだ。この時点では私達はクルーズ船内で起きた単なる一事件という眼で捉えていた。乗船者は殆どがセレブな高齢者で、人生のご褒美にとご夫婦での楽しいクルーズの旅だった事だろう。しかし皮肉にも旅の最後で“お金”では解決できない「ウイルス感染問題」に直面してしまったのだ。
しかし今回の出来事はこのクルーズ船内での単なる事件では済まされず、中国・武漢市を発生源として全世界に向けて「新型コロナウイルス感染拡大」という大事件に発展して行ったのだ。その感染拡大は、2月になってフランス・イタリアにひろがり、3月中旬には更に世界各地へ感染拡大してゆく情勢をみて、遂にWHOが「パンデミック」相当と宣言した。イタリアではあっという間に死者が中国を上回り、更に3月末にはアメリカで感染者が急拡大し中国、イタリアを抜いて世界最多となった。4月に入ると世界全体の感染者数が100万人を超え、日本でも感染者1万人、死者200人を超えた。5月には世界全体の感染者数が500万人を超え、アメリカでは死者数が10万人を超えた。6月に入るとブラジルで急激に感染が広まり感染者数はアット言う間に一国で100万人を超え、そして世界での感染者数は1000万人を超えた。8月の時点で世界の感染者数は2000万人を超え、死者数は70万人に達し、感染規模ではアメリカ/ブラジル/インド/ロシア/南アフリカの順となっており、日本の感染者数は5万人、死者は1000人を超えた。たった半年で「コロナ蔓延」は世界中に広がったのだ。
ところで「感染症」とは有史以前から現在に至るまで、ヒトの疾患の大きな部分を占めており、古代メソポタミア文明でも四災厄の一つとして数えられ、紀元前13世紀の中国でも甲骨文字で疫病を占卜する文言が書かれていたそうで、医学の歴史は感染症の歴史に始まったと言えよう。感染症には「細菌」よるものと「ウイルス」によるものがあるが、前者の代表例として「ペスト」、「ハンセン病」、「コレラ」、「梅毒」、「結核」など、後者としては「はしか」、「天然痘」、「エボラ出血熱」、「エイズ」、「日本脳炎」「インフルエンザ」そして「コロナウイルス」等がある。しかしそれら感染症も昔はジワジワと時間を掛けて感染が広がったのだが、今回の「新型コロナウイルス」は人間を運ぶ輸送システムの発達などにより、一瞬にして全世界に広まってしまった。
人類は有史以前から「感染症」と付き合って来たのだが、過去における感染症の蔓延の結果として歴史を大きく変えたという記録が数多く残されており、感染症の大流行の後で再び元通りの生活に戻ったというケースは殆ど無いのである。例えを「ペスト」のケースで見てみよう。
6世紀、東ローマ帝国で流行した「ペスト」は約60年間も続き、結局は東西のローマ帝国再建の道は絶たれたという。
次に14世紀に猛威をふるった「ペスト」は、まずは中国で広がり、それが「モンゴル帝国」が発展させた東西交易の道を辿ってヨーロッパ全土に広がり、死者の数として、全世界で8500万人、ヨーロッパの人口の2/3にあたる3000万人、イギリスやフランスでは人口の過半数が死亡したと推定されている。この人口減は労働力不足を来し、封建制度が没落して王権の伸長が図られ、中央集権国家へと脱皮していった。
19世紀末には中国・雲南省を起源として香港から全世界に拡大した。このときコッホに師事した北里柴三郎は日本政府により香港に調査派遣されて、「腺ペスト」の病原菌を共同発見している。
20世紀に入ると、清朝末期の満州で「肺ペスト」が流行、ロシア帝国と日本は、ペスト対策の実施を口実に満州進出を企むが、清朝政府は1911年奉天での「世界ペスト会議」を開き、その際に日露に限らずアメリカ、メキシコや英独仏伊などの代表者を招くことで、日露の影響力の低減を図った。これは帝国主義のもとで、感染症とその対策が政治問題化した好例である。
この様に感染症のペストだけを見ても、長い年月の歴史とその折々の時代変化を辿って来ているが、現在になっても「ペスト菌」の絶滅には至っていないのである。
上述のペスト蔓延の歴史から見ても分かるように、初っ端の発症は「中国」であるが、今回の「新型コロナウイルス(COVID-19)」も中国の湖北省・武漢で発症しており、2002〜2004年に流行したSARSも中国・広東省から始まったのだが、何故これほど中国が深く関わっているのだろうか。この新興感染症(コロナウイルス)と中国との因果関係を解明しているのが地理学者で、世界的ベストセラー『銃・病原菌・鉄』や『危機と人類』をものしたジャレット・ダイアモンド氏で次のように警告している。(日経ビジネスWEB記事)
『新興感染症は「動物由来感染症(ズーノーシス)」であって、動物の宿主から人間に感染したものだ。病原菌は宿主の体内の生化学的な環境に適応すべく進化するので、新たな宿主の体内環境が元の宿主の体内環境と似ていれば、感染するのが容易なので、人間が罹るズーノーシスの殆どは他の哺乳類からの贈り物だ。SARSやCOVID-19の原因ウイルスはコウモリを発生源としおり、肉食動物のハクビシンを仲介して人間に感染したと言われている。中国には「野生動物市場」が存在し、ここが感染の効果的な発生源となっていると指摘されているにも関わらず、これまで中国政府は全く手を打ってこなかった。今回のCOVID-19の経験から、中国政府は全世界の人類の為に野生動物の取引を禁止すべきで、こうすることで、中国自身も次の新しいコロナウイルスの最初の犠牲国にならないで済むのだ。しかし中国では長年野生動物を食用とし、また伝統的な医療薬として役立ててきた歴史を考えると、野生動物の売買を止めることは出来ないであろう。従いこれ迄の感染症の歴史の様にいずれ次の新しいウイルスが現れ、その損害は何億人の人命を奪い何十年も続く前例のない長期的な不況に陥る事になろう』と指摘している。
2)ET(地球外生物)の来襲か
コロナウイルス騒動が始まると、感染者を隔離する特別な医療施設が準備され始めた。一般病院ではビニールで覆われた部屋を用意して感染者とはビニール越しに会話や診断をすることになる。治療する医者や看護婦は全身防護服を纏いマスクと手袋をして感染者と対応している異様な姿である。こんな姿を見ていると、40年ほど前の1982年に大ヒットした映画「ET」のシーンを思い出してしまう。
そう、あれはETと仲良しになったエリオット少年の家を地球外生物対策特別部隊に包囲されるシーンだが、周りと遮断するために人の歩ける大型ホースのような管が玄関からETの居る部屋に繋がれ、その管の中を宇宙服に身を包んだ作業隊員が行き来しているシーンだ。この姿は恰も現在コロナウイルス対策で緊急設置された病院の「レッドゾーン」の状態に酷似している。
そんな事を考えると無性にもう一度映画「ET」が観たくなり早速DVDを購入した。この映画を観ていてすごく印象に残るのは、ETがエリオット少年に「おうち!」「おうち!」と訴える。そしてETがエリオット少年と家族の平和そうな情景を影から見ながら、寂しそうにするシーンがある。エリオット少年は、ETの言う「おうち」の意味を「ETはお家に帰りたいのだ」と理解して、何とかETを宇宙の遠くの星に返す努力をするのだ。ラストシーンは、何とかETの星と連絡が取れて宇宙船がETを迎えに来るのだが、もしも地球に置いてきぼりにされた一人ぼっちのETがエリオット少年と巡り会わずに、大人に見つかってしまっていれば、地球外生物の研究用モルモットとして利用されてしまった事だろう。そんな事を考えていると、私はハット気付かされた。もしかすると、“コロナウイスル君”は地球を救いに来ているETなのでは無いのかと。
3)ウイルスとは何者だ
ウイルスと人間との付き合いは永いが、未だはっきりと相手がどんな者なのかは分かっていないのだ。語源はラテン語の「VIRUS」で“毒液、粘液”という意味らしく、「人間を病気に落とし込む毒」と解釈され、得体の知れないものと言うことになる。ウイルスのサイズは細胞より小さく、光学顕微鏡で見える細胞(ミクロン・サイズ)に対して、ウイルスは電子顕微鏡でなければ見えないナノ・サイズ。従って電子顕微鏡が開発された1930年前半までは、どんなものかは全く掴めなかった事になる。
そしてウイルスは自分を複製するための“設計図”は持っているものの、その設計図を基に組み立てる設備は持ち合わせていない為に、その設備を持ち合わせている“細胞”の中に潜り込んで(感染して)そこで複製をつくる(増殖する)のだ。つまり生きた細胞に寄生し、細胞が増殖するために使用する遺伝子材料やタンパク質を横取り利用して増殖するのだ。従ってウイルスは自力で増殖できないので「生物」ではないと言われているが、一応は「微生物」のカテゴリーに入っている。
映画ETでもエリオット少年の体の中にETの分身が入り込み、エリオット少年にはETの気持ちが理解できる様になるのだ。そしてエリオット少年は一生懸命に地球上の言葉をETに教えるのだが、ETはその言葉を真似しようと練習を繰り返す。つまりETとの意思疎通が出来たということは、お互いに「信頼関係」が生まれた証となる。もしコロナウイルス君もETなら、戦ってはいけない。神様が、人間が余りに悪い行動に出た時にウイルスを人間の人体に潜り込こませて「人間よ、調子に乗って地球を破壊するのを止めて、本来の姿に戻ってウイルスと共生せよ」と言うご示唆なのだろうか。それに気付いた私達は「敵と戦う」という態度を止めて、「Withコロナ」と言い出したのであろうか。
4)文明が作り出した「化学物質」も地球を壊す敵
ウイルスは「生き物」ではないのに、顕微鏡でなければ見られないものなので一応「微生物」の分類に入れている。つまり微生物学として扱われているのだ。微生物に就いてウィキペディアで調べて要点を纏めると次のようになる。
微生物には「カビ」「原虫」「細菌」そして「ウイルス」などが有るが、そのサイズは例えばゾウリムシの1mm位からウイルスの10nm(1mmの10万分の1)でその姿を観察するには光学顕微鏡や電子顕微鏡でなければ見えない世界である。そして地球上のあらゆる生物圏(上空5000mから地下1000km以上)のあらゆる水圏や土壌に生息している微生物の働きの中で私達が体験する分かりやすい例として「腐敗現象」がある。
食物を放置しておくとカビや細菌類が繁殖し、その結果として食物は変質して腐ってしまう。しかしこの現象の中で出現する微生物は多種に渡り、それぞれに生活が異なるから、どれが原因で何が起きたのか我々には詳細に分析が出来ないのだ。従ってこの現象を“微生物の働きで腐敗がおきた”と表現する。しかしこの現象は有機物を食べて体内で分解して無機物とし、残りを排出するという点では、我々の生命活動とさほど変わらない。自然界で死んだ有機物塊は微生物の働きで無機物に変わってゆくが、この過程を「分解」といい、自然界における「浄化力の源」と考える。この腐敗の具合によっては、利用可能なものが出来る場合もあり、その場合は腐敗とは言わずに「発酵」と言っている。
もう一つ「腐敗現象」で分かりやすい例がある。それは私達の「大腸」で起きているのだ。大腸には「腸内細菌」として「善玉菌(ビフィズス菌や乳酸菌など)」、「悪玉菌(ウェルシュ菌など)」と「日和見菌」の3つの菌がお互いに上手にバランスを図りながら「腸内環境」を整えているのだが、このバランスが狂うと「腐敗」が発生し様々な病気を引き起こすのだ。
つまり微生物は、地球上の河川や土壌、そして生き物(つまり人間も含め)を常に元の自然の状態に保つように休むことなく働いているのだ。つまり腐ったものや汚い水の中に微生物である菌が大量に発生して、一生懸命に腐敗物を分解してくれているのである。自然豊かな地球を保ってくれているのはこの微生物のお陰と言えるのだ。
考えてみれば、地球上の自然の状態を壊しているのは人間なのである。例えば、家庭から排泄される科学洗剤や食品添加物を含んだ汚染水が川に流され、畑に蒔く科学肥料よって土壌は汚染されるが、これら不自然な科学的なもので腐敗が起こる時、微生物が現れて元の姿に浄化する活動をしてくれている訳だ。 生物ではないウイルスが微生物のカテゴリーに入っているのは、ウイルスも微生物と同じ“元に戻す浄化活動”をしている優れものだからである。ウイルスが人体に入ると、人体の中の腐敗に成りかかっている場所で速やかに「炎症」を起こしたり、また不要物の排出(例えば下痢、鼻水、嘔吐など)をするなどして、腐敗の部分を元の状態に戻そうとするのだ。そしてこの浄化作業中に発生する「熱」によって、人体に入ったウイルスを徐々に体外に放出することで“元に戻す浄化作業”は終了するのだ。
ところが問題なのは、この自然に浄化している過程で、西洋医学は抗生物質や熱を抑える為の解熱剤を飲んでこの浄化作業を抑えてしまおうとする。それらの薬によって一旦症状が収まったように見えるが、実はウイルスは異常なものを元に戻そうともっと強力な力を持つものに進化してしまうのだ。
結果的には人体そのものが独自で持っている「免疫機能」とウイルスとの激レースとなり、遂には人体が負けた場合は“死”に至るのだ。しかしこの“死の結果”とは、ウイルスが「地球を浄化する」という絶対使命をやり遂げたと言うことであり、“微生物がこの地球を救った”と言うことなのだ。
と考えれば、我々が地球保護を考える場合は、戦うべき本当の敵は「ウイルス」ではなく、「便利だから」とか「楽だから」と言いながら私達が使いまくっている「科学物質」も、地球環境を破壊しているので「敵」と言えるであろう。そして「新型コロナウイルス」のような新たに出現している「新興感染症」のケースは、ジャレット・ダイアモンド氏も警告しているように、人間が何でもかんでも地球上の野生動物を食することは、「生物連鎖」をぶち壊す行為であり地球破壊をしている地球の敵であり、その行為を止めるべきだとウイルスが人間に忠告していると捉えるべきではないのか。
5)「新型コロナウイルス(COVID-19)」と日本人
2020年10月1日現在で「新型コロナウイルス(COVID-19)」の世界全体での感染者数は3400万人弱で死者は100万人を超えた。死者数の多い国のトップ5は、10月1日現在で20万人強のアメリカを筆頭に14万人のブラジル、ほぼ10万人のインド、8万人弱のメキシコと続き3万人台でほぼ同数のスペイン、アルゼンチンと続き、この6ケ国の合計で50万人となり全世界の半数。この結果から見ても、どうやら先進国とか発展途上国の違いには関係無いようだ。傾向から見ると、やはり人口が多い国で、伝達が速やかに国民の末端に届かぬ国、そして挨拶を相手と接近して行う生活習慣の国、更には独裁者(あるいはそれに似た最高リーダー)が、国民に対して「ウイルスは単なる風邪の一種」と“雄叫び”を上げているような国々がウイルスから大打撃を受ける結果となった。アメリカ・トランプ大統領やブラジル・ボルソナーロ大統領などは、強がり態度に出た結果として自らコロナウイルスに占拠された。
さて、日本はどうなのか? 世界を襲っているこのパンデミックの中で、なぜ日本は比較的に小さな打撃で済んでいるのだろうか。10月1日現在で感染者数8万人、死者は僅かに1600人である。
私の考えでは、最大の救世主は「日本国民のマスク習慣」に有ると思っている。マスクは「飛沫感染」に於ける最大の防御策なのであり、日本人は昔から「風邪やインフルエンザに罹れば、すぐにマスクを掛ける習慣」を持ち合わせている。“昔から”と言ったが、江戸時代の人々が マスクをしている姿は見たことが無い。それでは何時からマスクを使い始めたのだろうか。
それは1918年3月にアメリカ シカゴ付近で最初の流行が起こった「スペイン風邪(鳥インフルエンザの一種)」で、当時アメリカ軍の第一次世界大戦参戦とともに大西洋を渡ってヨーロッパで大流行(スペインから広まったので「スペイン風邪」と呼ぶ)、その第2波が1年後に世界中に広がり病原性が更に強まって重症な合併症を起こして死者が急増、1919年春になると第3波が世界中に再度広がり、この時が日本での被害は一番大きかったそうだ。このスペイン風邪が世界的に流行した際に、その予防品として「マスク」が世界中で使用されたと言われる。ところが欧米人は“そもそも鼻、口を覆うことを嫌う習性”を持っているそうで、それ以降マスク着用は廃れてしまったが、日本はその後1934(昭和9)年に流行したインフルエンザの時にマスク(当時は「呼吸保護器」と呼んだ)が大流行し、1950(昭和25)年には布に変わる「ガーゼマスク」が生まれ、日本人は“他人に迷惑を掛けないために、風邪を引けばマスク着用”が習慣となって受け継がれて来たという。
そう考えれば今回の【アベノマスク】も対策として的を射たものだったが、あまりにも“瞬間的な思いつき”だったのか、国民へのマスク緊急配布に就いての事前説明が不十分であったこと、更にマスク調達のまずさから医療機関や国民が欲しがっていたタイミングには間に合わず、残念ながらお粗末な結果に終わってしまったが。
更にマスクに加え、多くの日本人がもち合わせているウイルスの大敵「うがいと手洗い習慣」も爆発的感染を抑えた一因であろう。日本人の持つその様な公衆衛生への関心の高さがウイルス感染を最小の規模に抑えられていると考える。
ここで「何故、日本が比較的小さな打撃で済んだか」に就いての世間で報道されている【諸説】の(これを“Factor X”と言っている)いくつかを紹介しておこう。まずはその1つ目、医学的・疫学的面からの仮説だが、日本人やアジア諸国の人々は、既に今回の新型コロナウイルスに似たウイルスに感染していた経験があり、「歴史的免疫」を有していたので はと言う説だ。もう一つにアジア系人種「モンゴロイド」である黄色人種に感染者が少ないという説だが、これはニューヨーク市の人種別感染状況調査でそのようなデータ結果が出ているという。更にもう一つの説だが、新型コロナウイルスにはS,K,Gの3つの型があり、これらは順にまずS型が発生し、次のK型も無症候性か軽症だが、G型は重症化しやすい特性を持つ。恐ろしいのはS型にはG型に対する抗体依存性免疫増強(ADE)効果を持つ場合が有ると言う。欧米諸国は中国からの渡航を素早く全面的に制限した為、S型は蔓延したがK型の流入を防げた。その後G型が入って来た時にADE効果により爆発的に感染が広がってしまった。一方で日本は初期対応が1ヶ月ほど遅れ、2月に入って中国が「春節」を迎え、日本は大量の中国旅行者を迎い入れK型が流入し無症候か軽少なK型に対する集団免疫が出来ていた為、G型に対して重症化を抑えることが出来たというラッキー説。
10月9日の新聞記事によれば、新型コロナウイルス対策を検証した民間グループが安倍前首相に提出した報告書では、「泥縄だったけど、結果オーライだった」との官邸スタッフのコメントが添えられていたと言うが、日本の感染症に対する備えの甘さが政策の選択を狭めたなどと総括していた。
私が考えるもう一つのラッキー説として、日本はこれまで歴史上で大きな感染症問題で大打撃を受けて来ていなかった為に、国(厚生労働省)は徐々に各地にある「保健所」の合理化を図り職員削減などを実施して来ていた。所で日本では感染症の扱いは厚労省であり、その対応は傘下の「保健所」で行っており、1月に始まった「新型コロナウイルス」感染問題に対して3月に入って厚労省が国民に対して対処方法を発表した。それは「もし体温37.5℃以上で咳が出て体がだるい症状がある場合に保健所に連絡しPCR検査を受けるように」という内容だった。
しかしその直後から保健所の電話はいつも話し中で繋がらない。そこで厚労省は専門の「コールサービスセンター」を設置して対応したが、ここも殆ど電話が話し中で繋がらなかった。この理由は保健所側の体制が人手不足の為に電話はパンクし、即席に作ったコールサービスセンターも回線数不足で電話はすぐにパンク、この状態に対して政府は緊急対応策を取らずに居た。この様に真剣に取り組まない背景には、各地にある保健所の職員の管轄は「厚労省」なれど、保健所の設置・運営は「地方自治体」の管轄で、その2面性がお互いに牽制し合う結果となり、国の存亡が掛かる仕事に身が入らなかったのではなかろうか。
一方で、もしマトモに対応していたら、大勢の人がPCR検査に訪れ、病院がパンクし医療崩壊をしてしまうと考えたのではないか。それとも大勢の疑似感染患者を一挙に受け入れた場合に、それを処理するだけのPCR 機の台数を日本は持ち合わせていなかったという物理的背景がもう一つの理由だったかも知れない。そのような経緯が有って、10月になっても1日のPCR検査人数は数千人で、感染者数が数百人という発表を繰り返しているのである。もしかすると、もし一挙にPCR検査を実施していたら、アメリカや欧州の様に無症候感染者数が莫大な数字となっていたのかも知れない。しかし韓国や欧州のように国民の殆どにPCR検査を施し急場を乗り切ったと言っていた国々が、今第2波に襲われているのであるから、PCR検査も当てには出来ないと言えるのかも知れない。 とすれば、日本はただただ“ラッキーだった”という事なのだろうか。
6)マスコミ報道と「インフォデミック現象」
さて、日本人の持つ「マスク、うがい、手洗いの習慣」によって、他国に比べ「ウイルス蔓延」を小規模に抑えられているという状況はよしとしても、この「コロナ禍」における新聞、TVなどによる報道は目に余るものがある。特に最悪なのがTVで流れている「ワイド番組」なのだ。最近のワイド番組はニュースを中心にした編集構成となっている。
朝のワイドショーから夜に至るまで、次から次へとワイドショーが展開するのだ。その番組内で、コメンテータと称して大学教授、弁護士、評論家、そしてタレントやお笑い芸人などがレギュラーコメンテータとして出演している。それらコメンテータが「社会」「経済」「政治」「海外関係」などの分野に幅広く専門知識を持ち合わせているはずもなく、しかし世の中の出来事に対してもっともらしい顔をして“単なる一個人の見解”をワイワイガヤガヤと述べているのだ。恐ろしい事は、それらコメンテータの言っている事がいつの間にか視聴者に真実のように伝わって行ってしまうことなのだ。昔は「ワイドショー」では殆どニュース絡みの話題を取り上げてはいなかったが、最近はどの局のワイド番組もニュースを話題に取り上げ、ワイワイと感想や意見を捲し立てており、放送局間の競争原理から視聴者の興味を引きつけようと、益々過激的な内容になってしまっている事に気付いていない。
それに輪をかけて、SNS(交流サイト)が幅広く浸透してきた事で、過去より情報が拡散しやすくなっている。日経新聞の記事によれば、2003年に流行したSARSの時と比べて今回の新型コロナウイルスの場合では68倍の「情報拡散力」となっていると言う。この様にニュースやネット上で流れる噂やデマも含めて大量の情報が氾濫し、現実の社会に影響を及ぼす現象を「インフォデミック」と言う。これは情報(Information)と流行(Epidemic)の言葉を重ねて生まれた造語だそうだが、拡散スピードがアップしたインフォデミック現象の卑近な例として、8月4日の暑い盛りに突然に吉村・大阪府知事が「新型コロナウイルスの予防にはイソジン等のうがい薬が効く」と記者発表したのだ。これを発表したのが、昼頃の時間だったが、その日の夕方には「うがい薬」が町の薬ディスカウトショップや薬局で殆ど売り切れ状態となってしまったのだ。その後で吉村知事が「皆さんをミスリードした」と詫びの記者会見をしていたが。
毎日引っ切り無しにテレビから流れる「今日の感染者数」情報は、ただただ視聴者の恐怖心を煽っている。そして意味があるかは甚だ疑問だが、毎日発表される感染者数の増減によって我々は一喜一憂しているのだ。そろそろ「コロナウイルス」に対する取り組み姿勢を私達一人ひとりが自分で考えて生活して行くことが必要ではなかろうか。インターネット世界は情報過多の世の中なので、マスコミからの一方的な受け身ではなく、自ら情報を選択し冷静に分析する事が必要であろう。
「コロナウイルス」も感染症の一つだが、感染症問題はこれ迄の歴史が物語っているように、1年や2年で消えてゆく(解決する)問題では無く長い付き合いとなり、そして感染症が世界を襲った後で元通りの生活に戻ったケースは無い事を歴史が示していることを知れば、これからの生き方、考え方も自ずと変わって来よう。
7)「ワクチン国家主義」の驚怖
今年(2020年)に入って地球は突然「大禍」に襲われた。「新型コロナウイルス」が人間をターゲットに襲って来たのだが、人間は有史以来から「感染症」に襲われながら、電子顕微鏡が発明されるや、ウイルスの存在を知り、過去において何回と無くウイルスにも襲われ、その度に人類が作り上げた文明をひっくり返されて来たのだ。感染症の発生やウイルスの出現は人類が地球を破壊しながら作り上げた“人類の文明”にストップを掛けて“地球環境を元に戻す浄化活動”を行っているのだとすれば、そのサスティナブルな行動は神業的であり、病原菌やウイルスは我々の持つ知識の範囲内では完全に解析できない物質のようであり、どうしても地球外生物(ET)とか“神の贈り物”ではないのか、なんて考えてしまうのだ。従ってこれからも 我ら人類がどんなに研究を重ねて行っても、病原菌やウイルスに対しての完璧な攻略法など見つからないのではなかろうか。これまでに人類は研究を重ねて、感染症には「抗生物質」や「サルファ剤」などの化学療法剤を作り出し、ウイルスに対しては「ワクチン」の開発にやっきとなって来ているが、これは西洋医学の範疇でひねり出した“対抗武器”の様なもので、それを使用すると人体に異常な副作用が起こるかも知れないという“要注意薬”とも言え、人間が “藁を掴む心境”から頭の中で創り上げた、“危険を含んだ特効薬”といった存在なのだろうか。
現在「新型コロナウイルス」のワクチンを巡って世界中で“先取り合戦”が展開中である。つまり国の首領が民の為に他国より早くワクチンを確保することが、民の前で権力を誇示する指標になっているが、これを「マネー資本主義」が齎す「ワクチン国家主義」と言うそうだ。なんという愚かな行為であろうか。アメリカも欧州もそして日本もワクチンの確保に躍起となっているが、供給源を確保するためには、開発中の段階で供給元に資金援助をせねばならず、また大量購入には巨額な財力が必要となり、結局は民への接種は先進国が優先され発展途上国が後回しになることは明らかで、ここにもマネーが優先する格差問題がはびこっている。
しかし一つ言えることだが、ワクチン接種は先陣を切って危険を張る必要は無く、多くの人々が接種を受けて安全だと分かってきた段階で接種されることを是非お薦めしたい。
8)「新しい時代」への入口
10月に入っても世界を襲っている「コロナ禍」の勢いは弱まらない。むしろここに来て欧州を中心に“コロナ第2波”が襲って来ていると大騒ぎである。フランスでは10日の感染者数が過去最多の7000人を記録、英国では12日の新規感染者が約14000人とフランスの倍、ドイツも1日あたり6000人を超え過去最高を記録、累計感染者数が欧州最多の90万人を超すスペインでも更に感染者が増えており、またチェコやポーランドなどの東欧でも10月に入って感染者数が急増している。10月18日のNHK発表では全世界での感染者数は4000万人、死者が110万人と言うので、このわずか十日間で感染者が600万人、死者が10万人増えた事になり、欧州の都市ロンドン、リバプール、パリ、マドリード、ケルン、ミュンヘンなどで「条件付ロックダウン」に入った。こんな状態がいつまで続くのであろうか。第2波を、あるいは第3波を乗り超えれば“安泰な時代”が来るのだろうか。
私の考えでは、そんな短期間にコロナ禍からは脱出できない様に思う。何故ならそれを歴史が証明しているのだから。そしてやっとの事でコロナ禍を脱出できた頃は、今とは【全く違う世界】が生まれているのではなかろうか。
実はこの【全く違う世界】に向かってもう既に少しずつ変化が始まっているのだ。それは5月4日 厚労省が発表した【新しい生活様式】に見ることが出来る。その【新しい生活様式】とは;
①人との間隔は、できるだけ2m(最低1m)は空ける。
②マスク着用、手洗い、うがいを履行する。
③遊ぶ場合は屋内より屋外にする。
④会話をするときには、可能な限り真正面を避ける。
⑤買い物は通販も利用し、一人または少人数で、空いた時間に買い物をする。
⑥人の密集する場所(観劇、映画館、パーティなど)は極力避ける。
⑦握手やハグなど挨拶の際には相手と接触するのは避ける。
⑧レストランなどでは対面は避けて横並びで座る。
⑨働き方はテレワークやローテーション勤務にする。
⑩娯楽、スポーツ、カラオケ等では狭い部屋での長居は無用。
と要点を10項目に纏めてみたが、これらは既に誰もが現在実行に移している行為である。しかしこの【新しい生活様式】は、私達のこれ迄の常識とは正反対のものが多いのだ。上記10項目とこれ迄の常識と対比をしてみよう。
①行列を作る場合、やたらと列が長くならない様に私達はなるべく詰めて並んだものだ。今スーパーのレジの前で指定された間隔を保って並ぶのが何か異様に感じる。うっかり近寄ってしまうと、いやな顔をされる。
②今は殆どの人がマスク着用をしている。異様な姿だが、これからはマスクをしていない人が変な人と見られてしまう。またマスク無しでは中に入れない場所がどんどんと増えて行く。
③子供たちが遊ぶ場所は屋外の方がいいのは分かっているが、これ迄は公園でのボール投げ禁止とか、近隣の迷惑にならぬよう静かに遊べ、などの注意書きが多いため、思い切って遊べる広い場所が十分に無いのが実情で実行はそう簡単では無い。
④会話をするときは体を斜に構えてと言うが、何と失礼な態度では無いのか。
⑤一人での買い物は慣れているが、空いた時間にせよとは、これ迄の生活習慣から別時間帯に改めねばならない。
⑥これからは観劇や映画鑑賞そしてパーティなどにはあまり行けなくなる。これはエンターテインメント産業に取っては死活問題に発展する。
⑦人と挨拶をするとき握手をするのは親しみを表現する行為だが、それがダメとなると次第に人間関係も粗雑になって行ってしまうかも知れない。
⑧レストランにて皆で食事する場合、向かい合わずに横並びにせよとは、寂しい限りだ。楽しい雰囲気が無ければレストランに行く人も激減し、飲食店も大打撃を食うだろう。
⑨蜜なる通勤電車を避ける為にもリモートで仕事する様にとのお達しだが、在宅勤務の場合などはその生活パターンに慣れるまでには相当家庭内での混乱を来すであろう。
⑩カラオケ禁止、観劇やスポーツは観客数限定となり、これ迄の楽しみ方と雰囲気が違ってくるが、このような条件下では営業成績が上がらず施設経営の維持が困難になり、その結果として役者やアスリート達の死活問題に発展してゆく。
以上に述べた如く、甚だ窮屈な生活が強いられるのだ。しかしこの問題は“いずれその生活に慣れればいい”というだけでは済まされないのだ。この【新しい生活様式】を取り入れて行く過程で経済活動が殆ど停止してしまうという大問題を抱えているのだ。この生活変化が会社経営や商店経営を窮地に追い込み失業者や自殺者を次第に増大させて大きな社会問題となって来る。今政府は経済活動を止めない為に「GOTOキャンペーン」を打ち出しているが、この取組も本当に困っている所には救済が行き届かず、また国は「東京オリンピック/パラリンピック」を来年夏に実施する方向で進めているが、日本国は世界から人を集めて本当に世界のスポーツ祭典を開催出来ると思っているのだろうか。
丁度ここまで書いている時、今日は10月23日で2回目の「アメリカ大統領選挙テレビ討論」番組の中継が始まった。この討論の一番目のテーマが今襲っている「新型コロナウイルス」に就いてだったので、ここでこれに就いて一言述べておくことにしたい。共和党/トランプと民主党/バイデンの二人でのリベートは単なるお互いへの“罵しり合い”で、この二人がアメリカのリーダーとしての資質なのかと思うと甚だ悲しくなって来る。このレベルのリーダーが今後世界をリードしてゆくとすれば、地球自身が益々悪い方向に向かうとして、“コロナウイルス君”がアメリカを攻撃して世界一の死者(22万人)を出して猛省を促しているのではないのか。つまりは、コロナウイルス君が “地球を元の姿に戻す浄化”の作業を始めてくれたのかも知れない。
さて【新しい生活様式】に就いての話に戻そう。
私の考えとして現在取組中の【新しい生活様式】は、更に生活環境の変化に伴って新たな生活様式を生み出し、それを何回か重ねて行きながら最終的には【全く違う世界】を創り上げると思っているのだ。この積み重ねの変化は相当長い期間を辿って変遷して行くのだが、どんな方向を辿ってどんな世界になるのだろうか。今回の新型コロナウイルスの来襲によって、これ迄常識だった事が非常識となり全く違う価値観が生まれてくるという事だ。
“コロナウイルス君”の登場でヒトの流れを一瞬にして止められた。そして飛行機が飛ばなくなり、物流も停滞して遂に経済が止まった。と同時に仕事や学校教育はリモートに変わった。このコロナ危機に直面して改めてヒトは「創り上げられた巨大な格差社会」に気づかされ、「脈々と作ってきたヒト文明が暴力的に地球を破壊している事」に気づき始めたのだ。結局はヒト文明が創り上げた「民主主義」と「資本主義」の社会形態の遂に終焉を迎えつつ、もう元には戻れないのだ。飛行機も今まで通りの量では飛ばないし、車も電車も今までの様には走らない。経済が一時的にでも止まった以上は、企業は存続の為に従業員をレイオフせねばならず、その結果として失業者や自殺者が増大し、かつ少子化は益々激しくなる。ところで“元に戻ること”がヒトとして本当に求める事なのだろうか。我々が生かされている天体“地球”の存続を考えると、「資本主義の終焉」は我々ヒトがむしろ望む事ではないのだろうか。
ところで注記しておくが“資本主義が滅ぶということは、社会/共産主義はどうなんだ?”という疑問をお持ちの方も居られよう。それは現実を見てもらえば分かる通りそれらの国は“コロナウイルス君”の生まれ故郷でもあり、また同様に甚大なコロナ被害を受けているのだ。つまり社会/共産主義とは、資本主義に対抗して生まれた社会形態であり、片方が無くなれば、その対抗馬も定義する意味がなくなり、自然とその形態も同様に終焉を迎えるので心配はない。
これから○○○年後に今とは“全く違う世界”が到来したとして、その時の世界はどうなっているのか推理してみたい。その時代に存在している国とは、“自国で生活のすべてが完結する小さな国”のみが残っていて、その時の世界人口は現在のおよそ半分以下になっているのかも知れない。隣の国に何か足りないものがあれば、それを足りている国が助けるという「共助の精神」が社会全体を覆っているのだ。つまりこの「新しい時代」では、金を稼ぐという競争は無いので、国と国との争い(戦争)も起きない。この時代のヒトは“この大事な地球を壊してはならない。他の生物群と共生して生きて行く”という理念を持ち合わせているのだ。この「新しい時代」が仏教で言っている「浄土の世界」に近いのかも知れない。
私達が思い切ってこれ迄の文明を捨てる賢い行動を起こせずして、これまでの世界を取り戻そうと“コロナウイルス君”と挑戦し続けると、その最悪の結果は2008年に書かれた宮崎駿の漫画『風の谷のナウシカ』のストーリーを辿ることになってしまうのか。このストーリーは次のような言葉で始まっている。
『かつて栄えた巨大産業文明の群は時の闇の彼方へと姿を消し、地上は有毒の瘴気を発する巨大菌類の森“腐海”に覆われていた。人々は腐海周辺に、わずかに残された土地に点在し、それぞれ王国を築き暮らしていた。 —風の谷— そこは人口わずか500人、海からの風によってかろうじて腐海の汚染から守られている小国であった。』
今10月29日、後2日で10月も終わろうとしているが、世界中を襲っている<コロナ禍>は全く静まる気配はない。むしろここに来て欧州ではロックダウンに再突入したと大騒ぎをしている。<コロナ禍>は刻々と進行中であり、これをテーマに書き始めたエッセイは終わりが無いので、この辺で筆を置くことにする。
私達が『風の谷のナウシカ』のストーリーを辿らないよう祈りながら。
=おわりに=
思い起こせば今から50年ほど前(1972年)に民間シンクタンクの「ローマクラブ」が全世界を取り巻く環境に対して警鐘を鳴らした提言が思い出される。
『このまま人口増加や環境汚染が続けば、資源の枯渇や環境の悪化により100年以内に地球の成長は限界に達する』
この当時日本は高度経済成長により「いざなぎ景気」の中に在る一方で工場廃棄物による公害問題が各地で発生していた。しかしヒトは皆この警鐘を聞いて「ギック」とはしたが、「喉元すぎれば」で時間が経てばその警鐘の響きも微かなものに変わってしまい、成長の限界に向かってまっしぐらに来てしまった。
「成長の限界」まで残された時間はあと半分のおよそ50年しか無い。 2016年、政府がこれから先の“未来社会のコンセプト”として『Society5.0』 を提唱した。この5.0とは、古代の「狩猟社会」をSociety1.0として、2.0が「農耕社会」、3.0が「工業社会」、4.0が「情報社会」に続くものとしている。
情報社会では知識や情報が共有されず、分野横断的な連携が不十分であったという問題点を克服すべく、Society5.0の時代はサイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムが構築され、経済発展とそれに相反する社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会となるという。
このSociety5.0を支えるのは IoT,ロボット、人工知能(AI)、ビッグデータと言った社会の在り方に影響を及ぼす新技術であるが、これまでの人類の歴史を顧みると、やはりヒトはただただ新技術によって「利便性」「快適性」そして「効率性」だけを求めてしまい、結果的にはAIやロボットに支配され監視される社会になってしまうのではないだろうか。
ヒトがまだこんな不安な未来を描いているのでは地球を存続させるには大いに危険と判断して、“元に戻す浄化活動”を遂行すべく、急遽“コロナウイルス君”がヒトの中に参上してくれたのであろうか。
このエッセイを書いている間でも世界では常識では考えられない不可解な事が、あたかも当たり前の様に展開している。アメリカ大統領選挙日も数日後に迫って来ているが、現トランプ大統領が、「もしおれが負けるような結果となれば、郵便投票の不正を訴える」と叫び、コロナウイスルで世界最大の死者を出しているのに「それは中国のせいだ」と他に責任を転化するという幼稚な思考レベルを思うと寒気が走る。
このエッセイを読んで頂くと、私はひどい「悲観主義者」ではないのかと思われそうだが、私はむしろ「楽観主義者」ではと思っている。私は今回の「新型コロナウイルス」が襲ってくる8年前の2012年に『日本復活私論』を書いている。この中で世界は「万物のサイクル」つまり【誕生—成長—成熟—衰退—死・終焉】のサイクルで現代文明は終焉期に入っており「大災(Catastrophe)」に直面しているのだと私論を述べた。
このCatastropheとは;
『社会も人間も(いや万物)もこのサイクルを繰り返しているとすれば、人間社会に於いて成熟期を終えて衰退期に入っている現在、これを通過し「死・終焉」の状態を迎えるが、それは世界恐慌や飢餓とか世界戦争、あるいはウイルスや放射能による奇病蔓延などの“人災”に加え、火山爆発や地震、津波、山火事などの“天災”が重なり、人類が直面する地獄絵のような過酷な状態を乗り切って、その後に全く新しい流れが生まれるというプロセスを辿る。』
(2008年エッセイ『ふざける菜漬け』より)
だから私達は今Catastropheの中でコロナウイルスによる“人災”を受け、同時に地球上の各地で起きている大地震や巨大な山火事、旱魃、水害などの“天災”を受けながら「新しい時代」に一歩一歩向かっているのだ。
その「新しい時代」とは、私が私論で訴える「利他主義」がベースとなっている「縄文文化風新時代」であることを切に祈りながら。
そんな事を考えている私だから、やはり楽観主義者なのだろうか。
(2020年10月31日 了)
これまで、この度のコロナ禍に関して各界識者の論評を散見しましたが、宮原大兄のこの度の論評を拝読して、胃の腑の痞がスッキリした思いです。この力作を著された貴兄に深甚の敬意と感謝を捧げます。
五良さん 身に余るお言葉を頂き感激しております。<コロナ禍>による巣篭もりも何とか「もの書き」で紛らわせて来ましたが、書き上げるとさて今度は何をするかで悩みます。習字でもするか、のんびりと写経なんていうのも良さそうだ。それにしても早く仲間と会いたいですね。取り急ぎ御礼まで。